第93話
あの日をきっかけに、アイツは元気を取り戻したように思えた。
朝の挨拶も軽やかになったし、バス停までやって来る時の歩き方だってスキップのように弾んでいるようだったし、俺を見送るときの変顔にも覇気が出てきていた。
受験前最後の夏は、お互いに夏期講習だったり模試の結果に一喜一憂することもあったが、だからといって勉強会をしようだとか、朝のちょっとした時間に問題を出し合おうとかそんな発想はなくて、今まで通り下ネタ盛り盛りのバカみたいな話ばかりしていた。
俺達はお互いの名前も知っているはずなのに、結局名前で呼び合うことはない。今更そんな気になれないのかもしれないし、お互いに相手が自分を名前で呼んでくれるのを待っているチキンレースでもしているのかもしれない。
結局、アイツが辛そうにしていたあの日、俺が連れ回したことが正解だったのかは、未だにわからない。あの日以来、お互いにそれについて触れようとはしていないからだ。あの時の俺がアイツにどんな言葉をかけたのかも今の俺にはわからないし……あの時、海岸で、アイツの誘いを断ったのが正しかったのかも、間違っていたのかもわからない。
かつて、自分の人生を憂いて華厳の滝に飛び降りた学生の言葉を借りるなら、この世界は実に不可解なことばかりだ。テストの問題には決まった答えがあるのに、人生についてはアドバイスこそあれど、何が正しいのか、何が間違っているかなんて、後になってからでないとわからないのだ。
今のところは上手くいっていても、これから先どうなるかなんて予測はつかないし、大きな失敗をしてしまうかもしれない。特に受験が間近に迫ってくると、なおのことそういった不安にかられてしまう。
今の自分が進んでいる道が正しいのか、本当に今のままで良いのか、そんな悩みと戦いながらも、俺達は冬を迎えたのだった。
「メリクリ~」
共通テストまで一ヶ月を切ったクリスマスのこと。受験前、いや高校最後の冬休みを迎えても、グレーのコートを着たアイツが俺にピースサインを向けながら歩いてきていた。
「メリクリだな。サンタさんからプレゼントは貰えたか?」
「うん。靴下の中に願書入ってた」
「嫌なサンタだな」
受験が間近に迫り、塾での冬期講習は志望大学の過去問ばかり解かされている。ひたすら傾向と対策を練っている毎日だが、コイツの腑抜けた顔は数少ない癒やしだろう。
「まぁ本当はぬいぐるみだったけどね」
「お子様だな」
「なにをぉ。一人暮らしになっても寂しくないようにって気を遣ってもらったんだもん」
「気が早いな、お前の両親は」
コイツがぬいぐるみを抱き枕代わりにして寝ていたる姿や、ベッドの周りがぬいぐるみに囲まれている光景が容易に想像できるのがちょっと面白い。
「お前って一人暮らし出来るのか?」
「勿論だって」
「夜道は気をつけろよ、出会い頭に殴られたりナイフで刺されることだってあるんだからな。あと、オートロック付きって油断してると共連れとかで簡単に忍び込まれることもあるんだからな」
「ガチめのアドバイスちょっと怖いけど、確かにあるもんねそういうの」
都会というものは、夢や希望をもって努力している人間には優しい環境だが、それらを見失った人間にとっては厳しい環境で、都会の闇に呑み込まれてしまった不幸な者達が暴走することだってある。
「まぁ俺も人のこと言えないがな。志望してる大学のどれに通うとしても、一人暮らし必須だからな」
「まぁそうだよね、ここら辺って大学ないし。君も一人暮らしは大丈夫そうなの?」
「あぁ。街中で声をかけられてもアンケートには絶対答えないし、困ってなさそうなスーツ姿の人間に声をかけられても無視するし、ぶつぶつと変なことを呟いているおっさんの存在を消す練習は完璧だ」
「いや、洗濯とか料理の練習しなよ。そういうのも大事かもしれないけど」
いとこの姉さんは大学生の頃に大都会での生活を経験してるから、色々と怖い話を聞かされた。田舎だとそもそも母数が少なすぎるから治安の善し悪しなんてわからないものだが、都会で生活していると自分が当事者にならなくても、そういうのを見かけることが多いという。
「あとさ、家に女の子を連れ込む練習も必要だね」
「それに練習もクソもあるか」
「じゃあシミュレーションしようかグヘヘ」
「やめろ、その気持ち悪い笑い方」
「じゃあ私はデ◯ヘル役ね」
「連れ込むってそういう女の子かよ。チェンジで」
「なんでぇー!?」
そういうお店で自分の知り合いと出会うって話も聞くが、実際どんな気分になるのだろうか。
「ちなみにさ、君のクリスマスプレゼントってなんだったの?」
「ダルマだった」
「なんでダルマ?」
「合格したら目入れしろって」
「選挙とかでよく見るやつじゃん」
こんな時期になると、家族も色々と気遣ってくれて、[ピー]ちるとか[ピー]べるとか縁起でもない単語を避けるようになるし、やけに夕食のメニューにカツが増えるものだ。
「君のとこってさ、冬休み明けも普通に授業あるの?」
「一月はな。二月から自由登校だ」
「そっか。ウチもそんな感じだよ」
白い息を吐いて、肌が凍てついてしまいそうな寒さを感じて、この冬という季節を感じる度に、別れという言葉が俺の頭をよぎるようになった。
「あともう少しで卒業なんだね。あっという間」
「そうだな」
「ねぇ覚えてる? 南国の小さな島に遭難して、一ヶ月もサバイバル生活した時のこと」
「夢の中でならそういう出来事もあったかもしれないな」
「まさか首狩族が住んでる島だとは思わなかったよね。あの時は助けてあげられなくてごめんね」
「俺の首はまだ繋がってるぞ」
こんなバカみたいな話をしていられるのも、あと少しの間なのだ。
いつかはこの関係に終わりが来ることを、とっくの前から俺はわかっていたはずだし、そんなものだろうと納得していたはずなのに。
なぜだか、この関係を終わらせたくないと願っている自分もいる。
そしてようやく、俺が乗るバスがバス停へとやって来た。彼女はいつものように、俺の背中をパンッと叩いて。
「んじゃ、ハブアグッドデイ!」
「ユートゥー」
俺はいつも通りバスの奥の方にある一人がけの席に座って、バスの中から彼女の方を見た。
いつか、彼女の変顔を見て泣いてしまうのではないかと、怖れている自分がいる。笑うことはないだろうが。
やがて俺の友人である新城と合流して、いつものように新城は俺の後ろの席から話しかけてくる。
「なぁ永野。俺、昨日エベレストから滑り落ちる夢見たんだけど」
「そうか。そのままお星さまになれば良かったのにな。今すぐ俺から離れろ」
「でもヒバゴンに助けてもらったんだ」
「いや、ヒマラヤなら雪男だろ」
「いるかもしれないだろ、ヒマラヤにヒバゴン。ロサンゼルスに天狗や河童がいても面白いだろ? だから永野が滑り落ちた時はろくろ首が助けてくれるかもしれないぞ」
「二度とその単語を発するんじゃないぞ」
「そうカリカリすんなって」
こんな時期なのに、新城に怖いものはないのだろうか。
そんな、笑いあり涙……涙はなかったかもだが、共テ前に最終追い込みをかけて、俺達は無事に新年を迎えたのだった。




