いつでも逃げる準備をしている
「私は稼ぎが良いから兵士になっただけです。面倒ごとが起きたらとっとと逃げます」
歴代でも最優秀と聞いていた若い兵士を私は思い切り殴り飛ばした。
彼はあっさりと立ち上がる。
不貞腐れた様子もない。
何が起こるか分からないはずもないから当然だろう。
「逃げないのか」
「この程度で逃げていては話にもなりません」
ごもっともだ。
この程度で逃げる輩ならそもそも最優秀の成績を残すはずもない。
だが、なら何故わざわざ殴られるような事を言う?
決まっている。
「馬鹿にしているのか?」
「馬鹿にしていません。上官がどのような方かを見定めております」
もう一度殴り飛ばす。
一対一の場だから殴られはしないとでも思ったのだろうか?
だとしたら勉強が出来るだけの馬鹿としか言いようがない。
こんな場所で腹を明かす者などいるはずもない。
とはいえ、成績最優秀者を望んだのはこちらだ。
今更取り替えてほしいなども言えない。
「あまり殴られないようにしろ」
「前向きな方ですね」
「黙れ」
三度目だ。
もしや、特殊な嗜好の持ち主なのではないか。
そんなことを思いながら暗雲を想起させる出会いが終わった。
*
さて、この部下と来たら戦場に出れば少しは変わるかと思ったが驚くべきことに何も変わらない。
「敵が来ると報告を受けた。準備は?」
「亡国の準備は既に完了をしております」
殴りつける。
思い切り殴りつけたが毎度ながら手ごたえがない。
どうやら、うまい具合に防御しているらしい。
「馬鹿が。迎え撃つ準備はどうかと聞いているんだ」
「仕事は完璧にが主義です」
そう言って部下はきびきびと報告をする。
完璧としか言いようのない迎撃の準備を。
「何故、それを先に言わんのだ」
「ここまでは出来て当然の仕事だからです」
もう一度殴りつけながら私は直ちに指揮を執る。
完璧な準備をしても、戦場で起こることなどほとんどが霧の中だ。
「死ぬなよ」
「死ぬ前に逃げます」
「馬鹿が。死ぬまで働け」
「矛盾しております」
軽口を言い合いながら殴りつける。
ありがたいことにストレス解消に丁度良いくらいだ。
「死ぬなよ」
「ですから、死ぬ前に逃げますって」
*
「逃げる準備ならいつでも出来ております」
その言葉は部下の口癖でもあった。
お決まりの文句とでも言うべきだろうか。
この言葉の真価を理解するのに私はあまり多くの時間を必要としなかった。
「くそ。撤退しろ!」
旗色が悪くなれば敗北を認め撤退をする。
上の人間であれば必ずしなければならない判断。
しかし、それはいつだって苦渋の選択だ。
上手く勝つことよりも、上手く負けることの方が遥かに難しいのだ。
兵士も物資も無限ではないのだから。
――しかし。
「こちらの道を通りましょう」
「何故だ? 事前に手配した道と違うぞ」
「こちらの道は土地勘が必要なほど入り組んでおります。自国の人間でさえ混乱する道を敵国の人間が抜けられるはずもありません」
「土地勘のある者などいないだろう?」
「先日、十分に学びました。いざと言う時に逃げられるように」
にこりと笑う部下の顔。
それを見て私は従う他なかった。
敵の追撃は思ったよりも早かったが入り組んだ道のお陰で距離を稼げた。
しかし、状況が好転したわけではない。
「まだ追って来ているな」
「ええ。敵も必死です」
部下はいつもの調子で言う。
焦りも恐れも見えない。
「この先はどうする」
地図を広げながら私は聞く。
部下は一度も迷わず指を置いた。
「ここで事前に手配していた道に出ます」
「戻ると言うのか?」
「いいえ。勝ちに行くのです」
満身創痍。
命からがらの――と言うより危機は継続しているのにこの言い様。
私は思わず部下を殴る。
いつものように手ごたえはない。
こちらも疲れ切っているからだ。
だが、それを理解しているのか部下はにやりと笑うばかりだ。
まったく、力が抜ける。
「どうやって勝つというのだ?」
「事前に手配していた道は速いですが読まれやすい」
部下は淡々と続ける。
「最初から使えば待ち伏せされます。ですが、一度別の道に入れば敵は追撃に集中します。敵も待ち伏せの余裕はなくなります」
実に馬鹿馬鹿しい作戦だ。
功を焦った愚かで青くさい――。
「成功するとでも思っているのか?」
「どうせ、負け戦――でしょ?」
私は苦笑いをしながら一度殴る。
「失敗したら確実に死ぬな」
「はい。ですが」
「逃げる準備は常にしております……か?」
いつもの台詞だ。
部下は満面の笑みで言う。
「もちろん」
どうせ、負け戦。
それだけで十分だ。
いや、十分すぎるほどか。
「行くぞ」
「はい。亡国の準備は整っております」
殴ってやる。
最期になるかもしれないから思い切り。
「縁起でもないことを言うな」
「仕事は完璧にが主義です」
そのまま私は部隊を動かした。
入り組んだ道を抜けて、谷を越えて、森を抜けて――元々手配していた道へ出た。
あまりにも広く真っ直ぐだ。
ここを通れば追撃が遅れている敵軍を奇襲することも容易いだろう。
「一つ聞いていいか?」
「何なりと」
「追撃が失敗した際の逃げ道は?」
部下は満面の笑みで答えた。
「戦場はもちろん、亡国まで完璧です」
「流石だ」
私もまた笑みを返してついてきた部隊の者達へ叫ぶ。
「死地へ赴く! 逃げたいものはいるか!」
無論、知っていた。
逃げだす者はもちろん、逃げたいと思う者さえ一人も居ないことを。
「おい」
私は部下を呼ぶ。
「お前の目から見てこの部隊の弱点は?」
「不屈の意思を持つことです」
「それは弱点なのか?」
「はい。私のような臆病者がいなければ、きっと今日ここで皆が死んでいたでしょう」
「返す言葉もない」
私は微笑むと彼に深々と一礼をして言う。
「あなたに指揮権を譲ろう。あなたならば最小の犠牲で済む」
彼は頷く。
まったく。
一度くらいは拒んだらどうだ。
可愛げのないやつめ。
上の者を立てるということも教えておくべきだったと後悔したがもう遅い。
「では、一時。指揮を振るいます」
「あぁ。頼む。あなたの指揮の下ならば私も安心できる」
「ご安心ください。負けそうになりましたらすぐに逃げますので。無論、皆で」
実に心強い言葉だ。
私が笑うと彼もまた笑った。
――今や敬愛する年下の上官の本質をようやく見抜けたときの話だ。




