殴る人
夕方。母が皿に料理を取り分ける。
「あかり!出来上がったから運んで!」
幼い娘は小さな皿に盛り付けられたカレーを慎重にテーブルまで運ぶ。
母親は一回り大きな器を二つ、サラダの入った小皿を三つ、お盆に乗せて先に座る娘の前に歩み寄る。
「はい、お待たせ。食べようね。」
いただきます、と手を合わせる前に母親が娘に尋ねる。
「これ作ったの、誰かな?」
娘は元気よく目の前の母親を指差す。
「お母さん!」
母親は少しおどけた顔で、
「はーい、私作った人。」と皿のカレーを見せびらかす。
すると、娘は
「私食べる人!」と手を合わせる。
いただきます、と言おうとしたその時、階段からどたどたと音がした。
「僕、殴る人ー! 」
居間に入ってきた男はそのまま母親の頭をグーで殴り付けた。
「俺が最初に食べるんだよ。何で呼ばなかったんだ。」
男の低い声にうずくまる母親は頬に出来た六個目のあざをさすりながら答える。
「だ、だって、何度呼んでもあなたが来ないから……」
「ヘッドホンで試合見てるのに聞こえるわけないだろ?何で直接呼びにこないんだ?俺と話すのがそんなに嫌か?なあっ!!! 答えろ!! 」
「へ、部屋に入るといつも暴れて怒るじゃない……」
母親は立ち上がり、男に掴みかかろうとする。
「口答えするな! 」
男は腹を蹴り、頭を掴むと再び地面に叩きつけた。
「この家で殴る人は俺だけなんだよ!」
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翌朝。あかりは一番に教室に着いた。学校にはあの男がいないので少しは居心地が良かった。
朝礼の時間が近づくにつれて、同級生たちが入ってくる。意味不明な視線がチラチラと小さな体を貫く。
だんだんと教室も居場所では無くなっていった。
8時のチャイムが鳴ると同時に担任の先生が入ってきた。扉を開ける音で分かった。彼女は怒っている。
「はい、みんな伏せて。今から聞くことに正直に手を挙げなさい。」
机の上に顔を乗せ、手で頭を隠す。木の香ばしい匂いがする。体を貫く無数の視線が抜けたようで少し落ち着いた。
「先月の給食費、うちのクラスだけ一人分足りなかったんです。何か知っている人がいれば手を挙げなさい。」
心地よい暗闇の中で眠気が襲ってきた。昨晩は怒鳴り声でよく寝付けなかった。このまま寝てしまおうか、と考えがよぎったその時。
『バンッ! 』
音は自分の机からした。
驚いて顔を上げると目の前には目をひんむき、口をとがらせた担任がいた。
「分かってるのよ。あなたが盗ったんでしょ!?」
「いや、先生、私違うと思いま……」
『パンッ!』
担任は頬をめがけて平手打ちを見舞った。
「あんたの家が一番貧乏なのよ!あんたに決まってるでしょ!この犯罪者!」
涙をぐっとこらえる。
「ごめんなさい。でも私は泥棒なんか……」
「認めないの!?図々しい! じゃあ、クラスのみんなで犯人を決めましょう。」
「津田さんが犯人だと思う人ー! 」
『はーい!!!』
満場一致だった。
「じゃあ、お家の人にも電話しとくから。」
「そ、そんな!私やってないんです!親には、お父さんには!」
『バゴンッ!』
額にグーのパンチが飛んできた。
椅子ごとのけぞり、後ろの机に後頭部をぶつけた。
その拍子で瞼が決壊し、溜めていた涙が溢れ出す。
『うわー、こいつ泣いてるー!』『だせぇ!』
『被害しゃぶらないで!』『うーそつき!どーろぼう!』
「泣いてるの?ほら、やっぱり犯人はあんたじゃない。」
今すぐ叫んで教室から飛び出したかった。理性を振り切り、奇声を言葉に変換する。
「な、何でこんなことするんですか?」
「仕方ないでしょ。私、殴る人なんだから。」
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あかりは小学校を卒業した。
最後に見る校門。
あいかわらず吐き気がこみあげた。
あかりは中学に上がると、部活に打ち込むようになった。
陸上部の練習は厳しかったが、小学校からの同級生は一人もいなかった。
あかりはやっと、後ろ指をさされずに過ごせる環境を手に入れることができた。
ある日の放課後。ウォーミングアップを終え、トラックにハードルを設置していく。
あかりは両手にハードルを持ちながら、グラウンドと体育準備室を何度も往復する。
後ろから、先輩たちがあかりを追い抜き、振り向く。
「あ、一年!これも持ってって!」
三人の先輩は片手に下げたハードルを娘につき出す。
あかりにもう三個もハードルを持つ自信は無かった。
「すみません……自分、そんなに持てなくて……あと一つくらいなら……」
「なに?なに偉そうなこと言っての?」
「なにこの一年。やばくね?」
「いいから三つとも全部持ってけよ。練習の時間奪うつもり?」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
あかりは両手にさらに二つ持ち、首にもう一つをかける。
「おい!」
ふと、怒鳴り声がグラウンドに響く。
「あ、先生……」
ジャージ姿の顧問がトラックに姿を見せる。
いつも厳格で真面目な顧問ならいじめにも真剣に対処してくれるはず。
「どうしたんだ?お前たち何をしてる?」
顧問は先輩たちを集めてなにやら話を聞いていた。
少しして、先輩たちは練習に戻り、顧問が娘の方に歩いてきた。
重たいハードルを背負った体は既に感覚を失っている。
たくましい胸が目前にせまる。
にやついたような、もしくは呆れ、蔑むような表情。
恐る恐る目を合わせたその瞬間。
あかりの脳天に拳がめり込む。
すかさず右頬、左頬に往復で平手打ちを見舞った。
「先輩になめた態度とるなや!なあ!?一年生ごときがでしゃばっとるんちゃうぞあほたれが!」
あかりは首をつかまれ、固い砂地の上に投げ飛ばされた。
さっきまで持っていたハードルが勢いよく飛び上がり、あかりの顔、腹に直撃する。
「練習後に来い。俺はお前をまた殴る。」
グラウンドをドタドタと駆ける音に混じって、先輩や同級生たちの笑い声がする。
グラウンドにいたくなくなったあかりは部室へ向かう。
着替え中、ユニフォームの襟に点が滲む。
あかりは鼻血がまだ止まっていないこと、そして、自分が涙していることに気づいた。
次の日から学校に行けなくなった。
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あかりは9年間、小学校、中学校という地獄で苦みぬいた。
15歳になったあかりは地元から離れることを決意し、街の高校に進学した。
毎日2時間以上かかる通学は苦痛だったが、学校に着けば仲良くなった同級生たちが出迎えてくれた。
やっと自分の居場所を見つけられたようだった。
その日、あかりは仲良くなった男子の家でデートする約束をしていた。
他人の家を訪れるのは初めてだ。
他愛ない話をしていると時間はあっという間に過ぎてしまった。
「あ、もうこんな時間。私、帰らなきゃ。」
「ちょ待てよ。もうちょっと、いいじゃん。」
相手の目から光が消え、汚れきった視線があかりの顔、胸、下腹部に食い込む。
「いや、私本当にもう帰らなくちゃ……」
ドアノブに手をかけようとした、その時。
あかりはベッドに押し倒された。
「何言ってんだよ?男の部屋に女一人で来るなんて、お前もそういうことしたいんだろ?」
「な、なに言ってるの……?」
あかりは恐怖で動けず、ただうずくまることしかできない。
男が覆い被さろうとする。間一髪、あかりは力を振り絞って床に転がって避けた。
「助けて!誰か!」
大声を出して再びドアノブに手をかけようとする。
しかし、先に男の手がドアノブの前をふさいだ。
「お前いい加減にせえよ!」
あかりの頬に拳が直撃する。
「痛い!やめて……こんなこと!なんで、なんで殴るの?」
男はあかりの腕を掴み、地べたに突き飛ばす。
あかりはアザのできた腕を庇うようにうずくまる。
「うるさいなあ!だって仕方ないじゃん!俺殴る人なんだから!」
「その気にさせたんなら謝るから……だからもう帰らせてよ……!」
声はどこにも届かない。
地獄のような時間が始まった。
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あれから、あかりは高校を中退。通信制に編入し、家を出た。
勉学の傍ら、必死になって仕事をした。
貯めたお金で専門学校に行った。
そして、去年。
あかりはついに夢だった保育士になることができた。
一見無邪気で悩みの無いような子供たち。
でも、つまはじきにされた子が必ずいる。
あかりはそんな子に寄り添える大人になりたかったのだ。
その日、あかりは初めて年少クラスの担任をすることになっていた。
まずは園児の体調確認をする。
手を上げ、子供たちに負けず元気な声を張り上げる。
「元気な人ー!はーい!て手を上げてください!」
『はーい!』
「はい!じゃあ、つらい人ー!はーい!って!」
返事は無い。どの子も体調は良さそうだ。
まずは無事に朝を迎えることができた、と胸を撫でさする。
すると、不意に背後に小さな気配を感じた。
(あっ、後ろに隠れてる子がいたのか……)
その瞬間、足元に鈍痛が走った。
「先生!僕殴る人ー!」
今日も、この平和な社会には暴力があふれている。




