優等生の彼に母親の前で存在を消された私は、彼が一生追いつけない参考文献になった
1.真夜中の告白
私は別れた。
けれど、彼氏の羽山佑樹が浮気をしたわけでも、ほかの誰かを好きになったわけでもない。
彼はただ、母親に「恋人でもできたの?」と聞かれたとき、嘘をついた。
その軽い「いないよ」の一言で、私は彼の人生における自分の立ち位置を、はっきり理解してしまった。後に彼が私と再会したとき、私はもう別の人生を歩き、彼が二度と追いつけない場所に立っていた。
冬休み前の試験とレポート提出が重なる週。その一週間前の日曜日、夜十時ごろ。場所は、東京にある某私立大学の女子学生会館だった。
私は単身者用の部屋のベッドに寝転がり、優雅ではあるが将来性のまったくない姿勢でスマホを眺めていた。すると突然、画面が小さく震えた。
通知に表示されていた名前は、羽山佑樹。
「佐倉さん。こんな時間にごめん。君は本当に特別な人だと思う。好きです。よかったら、僕と付き合うことを考えてくれませんか」
私は驚き、茫然とし、その場で脳の処理が止まった。
次の瞬間、スマホが手から滑り落ち、見事に私の顔面を直撃した。
羽山佑樹は、私より二学年上の、国際文化学部国際交流学科の先輩だった。
顔がいい。成績もいい。能力もある。どこを取っても非の打ちどころがない。ただ一つだけ問題があるとすれば、私と彼はほとんど話したことがなかった。
だから、どうして彼が急に私を好きになったのか、まったく理解できなかった。学生会の集まりで罰ゲームに負けて、公開処刑みたいな告白をさせられているのではないかとさえ思った。
別に、自分を卑下しているわけではない。この、息をするだけで競争に巻き込まれるような私立大学の中でも、羽山先輩は突出して優秀な人だった。
学部の成績は常に一位。毎年、給付型の奨学金を受け、学生会の執行委員長を務め、教授推薦の学生研究プロジェクトにも参加している。
一方の私は、いつも短髪で、黒やグレーの服ばかり着ている。冷たそうな中性的スタイルで、顔には「近寄るな」と書いてあるようなものだ。正直、女の子に告白されるほうが、羽山先輩に告白されるよりまだ現実味があった。
私は慎重に返信を打った。
「ごめんなさい。たぶん、無理です」
数分後、彼から返事が来た。
「そっか。気にしないで。早く寝て」
私は昔から、突然近づいてくる人間を最大限の悪意で疑うタイプだ。まして相手は羽山佑樹。私とのあいだに、これまで何の伏線もなかった優秀な先輩である。
私は胸の中を駆け回る感情をどうにか落ち着かせ、客観的かつ冷静に、ほとんど裁判官のような気持ちで会話を振り返った。けれど、スマホを見つめながら顔をいじって半日悩んだ末に出た結論は、結論が出ない、というものだった。
そこで私は、学生寮の友人たちに助けを求めた。
話を聞いた彼女たちは、三十分ほど好き勝手に意見を出し合い、私に新しい世界の扉を開いてくれた。私はそれまで、「キャンパス内の軽い恋愛」という可能性を、真剣に考えたことがなかったのだ。
けれど、告白から数日が過ぎても、羽山先輩からは何の動きもなかった。
私は認めざるを得なかった。あれは、たぶん一時の気まぐれだったのだ。
少し落ち込んだ。それ以上に腹が立った。彼が何気なく投げ込んだ小石ひとつで、私の心がこんなにも乱されたことに。そして、私自身が本当にそのことを気にし始めていたことに。
たかが一人の男に感情を振り回されていると気づいた私は、慌てて恋愛脳のヒロインがひどい目に遭う古いドラマを何話も見て、自分の頭を洗浄しようとした。
そんなある日、私は講義棟の階段前で呼び止められた。
相手は、ここ数日ずっと私を悩ませていた羽山先輩だった。
「久しぶり、佐倉さん」
ずいぶん悩んだあと、ようやく声をかけてきたように見えた。
私も気まずく手を振った。
私たちは、一人ぶんの距離を空けてキャンパスの小道を歩いた。東京の初春の風が桜の枝先を揺らして吹いてくる。冷たさもちょうどよく、気まずさもちょうどよかった。
迷った末、私はやはり聞くことにした。
「先輩、この前のメッセージって、結局どういう意味だったんですか」
彼は一瞬固まり、少し照れたように目を伏せた。
「そのままの意味。君が好きってこと」
彼が初めて私を意識したのは、図書館だったらしい。
その日、私は席を立つときに椅子の脚に引っかかり、危うく床に倒れ込むところだった。盛大な音に自習スペースの全員が顔を上げ、その中にいた彼も私を覚えた。
その後も、なぜか彼は私をよく見かけたという。
食堂の入口で、私は後ろの人のために透明なビニールカーテンを持ち上げていた。キャンパスの片隅では、しゃがみ込んで大学にいる野良猫をうれしそうになでていた。自習室では、彼の前の席で、外国語の教材と真剣に格闘していた。
風が彼の髪を乱す。彼は飾らない笑みを浮かべた。
「僕の告白は、佐倉さんには急すぎたと思う。でも、僕は一方的に君のことをよく知っていたんだ。昭乃さん、本当に好きです」
真剣さというものは、やはり最強の必殺技だ。
昔から色恋に鈍い私でさえ、その言葉には少し心を動かされた。
私は唇を軽く結んだ。
「じゃあ、そのあと何もなかったのはどうしてですか。諦めたのか、からかわれたのかと思いました」
彼は慌てて首を振った。
「違うよ。断られたあと、ちょっと落ち込んで。それに佐倉さん、近づきにくそうだったから、もう一度聞く勇気が出なかった」
私は心の中で悔恨の涙を流した。
桃の花を自分で切り落としていたのは、まさかの私だった。
実際にはそこまで近づきにくくもなく、ただ内心が騒がしいだけの私は、平静を装って笑った。
「先輩、あんなふうに急に告白されたら、普通はすぐ返事できませんよ。突然すぎます」
「ごめん。僕、今まで恋愛をしたことがなくて。人を追いかける方法がよくわからなかった」
彼は少し照れたように目を伏せた。
ほんとかな。私は信じないぞ。
私は彼の、説得力がありすぎる整った顔を見ながら、心の中でそうつぶやいた。
別れ際、彼は少しだけ慎重な目で私を見た。
「これから、君を追いかけてもいいかな。もう一度だけ、考えてくれたらうれしい」
私はすぐには答えなかった。
けれど、断りもしなかった。
2.不器用なアプローチ
それから、羽山先輩は一日三回、律義に連絡をくれるようになった。
ときどき、ついでのように朝食を買ってきてくれる。私がコンビニの卵サンドを好きなことも、甘すぎるコーヒーを飲まないことも覚えていた。
彼は私と一緒にグラウンドのそばを歩き、同じ曲を共有した。図書館で一緒に勉強しようと誘い、私がどうしても理解できない文法や論文資料について教えてくれた。
一か月間、それは一度も途切れなかった。
私は今なら信じられる。彼は本当に、今まで恋愛をしてこなかったのだ。
なぜなら、彼のアプローチは確かに不器用で、ぎこちなかったから。
学生寮の友人たちは、私たちはもう付き合っているのと変わらないと言った。私は笑うだけで、すぐには認めなかった。
彼は今のところ、本当に優しい。
私も彼に好意を持っている。彼の気遣いと真剣さに、ちゃんと心を動かされてもいる。
それでも直感が告げていた。もう少し様子を見たほうがいい。
私は恋愛をしたいのであって、年間ベスト善人賞の審査員になりたいわけではない。
ただ、その考えはすぐに覆された。
というのも、私は国際文化学部国際交流学科の学生でありながら、語学の才能が壊滅的に乏しかった。この学科に入ったのはほとんど成り行きで、試験とレポート提出の時期になるたびに苦しみ抜いていた。
そんなとき、羽山先輩はまさに私を救い上げてくれた。
彼は自分の講義の復習をしながら、時間を作って私の勉強を見てくれた。何度も同じところを聞いても、面倒そうな顔をしない。
彼の時間を奪っているのではないかと気にしていた私に、彼は重点を一つ書き終えてから顔を上げた。
「このあたりは普段から押さえているから、もう一度見直すくらいなら時間はかからないよ」
天才型の人間より怖いのは、その天才型が自律して努力までしている場合である。
私はノートを取ることすら忘れそうになった。
いちばん苦手だった内容が、彼の口から出ると、少しずつ分解され、私にも届く位置に置かれていく。あの午後、図書館の窓の外には淡い光が落ちていた。彼は低い声で要点を示し、その声は不思議なほど落ち着いていた。
気づけば、私は彼をずっと見ていた。
胸の奥を何かがそっと触れた。痛くはない。ただ、しばらく視線を外せなかった。
たぶん、あのときからだ。私の中の羽山先輩への感情は、それまでとは少し違うものになった。
とはいえ、試験は待ってくれない。私は慌ててその感情を押し込み、跳ねる心臓も押さえつけて、理性を呼び戻した。
ありがとう、羽山先輩。
彼のおかげで、私は無事に単位を取れただけでなく、かなり良い成績まで取ることができた。
一方の彼は私に足を引っ張られることもなく、相変わらず学部一位の座を守っていた。
試験で押し込めていた胸の奥の感覚が、またふっと顔を出した。
私はたぶん、知性に弱いタイプなのだろう。
別方向に浅いだけである。
私は心の中で自分を軽く罵った。
キャンパス内の軽い恋愛だって?
やってやろうじゃないか。
冬休み前の試験が終わり、私たちがそれぞれ実家へ戻るまで、あと数日しかなかった。
そこで私は、彼の試験が終わった翌日に、彼を呼び出した。
冬のキャンパスはいつもより人が少なかった。桜はまだ咲かず、枝先には細い影だけが残っている。私は図書館脇の小道に立ち、コートのポケットに手を入れて、平然としているふりをした。
「羽山先輩、前に私のことが好きだって言いましたよね」
「うん」
彼はこのあと何が起こるのか気づいたようで、まっすぐ私を見つめていた。
「私もです」
「……え?」
彼は信じられないという顔をした。
私は一語ずつ、はっきり言った。
「付き合ってみませんか」
正直に言うと、付き合う前と後で、何かが大きく変わった気はしなかった。
あの日、私と佑樹は正式に付き合うことになった。彼はただ、そっと私の手を取っただけだった。その数日後、私たちは冬休みに入り、それぞれ実家へ戻った。
佑樹は少しだけ言葉が親しくなった以外、以前と同じように毎日決まった時間に連絡をくれた。
つまり私たちは、キャンパスでの曖昧な関係から、遠距離のネット恋愛へ移行したのだ。
想像していた恋愛とは、少し違ったけれど。
やがて大晦日になった。
うちには年越しまで起きている習慣がない。夜十一時前には、家族はそれぞれ部屋へ戻っていた。
そのとき、スマホが震えた。佑樹からだった。
「昭乃、ゲームにログインして。僕の部屋に来て」
私は首を傾げながら、Minecraftを開いた。
ゲームに特別な執着はない。ただ、Minecraftで建築をするのだけは好きだった。現実ではおとなしく生きているぶん、ゲームの中では強気に土地をいじり倒す。
彼の個人ワールドに入ると、中央にある建物がすぐ目に飛び込んできた。
ブロックで作られた、小さな神社だった。
雪の中に朱色の鳥居が立ち、参道の両脇には暖かい色の灯籠が並んでいる。奥には大きな絵馬があり、そこにはブロックで「新年おめでとう」と作られていた。
なんというか、少し野暮ったい。けれど、ひどく真面目だった。
普段の佑樹らしくない。
私は四角いアバターを歩かせた。神社の隣には門松、絵馬掛け、お守りの屋台、小さな雪だるまが並んでいる。どの隅にも新年らしさが詰まっていて、よく見るほど時間がかかったのがわかった。
胸が温かくなって、少し痛んだ。
「何日かかったの、これ」
イヤホン越しに、少しだけこもった声が聞こえた。
「そんなにかかってないよ。気に入ってくれたならよかった」
私たちは、そのままゲームの中で年を越した。
午前零時になった瞬間、私は画面の中の四角い神社を見つめて、そっと言った。
「明けましておめでとう、佑樹」
3.初めてのバレンタイン
楽しい時間は、いつも短い。
冬休みが終わり、大学の講義が再開した。
私たちはネット恋愛から、また対面の恋愛に戻った。
けれど、授業が始まってからの佑樹は、どこか薄かった。ネット越しだった頃のほうが、まだ熱があった気がする。
私たちは相変わらずよく一緒にいた。彼はグラウンドのそばを歩きながら、私の小さなおしゃべりに付き合ってくれた。
それでも、彼は本当には聞いていないように見えた。
体は隣にあるのに、心だけが別の場所に漂っている。
私は、親しくなると口数が増えるタイプだ。もしかして、面倒だと思われているのだろうか。
彼を見ると、視線に気づいた佑樹がこちらを向き、柔らかく笑った。
「どうしたの?」
いつもどおり、優しくて包容力のある笑みだった。
私は少し迷ってから、首を振った。
「なんでもない」
きっと、私が気にしすぎているだけだ。
バレンタインが近づいていた。
彼と付き合ってから、初めて迎えるバレンタインである。
情けない話だが、試験期間中の熱いときめきが落ち着くと、私は自分が本当に彼を好きなのか、少しわからなくなっていた。好きなのかもしれない。ただ、そばにいることに慣れただけなのかもしれない。
その後ろめたさを埋めるように、私は早くからバレンタインの計画を立て始めた。
何度も修正した末、パソコンの中には、やたら大げさなファイル名が残った。
『バレンタイン計画5.0 最終版』
当日、私が誘うより先に、佑樹からメッセージが届いた。ゼミの発表準備の打ち合わせがあり、午後一時までは空かないという。
少し寂しかった。
それでも彼が最近忙しいことはわかっていたので、先に準備をしてきていいと返した。
午後三時半になって、ようやく佑樹が来た。
私は気持ちを整え、用意しておいた手作りの本命チョコと、小さなバラの花束を差し出した。
「ハッピーバレンタイン」
彼の目に、かすかな驚きが走った。
私は片眉を上げた。
「まさか、今日がバレンタインだって忘れてた?」
彼は一秒だけ黙った。
「昭乃、ごめん」
最近は発表準備で手いっぱいで、グループのメンバーもみんな恋人がいないから、誰もバレンタインのことを意識していなかったらしい。
私は唇を結んだまま、何も言わなかった。
胸の奥に何かが詰まった。ひどく痛むわけではないのに、どうにも苦しい。
私はまだ、彼でなければだめだと思うほど好きではなかったのかもしれない。けれど、それは私が彼の予定の外に置かれても平気でいられる、という意味ではなかった。
勉強が大事なのはわかっている。だから、彼の立場も考えようとした。
この数日、彼が忙しかったことも知っている。だから、理不尽に怒鳴ったりはしなかった。
彼の説明に筋が通っていることも、わかっていた。
それでも、私は悲しかった。
私はこの日のために、ずっと準備していたのだ。
目の奥が乾いていく。
男に同情すると一生損をする、とはよく言ったものだ。
佑樹は申し訳なさそうに私を抱きしめ、長いこと静かになだめてくれた。
このまま時間を無駄にするのも嫌で、私は感情を押し殺し、計画の中で最後まで残った項目――映画を観に行くことにした。
選んだのは、最近話題のコメディ映画だった。
けれど上映中、私は少しも楽しめなかった。
劇場のあちこちから笑い声が上がるたび、ただうるさいと思った。楽しさは彼らのもので、私のものではない。
暗い席に座ったまま、私は無表情で思った。法律が存在していなければ、たぶんこの映画館をひっくり返している。
映画館を出ると、佑樹はさらに優しく私の手を握り、大学の門までずっと私をなだめていた。
私は彼の顔を見ないまま、低い声で言った。
「もういいよ。先に帰って。少し歩きたい」
彼は私の手を握ったままだった。
「僕も一緒に行くよ。怒ってるなら、僕にぶつけて。無理に我慢しないで」
「いい。ひとりで落ち着きたいの。本当に、帰って」
私は彼の手を振りほどいた。
怒りは少しも減っていなかった。このまま彼がそばにいたら、本当に殴り飛ばしてしまうかもしれない。私の腕力は、学生寮の中でもそれなりに有名だった。
返事を待たず、私は先に歩き出した。
彼の身体の安全も大切である。
しばらくして振り返ると、遠くに彼のぼやけた姿がまだ立っていた。
もう一度振り返ったとき、その影は消えていた。
私はキャンパスの芝生の、誰もいない隅で、声を上げ、のたうち回り、暗い感情を地面に叩きつけた。
しばらく暴れたあと、少しだけ精神状態が回復した。
荒い息を整え、深呼吸をして、学生寮へ戻ろうとした。
途中に、いくつかゴミ箱があった。
そのそばで、赤い色が目に入った。
私はしばらく立ち止まり、結局ゆっくり近づいた。
そこには、小さなバラの花束が落ちていた。花はしおれ、花びらが何枚も散り、踏みつぶされた跡だけが地面に残っている。
喉の奥がきゅっと詰まった。
包み紙は、私が自分で描いたものだった。
つまりそれは、私が手ずから包んだ花束だった。
私は長いあいだ、その花を見ていた。
ただ、見ていた。
何もしなかった。
4.銀色のブレスレットと表面上の平和
私は暗い中、学生寮へ戻った。
これで、男のために夜更かししたのは二度目だった。
大学内の噂を、私が知らないわけではなかった。
佑樹は優秀で、彼に憧れる人も多い。噂の内容は、私が彼に釣り合わないとか、本気で好きなはずがないとか、ただの気まぐれだとか、そんなものばかりだった。
彼が私に近づき始めた頃から、そういう声はあった。
以前の私は、あまり気にしていなかった。
他人が何を言うかは、その人たちの問題だ。少なくとも佑樹と一緒にいるとき、彼が真剣なのは感じられたし、その優しさが演技だとも思えなかった。
けれど今は、わからなくなっていた。
その後の数日、私は意識的に佑樹を避けた。
彼からのメッセージは、すべて通知を切った。
心の中は絡まった糸くずのようで、いっそハサミで全部断ち切ってしまいたかった。
そこまで好きなわけではないはずなのに、ひどく面倒くさい。
やはり男は、私の刀を抜く速度を鈍らせるだけだ。
繊細な私は、怒りに任せてご飯を一杯かき込み、もう一杯おかわりした。
そう。
悲しみのあまり絶食するようなことは、まったくしなかった。
それから数日、講義以外ではほとんど学生寮を出なかった。
日曜日の朝、ようやく着替え、パソコンと教科書を持って図書館へ行くことにした。鏡に映る自分は顔色もよくなく、髪も少し乱れていたが、少なくとも普通の大学生には見えた。
そして私は、また佑樹に捕まった。
「何か用?」
「昭乃、ごめん。この前のバレンタイン、忘れていたけど、本当にわざとじゃないんだ。怒ってるのはわかってる。でも、無視しないでほしい。腹が立つなら、僕にぶつけて」
私は目を細めて彼の言葉を聞き、黙っていた。
彼は私の左手を取り、手首に銀色のブレスレットをつけた。細いチェーンはシンプルで、それでいて少し凝ったデザインをしていた。冬の光の中で、冷たくきらめいている。
「このブレスレット、あの夜に注文したんだ。そのあと、自分で君の名前を刻んだ。だから完成が今日になった」
私は視線を落とした。
刻まれた文字は、確かに彼の字に見えた。
そのブレスレットに触れながら、私は口を開いた。
「ブレスレットはきれい。でも、私があげた花は、どうして捨てたの」
「……え?」
佑樹の手がはっきり震えた。スマホがぱたりと地面に落ちる。
彼の目に一瞬だけよぎったものを、私は見逃さなかった。
私は首を振り、それ以上は聞かなかった。
私は、そこまで彼を好きではない。
けれど、彼がそばにいることに、思った以上に慣れてしまっていた。
だから私たちは、そのまま表面上の平和を保った。
まったく私らしくない。
私は自嘲の意味を込めて、LINEのアイコンをダチョウの画像に変えた。
けれど、そのダチョウが顔を上げなければならない瞬間がいつ来るのかは、私にもわからなかった。
ある金曜日の夜、彼からメッセージが届いた。
「昭乃、ごめん。明日、用事ができて、博物館には行けなくなった」
「何の用事?」
「母さんが明日、こっちに来るんだ」
「そっか。大丈夫。明日はお母さんと過ごして」
佑樹が東京出身であることは知っていた。
ただ、彼はあまり実家へ帰らない。長期休暇のときでさえ、ぎりぎりまで大学に残ってから帰る。
周りの人は、彼は研究や課題に没頭すると時間の感覚を失うタイプで、家に帰る暇もないのだと言っていた。
でも、彼とよく一緒にいる私は、少し違うと思っていた。
佑樹は、みんなが思っているほど勤勉一辺倒ではない。効率が高いから、大半を一気に片づけたあと、ふっとどこかへ意識を飛ばすように静かになる。そして最後に、残りを仕上げるのだ。
その理由はわからなかった。私はそれを、学業の神に選ばれた人間が凡人を憐れむ小さな癖だと解釈していた。
きっと、あまり突出して見えたくないのだろう。
5.彼は「彼女はいない」と言った
翌日、私は学生寮の友人である加藤佳奈と出かけた。
夕方近くになって、私たちはのんびり大学へ戻った。
私がスマホを見ていると、佳奈が肘で私をつついた。
「昭乃、見て。あれ、あなたの羽山先輩じゃない?」
顔を上げた。
少し離れたところで、佑樹が一人の女性と並んで歩いていた。
その女性はよく手入れされた雰囲気で、上品だった。仕立てのいいコートを着ている。目元のかすかな皺だけが、年齢をそっと示していた。眉間には薄く皺が寄り、厳しく近寄りがたい印象があった。
私は小声で言った。
「あれ、佑樹のお母さんだと思う」
佳奈は妙に忍び足になった。
「挨拶しに行く?」
「行かないよ。気まずすぎる」
私たちは進むことも戻ることもできず、一定の距離を保ったまま、無言の尾行ゲームに強制参加させられたような状態で歩いた。
本当に、盗み聞きするつもりではなかった。
これはきっと、運命が私たちに聞かせたのだ。
最初、親子は小声で話していた。
ふいに、佑樹の母親の声が高くなった。
「佑樹、あなた、恋人でもできたの?」
私は胸が跳ねるのを感じ、思わず二人を見た。
佑樹の声は少し低かった。
「母さん、急にどうしたの」
羽山さんのお母様は彼の逃げを許さず、冷たく硬い口調を崩さなかった。
「前に言ったでしょう。大学院に合格するまでは、恋愛なんて認めません。もし将来付き合うにしても、家庭環境がきちんとしていて、しつけの行き届いた、人前で恥をかかないお嬢さんにしなさい」
彼女は一度言葉を切り、さらに厳しい声になった。
「正直に言いなさい。付き合っている人がいるの?」
なぜか、私は一歩だけ前に出ていた。二人との気まずい距離が、少し縮まる。
そのせいで、佑樹の小さいけれどはっきりした答えが、ぼんやりと聞こえてしまった。
「いないよ」
その後、二人が何を話したのかは聞こえなかった。
私の足は地面に縫いつけられたように動かず、ただ二人が遠ざかっていくのを見ていた。
心の準備はしていた。彼をそこまで深く好きになっていないとも思っていた。それでも、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
あの瞬間、私は彼の世界からそっと消しゴムで消されたような気がした。
始まりが唐突だったからといって、私が真剣ではなかったことにはならない。
6.ダチョウは顔を上げなければならない
真っ暗な夜の中、私はまたベッドの上で目を開けていた。
それまで見ないふりをしていた細部が、少しずつ浮かび上がってくる。
私は短髪で、いつも黒やグレーの服を着ている。けれど、世間が女の子らしいと呼ぶものを嫌っているわけではなかった。ただ、そういう格好に慣れていただけだ。
むしろ私は、きらきらしたものも、明るい色も好きだった。
子どもの頃の私は、じっとしていられなかった。新しい服を着ても半日で汚してしまう。母は洗濯物の山を前に冷たい笑みを浮かべ、私のクローゼットを濃い色専門に作り替えた。
高校に入ってから、私は髪を短くした。
手入れが楽だったからだ。
特に受験期の終盤、壊滅的な英語だけで頭がいっぱいだった私は、髪を限界まで短くして、手入れの時間さえ削りたかった。
もう一つの理由は、単純にそのスタイルが似合っていたことだ。
小さい頃、母は私を精巧な人形みたいに着飾らせたがった。けれど、どう見てもどこか変だった。髪を短くしてから、母はついに自分のプリンセス計画を諦めた。
大学に入ってから、私は一度、これまでとは違う自分を試してみたいと思った。
服装の雰囲気を変えたかったのだ。
けれど佑樹は、穏やかに言った。
「昭乃、周りの声に合わせて無理に変わらなくていいよ。自分らしくいればいい」
不思議だった。
私は自分で新しい格好を試してみたいと思っただけなのに、どうして周りの声の話になるのだろう。
そのときの私は深く考えず、彼に言い返すこともしなかった。
それでも、少し何かを変えてみたい気持ちは残っていた。
ある日の講義後、私は大学近くのネイルサロンへ行き、生まれて初めて赤系のジェルネイルをしてもらった。
私は得意げに佑樹へ見せ、反応を待った。
彼は一瞬驚き、それからわずかに眉を寄せた。
「昭乃、急にどうしてネイルを?」
そのときの私はうれしさでいっぱいで、彼の表情には気づかなかった。
「試してみたかったの。どう? かわいい?」
「かわいいよ」
彼の声はいつもどおり柔らかかった。ただ、少し困ったようでもあった。
「でも、昭乃の雰囲気とはあまり合わないかも」
認めたくはなかったが、彼の言葉には妙な説得力があった。
一週間ほど眺めて満足したあと、私は泣く泣くネイルを落とした。
そのときになって初めて気づいた。私の選択の多くは、知らないうちに、彼の期待にそっと押されていたのだ。
認めたくないけれど、すべては一つの結論へつながっていた。
私は、彼の母親が求める女の子とは正反対の存在だった。
あるいは、彼の母親本人とも正反対だった。
私は普通の家の出身で、外向的で落ち着きがなく、上品で従順なタイプではない。けれど、優しい言葉に弱く、いつの間にか導かれてしまうところがある。だから、彼は私を選んだのだ。
たぶん、母親へのささやかな反抗を完成させるために。
私はそう考えた。
彼が突然私を好きだと言ったのも、きっと自分の中の「異物」を見つけたからだったのだろう。
彼は喜んで私を追いかけ、自分の中に何層もフィルターを重ね、その奥に実在しない私を見た。
反抗心を満たしてくれる、都合のいい完璧な相手。
けれど近づいてみると、私は彼の想像どおりの人間ではなかった。
外向的で落ち着きがない私にも、静かに人を気遣うときはある。動物園の猿だって、毎日全力で騒ぎ続けられるわけではない。
それでも彼は、私を手放す気にはなれなかった。
だから、目立たないやり方で、少しずつ私を彼の望む形へ押していった。
けれど、それはひどく下手だった。
真剣なのに、どこか雑。
母親への反抗と同じだ。形だけはあるのに、本当に表へ出す勇気はない。
私は、それが滑稽で、少し哀れだと思った。
佑樹のせいで夜更かしするのは、これで三度目だった。
今回は、とうとう一睡もしなかった。
三度目の正直である。
ダチョウは、そろそろ顔を上げなければならない。
積み上がった時間がどれほど重くても、切るべきものは切るしかない。
「羽山佑樹」
今度は、講義を終えたばかりの佑樹を、私が呼び止めた。
「話がある」
私は彼を、人通りの少ないキャンパス内の池のそばへ連れていった。
彼はいつものように穏やかに笑った。
「どうしたの、昭乃。昨日、僕が一緒にいられなかったから? ごめん、僕が悪かった」
付き合ってからの佑樹が一番よく口にした言葉は、たぶん「ごめん」だった。
どちらに理があるかに関係なく、彼はまず自分のせいにする。そうすると私はますますわがままになり、本当の問題はいつまでも水底に沈んだままになる。
私は彼を見た。
「羽山佑樹。まずは謝ります。私と佳奈は、偶然あなたとお母さんの会話を聞いてしまいました。でも、あなたたちのプライベートを誰かに話すつもりはありません」
彼は一度、ほっとしたように笑いかけた。けれど次の瞬間、何かに気づいたように表情が固まった。
「……会話?」
「うん。私たちは後ろにいたから、一部だけ聞こえた」
私は手首の銀色のブレスレットに触れた。
「たぶん、私が聞くべきだった部分だけ」
私はそのブレスレットを外し、彼の手に押し込んだ。
「それから、二つ目。別れます」
彼が勢いよく顔を上げた。
「別れる? いや、どうして」
彼はブレスレットを強く握りしめ、何度か重い息を吸った。
「昭乃、聞いて。母さんはすごく強くて、厳しい人なんだ。小さい頃からずっと管理されてきた。恋愛も認めてくれなくて、僕にはどうしようも――」
「相談じゃない。報告です」
私は彼の言葉を切り、複雑な気持ちで息を吐いた。
「あなたが苦しかったのはわかる。お母さんの支配が強くて、だから誰かを使って逆向きに抵抗したくなったんでしょ。でも、それってお母さんと何が違うの。どうしてあなたの反抗に、私が巻き込まれなきゃいけないの」
彼が口を開きかけたので、私は片手を上げて止めた。
「待って、佑樹。あなたは、私のことをそこまで好きじゃない。あなたにとって私は、いてもいなくてもいい選択肢だった。付き合う相手としては悪くなかったと思う。でも、あなたの優しさは、皮膚と骨のあいだに挟まった肉みたいに、どこにも届かなかった」
彼は焦ったように言った。
「本当に好きなんだ」
彼が私の手を取ろうとしたので、私はその手を払った。
静かな池の水面を見つめ、短く笑う。
「その本気は、私に向けたものというより、自分の反抗に向けたものだったんじゃない?」
私は彼のほうへ顔を向けた。
「あの日の言葉、私はずっと覚えている。あなたも覚えていて。別れる理由は、もう言い直さなくてもわかるよね。これで終わり。もう私に近づかないで」
私は彼の横を通り過ぎた。
視界の端で、彼はうつむいたまま、その場に立ち尽くしていた。
正直、私はそこまで傷ついてはいなかった。
好きの深さが足りなかったからだ。
でも、それは怒らない理由にはならない。
彼の白月光になるつもりはない。
ただ、私の一言くらいは、一生思い出すたびに胸を痛める効果があってほしい。
この件でこんなに悩み続けたこと自体、まったく私らしくなかった。
今日、ようやく一つの結果が出た。
胸にのしかかっていたものを下ろしたような気持ちで、私はすぐにLINEを開き、アイコンをダチョウから好きな白いガチョウへ戻した。
そのとき、固定していたトーク画面に新着メッセージが表示された。
「ごめん」
指が一瞬止まった。
私は、この初恋に最後の一文を添えることにした。
「さようなら、私の初恋」
送信したあと、迷わなかった。
トーク履歴を消し、アカウントをブロックし、友だちリストから削除する。
一連の作業を終えると、画面はようやく静かになった。
人には多かれ少なかれ、初めてのものに対する執着がある。初恋は忘れにくい。しかも、失ってから大切さに気づき、時間は勝手に記憶を美化してくれる。
私はその補正を、最大限に利用することにした。
もし彼に後悔する余地が残っているなら、これから私を思い出すたび、少しは苦しくなればいい。
その後、私は転学部の手続きをして、文学部へ移った。
これは佑樹とは関係ない。
ただ、国際交流学科と私は、もうお互いを解放したほうがよかったのだ。
毎日、文法や発表資料に苦しめられ続けるくらいなら、少しでも息ができる場所に移ったほうがいい。
国際文化学部の出来事は、少しずつ私の生活から遠ざかっていった。たまに、友人たちから彼の近況を聞くくらいになった。
ある日、学生寮の友人たちが集まって、私を見つめていた。
私は彼女たちの熱い視線を受けながら、鞄を下ろした。
「どうしたの?」
仁科理央が、真剣な顔で私に座るよう促した。
「昭乃、先に心の準備だけして」
その空気に引っ張られ、私も背筋を伸ばした。
「何があったの。言って。受け止めるから」
「例の人、最近、情報理工学部の後輩女子といい感じらしい」
「例の人って?」
小野寺美咲が私の顔色をうかがった。
「羽山佑樹」
私は少し驚いた。けれど、それほどでもなかった。
メンタルが強いな、と思った。
少し残念でもあった。これでは、一生後悔してもらう計画は難しそうだ。
佳奈がため息をついた。
「別れて一か月も経ってないのにね。昭乃、別れて正解だったよ。長引いていたら、もっとしんどくなってた」
その後輩女子のことは、私も少し知っていた。
高梨陽菜という、明るくて運動部らしい雰囲気のある、いわゆる陽キャの女の子だ。
同じ女として、できれば忠告したかった。けれど佑樹の家の事情に触れる以上、詳しくは話せない。証拠もなければ、彼女が信じるとも限らない。
私にも、一応は道徳心がある。
結局、私は大学内の匿名掲示板に、名前を出さないまま荒ぶった書き込みを残した。
「みんな、恋愛するときは目を開けて相手を見て。男の人を簡単に信じすぎないで。完璧に見える人でも、近づいてみたらそうじゃないことがある」
私はもう、佑樹と関わりたくなかった。
それが、私にできる唯一のことだった。
それから私は、博士後期課程まで進んだ。
そのあいだ、恋愛を真剣に考えることはなかった。誰かを意識して拒んだわけではない。ただ、研究計画、論文、発表に追われ続け、気づけば周りから「一人で最後まで歩いていく人」だと思われるようになっていた。
修士二年のとき、佑樹が結婚するらしいと聞いた。
二十五歳での結婚は、私たちの世代ではかなり早い。まして彼は、そんなに早く落ち着くようには見えなかった。
しばらくして、本当に結婚式の招待状が届いた。
ただ、その時期の私は海外の研究交流に参加していて、結局出席しなかった。
式のあと、大学時代のLINEグループで新婦の写真を見た。写真の彼女は白無垢を着て、静かに微笑んでいた。控えめで、品があり、場にふさわしい人に見えた。
一目で、羽山さんのお母様が満足しそうな人だと思った。
その後も、私はたまに同窓の人たちから彼の話を聞いた。
離婚した。
実家との関係がかなりこじれた。
恋人ができた。
また別れた。
その後、もう一度結婚した。
そして、また離婚した。
断片的に届くその話は、ほとんど同じ人間の人生とは思えないほどだった。深夜ドラマでも、ここまで都合よくは転がらない。
佑樹の私生活は、いつまでも安定しなかった。けれど仕事の面では、彼は着実に進んでいた。
もともと能力のある人だった。私生活がどれほど乱れても、目の前のやるべきことはきちんと処理できる。そのことは、ずっと前から知っている。
私があの日送った「さようなら、私の初恋」という言葉を、彼が一生覚えていたのかどうか。そこだけは少し気になった。
あるとき、大学時代の友人に誘われて同窓会へ行った。
私は付き添いのつもりで少し顔を出しただけだった。そこで佑樹に会うとは思っていなかった。
彼は会場に入ってきた瞬間、私を見つけて表情を一度止めた。そのあとも、何気ないふりをして何度かこちらへ視線を向けていた。
私はただ、軽く会釈した。
世間話もしなかったし、余計なことも言わなかった。
ほどなくして、私は親しかった何人かに挨拶をし、先に会場を出た。
外に出ると、夜風が冷たかった。そのとき私は、もう彼からどんな答えも受け取る必要がないのだと気づいた。
ある日、古い写真を整理していたとき、私は佑樹の若い頃の顔を少し思い出せなくなっていることに気づいた。
人は本当に、少しずつ手放していくのだ。
かつてはどうしても確かめなければならないと思っていたことも、最後には問いただす意味を失っていく。
私は昔、彼を後悔させることが勝ちだと思っていた。
けれど後になってわかった。
美しく咲くことこそ、いちばんの反撃なのだ。




