第2話: 逆流する魔界の狂乱と、爆音の聖女突入
その時、魔界は終わるかと思った。
あるいは、新しい神が誕生したのかと。
退屈な永劫の時を刻むだけの暗黒の大地。そこへ、次元の裂け目から突如として『それ』が流れ込んできた。
「……っ!? な、なにこの……抗えないほど甘い匂いは……!」
私――魔界でも指折りの実力を持つ上位魔族のリリスは、玉座から転げ落ちそうになった。
鼻孔を突き抜けて魂を直接揺さぶるような、超高純度の魔力の波動。
それは十年間もじっくりと樽の中で熟成された最高級の美酒のように濃密で、それでいて、切ないほどに「誰かを求めている」純粋な渇望に満ちていた。
「見つけた……。私の、運命の主……!」
気づけば、私は叫んでいた。
私だけではない。周囲にいた魔王軍の幹部たちも、地を這う低級モンスターたちも、その場に跪き、涎を垂らしながら空を見上げていた。
「「「「「おあああああ! あのお方を手に入れろおおおお!!」」」」」
魔界全土が、たった一人の人間の放った『魅力』によって狂乱の渦に叩き落とされた。
次元の門には、匂いの源へ向かおうとする美少女モンスターたちが津波のように押し寄せ、互いの髪を引っ張り合い、牙を剥いて殺し合いを始めている。
「どきなさいよ、このメス豚共ぉぉぉ!!」
私は愛用の鎌を振り回し、群がるライバルたちを物理的に叩き伏せた。
門が開くのを待ってなんていられない。
私は自らの爪を空間に突き立て、アルトが放つ黄金の魔力の導線を逆に辿る。
「私の……! 私だけのものよぉぉぉ!」
バキバキと次元を素手で引き裂き、私は光の中に飛び込んだ。
たどり着いたのは、狭くてボロい、けれど『彼』の香りが充満した至高の聖域。
ぐっすりと眠る彼の寝顔を見た瞬間、私の理屈は全て消し飛んだ。
――あぁ、もう絶対に離さない。死んでも、離してあげないんだから。
ーーアルト自宅ーー
「だ、誰か助けてえぇぇぇぇ!」
僕の絶叫は、狭いアパートの部屋に虚しく響いた。
目の前には、僕を「旦那様」と呼び、恍惚とした表情で首筋を舐めとる銀髪の美女(自称・逆指名魔族)。
「ふふ、そんなに大きな声を出さなくても大丈夫よ、アルト。……ほら、もうすぐ『うるさい客』も来るみたいだし?」
「客……? ひっ、増えるの!? 僕を食べる死神が!?」
その時だった。
ドゴォォォォン!! という爆発音と共に、僕の部屋のドア(リリスが壊した壁とは反対側)が木っ端微塵に吹き飛んだ。
「魔族め、そこまでだ! その無実の市民を放しなさい!」
もうもうと立ち込める煙の中から現れたのは、白銀の鎧に身を包んだ騎士たち。
そして、その中心に立つのは、王都の希望――『氷の聖女』として知られるクラリス様だった。
「せ、聖女様……! 助かった……!」
僕は涙を流して喜んだ。
清廉潔白で、慈悲深い彼女なら、きっと僕をこのエロティックな死神から救い出してくれるはず――。
だが、僕とクラリス様の視線が重なった瞬間。
彼女の凛とした表情が、まるでヒビが入るように凍りついた。
「あ……。…………え?」
彼女の頬が、一瞬でリンゴのように真っ赤に染まる。
そして、次の瞬間――。
(((((((なあああああああああああああああああああにこの可愛い生き物おおおおおおおおおおおおおお!!!!!)))))))))
脳髄を直接揺さぶるような、鼓膜を突き破らんばかりの『絶叫』が部屋中に響き渡った。
「な、なんだ!? 今の声……!? 耳が、耳があぁぁ!」
「……っ、聖女様!? 何事ですか!?」
周囲の騎士たちが、あまりの音圧に耳を塞いでその場に転げ回る。
しかし、クラリス様の口は一文字に結ばれたままだ。
(((((((結婚してえええええええええええ!! いますぐ式場予約してええええ! なにあの子!? 僕って言った!? 一人称『僕』なの!? 養いたい! 一生養って一生甘やかして一生閉じ込めておきたいんだけどおおおおおおお!!)))))))))
爆音。まさに爆音。
アパートの窓ガラスが振動でビリビリと鳴っている。
けれど、僕の耳に届く彼女の『言葉』は、全く違うものだった。
「……消え去れ。今すぐ……この世から……消してやる……!!」
「ひぃぃぃぃぃぃ!? やっぱり殺されるぅぅぅ!!」
クラリス様は顔を真っ赤にしてプルプルと震えながら、腰の聖剣に手をかけている。
僕には、彼女が怒りのあまり「死の宣告」を唱えているようにしか見えなかった。
「ふふん、残念だったわね聖女様。この子は私が見つけたの。横取りなんて許さないわよ?」
((((((((どけよ雌狐ええええええ!! その腕をどかせえええ! そこは私の特等席(腕枕)のはずよおおおおお!!))))))))
聖女様の口から漏れるのは(僕にはそう聞こえる)「……死ね、死ね、死ねぇぇ!!」という呪詛の呟き。
けれど、部屋の外まで鳴り響く彼女の心の声は、狂おしいほどの愛の告白だった。
僕は確信した。
僕は今日、ここで魔族に食べられるか、聖女様に呪い殺されるかの、どちらかになるんだ。
「……神様、助けて。僕、ただ召喚士になりたかっただけなのに……っ!」
魔族と聖女の、血で血を洗う(アルトを巡る)最悪の三者面談が、今ここに幕を開けた。




