梓ちゃんとお泊まりデート
ファミレスで食事して、ボウリングに行って遊んで、梓がみんなと親睦を深めてから一週間が経った。 あの後は惨敗を記した梓が千佳に泣きついて、俺から手を引く条件をなしにしてもらった。必死な梓は少し可哀想に見えた。
その後、梓と千佳、倉敷さん、裕也は学校で顔を合わせれば挨拶を交わすくらいの仲にはなった。まだまだ仲の良い同級生のようには見えないけれど、それでも確実に梓の中で何かが変わったと思う。相変わらず教室内には鏡を置いて、教室では自由奔放に振る舞ってはいるが、直接影響を受けるのが俺だけならさほど問題はない。多少周りに迷惑をかけているだろうが、クラスのみんなも梓の起こす行動に慣れてきたのか、梓がこのクラスにやってきた当初と比べれば教室にはだいぶ穏やかな空気が流れていた。慣れって不思議だよな。俺も鏡が目の前に置かれていることに違和感を感じなくなっていた。
そんな学校生活が一時停止して休日を迎えた朝。
梓に拉致された。
いつもより遅めの起床。気がつくと、空を飛んでいた。やかましい音が体の芯まで響き、少し狭い鉄の壁に囲まれた空間。ここは、ヘリの中だ。
体を起こして周りに目をやると、優雅な空の旅で朝のティータイムを満喫している梓。少し幼く見える白いワンピースに身を包んでいた。
「おはようございます。先輩っ」
素敵な笑顔を向けて来る。こういうことは前にもあった。気がつくと海の上の豪華なクルーザーとか。寝起きでの船酔いで真っ先にリバースしたのは二年前の話し。
「おはようじゃねぇよ。どこだここは」
「梓はあれから少し勉強しました」
「俺の質問にまず答えろ」
「普通の、一般的に恋人とはどういった時を過ごすのか、一般的な大衆的なところを調べていった結果が今に至ります」答えろっつーの。恋人じゃねぇっつーの。
「起きたらヘリの中っていうののどこが一般的なんだよ! 誘拐だぞ!」
「安心して下さい。ちゃんとあゆみちゃんの許可は取ってあります」
「妹じゃなくて俺の両親の許可を取れ。その前に俺の許可を取れ」
「先輩寝てましたし」
「せめて起きるまで待つか起こすかしろよ」
「えーっ、先輩断るでしょ?」
「やっぱ誘拐だよお前!」
ともあれ、どうやっても逃げ出すことはできない。小窓から外を覗くと辺りは一面海だった。全くどこかわからない。俺の中の方位磁石も全く機能しない。服は寝間着のジャージだし。いかにも高級品のワンピースに身を包んだ梓とジャージの俺。どう見たって不釣り合いだ。
「コーヒーですか? 紅茶にします?」
「……コーヒー」
当たり前のように言うよなこいつ、ほんと。
「で、どこに向かってるんだ? わざわざ自家用ヘリまで飛ばしやがって。毎度毎度ことが大袈裟なんだよ、ったく」コーヒーあちっ。
「梓の島です。もうすぐ着くと思いますよ」
島? アイランド? 梓の島って、個人で持ってるっての? いや、こいつならありえる。誕生日か何かで島をもらうって、そんな役に立たないものを平然とやる親がこいつにはいる。
「お小遣いで今日のために買いました」
「お小遣いて、お前のはもはや小遣いじゃねぇ」俺の小遣い、月一万。梓のおかげでほとんど使わないけど。その辺ではお世話になってるんですよ、ほんとに。
島を買って、そこに連れて行って、一体何をするつもりなんだ。一般的な恋人との過ごし方を調べたとか言ってたよな。それがどうして島を買うことに繋がる。
「今日の目的は?」
訝しげに俺は聞く。
「浜辺で海を眺めたり、景色を眺めたり、ゆったりとした時を過ごすのです」
「……は?」
「誰もいない浜辺で肩を並べて海を見つめる。その時二人に言葉はいらない。ただ風の音と波の音だけが囁き、時折香る潮の匂いが自然と顔をほころばせる。そして、二人はそっとキスをした」
「しねぇーよ! んなことのために島買うな! そこらの海でやればいいだろ!」
「いやいや、エメラルドグリーンに輝く海の真っ白い砂浜で二人っきりの時間を過ごすことが一般的な恋人との過ごし方だと」指を立てて自慢気に言う。
「そりゃ一度はしてみたい恋人との過ごし方だろ。一般人はエメラルドグリーンの海なんてそんじょそこらにない海にちょくちょく行ったりしない」
「ですよねっ」てへっ。
「……お前、しばくぞ?」
狭いヘリの中で梓を追いかけ回す。梓は「きゃいん! きゃいん!」と子犬のような鳴き声で逃げ、俺が寝ていた小さなベッドに飛び込んだ。俺は飛び掛かり、梓の腕を掴み、拘束する。
押さえつけられた梓のワンピースははだけ、肩ひもはずれ落ち、白い柔肌の太腿が露わになる。梓の髪からは、やたらいい匂いがする。
「あの、初めてだから、や、優しくして下さいね……」
梓は頬を染め、全てを俺に委ねるつもりで目を瞑り、唇をぎゅっと引き絞る。俺は梓の額にかかったツインテールの片方を払い、そっと、梓の額を撫でた。
「あっ……」
梓の唇から小さな吐息が漏れる。
「行くぞ?」
「は、はいっ……!」ぺちんっ。「あいたっ!」
「人をさらったおしおきだ」
ぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちっ。秘儀、デコピン乱舞。親指以外で流れるように打つ高等技術。地味に痛い。
「あいたたたたたたたたっ! 痛いですっ! やめっ……いたたっ……ハァハァ……」
梓が恍惚の表情になりかけていたのですぐに手を止め、飛びのいた。
「な、何でやめちゃうんですかぁ?」
「変態め」
それから梓を新たな世界に目覚めさせてしまったことに後悔しつつ、窓の外を眺めていた。梓は俺の腕を掴み頬をすりすりと、犬から猫へとその身を変貌させた。これならいつものことだから気にならない。……気にしようよ、俺。
「見えました。あれですよ」
しばらく飛ぶと、梓は窓の外を指差して言った。その先を見ると、確かに島があった。空からでははっきりとその大きさはわからないが、歩いて一周できそうな、それほど大きくは見えない島だ。見る限り建物らしきものは確認できない。どうやら無人島らしい。ぐるりと囲むように白い砂浜。島の中央には木がまだらに生えている林がある。
「じゃ、そろそろ……」
梓は何やら重装備に身を固め始めた。分厚いジャケットを着て、目にはゴーグル。そして、その背中に背負っているものは……パラシュ……おい、まさか、嘘だよな?
「斎藤さん、先輩にも」
梓の専属警護人、斎藤さんが操縦席から現れ、俺は梓と同じ格好に無理矢理着替えさせられた。そして、梓が俺の後ろに立ち、しっかりと二人の体が固定された。ヘリは高度を上げているように見える。
「あ、ああ梓? まさかとは思うが、こ、ここ、ここから飛ぶんじゃない、だろうな?」
「お察しが早くて助かります」
ヘリのドアが開かれた。耳を劈くような風の音が聴覚を支配し、目の前には青々と澄み渡った空がパノラマに展開される。しっかり掴まっていないと今にも吹き飛ばされそうだ。
「暴れないで下さいねー! 間違って海に落ちたら死ぬかもしれませーん!」
背中の梓が耳元で叫ぶ。
「ふ、普通にヘリで降りればいいだろっ! 何でわざわざ飛ぶんだよー!」
「吊り橋効果狙いでーす!」
「つ、吊り橋って! ここっ! 空っ! 橋ないっ!」ドキドキドキ。
「四の五の言わずに行きますよー!」
「ま、ままま待てっ! 俺っ、飛んだことなんかっ! ないっ! ないからっ!」
「安心して下さーい! 梓も初めてですからーっ!」
…………えっ?
「おまっ、うそだっ! やめえぇぇっ!」
「ウィィィィィ、キャアァァァァァァン……」
まじやめっ、しぬっ、ぜったいっ、だめ、ぜったいっ!
「フラアァァァァァァアアアァァァァァアァアァァアァアァァァァァァァァイッ!!!!!!!」
「あああああァァあああアアアアアアアぁぁああぁぁあぁアアアぁぁぁーー……!!!!!!!」
今世紀最大の叫び声を上げ、宙に投げ出される。太陽の光を全身で浴びて、前も後ろも横も上も下も、青かった。水平線が丸みを帯び、地球が丸いことを実感した。
俺は、鳥になった。
「あっはっはっはーっ! 爽快でしたねーっ!」
「はぁっ……はぁっ……」
今、無事に島の上にいる。奇跡としか言いようのない。飛んでいる、いや、落ちている最中、梓が叫んでかろうじて聞き取れた言葉が「コントロールの仕方がわかりませーん!」だった。死を、覚悟した。パラシュートが開き、風に流されながら、おそらくは全く着地予定地点と違ったであろう狭い方の砂浜に着地できた。その際に砂浜に擦りつけた鼻が痛い。俺はいまだ足がすくみがくがく震えているが、梓はいかにもスカイダイビングを満喫したかのように爽やかな笑顔で笑いかけていた。
「死に、死にかけた……。寝起きでいきなり死にかけた……」
「うーん、先輩っ! ほら、見て下さい! 目の前に広がる美しく輝くエメラルドグリーンの海! サンサンと照りつける太陽! まるで梓たちを祝福しているかのような光に満ちた世界ですよ!」
「何を、祝福……うあぁ……」
もはや梓にツッコム気力がない。元気もない。もう、くたくただ。屈託のない笑顔に太陽の光も加わってとろとろに溶かされそうだ。
背中にかいた嫌な汗をどうにかしたくて分厚いジャケットを脱ぎ棄て、ジャージも脱いだ。シャツ一枚になって一息吐いたところに、空からふわふわと、まるで救援物資が届いたかのように何かが舞い降りてきた。それは俺の目の前に小さなパラシュートと共に落ちた。大きなバッグだった。
「あ、来た来たぁ」
ジャケットを脱ぎ棄てた梓がぴょんぴょん飛び跳ねながらそれに駆け寄り、中身を確認。俺も一緒に中を覗くと、そこにはカセットコンロ、あとは調理道具がいろいろ、食材がいろいろ、ペッドボトルの水、寝袋がぎゅうぎゅうに詰められていた。ここで過ごせと言わんばかりに。
「梓、一応聞くが、これは何だ?」
「え? 一日分の食料と寝袋ですよ?」
さも当然のように言う。
「つまり?」
「今日はここで過ごして、明日迎えに来てもらいます。ほら、明日も学校お休みですし」
ああ、死亡フラグ発生の予感。ここで寝ることなんて大したことじゃない。梓と一緒ってことが大きな問題だ。
「ちなみに、お前のパパはこのことを知ってるのか?」
「な・い・しょ」
愕然とした。梓の頬をいつの間にかつねっていた。「いひゃひゃっ!」
……終わった。俺の人生が終わった。このことがあの親に知れれば即刻俺の命の灯が消える。この世から消える。いっそこのままここで暮らした方がマシなんじゃないか?
「帰る! いますぐ帰るぞ!」
「残念ながら、ここは通信機器一切の電波が届かない場所なんですね。衛星通信も不可です。ですから、明日にならないとだーれも来てくれません」
にこにこと邪悪な笑みを浮かべて嬉しそうに言ってのける人さらい。無人島に二人きりの、完全に閉鎖された空間。難破船でも漂流して来ない限りは、俺と梓を見つけてくれる人はいない。しかし、波は穏やかだった。本当に梓と二人っきりで一夜を過ごさねばならん状況に陥ってしまった。照りつける太陽が、俺の体を焼く戒めの炎に見えてならない。
「はぁ……」
先の人生が暗闇に包まれたことを無念に思い、砂浜に寝転がった。さらさらと、気持ちの良い手触りの砂が首筋を撫でる。ここがどこかもわからないが、住んでいた場所より暑い。少なくとも南に下ったことは間違いなさそうだった。毛穴からはじんわりと汗が染み出てきて、まだ四月だというのに海に飛び込みたい衝動に駆られる。目の前に広がるのは紛れもなく、透明感のあるエメラルドグリーンの海だった。
「先輩、どうします? 泳ぎます? 水着もありますよ。生着替えもお披露目ですっ」
「ゆっくりするんじゃなかったのかー?」
うきうきわくわく、落ち着きなく言う梓を一瞥して空を見上げた。角のない丸みを帯びた雲が行き場を求めて彷徨って見えるほど風は穏やかで、湿度のない気持ちの良い空気が肌を触る。不覚にも、悪くないなと思ってしまう。少しでも現実に目を戻せば……いや、今は考えるまい。どうせなら、少しでもこの楽園を満喫してみようか。
少し歩いてみることにした。見知らぬ島に漂流して、海岸線を歩き自分で地図を作るなんて、ちょっとしたサバイバル体験でもどうか。まぁ、空からこの島の全貌は見たけれど、あの岩を目印に、あの木を目印になんて、ちょっと楽しくなってきたぞ。目を開いて起き上がると、細かい砂がぱらぱらと落ちた。
「梓、この島を一周してみようぜ」
「どこまでもお供します」
奥ゆかしく首を傾けた梓は俺の隣を歩く。さっきのバッグに入れていたのか、赤いリボンが巻かれた麦わら帽子をかぶり、幼さを強調させる。大きさの違う足跡をスタートとして、一周歩く。足跡が波にさらわれないように、波打ち際を避け、ゆっくりと、爽やかな風と戯れながら。
紙もペンもなく、地図は頭の中に描き出す。
ハンモックでも吊れそうな大木を一つ目の目印に、次は行く手を阻む障害物のように幅広く伸びた岩を。
「二人の式は、こんな海辺の教会で挙げたいですね」
その岩を乗り越えて、漂流してきたらしい丸太が二本並ぶ砂浜と林の境界線を次の目印に。潮が満ちればそこまで浸るのか、と今のうちに満潮時の予想を立てておく。
「子供は二人欲しいですね。男の子と女の子。先輩似なら、きっと可愛いんだろうなぁ」
もうしばらく歩くと、巨大な木が砂浜に影を作るように斜めに生え、緑色のドレスを惜しげもなく見せつけているところがあった。砂浜に葉の影ができていることに少しだけ神秘を感じながら、四つ目の目印に、
「なんなら今日子供作っちゃいましょうかっ!」
したところで小振りでも柔らかな胸を押しつけてきた梓を振り払って俺は逃げ出した。
既成事実を作るわけにはいかん。俺が生き残れる可能性はまだゼロじゃない。何もしてない、無理矢理連れて来られた。何度も訴えればあの閻魔様も見逃してくれるかもしれない。
これは……生き残りを賭けた、本気のサバイバルだ。
「いいか、この線からこっちに来るんじゃないぞ。わかったな?」
「うう~……どうしてそんな意地悪するんですかぁ……」
全速力で島を一周し、曖昧な地図を頭の中に広げ終えたあと、荷物のそばで適当に線を引き境界線を作った。間違いがあったら何も言い逃れができない。俺も一応は健全な男子高校生なのだ。二人っきり、誰も邪魔が入らない無人島で、一応女子高生である梓の執拗なボディーアプローチを受け続けてはいつまで自制心が持ってくれるのかわからない。こいつは美少女なのだ。それは紛れもない事実であり、いい匂いがするし、小振りな胸だけどスタイルはいいし、愛らしい瞳と唇を見ているだけならまだしも、直接肌と肌との触れ合いが頻繁に行われた日にゃあ俺の中の獣が雌を求めて暴れ出すこともあるかもしれない。
「どうしてもだ。俺と一緒にいたければ入ってくるな」
「うう~……そんなの、どうしたらいいんですかぁ……」
見えない壁に必死にかきむしるようにすがる。パントマイム披露。
いっそのこと話して……いやいや、ダメだダメだ。梓に言ったらいいように利用されるだけだって。都合が悪ければ泣いたり、二重に脅されることになりかねん。それだけは避けなければ。
梓がうじうじと砂浜をいじってうなだれている時、ふと空を見上げれば太陽は真上にあった。もう昼頃なんだろうか。そういえば、時計も携帯も持ってきていない。腹も減ってきた。そうしてまた一つ気付く。梓の奴、料理なんてできるのかと。レストランばかり行っていたので今まで気にも留めなかった。ちなみに俺はできない。作り方さえわかればできるだろうが、それがわかるようなそれらしい本も荷物には見当たらなかったし。
「梓、お前料理できるのか?」
境界線ぎりぎりまで出張り、期待を込めて聞いてみた。梓ができないのなら、調理なしで食べられるものを食べなくてはならない。無知は愚かなり。
「もっちろん! 花嫁修業はバッチリですっ! そのために調理器具を持ってきましたから」
えっへん、胸を張る。憎たらしくも愛らしい仕草だが今は頼りになった。梓が料理なんて意外だけど。
「じゃあさ、そろそろ腹減ってきたから何か――」
「嫌です」
俺が言い終わる前に梓はぷいっとそっぽを向いて拒否してきた。
「ふぇ?」
思ってもいなかった返しに素っ頓狂な声を上げてしまう。
「意地悪する先輩には梓の手料理なんて作ってあげませんっ」
ぷいぷいっ、頬を膨らませて、わざとらしい怒り方だ。しかしそんなことを言われて梓にすがってしまうのも癪なので、俺も意地になる。
「ならいいよ。自分で作るから」
「それはいいですけど、バッグはこちら側にありますからね。その線を越えないと調理器具はおろか食材さえ手に入りませんよ? 先輩のご飯は梓の手にあり、です。くふふっ」
こ、こやつ、むかつくっ。その含み笑いがむかつくっ! きいぃぃっ!
「いいよ! いいですとも! 一日くらい、何も食べなくたって平気だよ!」
「ちなみに水もこちら側にあります」
ぐぬぬ……、み、水は厳しい。ただでさえ暑い中走り回って喉が渇いている。さっき見たところ、この島に水源らしきものは見当たらなかった。何もかもが梓の手の中にあるということか。
「簡単なことですよぉ。その線を消しちゃえばいいんですから。梓は先輩が欲しい。先輩はご飯が欲しい。利害は一致しますよね」
いや意味がわからん。でも水だけはどうあっても欲しい。命と水との天秤かよ。
「あれ? 人……か?」
俺は唖然として梓の後ろを指差して言った。もちろん、こんなちっちゃな無人島に人なんて俺ら以外にいはしない。我ながらなかなかの演技力である。
「え?」
まんまと振り返る梓。この隙に水だけでもっ。
「せーんぱいっ♪」
バッグに手をかけた刹那、梓にその腕を掴まれた。にーんと嬉しそうに満面の笑みを浮かべ俺を見下ろしていた。
「ここには人はおろか動物一匹生息していないのは調査済みです。いけない子ですねぇ、先輩。人を騙して食料を奪い取ろうなんてぇ。線、越えましたねぇ。うへへへ……」
怖い。なんていやらしい、いや、恐ろしい笑い方をする奴なんだ。女の子とは思えない力で俺の腕はがっちり固定されていた。危険。退避。避難。様々な救難信号が届く事のない誰かに向けて発信される。
「待てっ! 落ち着け梓! ここは共同戦線といこうじゃないか! 空腹という敵を倒すためにはお前の力が必要だ! 俺も微力ながら力添えをしよう!」
「うへへ。じゅるじゅる、つーかまーえたぁー」「聞けーっ!」
俺は力任せに押し倒されそうになる。このままでは俺の貞操が、いや、命が…………許せ、梓!
俺は流れに任せそのまま後ろに倒れ、梓の腹に足を当て、秘儀巴投げで梓を投げ飛ばした。
こうするしかなかったんだ、梓。すまん。
「うへへへ」
俺は見た。空中で笑いながら身を翻し、華麗に着地する梓を。
「お前何者!?」
「さぁ、観念してその身を梓に捧げて下さい。先輩」じゅるうり。
どこでタガが外れたのかわからない。この二人っきりっていう状況がここまで梓を変貌させてしまったのか? どうにも、逃げられそうに、ない。どうする。どうする?
梓は獣のように涎を垂らし一直線に俺に駆け寄り、そのままの勢いで俺を押し倒した。頭を打ち付けて一瞬の目眩。そして梓は勢いよく唇を押しつけようとする。それを首を捻ってかわした。せめて涎は拭いてくれ。そんなことを冷静に思う俺は、追い込まれた危機で、最も有効な言葉を呟いた。
「俺は……清楚でおとなしい梓が好きだな……」
「……っ!」
ぴたりと、梓の動きが止まった。こういった反応はわかり易い奴である。梓はゆっくりとその身を起こし、恥ずかしそうに背を向け、ワンピースについた砂を払い落とした。「ふう」と小さな溜息を吐き、麦わら帽子を取って結んでいたツインテールを解く。背中の中程まであるウェーブのロングヘアーが大人っぽさを演出する。そして梓はゆっくりと振り返り、
「先輩ったらもう、乱暴なんだから」
親指を口に当て、艶っぽい瞳で照れながら言った。鼻の頭に砂がついて間抜けに見えたことは黙っておこう。ツッコミたいところはいくらでもあったのだが、つまるところ、俺は勝ったのだ。猛攻に耐えきった自分に勝利のファンファーレを贈ってやりたい。ついでにもう一言。
「家庭的な人も結構好きだな。料理って、愛情が籠もるほどおいしくなるって、ほんとかな? 梓の愛情たっぷりの料理って、きっとうまいんだろうなぁ」
梓をチラ見すると、ぷるぷると肩を震わせていた。
「どっせーい! 任せてくだしゃい!」
作り上げた清楚さは一瞬でなくなり、瞳に炎をたぎらせて梓は叫んだ。舌舐めずりはやめろ。俺を料理するんじゃないんだからな。
梓の髪型がまた変わった。料理し易いようにか、後ろで一つに結んでポニーテールを作り上げた。
「勝負服に着替えます!」
勝負服?
ごそごそと、鞄の中をまさぐり取り出したのは、ハート柄が異様に散りばめられているエプロン。まぁ、当然の装備かな、と思って見ていれば、突然ワンピースを脱ぎ出す梓。一張羅を脱ぎ捨てた梓は純白の下着姿を太陽の下にさらす。
まさかとは思うが、エプロンと言えば、
「その通りっ! 新婚生活の定番、裸エプロンですぅ! 悶えて下さい! 梓を見てハァハァして下さい!」
心を読むな! 女の子が自分からそういうこと言うな!
「お前の裸エプロンなんて見ても興奮しない」
「がーん……」
本気でショックを受けているらしく、少し悪い気がした。
「ま、まぁエプロン姿はありだな。でも、服は着てる方がいい」
「そうですか……」
残念そうに、脱ぎ捨てたワンピースを着直す。そんなに落ち込まんでもよかろうに。もっと恥じらいを持てよ。
梓は勢いをなくし、いそいそと料理の準備を始めた。
何を作るのか期待してしばらく眺めていると、バッグから取り出したのは大きめの鍋とカセットコンロ。鍋に水を入れ、コンロに火を点けお湯を沸かし始めた。お湯が沸騰して次に取り出したのは、明らかにレトルトカレーとレトルトご飯三個パック。それを湯煎にかけ、待つこと十分。
「できましたぁっ!」
「うわーい……」
待ち焦がれたご飯だー。乾いた拍手を贈ると、梓は恥ずかしそうに「えへへ」と笑う。本当に褒められたと思っているのか。何が花嫁修業はバッチリだ。お湯の沸かし方を教えてもらうのが花嫁修業なら世の中の女性は小学生でそれをクリアーしている。
「っていうか何だよこれ! 俺すっごく期待してたんだぞ! 返せ! 俺の期待を返せ! 大体食材なんて他にもいろいろ入ってたじゃないか!」
「あんなの、ただの雰囲気ですよ。さ、食べましょう。一流ホテルの熟成カレーですから、おいしいことは間違いありません」えっへん!
梓は誇らしげに言う。残念だ。まったく残念だ。
だけど、カレーはおいしかった。
昼食を済ませ、夕食には何の期待も抱かないまま、やたら豪華なティーセットでお茶を満喫していた。その辺にこだわる辺りは梓もお嬢様ということなんかね。
「ティータイムはいいですけど、このあと暇ですねぇ」
お前が連れて来たんだろうが。
「海でも眺めてようぜ、海。それが目的だったんだし」
「誰の?」
「いいよもう……」
なーんにもない島なのに、俺の心が落ち着くことなんてないのかなぁ。そんなことを思っていると、白い鳥が優雅に空を舞う姿が見えた。あんなふうに飛べたら、一人で帰れるのに。何もかもから解き放たれる開放感、あははー。
「先輩、遠い目してますよ。そんなに梓との将来が楽しみなんですか?」
「ある意味、楽しみだ」お前から離れられるその時が。
いつでもどこでもこいつは俺の隣にいる。それが当たり前になっているこの今から、ほんとにこいつがいなくなってしまえば俺はどうするんだろう。梓の顔を見つめると、「えへへ」と笑ってあどけなさを二割増しする。もしお前が金持ちじゃなかったら、俺たちの関係ってどうなってたんだろうな。もしかしたら恋人になっていたのかもしれない。でも今の梓は、やっぱり金持ちの梓で、こいつの性格だってそれがあるからこうなったもんだろうし。
「はぁ……」
俺が溜息を吐くと、訝しげな表情で俺の顔を覗き込んでくる。もし、万が一、いや、億が一、あの父親に認めてもらうことがあったとすれば、俺は梓と恋人になるんだろうか。そんなありえないことを頭に思い浮かべれば、疑問が一つ浮かんでくる。どうして俺が梓の恋人にならなきゃいかんのか。梓のことを好きでもないんだから。
「泳がないんですかー? ほら、水着もあるんですよー?」
荷物から取り出した水着をひらひらと俺の眼前で披露する。水色のビキニだった。美少女と水着。このセットが目の前に転がっていいるのだから、男子高校生としては胸をトキメかせるはずなんだけどな。やはり俺にとっては地雷になる。少しは恥じらいを持ってくれれば、俺だって多少危険を冒してでも拝みたいなんて思うかもしれないのに。あれだ、色気がない。それにさっき下着姿まで見たし。
「日に焼けるぞ。やめとけ」
「オイル塗ってくれます?」
「塗らないからやめとけ」
「ぶぅ……」
不満気な梓を一瞥して、俺は白い砂浜に腰を下ろした。少しだけ落ち着いて見れば、素晴らしく綺麗な場所である。波の音が心地よく、目を閉じて耳を澄ませば、波の中にいるような気分にもなれた。それを邪魔するように、梓がずしゃずしゃと砂浜を踏み荒らして俺の隣に乱暴に腰を据える。不満そうなままだったが、俺は気にせず後ろに手をついて体重を支えた。梓も真似して、結果二人で海を眺める形になる。
文句言うなよ? 当初の目的だ。平和なゆっくりとした時を満喫しようじゃないか。
誰もいない浜辺で肩を並べて海を見つめる。その時二人に言葉はいらない。ただ風の音と波の音だけが囁き、時折香る潮の匂いが自然と顔をほころばせる。そして、二人はそっと、
「キスをした」「だからしねぇって」俺の脳内に語りかけるな。
「ファーストキスは大事にとっておけ」
「梓はもうファーストキスは済ませてますよ?」
きょとんとして、当たり前のように言ってきた。こいつ、ちゃんとそんな相手がいたんじゃないか。どうしてこうなっちまったかなぁ。何度こういうことを思ったか。でも、心がちょっとズキッと青春の痛みを感じたのは秘密だ。
「先輩が寝てる間に。何度も唇を重ねました」
「返せ! 俺の初めてを返せ!」
「じゃあ、今から。んー……」
「しねぇっつーの!」
怖ぇ、怖ぇよこいつ。部屋の鍵は二重にかけておかないと。なんならソコムにでも頼もうか。いや、企業なら買収されかねない。警報装置でも取り付けるか?
「大体なぁ、不法侵入だぞ。いくら神宮寺家でも警察ざただからな」
「梓はいつもきちんとあゆみちゃんの許可は取ってますよ? キスだって」
あゆみー、キスの意味わかってて許してるのかー? お兄ちゃんは大変なんだぞー。
「ちなみに先輩の部屋の合鍵も作ってます」じゃらん。
「よこせ」
俺が手を出すことをわかっていたかのように、梓は鍵を素早く引っこめた。鍵は紐を通していてネックレスのようになっていた。梓はまた含み笑いで俺を見据える。「梓の宝物ですから」そう言って鍵を首にかけ、鍵はちょうど胸元に収まった。「どうぞ」と胸を突き出してくる梓。何がどうぞか知らないけど、俺は首元の紐を掴んで一気に鍵を奪い取った。
「ああーっ!」
「ふっ、まだまだだな梓」
俺はそいつを勢い良く遠投。鍵は海の藻屑となった。鍵もサンゴの仲間になれて本望だろう。
「まぁ、型番は記録してますからいくらでも複製できますけどね」やっすい宝物だな。
「その記録ごとよこしなさい」
梓は舌をべーっと出してにししと笑う。そんな笑い方をされると、怒る気も失せるのが困ったところだ。可愛く思ってしまうのも、気のせいじゃないだろう。「ったく、可愛くねぇな」そう思う度に、俺は梓から目を逸らす。
「小悪魔梓ちゃんですっ」
ああ、ほんとに、可愛くねぇ。
夕食もまたカレーだった。一応ビーフカレーがチキンカレーに変わって全く同じじゃなかったものの、やっぱり残念だった。
だんだんと日が落ちて来て、やっと方角がはっきりしてくる。日没は、それを『死』と象徴する文化もあるらしくて、そのことを考えると、まるで自分の命が消えていくような儚さを感じてしまう。明日になれば俺はどうなるのか。今のところ間違いは犯してないし、きっと、きっと大丈夫だ。うん、大丈夫!
「せーんぱいっ。一緒に夕陽を眺めましょ」
この島からは水平線に沈む夕陽が綺麗に見えた。きっと日の出も美しいものなんだろうなぁ。夕陽を眺めるのは、まぁ悪くない。風情に溢れている。辺り一面がオレンジ色に染まって、梓の茶色い髪は金色に輝いているようにも見えた。
「暗くなるまで、静かに眺めような」
空には待ちきれんと言わんばかりに己の存在を主張する一番星が一つ。梓はそれを見つけて指差し「一人ぼっちですよ」と呟く。「今は見えないだけで、そのうちみんな追いつくさ」なんて、ロマンチスト気取りか、俺。でもその通り。それほど時間も経たないうちに辺りは暗くなり、頭上には満天の星空が広がった。どれがどの星座かまるでわからないほどに、無数に散りばめられた光。さっき見た一番星も、もうどれだかわからなくなっていた。夜空を見上げれば、星の海に落ちて行くような錯覚に陥る。それほど深くて、綺麗な夜空だった。
梓もこればっかりは黙って夜空を見つめていた。街中ではまず見る事のできない星空。梓はいろんなとこに行ったことがあって、初めて見るわけでもないだろうに、それでもやはり心奪われるものがあるのだろう。
どれほど黙って夜空を眺めていたかわからない。決して見飽きないと思っていた夜空を眺めることに飽きてきた頃、俺の肩にこてん、と小さい頭が乗っかってきた。重心を熟知しているかのように、ぴったりと寄り添い体重を預け、安らかな寝息を立てる梓。こいつもなんだかんだで疲れてたんだろう。
「まったく、おとなしくしてれば可愛いのに」
良く聞く台詞だ。でもそれはこいつにこの上なく当てはまる言葉だろう。本当に、こいつの寝顔は思わず頬が緩んでしまうくらいに愛らしい。
「ぐへへ……せんぱーい、あんっ、激しい……むにゃ……」
「何の夢見てやがるんだ、ったく」
そんなことを言っていると、突然梓に押し倒された。不意打ちを喰らって、覆いかぶされる形になる。
「こ、こらっ、俺はっ……!」
「むにゃ~……えへへ……」
「なんだ、起きたんじゃないんだな」
寝ててもこれなら、さっきのことは撤回せにゃならんかな。
「大サービスだからな」
上に乗っかる梓を横に寝かせ直して、腕枕をする。柔らかい髪がくすぐったかった。
「この星空を見せてくれたお礼だ」
満天の星空の下、無人島に二人きりで、まるで、世界に俺たちしかいないような、そんな小さな世界だった。
翌朝、プロペラの轟音とすさまじい風によって目が覚めた。
聞いたところ、梓のお父様は海外出張中でこのことは耳に入っていないらしい。
安堵よりもやけに唇が腫れあがっていたのが気になったが、想像もしたくないので慣れない砂浜で寝たせいにした。照れながらも満足そうな梓に恐怖しか抱かない、また一つ、大事なものを失った気がした。