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ミステリートライアングルが起こす化学反応

 そんでもって、次の土曜日。

 学校はありがたい週休二日制で無人くんになり、グラウンドや旧校舎では朝からせっせと頭や体を動かす奴らが仲良く団体競技や個人戦の練習に勤しんでいた。そんな活動も午前中まで。

 梓を紹介するからと言って、千佳、倉敷さん、裕也にそれぞれ予定を確認して本日土曜日に約束を取り付けた。千佳と倉敷さんは朝から音楽活動に励むからと約束は午後からになった。

 梓も何かと準備がいるものと思っていたらしく、これまた高級レストランをたった五人のために一日貸切状態にしようとしたため、俺はそれを必死に止めた。梓はともかく一般人の俺らは高級レストランにぽつんといたらいたたまれないでしょ。

 それで、約束した場所はごく普通の学校から近いアーケードの中にあるファミレスだった。長時間居座るには便利なドリンクバーなるものがあるからな。それに梓にも庶民的な料理ってのを一度は口にしてもらいたい、なんて興味もあったから。

 ファミレスの中はさすがの休日で学生たちや家族連れで大いに賑わいを見せていた。ざわざわと民衆が騒がしい。

 禁煙席に案内される私服姿の男二名、私服の女一人、制服姿の女二人が見た目仲良しグループの匂いを醸し出しながらテーブル席に着いた。

 ソファーに俺とやたら派手な服装の梓が隣同士で座り、テーブルを挟んで向かって左から倉敷さん、千佳、裕也の順で並び、少々窮屈そうに腰を落ち着けた。そして少し離れた席には明らかにファミレスに似つかわしくない黒服サングラスのおっさんが一人、ドリンクバーを注文している姿が見えた。

 それもあってかなくてか、このテーブルには異様な空気が流れていた。おそらく最も心中穏やかではないのが俺だ。頼んで来てもらった三人ゆえ、こちらが下手なことはできないし取りまとめねばならんという責務を感じている。当然っちゃ当然なんだけど。

 梓は毅然とした態度で座っており、いつものように無駄なきらきら笑顔は見せていない。何となく余裕すら感じさせる微笑を浮かべている。倉敷さんは相変わらずの柔和な笑みを浮かべつつも物珍しそうに梓をチラチラと見て、千佳は少し緊張しているのか小刻みに震えているようにも見える。裕也は梓の知り合いの情報でも書き込むつもりなのかマル秘ノートとペンを持参していた。

 梓は大金持ちでもあるし、奇行を行う女子高生でもある。そんな奴を目の前にして普通にしていられる方がおかしいのかもしれない。

 ここは、やっぱり俺が切り出すしかないんだろうなぁ。

「と、とりあえず自己紹介はあとにして、みんな飯まだだろ? 先に注文しちまおうぜ」

 俺はお見合いの幹事でもしている気分でメニューを二つ取り、それぞれのソファーに向かい広げた。三人は曖昧な返事をして千佳がめくるメニューを眺めていく。梓はメニューには一瞥もくれず「先輩と同じもので」と何となく予想できていた言葉を発した。俺はまぁ無難にハンバーグ定食。梓もそれ。倉敷さんはミートスパを、千佳はカルボナーラ、裕也はからあげ定食とごく平凡な食事メニュー+ドリンクバー五人分を店員のおねーさんに伝えた。

 そしておねーさんが去ったあとに訪れたひと時の間。誰も何も口を開くことはなくカチカチと体内時計の秒針の音が響く。

「とりあえず飲み物取って来ようか」

 とりあえず続きだがこれも仕方ない。平然と座っているのは梓だけで、俺も含めて他の四人はよそよそしさ臨界点だ。梓はまたもや「先輩と同じもので」と言い、俺と向かいの三人が席を立つ。全員が安堵の表情を浮かべているのは気のせいじゃないだろう。

 グラスを二つ取って氷を二つずつ放り入れる。梓の奴はレストランではいつも水ばっかだったから、ここは食事もあることだしウーロン茶で構わないだろ。

 そう思いつつお茶を注ぎ込んでいると、千佳が不安げに小声で話しかけてきた。

「ね、ねぇ真。ものすごく帰りたいんだけど」

 これには何も言えない。俺ですらいたたまれない気持ちになっているのだからなおさらだろう。「ま、まぁ待てよ。飯も来るし」と延命処置を施す。倉敷さんも千佳で俺を挟むように身を寄せてきて「君が呼んだんだから君がしっかりしてくれないと」と願いか非難を囁かれる。両手に花なんて思えない。裕也は俺の尻を膝で小突き「女の子紹介してくれないと割に合わない」とぼやいてきた。そんな三人に愛想笑いで返事をして一足先にテーブルに戻る。みんなは何を飲もうか迷っているふりをして時間稼ぎだ。

「梓、お茶でよかったか?」

「構いませんよ」

 俺と二人になったからか、ようやく梓からいつもの笑みが零れる。俺も少し安心して自然に頬が緩んだように思えた。しかし、自分で招いた事態とはいえ、早々にどうにかしなければ食事も喉を通らなさそうだ。さっきまで疼いていた腹の虫も遠慮して駄々をこねるのを止めていた。

「ど、どうだ? こんなところ、来たの初めてなんじゃないか?」

 梓は周りを見渡して上品な笑みを浮かべる。

「そうですね。パーティーとは違った賑やかさがあります。少し窮屈ですけどね」

 あはは、俺は愛想笑いで返す。梓も居心地が良いとは言えなさそうだ。

「まぁ、せっかくだからな。庶民の日常ってのを味わってみろよ」

「はい。先輩と一緒なら梓はどこでもいいですから」

 眩しい笑顔に俺は苦笑を浮かべる。そんなことを言われると申し訳ないと思ってしまうのが正直なところ。本来ならこんなとこで食事するような奴じゃないし。俺なんかに惚れちまったおかげでこいつ自身も結構我慢しているところがあるんじゃないかって思う。

 梓のいいところっていうのは変に金持ちっぽく振る舞わないところかな。なんかさ、いいとこのお嬢様はこんなところの飯なんて食べられるわけがないって飛び出して行きそう、なんて勝手な先入観かもしれないけど、そうしないのがいい、のかなと思う。その気になれば俺を監禁でも何でもして本当にペットのように扱うことだってできるかもしれないのに。まぁ、俺に近付くためなら何でもやりそうな気がするけどな。昇級してきたし、山下くんには金を握らせたし…………やっぱりこいつは存分に己の力を奮っている。

 一度陥った自己嫌悪を否定に至ったところで三人が戻って来た。三人とも違う色の飲み物を持ってきている。カラフル。特に倉敷さんの前には虹色に層分けされたドリンクが置かれていた。どうやら本気で何を飲もうか悩んでいたようですな。欲張りさんだネ。

 でもここは倉敷さんに助けられたみたいだ。

「うわぁっ。何ですかその飲み物? 梓初めて見ましたぁ!」

 レインボードリンクに目を輝かせる梓。さすがのお嬢様もドリンクバーで起こりえる奇跡か災厄を招くみっくすじゅーすを目にするのは初めてだったようだ。

 倉敷さんは目を細めて「ほう」と意外そうに漏らし、うっすら笑いながら「飲んでみるかい?」とレインボードリンクを梓の前に差し出した。

 興味を惹かれた梓は喜々として俺に目で訴え、俺は内心どうにでもなれと思いながら顎で「飲めよ」と促す。正直、俺は飲みたくない。明らかに奇跡ではなく災厄の色だ。

 梓は恐れも知らずそれを一口流し込んだ。そして、

「ぶぉほっ!?」

 盛大に噎せた。

 涙目になりながら口を拭い、首をふるふると小刻みに振りながら倉敷さんにドリンクをお返し。倉敷さん以外は冷や汗混じりにうっすら笑みを浮かべているが何を言ったらいいのかわからないといった神妙な面持ちでその様子を眺めていた。俺も含めて。

「こ、こんなものをみなさん好んで飲んでいるのですか!?」

 梓は思い切り顔をしかめて言う。どうやら奇跡は起こらなかったらしい。まぁどう見てもまずそうだったしな。

「どうだった?」

 一応感想を求めてみた。

「こう、何て言うか、甘いのと……苦いのと……辛いのと……酸っぱいのがシュワッていうのと波打つように次々と、押し寄せては引いて……意識まで流されそうでした」

 いかにも恐ろしいものでも見たかのように肩を両手で抱え顔を恐怖に引きつらせながら言う。

 何となく今のから想像してみたら夜の浜辺で波に打たれ立ち尽くす姿が見えた。ちなみに梓が盛大に噎せた時、奥の席で黒づくめのおっさんが席を立ち上がる姿が見えた。こちらの様子を確認するとまた席に着いた。内心焦ったのは内緒だ。

「あっはっはっ。どうやらこれは失敗だったみたいだね」

 倉敷さんは快活に笑って特に悪びれた様子もなく言った。まぁ、梓が飲みたそうだったしな。それを倉敷さんは好意で譲ってくれたわけで、梓の自業自得。しかし大体どういうもんかは想像できただろうに。

「よかったら新しいのを作ってきてあげようか? 三度目の正直って言うからね」

 どうやら次も失敗前提で作るらしい。梓は口にハンカチを当てたまま首を横に振って断った。俺の顔に当たるツインテールの片割れがこそばゆい。

「そうかい、残念だな。ところで、私は2-Cの倉敷みちるっていうんだ。以後、よろしく頼むよ。一応同級生になるんだし」

 倉敷さんは柔和な笑顔に戻し、紳士的に一礼して自己紹介を終えた。唐突な行動に全員が唖然とする。

「次は誰だい?」

 倉敷さんはそう言いつつも千佳の顔を覗き見る。何か、独特なペースを持った人だな、この人。

 千佳は自分が持ってきた、おそらくはオレンジジュースを一気に飲み干して勢い任せで言った。

「わ、私は笹野千佳! 梓ちゃんとこうやって話すのは初めてだけど、私、真の幼馴染! 知ってるかもしれないけど、私っ、真の幼馴染!」

 テンパり過ぎだ。やれやれ。続いて裕也が親指を立てて自分を指しながら口を開く。

「僕は高橋裕也。僕も真の幼馴染と言っていいかもしれないな。ある意味学校で有名なんだ。僕のことが知りたかったらその辺で話している女子の話題に耳を傾けてくれ。きっと……わかるから……」

 最初は勢い良かったのに自虐的な自己紹介しつつ以下どうでもいい。

 もちろんこれは全て梓に向けられたもので、俺は梓にもやれよと肘でちょんちょん小突く。

「あ、梓は神宮寺梓っていいます。えっと、倉敷先輩に千佳先輩に、変態さんですね。よろしくお願いします」

 と上品に首を傾けながら自己紹介を済ませた。

 なんだ、梓だって普通に挨拶できたりするんじゃないか。ちょっと安心した。裕也を変態と呼んだのは学校内の情報を知っているという点でむしろ褒められるべきことだろう。裕也がうなだれているのはほっといて。

「そして、ご存知かと思いますが梓は真先輩のフィアンセです」

 梓は付け足すように俺の腕を絡め捕りながら言った。言うまではまだいい。千佳が何か頬をぴくつかせているがまぁいいよ。それくらいはな。だけどね、知った顔の前で腕組みなんてされると俺にも麻痺しかけている羞恥心というものが顔を出すわけですよ。

「あ、梓。みんなの前だからな、今日はそういうことやめようぜ?」

「えーっ、先輩とこんなとこに来るの初めてなのに。もっとみんなに梓と先輩の仲を見てもらいましょうよぉ」

 なんだ? いつもべたべたしてくるのはわざとか? わざとなのか? お前はいいかもしれないが俺は困るんだよ。ほら、見てみろよ周りの男の目、おばちゃんたちのやーねぇっていう目、バカップル退散みたいな目。ここに来づらくなるだろうが。

「あ、梓ちゃん、真が困ってるみたいだからやめてあげなよ」

 千佳が顔を引きつらせて梓を窘める。こめかみに青筋が浮かんでいるのはきっと目の錯覚だ。

「真先輩、困ってるんですか?」

 困ってるんですよ。しかし見つめる潤んだ瞳が俺に危険信号を送る。父親の警告、泣かせたらって、こんな些細なことでも泣かせたうちに入るのだろうか。そうじゃないとしても、危ない橋は渡れません。

「ここはな、ほら、なんだ、あとでな」

 適当な理由もみつからないまま梓の腕を振り解く。梓は「ぶぅっ」とわざとらしく脹れっ面になり恨めしそうに俺を見る。よしよし、頭を撫でると、とろんと目が溶けて梓猫参上。ごろにゃ~んと言ってみろ。怪面百面相が垣間見える。

 ふと気が付けばシラケた瞳が六つで三人分、こちらをジト目で見ていた。

「なんだ、案外お似合いじゃないか。ねえ?」

 倉敷さんがにやけつつ二人に同意を求める。

「まったくだ」

 嘆息する裕也。

「……………………」

 千佳は何も言わず、鋭い眼光を俺に浴びせる。

 俺は慌てて手を止めて「そんなことないよ」と否定。すかさず梓が「そうでしょう?」と話しがややこしくなるからやめてくれ。

 その時に思っていたより早く料理が運ばれてきた。ナイスタイミング。忙しそうなのに、手際の良い仕事っぷりに感謝感謝。みんなの料理が出揃ったところでそれぞれ『いただきます』を口にして昼食を取り始めた。

 不調和な空気が一旦途絶え、それぞれ料理を口に運ぶ。

 ここで俺の興味は梓に向いた。舌の肥えたお嬢様はファミレスの庶民的な料理を食べてどんな反応を見せるのか。女の子の食べるところをじっと見るのは失礼だけど、興味の方が先行する。

 梓はハンバーグに丁寧にナイフを入れ、分裂したちっこい方を愛らしい口に放り込んだ。その瞬間に顔をしかめる。やっぱり口に合わなかったか?

「ど、どうだ?」

 恐る恐る聞いてみる。

「え、ええ、まぁ。これはこれで、しっかりとした食べ応えのあるハンバーグですね。味もしっかりしてて、顎が鍛えられていいと思います」

 褒めているのかけなしているのか。しかし笑顔を引きつらせ、必死に口を動かし明らかに我慢して食べているのが窺える。

「む、無理して食べなくてもいいんだぞ?」

「いいえ、無理なんてしてません。先輩はこういうのが好きなんですよね。なら、梓も好きになります」

 好きになりますって、やっぱり無理してるんじゃないか。そして梓は勢い良くハンバーグを食べ始めた。一生懸命と言った方が正しいのか、嫌いなものを無理矢理胃の中に押し込むような、そんな感じだった。周りには目もくれず、ソースを口の周りにつけ、お茶で流し込むように。

 俺は何も言えずにその様子を見ていた。他の三人も呆気に取られ、手を止めて梓の様子を眺めていた。三人に梓の食べる様がどう見えていたのかはわからない。よっぽどお腹が空いていたのか、食い意地が張っているお嬢様なのか、少なくとも俺が感じていたのはそんなことじゃない。何て言うか、言いたくないけど、可愛いなって思ってしまった。梓にとっては意地かもしれないし、プライドかもしれないけど、一生懸命食べる姿が思わず応援したくなるような健気な女の子に見えたから。そして少しだけ、心が痛んだことを覚えている。

 梓がハンバーグを全て平らげ、俺が空になった梓のグラスにお茶を足しに行こうとすると、予想外なことが起きた。

「ほら、梓ちゃん口拭いて」

 千佳がわざわざ自分のハンカチを使って梓の口を拭い始めた。備え付けのナプキンがあるのに、もしかしてこれは千佳なりの友好表現なんだろうか。

「神宮寺さん、お茶でいいんだよな」

 裕也までが立ち上がりお茶を取りに行こうとする。

「ははっ、まるで子供じゃないか」

 倉敷さんは温かい笑みを浮かべて口を拭かれている梓を見ていた。

「む、むぐっ……ひがっ……」

 梓は何やら否定しようとしているみたいだが、千佳が「はいはい」と言いながらハンカチを押しつけるので顔を真っ赤にするだけで反論できず、恨めしそうに千佳を見る。

 学年は一緒だけど梓が一応の後輩になるので、二人が姉妹のように見えて微笑ましく思う。『はいはい、もう、子供なんだから』『や、やめてよお姉ちゃん。恥ずかしい』妄想ついでににやにや。

「な、何笑ってるんですか先輩っ!」耳まで真っ赤だ。

「お姉ちゃんにお礼しろよ?」

 梓は少し躊躇して、そっぽを向いて恥ずかしそうに「ありがとうございます」と千佳にちょこんと頭を下げた。千佳はやれやれと笑って両手にフォークとスプーンを持ち直す。裕也が戻ってきて梓にお茶を渡すと、また恥ずかしそうにお礼をした。ついでに倉敷さんにも礼をした。倉敷さんは「これはご丁寧に」とお辞儀。

 それから梓以外は食事に戻り、しばらく梓は俯いていたが暇になってきたのかきょろきょろと首と目の食後の運動に励んでいた。最初の落ちつきがなくなってきて、だんだんといつもの梓に戻りつつあるようだった。

 それぞれが食事を終えて、さてこれからが本番だ。五人分の食器が並べてあるのも邪魔なので店員さんに下げてもらう。

「梓、コーヒーでいいか?」

「あっ、梓も行きます」

 三人にも飲み物を促すと苦笑混じりで首を振った。梓と二人でドリンクバーに向かう。黒服のおっさんが慌てて席を立って、俺たちがドリンクバーに向かうのを確認したあとまた腰を落ち着けた。斎藤さん、あんたも大変だね。

 俺はホットコーヒーをカップに注ぐ。ブラックに砂糖半分。これがここのコーヒーのベストなバランス。梓は初めて見るドリンクバーに目移りしているようだ。

「すごいですね。ボタンを押せば飲みたいものが出てくるんですか? 梓の部屋にも一台置こうかな」

 その発想が簡単に出て来るのがお前らしいよ。飲み物くらいお前の家ならメイドつきでやってくるんじゃないの?

 梓はおもむろにグラスを二つ取った。一つにアイスティーを注ぎ、もう一つのグラスを持ったまま頭を悩ませている。そしてそのグラスにアイスコーヒーを注ぎ、コーラを足し、アイスティーを足し、ウーロン茶を足し、最後にカルピスを足して石灰水が完成した。梓はそれの匂いを嗅いで顔をしかめつつ、妖艶な笑みを浮かべながらグラスを二つ持って一緒に席に戻った。

「倉敷先輩、さっきのお礼です。梓が気持ちを込めてブレンドしたので一気に飲んじゃって下さいね」

 倉敷さんは目の前に突き出された石灰水を見ても動じることはなく、

「ほーう、お嬢様に作ってもらったドリンクなんて格別なんだろうね。ところで、味見はしたのかい?」

「えっ、あ、味見はしてないですけど、梓が作ったんだから間違いないですよ。これでもソムリエの資格持ってるんですから!」

 小ぶりな胸を張る梓。思いっきり未成年じゃんお前。見た目で味がわかるもんじゃないだろうしそもそも関係ないし。

「じゃあ仮にこれがおいしくなかったらソムリエのプライドもズタズタだろうね」

 あからさまな嘘に乗っかる倉敷さん。面白がってるんだろうなぁ。「試しに飲んでみておくれよ。感想を聞いてからでも遅くはないよね」どうぞ、手の平で石灰水を梓に押し返す。

「い、いいいいですよ。じゃあ……」

 顔面蒼白だぞ梓。ソムリエだろうとなかろうとなんとなく苦酸っぱな味が予想できるんだけど。

 梓は一気に飲んだ。流し込んだ。が、それは口の中まででグラスの三分の一も減っていない。それから口いっぱいに劇薬を含んだまま涙目で俺に助けを求める。はいはい、おトイレ行きましょうね。そう言う間もなく「ぶへぇ……」とそのままグラスにリリースしやがった。我慢できなかったらしい。お嬢様なんだよお前、一応。「くふぅ……」ぐったりと、自ら特製ドリンクの威力を倉敷さんへ見せつける。

「おいしかったかい?」

 倉敷さんも意地が悪い。あんたも味見してなかっただろうに。どうして千佳と仲が良いのか不思議だよ。倉敷さんに目をやると、にんまり笑って返される。それがどうにも心を見透かされていそうで気味が悪い。

「お、おいしかったですよ?」

 お前もどうして意地を張る。涙目で吐き出されたものを見ると説得力皆無だよ。

「吐き出したのに?」

「あ、あまりに美味で」

「ならどうだい、もう一杯」

「ごめんなさい、おいしくなかったです」

 おお、あの梓が謝った。倉敷さん強し。

「うう~、真先輩、梓汚されちゃいましたぁ」

「自業自得だ」

 しかしながら俺は新鮮な気持ちだった。梓が俺以外への悪戯心が働いたこと。これって、梓がこの状況を少しでも楽しんでいるんじゃないかって、そう思う。

 梓はアイスティーで口直し。俺もコーヒーを一口すする。こんな感じではあるが、場が和んだ気がするのは俺だけだろうか。

「梓ちゃんって、意外と普通の子なんだね」

 千佳がくすくす笑って言う。それに頷く両脇二人。よかったな梓。普通に見られることが良いことか悪いことか、ここでは三人との距離が縮まったことで良いことと言えるよな。梓と三人の間にあった壁も、今は透明で薄っぺらいアクリル板くらいだ。まだまだ友達と呼べるものじゃないにしろ、とりあえずは知り合えた。それだけでも今日は万々歳だ。

「梓は普通ですよね?」

 きょとんとして聞いてくる。まぁ目の前の三人よりこいつの突拍子のないところを知っているわけで、素直に頷けない。俺のベッドに忍び込んだり、いつ取ったのか俺のTシャツを着て家に来たり、最近では教室に鏡を置いたり昇級してきたり、校内唯一の茶髪だし。そんなことを普通と思っているならお前は普通じゃないよな。

「どうだろうな」返事を濁す。そもそも普通の感じ方が俺たちと梓とじゃ違うだろうけど、黒服のおっさんが警護してるだけで普通じゃない。どうして普通の奴に惚れちまったんだよ、なぁ。

「神宮寺さん、一つ聞いていいかな?」

 裕也がにわかに話しを切り出してきた。

「? いいですよ? 真先輩のどこが好き、とかですか?」

 俺は思わず耳が反応してしまう。そういえば、そんなことは一度も聞いたことなかった。ただ一度助けたくらいでこんなに惚れ込むことができるのだろうか。

 裕也は持ってきたペンを片手にマル秘ノートを広げ、メガネをくいっと上げ真剣な表情を作り上げた。

「スリーサイズは?」

「お前は何を聞く変態がっ!」

 どんな経緯でそんな話しに行きつくのか。俺の淡い期待を返せ。

「えっとー、上から78、54、80です」

 そして何故平然と答えられる? 裕也、お前も当たり前のように書き込むんじゃなぇよ。俺だって知らなかったんだぞ。少し悔しいだろうが。

「ちなみに今のはあゆみちゃんのスリーサイズです」

 あゆみ、俺の妹。

「お前はっ、なんで俺の妹のスリーサイズを知ってんだよ! しかもそれを教えるんじゃねぇ!」

 梓の頬をつねりながら俺は言う。

「いひゃひゃひゃ。れも、あふはふぉおなひふひーふぁいふなんれふよ」

「あーん?」手を離す。

「梓も、同じスリーサイズなんですよぉ」

 頬をさすりながら涙目で訴えた。妹と同じって、想像しちまうじゃねぇか。

「知ってるでしょ?」

「知らねぇよ」頭をゴツン。「暴力反対。DVです」「家庭内ならな」「えっ?」「家族じゃねぇよ。不思議そうな顔すんな」「遅かれ早かれ」「ならねぇよ」

「あっはっは。君たちはほんとにいいコンビだ」

 倉敷さんが口だけで抑揚なく笑う。カップルと呼ばれなかっただけよしとしよう。

「むぅ……」少し悔しそうに口を尖らせる千佳。それを見ていた俺の視線に気が付いて栗色の柔らかい髪を忙しなく撫で、頬を染めて照れ隠しをするように「ゆ、裕也、私のスリーサイズは?」何を聞いてるんだ千佳。「上から84、57、85」「ごめん、手が滑ったぁ」千佳は残っていた石灰水を裕也のマル秘ノートにぶっかけた。「あーっ! なんてことする千佳!」「知ってんじゃないわよ変態」千佳は憤慨を表すように濡れたおしぼりを使ってインクをぼかしていく。もうそのノートは使えそうにないな。あゆみの秘密も守られた。

 そんなこいつらのやり取りを見て懐かしさを感じ自然に笑みが零れてしまう。

「そんな顔……するんですね]

 梓が何かを呟いた。けど、俺は断片的にしか聞きとることができなかった。

「どうした?」

「いいえ、何でも」

 少し寂しそうに笑う梓を見て、僅かながらもどかしさが見え隠れした。

「ところで、ペットの真くんやい」

「倉敷さん、梓が頭に乗るから」

「ははは、今日はこのあとの予定は考えているのかい?」

 また抑揚なく笑い、そんなことを聞いてくる。この後の予定、そんなことは全く考えてなかった。梓を紹介するのが目的だったし。それもほぼ達成できたと言ってもいい。で、当初の予定通りこのままここで過ごすのか否か、と考えてみれば少しもったいない気もする。これは梓のことは関係なく、俺自身が千佳や裕也とこうやって過ごすことが久しぶりなわけであって、せっかくなので話すだけじゃなく遊びたいって思うのが正直な気持ちだ。

「みんなでどっか行く?」

「どこに行くんだい?」

 うーん、やっぱり俺が決めないといけないのかな。まぁ、主催だしな。どこに行くってもなぁ、この近くじゃカラオケ……は少しハードルが高い気がする。梓が俺らと同じ曲聞いてるとは思えないし。たしか、ボウリング場があったっけ。体を動かす中での触れ合いもあるかもしれないし、やることは単純。スコアの付け方さえわかれば梓だってできるだろ。

「ボウリングでも行く?」

「いいね」「いいよ」「いいぞ」

 倉敷さん、千佳、裕也は了解する。梓に目配せすると、

「ボウリングってピンをボールで倒すやつですよね。梓、やったことないけどできるかなぁ」

 決まりだな。さて、次の予定が決まったところで善は急げと行きますか。

 ここでの支払いは俺。梓は現金を持ち歩かないし、感謝の意味もあり三人の分は奢り。多少手痛い出費ではあるものの、今日の成果からすれば安いものだ。梓のために自分の金を使うのも実は初めてだったりする。「梓があとで払います」と言っていたが、ここは男を立てさせてくれと丁重にお断りした。



 そして、今現在――

「な、なんでなんでっ、梓のボールはガーターばっかりなんですか!」

「ぬっふっふー。まだまだ甘いよ、梓ちゃん」

 俺は梓と千佳のボウリング勝負をただ座って見守っていた。五人なのでレーンを二つ借りたんだけど、何故かどういうことからか二人の勝負が始まってしまい、俺と倉敷さんはその様子を見守るべく腰を落ち着かせていた。ちなみに裕也は空いているレーンで一人ひたすらに投げ続けている。いろんなフォームでどれが女性ウケするか考案中らしい。

「今度こそ! ……うあーっ! まただぁ!」

「だからね、教えてあげるから」

「敵の情けはいりません!」

 敵って。まぁそもそも言いだしっぺは梓だった。初めっから何やら千佳に対抗意識を抱いていたらしい梓は俺に投げ方を教わりつつも、隣で次々に千佳がピンをなぎ倒していく姿を見て「勝負です!」といきなり宣戦布告をしやがった。千佳も断る理由がなかったのかすんなりそれを受け入れた。一ゲーム終わって当然ながら千佳の圧勝。それから梓に火がつき再戦。で、その途中だけど、結果は目に見えてわかる。

 二人の様子を微笑ましく思いながら形だけでも「梓頑張れー」と梓を応援。その俺の声も聞こえないほど、梓はボウリングに熱中していた。反対側の奥のレーンではいかついおっさんが一人で淡々とストライクを連発する姿が見える。注目されてますよー、斎藤さん。

「ご主人様のお世話も大変だね」

 同じく二人を眺める倉敷さんが長い黒髪を翻して聞いてくる。

「今日見ていたところでは?」

「そうだね、世話焼き女房ってとこかな」含み笑いで答える倉敷さん。

「うわー、ランクアップで性転換だー」

「手術代が安いところ紹介しようか?」

「そんな情報いりません」っていうか知ってんの?

 くっくく、鼻をくすぶらせて倉敷さんは笑う。「じゃあ将来は主夫だね」「そんな倉敷さんは主婦だろうね」「ありがとう」「お礼なら女の子として産んでくれたお母さんに」あっ、梓またガーターだ。「ふふ、君は愉快だね。聞いていた印象とはだいぶ違うよ」千佳の奴、何を言ってたんだか。

「ところで」

 倉敷さんはニヤケ顔をやめてニヒルな笑みを浮かべ言った。

「その命、神宮寺家が、握ってる?」

「五七五?」

 倉敷さんが目を丸くさせる。そんなに驚かなくても、明らかに区切ってたから気がつくよ。

「気がつかなかったよ」

「はいはい、鈍感ですね」

 倉敷さんは不思議な人だ。俺にとってもまだまだ顔見知りの領域を出ない倉敷さんはある意味魅力的と言っていい。それは女子としてではなく、あくまでも不思議な人物という点で。掴みどころのない口調で、その奥に何を考えているのか全くわからない。もしかして千佳との友情も作り物なんじゃないかって、そんな懸念が浮かんでくるほどに、ふわふわとした、奇妙な存在である。

「千佳から聞いたの?」

「それしかないよね」にんまり笑って答える。

「ならおおむね聞いた通りで間違いないと思うよ。隠すつもりはないけど、梓にだけは知られたくないから、あんまり好ましい話題じゃないな」梓に知られるといいように利用されかねないからな。

「それは失敬。以後気をつけるよ。それで、君は神宮寺さんのどこが好きなんだい?」

 俺は一種の衝撃を受けたように目の前がチカチカと一瞬気が遠くなる。またガーターになった梓を一瞥して、倉敷さんに目を戻す。「ん?」とこちらの顔色を窺い、倉敷さんの長い髪がはらりと落ちる。

「どこをどう見てそう思うの? 千佳から何て聞いてるの?」

「君が、神宮寺さんに追いかけ回されて大変だーって聞いてるよ。だけど振ってもダメ、受け入れてしまっても、どちらにしろ彼女の父親が怖いんだろう?」

 ニヤニヤと、心地悪いからやめて欲しい。その視線から逃れるべく、「そう」と一言で答えて二人のボウリング勝負に視線を固定する。もうすぐで二ゲーム目も終わりそうだった。梓の悔しがる姿を見て、少しばかりの嬉しさと寂しさが押し寄せる。何を感慨深く思っているんだか。

「巣立つヒナを見守る親鳥の気分かな?」

 さっきの答えは諦めたのか、問いを新たに聞いてくる。

「根本的なものが違うよ」

 おや? 考えるふうに首をひねる倉敷さん。

 親鳥とか、俺は梓の保護者じゃないんだ。友達作って少しでも俺から離れてくれればいいと思ってるだけ。だけど「むしろせいせいするよ」と強気な発言ができないのも困ったところではある。隣の開放感と隣の虚無感、物理的には似てるけど、意味が全く違うもの。開放感を得てしまえば、虚無感も同時に感じてしまうことを、俺はどこかでわかっていた。わかりたくなくても、感じてしまうのだからどうしようもない。だけど先を見通せば、いずれは虚無感に陥るべきなのだ。

「親鳥気分の真くん、自分の中に矛盾って感じたことないかい?」

 その問いに返す間もなく、梓が乱暴に足音を立ててこちらに駆け寄ってきた。倉敷さんはふむ、と頷いてその身を引く。

「せーんぱいっ! 千佳先輩に勝てませんっ!」

 悔し涙まで浮かべて梓が訴えてくる。勝てませんと言われても、俺は梓を一瞬でプロボウラーに変える術は持ち合わせていない。

「教えてあげるって言ってるのにー」

 追って千佳が顔を覗かせる。嘆息しつつも、表情は穏やかだった。俺は梓が女の子同士の勝負に一生懸命になる姿の物珍しさの方が先行していた。

「先輩の愛の力が足りません」

 梓はそう言って唇を押しつけようとしてくる。「これで我慢しろ」と飲みかけのコーラをアヒル口に押し当てる。

「間接キッス頂きます」

 満足そうに喉を鳴らしてそれを飲む。恥ずかしいから口に出して言うな。

「か、間接キス……」千佳が何やらふるふる震え「自分のを飲みなさい!」無理矢理に梓が持つコーラを奪取した。

「千佳先輩が意地悪しますぅ!」

「い、意地悪じゃないしっ」

 千佳は顔を真っ赤にさせて抗議する。梓は腕をぱたぱた振って千佳に脹れっ面を向けていた。ボウリングが二ゲーム終わったってのに、元気だな二人とも。裕也はほら、横でバテてるのに。

「真先輩、次のゲーム千佳先輩に勝てたらご褒美下さい! そしたら梓頑張れます!」

 別に頑張らなくてもいいんだけど、そうした方が盛り上がれるのかな。

「千佳に勝てたらな」

 何を要求してくるのかが知らないが、今日初めてボウリングをした梓が千佳に勝てるわけがない。万が一にもないな。これまで二人の差は百ピン以上離れてるし。

「くふふっ。真先輩を思いっきり愛でちゃおっ」

 含み笑いで妄想を始める。勝ったらだからな。頭の中ではすでに勝ってるみたいだけど。

「そ、そんなの絶対負けないからね!」

 千佳は鼻息荒く対抗意識を燃やす。なんとも頼もしい。心の中で全力で応援しよう。

「店員さんにコツを聞いてきますから、ちょっと待ってて下さいね」

 梓はそう言ってとったったと掛けて行く。それだけ見ればただのガキンチョのようだ。別にコツなんて俺らに聞けばいいのに。変なプライドがそれを拒否しているのか。ともあれ、コツを聞いただけで勝てるなら苦労はしないよな。

 千佳は梓がカウンターに行っている間にもぶんぶんぶんぶん腕を振りまわしてやる気をみなぎらせる。「あんなちーちゃんは初めて見たよ」と倉敷さんも少し楽しそうだった。

 しばらくして梓が嬉しそうに戻って来ると、ボールを一つ軽いものに変えた。それが秘策と言うならば、俺の安全は保障されたようなものだ。

「さー勝ちますよー!」梓は意気揚々とレーンの前に立ち、何度か素振りをする。

「真の貞操は私が守るっ!」千佳、とんでもないこと口走ってるぞ。相当テンパってんな。不安になってきた。

 二人はじゃんけんで順番を決め、先に投げるのは千佳になった。最後の勝負、ここは祈りながら見届けようと俺は二人に体を向け、体勢を整えた。倉敷さんも興味津々といった様子でその場を見守る。裕也はだらりと椅子に腰かけ、おっくうそうに顔だけを二人に向けて「スカートの中見えないかな」と呟く。「見せようか?」と倉敷さん。「堂々と言われると何かなぁ……」裕也は気のない礼をして二人の勝負に目を戻した。倉敷さんは肩をすくめて「そうかい」と意地悪そうに呟いた。

 千佳の一投目、華麗はフォームから放たれたボールは緩やかなカーブを描きながら一番ピンへ直撃。そのまま共倒れを誘発し、ストライク。

「よし! よーしっ!」

 千佳の盛大なガッツポーズに合わせて俺も心の中でガッツポーズ。梓には悪いが三度目の正直という言葉は神頼みなんだ。三連敗を記してくれ。

 梓は何も臆する様子はなく、鼻を鳴らして新たに用意したボールに指をかけた。スコアボードの表示が『ちか』から『あずさ』に移動して、新しいピンが統率の取れた整列を見せる。

 梓はてけてけてけと小走りでスローラインに近づき、そろ~っとボールを転がした。とにかく当てろとアドバイスを受けたのか、ボールは真っすぐに一番ピンを目指して進んで行く。ピンに当たり負けしそうな勢いだったが、整列したピンは真ん中から十戒を思わせるように綺麗に割れ、倒れる。ストライク。嘘だろ?

「きゃあーっ! やったやったぁっ!」

 大はしゃぎで飛び跳ねて喜びを体で表す。生まれて初めてのストライクに拍手でも贈りたいところだったが、驚きが先行して言葉を失った。どんなアドバイスを受けたのかは知らないけど、店員さん、あんた天才だよ。

「先輩っ! 見ててくれました? ストライクですよ!」満面の笑みを輝かせる。

「あ、ああ。すごいじゃないか。コツを掴むのが早いんだな。才能あるんじゃないか?」

「えっへっへー。楽しみにしていて下さいね。今日の夜はお楽しみですっ」

 むっ、いかん、そういう勝負だったか。千佳、頼むぞ!

「ま、まぐれだよ! 一回ストライク取ったくらいじゃ勝てないんだからね!」

 千佳も動揺は隠せないようだったが気迫の籠った目を俺に向ける。『私、負けないから』そう伝えたいのかはわからないがここは千佳を信用するしかない。俺は頷きで返して千佳は構えに入る。

 千佳の二フレーム目は惜しくもストライクは出せなかったが難なくスペアで終わらせた。疲れはあるはずだろうけど、さすがは千佳だ。全てをそつなくこなす学園アイドル。ファンクラブがあるなら会員になってもいいくらい今の千佳は輝いている。希望の星だ。頑張れ千佳!

 続いて梓の二フレーム目、てけてけてけ、さっきと同じゆっくりとしたボールが三角形の頂点を目指して進んで行く。今度は狙いが外れたようで二列目か三列目くらいに当たった。勢いのないボールはそのまま横に流れて奥に吸い込まれたが、ピンは当たったところからカタカタカタカタと倒れ、最後に一番ピンを倒し……ストライク……。んな馬鹿な。

「やったやった! またストライクぅ~!」

 梓は俺に向けてピース。もはや勝利のⅤサインと言っていいほどふんぞり返って「にーん」と笑っていた。

「う、うう嘘だ! さっきまであんなに下手くそだったのに!」

 千佳は驚愕して倒れてしまったピンが流れて行くのを見つめていた。

「嘘じゃないですよぉ。ほら、機械の表示だってストライクが二つ、並んでま~す」

 イラッと、神経を逆撫でするような甘ったるい声で梓は自分のスコアを指差す。

 間違いなく、二連続で決めた。次もストライクならいきなりターキー。まぐれが三度も続くわけないから、梓がターキーを決めれば間違いなくコツを掴んだということだろう。何なんだ一体。あれか? 梓は一応頭がいいからな、力学的解説を聞いて投げやすいボールをチョイスしたんだろうか。いや、それでもガーターばっかりだったし、ピンに当たるだけマシになった程度しか上達は見られない。

 と、するとだ。

 本当に梓の実力なら負けを認めざるを得ないだろう。千佳が負けるイコール俺の負けだ。潔くこの身を捧げよう。しかし、何故わざわざスタッフに助言を乞いに行った? プライドか何かとは思ったが、あれだけみんなの前で千佳と差をつけられていたんだから関係ないっちゃ関係ないよな。別にアドバイスを聞くなら俺だって倉敷さんだって裕也だっていたんだし。むしろこういった場合は俺を頼ってくるはず、なんだ。

 次のフレーム、それで見極めてやる。

 千佳の三フレーム目。千佳はここですでに敗色にまみれていた。レーン上での下剋上が展開され、余裕の相手と満身創痍の我が身。四本、四本。八本を倒すことが精一杯の様子で千佳の三フレーム目は終了した。梓が立つのを待たず、椅子に崩れ落ちうなだれる。栗色の髪が顔を覆って表情を隠してはいるが、ほぼ戦意喪失状態だ。でもよく考えてみてくれ千佳。あんなころころ転がしたボールでそう易々とストライクが取れるわけないじゃないか。おそらく、梓は使ったんだよ。俺に近付くためなら何でもする。それが神宮寺梓なんだ。

 梓は千佳の様子を一瞥して、軽やかなステップでボールを取り、位置についた。

 てけてけてけ、ごろ~。今度は投げた瞬間にわかるほど一番ピンには向かっていない。疲れか? やりおったわこいつ。絶好のチャンス到来。梓の転がしたボールは左奥のピンに当たるか当たらないかのギリギリを通過。ぐらぐらとピンが揺れ、内側へと倒れた。かこ、かこかこかこかこ。それから何とまぁ、不自然にも程がある。端のピンを起点にドミノ倒しのように次々に倒れていくボウリングのピン。それは三角形の外周を一周し内側へと向きを変え、最後に真ん中のピンを倒してストライク。実に不自然な倒れ方、倒れた方向。ミステリートライアングルの完成だった。

「きゃーっ! やったやったぁ! またストライクですぅっ!」演技派だなぁ。

 勝利を確信しているガッツポーズ。まだまだ、勝負はこれからだ梓。

「梓、こっちにおいで~」

「きゃうんっ。はいはいただいま~」

 餌を待つ子犬のように、尻尾を振りながら寄って来る。可愛いなんて思っちゃいけない。「おすわり」と言いつけると梓は従順にも俺の前に膝をつく。一見すると危ない構図に見えるがこれはおしおき、しつけなのだ。

 俺は目の前に屈んだ子犬のツインテールを思いっきり両側に引っ張った。

「はにゃっ!?」

 梓は面食らった猫のように目をぱちくりさせて頭の尻尾の付け根を押さえ叫んだ。俺はうすら笑みを浮かべ、梓を睨みつける。

「あ~ず~さ~ちゃ~ん?」

「は、はひっ!」

「カウンターの人にいくらお小遣いあげたんだ~? んん~?」

「は、はははて、はてはて、何のこと、ことでしょうか?」

 俺は掴んでいた二本の尻尾にねじりを加えた。梓の顔が悲痛に、愉快に歪む。

「はにゃにゃにゃにゃーっ!?」

「白状しろ。ピンの仕組みはわからんがあんなふうに倒れることなんてないんだよ。容疑は明白だ。正直に言わないと一生口利いてやんないからな」

 泣かせたら一生口利けなくなるけどね。これは俺の命懸けの賭けだ。梓が自分の非を認めてくれるのを願うだけ。

「にゃ、にゃー……にゃー……にゃあ……五百万ほど……にゃあ……」

 ご、ごひゃく? 五百円じゃなく五百万だと!? こんな勝負のために……やはりこいつの金銭感覚は俺たちとは一線を引くものがある。そこまでして勝ちたいか。

「今すぐ、今すぐに謝って来なさい。そんな大金をこんな勝負に使うんじゃありません。小切手なんだろ? 返してもらえ」

「ひゃい……」

 三人は神妙な面持ちで俺と梓のやり取りを見ていた。それに作り笑いで一瞥して、うなだれる梓の首根っこを掴み、一緒にカウンターに謝りに行った。せっかく手にした大金を返せと言うのもいささか忍びないが、受け取る方もどうだろう。

 カウンターでさっき梓が話していた女性の店員さんを見つけ、まずは俺が頭を下げた。その店員さんはびくっと肩を震わせる。

「あの、すいません。さっきこいつが小切手を渡したと思うんですけど、返していただけませんか?」

 同じく、梓の頭も無理矢理下げさせる。

「あぁ、さっきのですよね。ちょっといきなりで気が動転して勢いで混乱して有頂天になってあれこれ考えてぜひともなんて言われるのでうあーっとついもらっちゃったんですよね」

 かなり動揺しているようで申し訳ない。そうだよなぁ、五百万なんて、ある程度好きなもの買えるもんなぁ。手放したくないよなぁ。本当、申し訳ないけど。

「先程ご迷惑をおかけしたことは謝ります」ぺこぺこ。梓もぺこぺこ。

「い、いえいえ、さすがに五千万なんて大金、初対面の人にあんなことでもらうわけにはいかないですし、現実的に考えたらこんな話しありえないし。これもおもちゃなんですよね?」

 ごっ、五千? 聞き間違いか? 梓に目をやると、冷や汗混じりで目を泳がせていた。小切手が信じられてなくて良心的な人で良かったものの、まったく、人の人生を変えてしまうような金をこんな勝負につぎ込むんじゃねぇよ。

 まぁ、それはいいとしても……あの三人は……。

 店員さんもどこか安心した表情で小切手を返してくれた。その内容は紛れもなく金五千萬。

 そしてカウンターを離れ、梓にデコピンを一発。「ひゃうっ!」

「ほんっとにアホだなっ! お前はっ!」

「だ、だってだって、先輩と一夜を過ごせるならそれくらい……」

 ふぅ……。梓、違う、違うんだよ。俺が怒っているのはそんなことじゃない。お前が金をどう使おうが知ったこっちゃないんだ、実際。あるものも使うのは仕方がないことだと思うよ。それは力だと思うよ。お前がその気になれば欲しいものは何でも手に入れられるだろうさ。だけどな、今日それをやっちゃいけない。せっかく話せるようになったんだ。せっかく一緒に遊べたんだ。余計なお世話かもしれないけどさ、お前、笑ってたじゃないか。

「今日は楽しかったか?」

「えっ、あ、はい。みなさん良い人で、こんなことして遊んだのも初めてですし。これからまたこうして、みなさんで遊べたらって、そう思いました」

 梓は無邪気に笑う。俺はどんな顔をしているんだろう。自分ではよくわからない。いろんな心情が巡りに巡って、ただただ、呆れていた。当たり前のことをわからない、そんな奴もいるんだから。でもそれは、単純で、遠い。

「なら、千佳たちにも謝ろうな」

 梓はきょとんとして首を傾げていたが、俺はそれ以上何も言わなかった。元々は住む世界の違う者同士、それがこうして一緒にボウリングをしたことだって、小さな奇跡と呼べるものかもしれない。梓が感じてわかってくれるのを切に願う。『友達』として梓が三人に受け入れられるかどうか、手助けはするが、あとは本人次第。

 ――なんて、何やってんだ、俺。本当に保護者気取りじゃないか。倉敷さんの言葉もそうだと思えてしまう。自分のため、これは自分のためなんだ。

 三人の元に戻ると、千佳がジト目でこちらを見ていた。さっきのやり取りと、俺と梓が謝る姿を見て何が起こったかわかったのだろう。本気で向かって行ったのに、相手はインチキしていた。そんな奴と友達なんてなれるのか。俺には笑って済ませられる程の度量はない。

「あの、千佳先輩、さっきはすみませんでした」

 気持ちはあまり込められていない、戸惑いながらの謝罪だった。

「何を、謝ってるの?」

 千佳は表情一つ変えることなく、冷淡に言った。その目はとても冷たさを感じさせるもので、長い付き合いのある俺ですら直視することは遠慮願いたいくらいだ。ダメだなこりゃ。そんなことが頭をよぎる。

「え、えっと、お金を使って、ストライクになるようにしてもらった……こと、です……」

 さすがの梓も千佳の醸し出す雰囲気に気圧されているようで、語尾が小さく、自信なく口にした。

「じゃあ、どうして謝ってるの?」

「え? え、えっと、ど、どうして……って……」

 そこで梓は俺に目で助けを求める。俺は何も答えないし、顔に出すこともしない。これはお前自身の問題なんだ。

「梓ちゃんは、真がいればそれだけでいいの?」

 答えられない梓の様子を見て千佳はまた質問を投げかける。梓は、それにだけはすぐに答えられた。

「はいっ。真先輩が梓の全てですっ!」

 俺は、覚悟してしまった。

 千佳は少し間を置いて、梓から目を逸らして言った。

「それなら、私は梓ちゃんの友達にはなれないな。ごめんね、神宮寺さん」

 俺の中にもその一言は響いた。期待していたものが、音を立てて崩れて行く。淡い期待だったとはいえ、こればっかりは仕方がない。いくら俺が何を言ったとしても、これは千佳と梓の問題で、それはあとの二人も同じことで。元々梓だって友達になることを望んでいたわけじゃない。一番悪いのは、俺だ。いらぬことをしてしまった。その後悔の念だけが体に纏わりつく。

 しかし、梓の反応は、俺の予想を裏切ることになった。いつも人の考えていることとは違う、斜め上をいく。良い意味でも、悪い意味でも。そして、今回は良い意味で予想を裏切られたことになる。

「えっ……」

 小さく漏らした梓の表情はみるみるうちに曇り、俺に助けを求める余裕すらないのか肩を落とし、拳を握り締めた。ツインテールも力なくしょぼくれているように見える。

「と、友達には……?」

 梓がここまで落胆の色をはっきり見せることは珍しかった。どれだけ俺から冷たくあしらわれようと、罵られようと、それをプラスに変えられるのが梓の性格なのに。

 梓は楽しかったと言った。また遊びたいと言った。それを期待していた相手に、はっきりと拒絶されたのだ。あんたとはもう遊びたくない、そう言われているようなもの。こっちは遊びたいと思っているのに相手はそれを望んでいない。俺と梓の関係に似てるけど、異なるもの。

 他人から見ればあれだけのズル、笑って許してやれよ、そんなことを思われるかもしれない。でも、それは友達であることが前提なんだと思う。今日はある意味儀式でもあった。異端者として見られている梓が受け入れられるための。

 千佳が考えていることは何となくわかる。俺もそっち側の人間だからな。今日の小さな事件も梓の一つの奇行であって、そんなことが日常的に起こらない俺たちは必然的に『違う』と思う。自分たちとは違う。類は友を呼ぶ。そんなふうに、自分とは違うものをそう易々と受け入れられない。

 千佳は俺を見て、声には出さず『ごめんね』と唇で謝った。友達になってあげると言った手前、申し訳ないと思っているんだろうか。でも、一緒にいたくない奴と友達なんて、うわべだけでも友達やれないよな。申し訳ないのは俺だよ。俺は苦笑で千佳に返事した。

「ど、どうしてですかっ!?」

 突然、梓が叫ぶように声を上げ、千佳に詰め寄った。懇願するような目で、すがるように。

「だって、神宮寺さんは私のことなんてどうでもいいでしょ。真がいればいいんだから。あんなことして、自分の思うようにことを運ばせて、人のこと馬鹿にしてるよね。そんなの友達なんかなれるわけないよ。友達ってさ、恋人同士と似てるものだと思うんだよね。相手のこと気遣って、思いやって、そんな仲間を、友達って言うんだと思うよ」

 千佳はまるで梓に言い聞かせるかのように言った。

 梓は自分より少し背の高い千佳のことを見上げ、そしてうつむいた。少し間が空いて、梓はもう一度千佳を見上げ、またうつむいて、また見上げ、何度かそれを繰り返したあと、重い口を開いた。

「さ、さっきは……すみませんでした。千佳先輩の気持ちなんて、考えずに……」

 お、おおっ……。俺は思わず出そうになった声を噛み殺した。梓が本気で千佳に謝っているのだ。悪かったと思っているのだ。そんな梓を俺は今まで見た事がなかった。

「友達に……なってくれませんか?」

 梓はゆっくりと頭を上げて細々とその言葉を口にした。梓の方から友達になってくれなんて言葉、俺は夢か幻を見ているのではと自分を疑ってしまいそうな、それほど俺にとって衝撃的で、現実味のないことだった。頭の中で小宇宙が爆発し、それがブラックホールに飲み込まれて新たに思考が誕生するまでに数秒を要した。

 千佳は嘆息し、にっこり笑って梓の頭を優しく撫でた。

「梓ちゃん。さっきの続き、投げる?」

「あっ……は、はいっ!」

 ここに、梓と千佳の何かが成立した気がした。

 千佳は呆けている俺を見て、ウインクと同時に舌を出して悪戯っぽく笑った。もしかしたら、これは千佳が亜美に友達っていうのを感じて欲しくて一芝居打ったんじゃないか、そう思わせるウインクだった。そういえば千佳はそういう奴だった。気配り上手でいつも人に気を遣う、人情味溢れる奴なのだ。頼れる親友がいたことを俺は大いに感謝した。

「今度はズルなしの真剣勝負だからねっ!」

「はいっ!」

 お互いに嬉しそうに笑いながら、ボールを磨く。少しだけ、鼻の奥が熱くなるのを感じた。

 俺はそんな二人を横目にさっきまで座っていた席に着く。その時に倉敷さんを見ると、「へぇ」と笑って二人を見つめていた。裕也も嘆息しながら笑みを浮かべている。青春の息吹を感じる。梓のおかげで遠出していた青春が、ただいまと顔を覗かせた。

 俺はみんなの様子を見て、ほっと胸を撫で下ろした。

「本気だからね」「はいっ!」梓はにこにこ嬉しそう。「負けないよ」「はいっ!」梓は勝気に。「準備はいい?」「はいっ!」梓は頷く。「梓ちゃんが勝ったら真を好きにしていいよ」「はいっ!!」梓は闘志をたぎらせる。それまだ続くんだ。「私が勝ったら真から手を引いてね」「はいっ! ……えっ、え?」梓は困惑。千佳はにやりと口元を吊り上げた。千佳、お前まさか……今まではこのために……?

「いくよ!」

「えっ、ちょちょちょっと、ち、千佳先輩!?  て、手を引くって……?」

「もはやサイは投げられたぁ! ボールは投げられたぁ!」ストライク!

 笹野千佳、恐ろしい奴である。神宮寺梓、憎たらしい奴である。倉敷みちる、不思議な人である。高橋裕也、変態脇役である。

 




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