犬
「やぁ、ジョン」
ある日の放課後、梓を先に外で待たせ、職員室への用事を済ませた帰り、倉敷さんに会った。長い黒髪がさらさら揺れていた。相変わらずの柔和な笑みで片手を上げ、聞き慣れない名前を呼んだ倉敷さんの視線を追い、振り返ってもそこには誰もいない。どうやら俺に向けられている言葉らしい。
「やぁ倉敷さん。来栖真です」と同じように片手を上げ名乗りを上げた。
「ははは、知ってるよ。ジョン」
二人っきりで話すのは初めてだが、日本語が通じているのかわからなかった。それとも倉敷さんの友人はみな、倉敷さん専用翻訳機でも常備しているのだろうか。千佳からもらっておかないとな。そんなどうでもいいことはさておき。
「俺は見た目通りの日本人で両親も日本人なんですけど?」
「見てわかるよ。馬鹿にしないでくれないかな」
軽く怒られた。「ごめんなさい」と理不尽な怒りに謝罪する。馬鹿にされているのは何となくこっちだと思うんだけど。
「ジョンっていうあだ名をつけられたのは初めてだな。なんで?」
「うちで飼ってる犬の名前がジョンなんだよ。ペット繋がりさ」
さらりとひどいことを言ってくれる。この前世話焼き女房にランクアップしたのにまたペットに戻って来た。面白そうににやにやして、からかってるんだろうなぁ。
「それじゃあ俺が倉敷さんのペットみたいじゃん」
「おー、それもいいね。ほら、お手」と倉敷さんは軽快に笑って右手を差し出した。それにお手を返せば、俺はめでたく人間以下に成り下がる。どうしたものか、このまま流れに乗ってお手でもやってみようか。どんな反応を見せるか少し楽しみではある。そんな好奇心が悪戯して、俺は倉敷さんの右手にちょんと手を添えた、
「うわっ、本当にやるなんて。ちょっと引いちゃうよ」
ドン引き。ちくしょーめ! 当たり前に返されたよ! そんな軽蔑の眼差しを向けないで。調子に乗りました。
「なんだいジョン。私のペットになりたかったのかい?」
「違います。お付き合いしただけです。っていうか呼び止めたけど何か用事?」
「ただの挨拶さ。意外と自意識過剰だね」
馬鹿にされているというか、ケンカを売られているのではないだろうか。
「まぁまぁ、気を悪くしないでおくれよ。今日はご主人様と一緒じゃないんだね」
「……外で待たせてる。職員室に用事あったから。倉敷さんこそ部活じゃないの?」
「……へー。私も用事でさ、今から帰るところなんだよ」
「そうなんだ。それじゃ倉敷さん、また明日」会うかわからないけど。
「うん、行こうか」
と自然に俺の隣に並んで歩き出した。まぁ帰るんだから昇降口までは一緒になってもおかしくはないよな。
そう思っていれば、先に靴に履き替えた倉敷さんは、俺が靴に履き替えるのをわざわざ目の前で待っていた。訝しげに思いつつ、そのまま愛想笑いを向けて正面玄関から出ると、それでも隣を歩いてくる。なんなんだ。
「こうしてると、恋人同士みたいだね」
首を傾けて、上目使いを披露して俺を見上げて来る。その柔和な笑みに心臓が一瞬跳ねる。長い髪を流すのはわざとだろうか。梓以外にそれらしいことを言われたことは初めてだった。からかっているのだろうが、それでも勘違いしてしまいそうなほどに魅力的な笑顔だった。またまた自意識過剰って言われるのがオチなんだろうけど。
校門付近の桜並木もすっかりその花びらを散らしてしまい、新入生じゃなければ春の終わりを感じている奴もいるかもしれない。どこかそわそわする春の空気が、また語りかけようと鼻をくすぶる。
「そんなこと言っててさ、彼氏とかいないの?」
倉敷さんの意地悪な笑みを真似て聞く。こんな感じかな? 口元だ、もっと端を吊り上げて、にやぁ。
「残念ながら、この十六年間そんな話しとは無縁に生きて来たよ」
「ふーん……」
なんだか、すました顔で普通に答えられて拍子抜けした。曖昧に流されるような、冗談ではぐらかされるようなことを予想していて肩すかし。美人なんだけどな、まぁ、雰囲気が独特だからなぁ。
「無縁っていうか、倉敷さんそういうの興味なさそうだしね」
心外だな、倉敷さんはそう呟いて鼻を鳴らした。
「私のレベルに見合った相手がいないだけさ」
「あー、そーですね」
それはほんと倉敷さんのペースに合わせられる奴なんてそうそういないと思うよ。何を考えているのかわからない、雲のような倉敷さんと意思疎通できる奴がいるなら会ってみたい。
「先輩の浮気者ー!」
校門前、梓が叫びながらリムジンから飛び出してきた。そんなに叫ぶな。注目されてるじゃないか。それに浮気とか、何度も言うけど恋人じゃねぇっつーの。
「やぁ神宮寺さん」
倉敷さんは俺に向けたような柔らかい笑みを梓に向けた。浮気者の片棒を担いだというのに動じないところが倉敷さんらしい。
「あっ、誰かと思えば倉敷先輩。こんにちは。あぁやだ、早とちりしちゃった。梓恥ずかしい」
両手で頬を押さえてくねくねと可愛さアピール。
「早とちりって、なんだい?」
わかってるんだろうけど、倉敷さんは首を捻って梓に聞く。その仕草が変に大人っぽく見えた。
「真先輩が女の人と歩いて来たんで、梓をほったらかして遊びに行くものだと思っちゃいました。えへっ」
自分の頭をこつんと小突く。こう、なんていうか、お前も自分に見合った仕草だな。
「ああ、そうなんだよ。遊びに行くんだ。なんだジョン、言ってなかったのかい?」
「はい?」
あはは、何を言ってるんでしょうねこの人は。そんなこと言ったら単純な梓は反応しちゃうじゃないですか。これくらいの嘘くらい見抜いてくれよな梓。
「じ、ジョン? いつの間にあだ名で呼び合う仲になったのですか!?」
そこかよ。あだ名っていうか、思いっきりけなされてるようなもんだけどな。なんだか、この先ずっとジョンって呼ばれそうだ。
「ふふふ、大人の事情だよ」
倉敷さんはそう言って俺の腕を取り、腕組みを敢行してきた。しかも体を寄せるように。梓と違う女の人の匂いが鼻をくすぶる。俺は「は? へ?」と唖然とするばかりで抵抗すら忘れてしまう。倉敷さんの表情はなぜか勝ち誇ったように目を細め、梓を見下ろしていた。
梓は一瞬何が起こったかわからないように目をぱちくりとさせて固まり、
「む、むがーーーー! は、離れて、離れて下さい! そこは梓の場所ですっ!」
と梓は無理矢理に倉敷さんを剥ぎ取りにかかる。倉敷さんは細い見た目通りに力が弱いのか、難なく梓に引き離された。倉敷さんは「いやんっ」となんだその猫なで声は。梓は鼻息荒くして、いわく自分のポジションをゲット。いやぁ、モテモテだね、俺。
「お前こそ離れなさい」
「むぅがーーーー! なんですかっ! そんなに倉敷先輩がいいんですか!」
おいおい叫ぶなよ、叩くなよ。注目されてるって。そこの羨ましそうに見てる男子、喜んで選手交代してやる。人生を賭けたゲームだけど。
「そういうことじゃなくてな、みんな見てるだろ?」
毎度毎度、俺は落ち着いた生活を送りたいんだ。注目されるなら、いい成績取ったとか、体育祭で一位になったとか、その程度でいい。すでに時遅しかもしれないけどさ。このままでは西校名物にでもされかねん。
そこでピピピ、と危険信号。梓は涙目で「うう~……」と俺を見上げていた。制服に型がついてしまうくらいに俺の腕をぎゅっと掴み、唇は逆への字できつく結ばれている。斎藤さん、窓を開けていかつい顔を覗かせないで。決して泣かせたりしませんから。
「か、帰るか。なっ」梓の頭を撫でつつ背中には冷や汗。できる限りの作り笑いで梓をなだめにかかる。
「うう~、倉敷先輩はいいんですか?」
帰ろうと言ってるんだからいいじゃないの。余計なことには気が利く奴だな。ボウリングでの一件を生かそうとでもしてるのか? 友達を思いやるって、一応それを見せようとしてるみたいだな。
「さっきそこで会っただけだから。用事あるらしいし」
「私との用事をすっぽかすのかい?」
ああもうやめて。これ以上場をかき乱さないでくれ。
「先輩、やっぱり……」うるうる……。
「ち、違うぞ。倉敷さんが言ってるのは冗談なんだ。からかってるだけなんだよ」
今回ばかりは梓に味方する。俺と梓と倉敷さん、最悪な組み合わせになることが発覚した。トラブルメイカー倉敷さん、悪気ありありで大層タチが悪い。不思議な人なんかじゃなかった。要注意人物だ。
「そうだ。神宮寺さんも一緒に来るかい? ちょっと買い物に付き合ってもらおうと思ってたんだよ。暇そうな友達はジョンしかいなかったからね」
本格的にジョンという呼び名が定着しそうだ。そんなことはどうでもよくないけどいいとして、倉敷さんが梓を誘ってる? 最初は梓と一緒にいることはデメリットが大きいとか言ってたのに。俺の知らないところで事が進んでいるようだ。っていうか梓もって、俺が行く事前提じゃないか。
「えっ、梓も一緒にいいんですか?」
乗せられてるんじゃねぇよ。
「ジョンのお世話はご主人様に頼むことにするよ」
「そういうことならっ」
あんたたち、意思疎通できてるみたいだね。
「お願いだから、俺を人として扱って」
そういうことならっ。梓にも俺がペットとして認識されてしまって、二人して倉敷さんの買い物に付き合うことになった。
いい日和で散歩するにはちょうどいい気温、というのもあって、高級車は落ち着かないと言った倉敷さんを先頭にアーケードを目指して歩き始めた。梓は相変わらず俺の腕に絡みつき、牛歩カードの役割を果たしている。
どうしてこうなった。倉敷さんの用事が適当なものじゃないことはわかったが、どうして俺らが付き合わなければならんのだ。いや、俺が。行くなら二人で行ってくればいいものを。
今のところは一応友達の同級生が仲良く買い物に向かっているという朗らかな事情だけなんだが、この先ゆめゆめ油断できない。倉敷さんの悪戯心が働かないことを祈るだけだ。
梓がいろいろやんややんや俺に話しかけてきて、倉敷さんがその会話にずいずい身を割り込ませることはないわけではなく、目的のアーケードに着いた。梓とぶらぶら(らぶらぶ)して、五人で遊んだアーケードだ。この時間は制服姿が目立ち賑わいを見せていた。
「倉敷さん、何買うの?」
素早く任務を遂行させて帰路に着きたい。緩衝材兼起爆剤の俺としては長居は無用だ。
「まぁ、せっかく来たんだから少し寄り道して行こうじゃないか。目的のものはすぐに買えるし」
いつも通りの柔らかい笑みを向けてくる。さっそくだ。俺の願いはいとも容易く打ち崩される。今日の予定が白紙なのは梓も知っているから、下手な言い訳を駆使して帰るわけにもいかない。梓は今のところご機嫌だからひとまず安心していいものの。
「神宮寺さんも、こういうのって、友達らしいとは思わないかい?」
倉敷さんはそう言って、雑貨屋の前できゃっきゃ騒いでいた女子高生を指差した。そして「楽しそうだよね」とにんまり梓に笑いかける。
梓は何やら俺の顔をじぃ~っと見つめ、名残惜しそうに腕を離れた。そしてちょこちょこと倉敷さんに歩み寄り、制服の裾をちょんと摘まんだ。保護者交代。倉敷さんは従順に自分のとこにきた梓の頭を撫でる。
「行こうか、あずあず」
「はいっ、みっちー先輩っ」
……なんだろう。何かわからないが何かが成立した気がする。うん、君たちはいい友達になれるんじゃないかな、多分。
二人はさっさと歩き出してしまって俺だけが取り残される形になり、このまま帰ろうかと思ったが、あとあと面倒なので渋々二人の背中を追いかけることにした。梓の背中を見て歩くというのもなかなか新鮮味があり、その横に友達がいるもんだからこれまた奇妙だ。
少しだけ、空いてしまった左手が荷物で埋まることを期待した。
まず二人が向かったのは近くの書店。とりあえず入ってみた感があるが、それでもファッション誌を並んで見る二人の姿には感慨深いものがある。こうして見れば、梓だってそこらの高校生と変わらない。
俺は欲しい本も特になく、ぶらぶらと店内を探索してみる。割とよく見る男性ファッション誌に目を通し、文庫本コーナーの新作を眺め、ゲームの攻略本で新発見をし、週刊誌を立ち読みしていた。
「ジョン」
すると横から倉敷さんがにゅっと顔を覗かせた。ジョンに反応してしまう自分が少し可哀想に思える。春日さんは一人で、いつもの笑顔を浮かべていた。なんとなく雰囲気でわかる。何かよからぬことを考えているに違いない笑顔だ。これで倉敷さん検定三級だな。
「ご主人様がお呼びだよ」
そんな俺の心配は思い過ごしであったらしく、梓に言われて俺を呼びに来たらしい。三級失格だな。何段階あるか知らないけど。
それよりも、
「倉敷さん、今日はどういうこと?」
「どういうこと、と言うと?」わざとらしく首を傾げる。
「学校であんなことしてからかったり、アーケードに連れてきたりしてさ」
「そんなの、おもしろそうだからに決まってるじゃないか」
「……そースか」
当然のように言われた。そうか、この人は何も考えてないんだな。
「ご主人様を待たせちゃいけないよ」
倉敷さんには珍しく、そわそわとした様子で促された。梓を一人にしては心配なので、とりあえず急ぎ梓の元に案内されることに。
その梓は十八禁コーナーで堂々とエロ本を立ち読みしていた。
一瞬躊躇する。十八禁コーナーなど、思春期真っ盛りの男子高校生としては行きたくても行けない秘密の花園で、そこにたどり着くまでにどれだけの勇気を要するものか。周りの目が気になって、羞恥心が形となって現れそうなほどに膨れ上がる。このまま梓に声をかければ、エロガキバカップル共が、などとレジのおばちゃんのいらぬ誤解を生みかねない。だがしかし、女子高生があんなとこで「うひひひ」なんて笑いながらアレな本を立ち読みしているのは止めねばならぬと俺の常識心が投げかける。迷っている暇はない、一刻も早く連れて立ち去るのだ。
俺は早足で梓に近付き、無言で梓の首根っこを掴み「ひゃうっ!?」十八禁コーナーをあとにした。そのまま割と人の少ない文庫本コーナーへ引っ張って行く。
「お前はっ、何読んでんだ!」
自分でも顔が紅潮しているのがわかる。
「うへへ、先輩はどういうプレイが好きなんですか?」
梓はいやらしく笑い、俺の目の前でエロ本をぱらぱらとめくる。内容はやっぱり男と女のアレな部分がアレしてて、いろいろとアレな写真がスクープ写真のように散りばめられていた。
「何で持ってきてんだよ!」
思わず声を荒げてしまい、いそいそと立ち読みしていた他の客の注目を浴びる。エロ本を俺と梓の間に隠すように持ち、客の視線が手持ちの本に戻るのを待った。
その一部始終を遠目から眺めている倉敷さん。本当におもしろそうに笑っていた。そわそわしてたのはこういうことか。ここまで計算してここに入ったんなら大した人だよあんた。
俺だってこういう本は少ないが何冊か持っている。俺が家族と梓の目を盗んで買った宝物だ。そりゃ高校生にもなれば、一人であれやこれやうんぬん。そんなに想像力豊かではない俺にはこういう本は必要なものなのだ。でも女子高生と一緒にこの類の本を手にしているというのは俺的にノー! それがいくら梓と言えど恥ずかしいのだ。
梓は手に持つエロ本の表紙を見て、「うーん」と首を傾げた。
「でも先輩の部屋には漫画モノが多いですよね」
ああっ! もうやだっ! 何で知ってるの!?
「ちなみにあゆみちゃんと一緒に見ました」
ああ……さよなら俺。
「先輩、口から魂出てますよ?」
消えたいです……。
そんなことを思った俺も、部屋を勝手に探索された怒りで梓と妹にエロ本を見られた羞恥心も吹き飛び、梓の両頬を思いっきりつねりながら書店を出て行った。
しばらくは、他の本屋に足を伸ばそう。
「うう~……ほっぺが痛いですぅ……」
某ハンバーガーチェーン店で氷を頬張りながら呻く梓。
「ありゃお前が悪い。人のプライベートを勝手に見た罰だ」
「まぁまぁ。面白かったんだからいいじゃないか」
「随分と主観的な感想だネ」
書店での一件、あれでやけに喉が渇いてしまったので近くのファーストフード店でアイスコーヒーを飲んでいた。割と若者が集う二階席で、俺の隣に梓が座り、早々にアイスティーを飲み干して氷を頬張っている。倉敷さんは向かいに座って頬杖をついて、にこにこと満足気な笑みを浮かべていた。
「倉敷さん買い物は? 早く済ませて帰ろうよ」
「まぁまぁ、あずあずとこうやって過ごすことも滅多にないんだし、もう少し遊んで行こうじゃないか」
「そうですよ先輩。梓との時間は夜にでも」「とらねぇよ」
そんなに意気投合してるなら俺がいなくてもいいじゃないか。
「俺は帰るから、二人で遊べば?」
「男物を探しに来てるんだよ。ジョンのアドバイスが欲しいんだ。もう少し付き合っておくれよ」
困った顔でそう言われると、むげに断ることはできない。頼りにされて、答えられそうなら答えてやりたいとは思う。今回はまぁ、男の意見が聞きたいようだし。それにしても男物か。色恋沙汰とは無縁に生きて来たと言ってたけど。
「気になってる人でも?」
「なんだい、気になるのかい?」
質問に質問で返された。そんなことを話すと、梓がジト目で俺を見て来る。心配すんなっていうのもおかしいけれど、決して倉敷さんのことが気になってるわけじゃない。どちらかと言えば、お前と同じような要注意人物なんだから。
「別に」
俺がそう言うと、倉敷さんは嘆息してつまらなそうに「家族のだよ」と言った。家族ってことはお父さんか兄弟へのプレゼントか何かだろう。
「俺、あんまりセンスに自信ないけどなぁ」
「女の私よりもマシだと思うよ」
そう言ってくれると助かる気もする。家族のへのプレゼントと聞いて一気にプレッシャーがかかったことは間違いない。こう、家族が喜んでる姿を見るっていいよな。去年あゆみにクマの抱き枕をプレゼントした時はすごく喜んでくれた。少しだけクマさんに嫉妬してしまったが、それでも満足だった。
「去年は何をあげたんですか?」
梓が興味津々に倉敷さんに聞く。一般家庭の事情が気になるのか倉敷さんだからかはわからない。
「前は服を買ったよ。すぐに汚して着られなくなってしまったけどね」
プレゼントを汚されてしまったっていうのに、倉敷さんは満足そうに笑っていた。汚して着られなくなったって、小学生くらいの弟かな。俺もそんな頃があったなぁ。千佳と裕也と一緒に遊んで泥まみれになって、母さんに怒られたりしたなぁ。そういえば、梓の小さい頃の話しは聞いた事がない。梓も外で遊んだりしていたのかな。ま、似合わないね。機会があれば聞いてみよう。
「服ですかぁ。真先輩、お誕生日には何をプレゼントして欲しいですか?」
お前が聞いてもあまり意味がない。一昨年はプラモデルが欲しいと言ったら自家用ジェットを製造段階からプレゼントされようとしたので全力で断った。去年はちょっと欲出してデジカメが欲しいと言ったら梓の写真集だった。中身を見もせずに机の隅で埃を被っている。つまり、物をねだってもそれを手にするということは叶わぬということだ。
「そうだな、丸一日一人の時間が欲しい」
「うぐっ、そ、それは難しいですね」
「一番簡単だ」
一人ぼっちの誕生日っていうのも寂しいけど。
そんな俺と梓のやり取りを見て倉敷さんがくすくすと笑う。
「君たちは見ていて飽きないよ」
「見せものじゃないんだけどね。観戦料でももらおうかな」
「いつも指定席でも用意してくれるなら喜んで払おうじゃないか」
「ははは、冗談っすよ」
常々この三人でいることを想像すればそれだけで気が滅入ってしまう。
そうだな、やっぱり千佳と裕也の三人で一緒にいるのが一番落ち着くんだろうな。今はそれと真逆。一言一句に気を遣わないとならないような気苦労。これでもね、苦労してるんすよ。
「私もジョンに何かプレゼントしてみようかな」
「いいよそんなの。気持ちだけありがとう」
「そうかい。リボンを首に巻いて私をどうぞっていうのやってみたかったんだけどね」
「ダメーーーーーー!」
ああ、またか。
梓は顔の前に大きくバッテンを作り立ち上がって叫んだ。クロスチョップでもお見舞いする気か?
「いいじゃないか別に。君とジョンは恋人ってわけじゃないんだろう?」
「ダーメーです! 恋人とか言う以前に真先輩は梓の婚約者なんですから! 誘惑するような真似しないで下さい!」
「婚約者以前に恋人からだろう? 恋人じゃなかったら婚約者でもないんじゃないのかい?」
「え? いや、婚約者だから恋人で、恋人じゃなくても婚約者で、えっ、でも婚約者だったら恋人だから…………むがーーーー! どっちでもダメなものはダメです! 真先輩には梓がいるんですから他を当たって下さい!」
「私は……ジョンがいいな」
「なっ! なななっ! 真先輩! 真先輩も何か言って下さい!」
おっ、やっと俺の出番かー。そんな話しの前にあなたたちね、TPOをわきまえなさいって。同じ学校の奴もいるんだからさ、もうちょっとボリューム落として話そうよ。倉敷さんももうすっかり梓のお友達だよ。デメリットやらを味わって下さい。
「どうでもいいけど、早く外に出ようぜ」
「どうでもいいとはぬわんですくわぁーーーーーーーーーー!!」
あはは、言葉のチョイス間違えた。
とりあえず迫り来る梓に目つぶし。びしっ。「はうっ!?」
「さ、倉敷さん、今のうちに」
「ジョンもいろいろ大変だね」
あんたのせいだよ今日は。
「はう~……目がぁ……ほっぺがぁ……」
アーケードのベンチで休憩中。梓は回復中。梓は膝を抱えてそこに顔を挟み込み、目を押さえて呻いていた。ちょうどCDショップの前で、ここもここで、俺が梓を泣かせたような目で通行人に見られてる。な、泣きたいのはこっちなんだからねっ!
「梓、キズものにされましたぁ。先輩、責任取って下さいね」
「ニヤケ面が見えてるぞ」
「梓の初めては先輩にって決めてましたから」
「戻って来ーい」
さすがはポジティブ梓ちゃん。もうすっかり元通りだ。やり過ぎかと心配していたけど。何気にクリーンヒットしたからなぁ、目つぶし。
倉敷さんは相も変わらず面白そうに梓のことを見ていた。ほんと、いいおもちゃを手に入れたみたいな顔で。梓もご苦労なこった。ん、これはもしやあれか。勢力の三角関係。梓は俺に強く倉敷さんに弱い。倉敷さんは梓に強く俺に……弱くないな。俺、最弱。多分俺と梓がセットでおもちゃ。楽しんでもらえて光栄だね。
梓に友達を作ろうとしたことが、とんでもない悪友を引き当てた。
意味もなく倉敷さんを見ると「なんだい?」と首を傾げて聞いてくる。その仕草だけはピカイチ。
「千佳と仲良いのが信じられない」
「ああ、豆電球は優しいからね。こんな私でもうまくやれるのさ」
「豆電球?」
「ちかちかだから」
たしかに、豆電球と呼ばれて笑っていられるのなら優しいな。この前はちゃんとちーちゃんって呼んでたよな。でも、俺もジョンか。俺はペットだもんなぁ。梓に尻尾を振ったりしないけど。でも、豆電球よりはマシかも。
「ジョンも豆電球と仲良いじゃないか」
含み笑いで言ってくる。それ同時に呼ばれたら誰かわかんないよ。
「まぁ、付き合い長いから。仲が良いって言うか……うん、まぁそうなのかな」
正確に言えば、一番落ち着ける相手なんだよな。だから、仲が良いっていうのとは少し違う気がする。何も心配いらないっていうか、気を遣わないっていうか……ああもう、何なんだろうな。
「先輩は梓と一番仲が良いんですぅ」
ずいずい、と俺と倉敷さんの間に顔を割り込ませる梓。
梓は千佳と対照的な感じだな。退屈はしないけれど、落ち着いたためしがない。今も間に入り込んだ勢いで、俺のファーストキス(俺の中では)を奪いに唇を寄せてきた。デコピンで一蹴。
額を押さえる梓を横目に、俺は大きく溜息を吐いた。
まったく、普通からかけ離れてしまった俺の青春。今のところ、それを平均水準に戻す手立てを俺は掴めていない。
この金持ちお嬢様は一体いつまで俺に付き纏うのか。
人と違うことを良いことと捉えるか悪いことと捉えるか、それは人それぞれであって、俺に関して言えばあまり好ましいことではない。梓が突拍子もないっていうのもあるけど、もっと周りに足並み合わせた生活を送りたいんだ。
気がつけばいつも隣には梓がいて、それと共に失ったものがあって、それは普遍的な日常であり、友達との触れ合いだったり。でもその結果全てが悪いことなのかと言えばそうでもない。
梓といればそれなりに退屈はしないし、普通の人生じゃ経験できないこともいくつか経験できた。こんな高校生が人生などと口走るのは大層なことだが、それでも一般的に言って、目が覚めたら海の上やら空の彼方やらはまずありえないだろう。そのうち目が覚めたら宇宙ってこともあるんじゃないだろうな。
梓から俺への興味が退かない限りは、この先も梓は俺の隣に居続けるんだろうな。俺が望もうとも望まぬとも。
「ジョン。ジョン!」
ああ、意識がどっか行ってた。
「なに?」
「呼んでみただけ」
なんだよ。
「先輩!」
なんだ?
「呼んでみただけです」
対抗すんな。
「んで、これからどうするの? どこにも行かないんだったら倉敷さんの買い物済ませよう」
「ジョンはそんなに早く帰りたいのかい?」
本音を言えばそうだけど、露骨に本音を出すわけにもいかない。「そういうわけじゃないんだけど」ととりあえず答える。
「じゃあゆっくりいいじゃないか。人生楽あれば苦ありだよ」
「いや意味がわかんないから」
今が苦ってこと? わかってるんなら解放して。
「人生梓あればラヴありですよ」「俺以外の誰かがな」「また先輩のツンが出た。デレはどこ?」「持ち合わせていない」「あ、そうか。二人きりにならないと」「好都合。縛り上げて拘束する」「やん、大胆。倉敷先輩の前ですよ?」ぴしっ。「やっ」デコピン。「……ハァハァ……さっそくですね……」「お前キモイよ」「言葉責め、梓はどんなプレイでもOKです」「一生放置プレイで」「ほ、奉仕プレイ? せ、先輩が、梓に奉仕……げへへ」「よし、行こう倉敷さん」
「え? 見せてくれるのかい? 奉仕プレイ」
さ、帰るか。
「ちょい待ちジョン。ははは、冗談さ。あずあずはさておき私はいたってノーマルだからね」
疲れる、疲れるよ二人とも。
倉敷さんが梓の意識を取り戻し、不承不承、また二人のあとをついて行く。
アーケード内の店の看板が灯り出し、夕刻を告げる。だんだんと仕事を終えたスーツ姿が目立ち出し、一日の終わりを感じさせる。
あれからはなんとかっていう洒落たプランドショップに入り、梓の着せ替えファッションショーに付き合わされた。女物のショップに入るだけでいたたまれない気持ちになるっていうのに、梓の奴、最初は試着室から下着で出て来やがった。「どうですかこれ?」なんて公衆の面前で俺に感想を求めないでくれ。こそこそ声と視線が痛い。倉敷さんは倉敷さんで「ひゅーひゅー」なんてどこのオヤジだ。梓が着替える度に何かしらの感想を求められ、俺が適当に「似合ってる」と言った服をお嬢様は全てご購入。ちなみに、倉敷さんは梓をうまいことおだてて服を買ってもらっていた。近くにある服の値段を見ると、必ずゼロが五個はついていたのを確認した。倉敷さん、あんたたくましいよ。
荷物持ちは俺。次はゲーセンに入りクレーンゲームに夢中になる、ムキになる二人。景品なんて欲しくはないだろうに、取れないことで躍起になっていた。ゲーム代は全て倉敷さん持ちだが、服の代金と比べれば安いものだろう。梓においては筐体を自宅に備え付けることを決定したようだ。次にここに来た時はプロキャッチャーになっていることだろう。
いや、梓が友達と楽しそうに遊んでいるのは実にいいことだ。微笑ましい姿だと思うよ。
でもね、俺、ほったらかしなんだ。
べ、別に寂しいわけじゃないんだからね!
二人専用のレースゲームとか、リズムゲームとか、ビデオゲームとか、俺は黙って見てるだけだったけど、いいことだ! 俺から梓が卒業するいいきっかけになるかもしれんのだ!
「先輩っ!」
「な、なんだ梓!」
「ジョンが尻尾を振ってる」
……いかんいかん。声をかけられて喜んでるみたいじゃないか。
「な、なんだ?」こほん。
「プリクラでも撮らないかい?」
梓の言葉を倉敷さんが引き継いだ。より一層の絆を深め合えたらしい。
プリクラ……プリクラねぇ……。
梓とゲーセンに来たのは実はこれが初めてだったりする。前にも言ったが、俺が街中で梓をエスコートすることはほぼ皆無で、こんなところで梓が楽しむなんて思いもよらぬことだったわけだ。
なんたってお嬢様だからな。
…………………………なんだ、これ?
お嬢様だからって、なんだそりゃ。
梓が大金持ちのお嬢様って、そんなことはわかりきってることだ。
だからって、決めつけていた。
ボウリングの時だって楽しそうだったじゃないか。
俺は梓に普通の友達を見つけようとして、俺自身が梓に対してお嬢様だからという先入観でずっと見ていた。
『梓ちゃんって、意外と普通なんだね』千佳の言葉が思い返される。
そうだ、その通りなんだよ。こんなところで楽しめるはずがないって誰が決めつけた。
それは俺だ。
今日だって、高い買い物してたとは言え、女子高生が普通にショッピングを楽しんでいるように、普通にファッション誌を眺めるように、普通にファーストフード店でお茶するように、普通にゲーセンで遊ぶように、普通なんだ。
「先輩?」
「プリクラ、初めてか?」
「はいっ!」
嬉しそうに笑う梓に少し罪悪感を覚えた。
悪かったなぁ、こんな楽しみ方なら、いくらでも教えてあげられたのに。
「じゃ、俺とお前の、初めてのプリクラでも撮るか」
これが、俺の初めてのエスコートになるな。
「私もいるんだけどね。二回目に混ぜてもらおうかな。ジョン、優しくするんだよ?」
どういう意味だ。でもその申し出はありがたく受け取っておこう。
プリクラ機の中に入り、俺はおぼつかない手つきで機械を操作する。千佳なんかと撮ったときはあいつが全部やってたから、俺は覚えている限りで、背景とか、明るさとか、まぁ標準的なものを選んだ。一つはハートの背景なんだけど、これは梓のご希望で。
少し緊張して、一回目。背景は学校の教室。普通に横に並び、梓は満面の笑みで、俺は自分でもわかるくらいにぎこちない笑みで、撮り終えた。少し緊張がほぐれて二回目の撮影。この機種は三回撮りなので残りは二回。ここはカメラに寄って、腕を組み、梓が思いっきり顔を寄せて二回目の撮影終了。
最後の撮影。梓の選んだハートの背景で。
「先輩。チュープリ撮りましょっ!」
ちゅ、チュープリって、どこでそんな専門用語を。
普段なら全力で断る。引き剥がしにかかる。だけど、今回は……。
「ほ、ほっぺなら許す!」
梓は思ってもみない答えだったのか、きょとんとして、わなわな震えて拳を握り締めた。
「つ、ついにデレきたぁーーーーーー!!」
盛大なガッツポーズと共に、俺の首に手を回し、ほっぺにぶちゅう。
「わっ! お前っ! 撮影まだだっ! ひいぃっ! 舐めるな! や、優しくしてぇ!」
「うへへへっ」じゅるじゅるっ、ちゅぽんっ。
プリクラ恐怖症になるほどの、恥辱にまみれた、記念すべき梓との初めてのプリクラ撮影が終了した。
少しばかりの、俺の罪滅ぼしだった。
この次は三人での撮影。男一人、女二人なんだから俺が挟まれることになるのは自然っちゃ自然なんだが、二人で腕を組むのは止めて欲しい。俺を挟んで言い合いするのも、二人とも顔が近いから。梓、唾飛ばすな。で、何言に倉敷さんの胸が……。いや、だからどうした。
「仲良くジョンを挟もうじゃないか」
「ダメですっ! 離れて下さいっ!」
「ははは、二人とも仲良くなー?」
「みっちー先輩の味方ですかっ!?」
「ジョンのしつけがなってきた」
「ははは。いいから、ほら、はい、チーズ」
出来上がったのは、言うまでもなく俺が二人の言い合いをなだめているプリクラで、これはこれで、この時のことを思い返せる代物になった。
備え付けのハサミでプリクラを分け、梓が強引に俺の携帯にチュープリとやらを貼りつけた。我ながらひどい顔だ。
倉敷さんは目を細め、微笑みながら三人のプリクラを眺めていた。
「三人で撮ったプリクラなんて、初めてだよ」
倉敷さんは少しだけ寂しそうにそう呟いた。
「初めてって、友達とはあんまりこういう遊びはしないの?」
「私はちーちゃんしか仲の良い友達はいなかったからね」
自嘲気味に笑いながら言う。ただ、友達がいなかったと、過去形で言ったことで、なんとなく救われたような気がした。あながち、梓を紹介したことが間違いではなかったんだと思ったから。
「そろそろ行かないと店が閉まってしまうから、ジョン、いいかな?」
「あ? ああ、そのために今日はついて来たんだし」
ようやくお役目を果たせる時が来たようだ。
ああ、長かった! やっとおうちに帰れるぜ! まったくもってせいせいする!
……なんてことを今日ここに来る前の俺は思ったんだと思う。
でも今は少し違う。
梓を知って、倉敷さんを知って、自分を知った。
少なくとも、今の俺は来てよかったと思ってる。
楽しかったかと聞かれれば、そうじゃないかもしれないけれど、二人を見るとそう思えてしまうのだ。
そして、倉敷さんに案内されて連れて来られたのは、
「えっ、こ、ここ?」
「そうだよ。同じ男のジョンなら気持ちがわかるだろう?」
ペットショップだった。
「うちのジョンの首輪がぼろぼろでさぁ。君ならどんなのが欲しい?」
「ふっっっざけんなあぁぁぁっ!」
と、俺の罵声が狭い店内に木霊し、涙目で店を飛び出しリムジンの中、鼻息荒く興奮していた俺を梓がなだめていた。
「先輩、どーどーどー」
数時間掛かりで馬鹿にされた、とでも言えばいいのか。まったく、倉敷さんも悪戯心には恐れ入る。
嗅ぎ慣れたリムジンの匂いで落ち着きを取り戻し、梓に目をやると、にへへと笑ってシートに背中を預けた。そしてバッグからさっき撮ったプリクラを取り出して、またにへへと笑みを浮かべる。嬉しそうな梓を見て、悪い気がしないのは嘘じゃない。
「楽しかったか?」
「はいっ!」
「そっか。……悪かったな、今まで」
「え? なんですか?」
「なんでも。今度は、そうだな、遊園地とか水族館とか行ってみるか?」
「先輩となら何でもいいですっ!」
そういう答えが、今までは少しだけ重荷となっていた。梓相手に、気にしないでもいいのにな。何やってんだか。
「じゃ、考えとくよ」
少しばかりの悔恨の中で、気持ちが軽くなった気がした。