君への合い言葉
ぼくは、その言葉を待っている。
朝の玄関は静かで、靴の音だけがする。
「行こう」
それを聞くと、体が先に動く。
うれしくて、理由は分からない。
でも、その言葉は知っている。
外の匂いはいつも少し違う。
風、土、遠くの車の音。
全部、あの人と歩くためのものだ。
途中で立ち止まると、あの人は待ってくれる。
急がなくていい、と言うみたいに。
ある日、ぼくは走れなくなった。
それでも、その言葉を聞いた。
「行こう」
だから、立ち上がった。
行かなきゃいけない場所があると、思った。
今はもう、玄関を出ることはない。
でも、あの人は毎朝、同じ言葉を探している。
ぼくはそばにいる。
見えなくても、匂いがなくても。
もし迷ったら、また言ってほしい。
あの合い言葉を。
そしたら、ぼくは分かる。
あの人が、ちゃんと前に進もうとしているって。




