第91話
「帰り、どうしよっか」
自分の心の整理がついたところで、私は彼に聞いた。
「次の便まで、あと三十分ないぐらいか」
私達がここに着いたのが六時過ぎぐらい。時刻はもう八時を回ったところで、着いた頃はまだ空も明るかったのに、段々と闇に染まろうとしていた。
「ね、せっかく海に来たんだしさ、ちょっと遊んでかない? 終電まで時間あるしさ」
「砂の城でも作るか」
「いや、そういうのじゃなくてさ」
「サンオイルでもあればお前の体に塗るんだが……」
「いやもう太陽沈みそうだし」
さっきまであんな堂々と演説してた人とは思えないよね、こんなこと言われると。
「ほら、ちょっと波打ち際を歩こうよ、靴脱いで」
「確かに、そういうのも悪くないかもな」
私に気を遣ってくれたのか、彼は案外すんなりと了承してくれて、私と彼は靴と靴下を脱いで、鞄や携帯を置いて波打ち際へと向かった。
「お、おおうぉうおうおう……」
「なんだ、その声は」
浅瀬に足を踏み入れた私は、その場から動けなくなっていた。
「だ、だって海とか久々でさ、この砂のジャリジャリ感が足にゾワゾワッて来るんだよ。来ない?」
「あぁ、その感覚はあるな。怖いのか?」
「いや、怖くはないけど……」
赤く染まっていた空が闇に包まれるのは案外早くて、ここら辺には街灯もないから私達が頼れるのは月明かりしかない。
でも、この非日常感が私の心を踊らせてくれる。
「なんか、強い波とか来たら流されちゃいそうだね」
「心配なら手でも繋ぐか?」
そう言って彼は私に向かって手を差し伸べてきた。きっとその行為に他意はないんだろうけど、私はちょっと嬉しくなってその手を掴もうと一歩足を進めた時──丁度、少し深くなっていた場所に足をつけてしまったようで、私はバランスを崩して倒れそうになった。
「あ、おわぁっ!?」
「大丈夫か!?」
彼は慌てて私の体を支えようとしたけれど──バシャーンッと、一際強い波飛沫が上がった。
私と彼は、仲良く浅瀬でずっこけてしまったわけで。お互いに制服も髪もビショビショになって、私達はお互いに目を合わせた。そして、自分達の滑稽な姿を見て大笑いしたのだった。
一度全身が濡れてしまえばもう関係ないと、私と彼は浅瀬でお互いに海水をかけあって子どものようにはしゃいだり、特に意味もなく鬼ごっこをして意外と彼の足が速いことを知ったり、月明かりを頼りに綺麗な貝殻を探したり、変なものが流れ着いていないか探したりと、思うがままに海を楽しんだ。
初めて学校をサボって、列車に揺られて遠くの街まで遊びに行って、濡らしちゃいけないはずの制服を海水でビショビショに濡らして……いつもの日常とは違うことをしていると、いつもと変わらないはずの夜空が全然違う景色に見えた。
私は今、とっても幸せを感じていると思う。
彼も、そうだったら良いな。
制服がビショビショになってしまったので、私と彼は海水浴場のトイレでそれぞれ体操服に着替えて、石段に腰掛けて、そして二人仲良く頭を抱えていた。
「終電、無くなっちゃったね……」
まさか、私がこんなセリフを言う日が来てしまうとはね。
「一時間も遊んでいたとはな……」
楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうからか、私と彼は海を存分に楽しみすぎてしまい、二人仲良く終電を逃してしまいましたとさ。いや、夜の九時台に終電が来ちゃう田舎の鉄道が悪いんだよ。
「どうしよっか。あそこにホテルあるし、そこに泊まる?」
「お前にはあれが普通のホテルに見えてるのか?」
「ドライブスルーでチェックイン出来るんだって」
「俺達には関係無いだろ」
「全室フリーWi-Fiあるんだって」
「今時珍しくもないだろ」
「しかも90分で2500円だって」
「やめろ。解像度を上げていくな」
こういう人里離れたところだと、戸建てタイプのそういうホテルが結構多くてよく目につくんだよね。実際に人が出入りしているのは見たことないけど。
「せっかくだしさ、こういう機会二度と無いかもだし、ちょっと入ってみない?」
「やめろ、早まるんじゃない。こういうときのために伝家の宝刀がある」
「へ?」
すると彼はスマホを取り出して、誰かに電話をかけた。まぁそうだよね、普通親を呼ぶよね。
私は、ちょっと興味あったんだけどね。ああいう場所に。
「あ、俺だよ。いや、オレオレ詐欺じゃなくて、って、おい!」
彼の反応を見るに、相手はオレオレ詐欺を疑って電話を疑ったらしい。もしかして彼のご家族、結構愉快な方々なのかな。
彼は大きく溜息をついてから、もう一度電話をかけた。
「もしもし。姉さん、番号とか名前見ればわかるだろうが。いや本人だって。俺はこの前酒に酔った姉さんにゲロを吐かれたことを忘れてないからな」
姉さんって、もしかしてたまに彼の話に出てくるいとこのお姉さんのことかな。そういえば酒癖悪いらしね。
「あのさ、今◯✕の海水浴場にいるんだけど……え? いや、それはごめんって。良いだろ別に、たまにはサボっても。今までずっと真面目に学校通ってるんだから一回ぐらい良いだろ、別にテストとかあったわけじゃないし」
どうやら、今日学校をサボったことを怒られているみたい。私は一応友達にサボることを伝えておいたし、彼も列車の中で連絡を入れてたみたいだけど、まぁ理由までは説明してないよね。
「あ、はい。すみませんでした。はい。あの、あ、はい。あ、うん。そう、迎えに。はい。説教なら後でたっぷり聞くから、はい。迎えに来てください、お願いします」
さっきまでいつも通り接していたらしい彼が、相手が目の前にいるわけじゃないのに低姿勢でペコペコと頭を下げながら電話している姿がちょっと面白かったし、申し訳なくもあった。
そして電話を終えた彼は、大きく溜息をついていた。
「迎え来るから。多分二、三十分ぐらいかかるだろうが」
「もしかして、いとこのお姉さん?」
「そうだ。親を呼ぶのも悪いし、お前も気を遣うだろうからな」
前から彼の話の中で出てくるいとこのお姉さんのことちょっと気になってたから、会うのは楽しみだ。
「君のいとこのお姉さん、結構厳しい?」
「まぁ、こういうことにはな。一応、普段はちゃんとした大人だから」
じゃあ私も怒られちゃうのかな。でも、彼と二人仲良く怒られるのは悪くないかも。
「それにしてもさ、なんだかスースーするね」
「流石に下着の替えまでは用意してないからな」
浅瀬で思う存分遊んで制服がビショビショになった私達は、勿論下着もビショビショになったから、お互いにノーパン、私は追加でノーブラ。ちょっと落ち着かないね。コンビニでもあれば替えを買うことも出来ただろうけど、最寄りのコンビニまで歩いて三十分以上かかりそうだからね。
「私の透けブラどうだった?」
「暗くてあまり見えなかった」
「残念だったね。私の淡い桜色の下着を拝めなかったなんて……」
「いや、水色だっただろ」
「見てたんじゃん!」
「見たくなくても見えてたんだよ!」
まぁ、今はその下着を見られる心配もないけどね。だって身につけてないんだから。
私から話題に出しといてなんだけど、こういう話しない方が良かったかな?
それとも、私はそういうのを求めているのかな。
「ねぇ、いとこのお姉さんが来るまで、あと二、三十分あるんだよね?」
「あぁ、もうちょっとかかるかもだが」
「それまで何しよっか?」
「疲れたから寝てていいか?」
私は彼の脇腹を思いっきりグーパンした。
「いってぇな!」
「見損なったよ」
私の遠回しなお誘いにのってくれなかったからじゃなくて、この状況でそういう気になってくれないことの方がショックかも。
「いとこのお姉さんが来たらさ、まず体操服姿の私達が目に入るわけじゃん?」
「そうだな」
「それを見てどう思うのかな? どうして服を着替える必要があったと思う?」
「海で遊んでたんだなって思うだろ、普通」
「年頃の男女二人が、それだけで済むかな?」
多分、彼もわかっていないわけじゃないと思う。私が悩んでいることに気づくぐらいだから、そんな鈍感じゃないはず。わかっている上で、その一線を越えないようにしてる。
「何が言いたい?」
それを私に言わせちゃうかなぁ。
「例えばさ」
「あぁ」
「私がはさみとかカッターで指を切って、私の制服に血痕を残すとするじゃん」
「……何を企んでいるんだ」
「スカートとかに良い感じに血痕つけたら、良い感じにそれっぽくなるんじゃないかなぁって」
いつもは何気なく下世話なことを話しているのに、こういう時だと中々直接的な表現を言えなくなってしまう。
でも、私が何を求めているのか、彼がわからないはずもなく。
「やめろ。姉さんはマジでそういうのに厳しい人なんだ。ちょっとアレな人ではあるんだが」
「あと二十分ある」
「いや、本当にそれだけの猶予があるかは──」
私達が石段でそんな言い合いをしていると、突然車のクラクションが聞こえてきた。
見ると、近くの道路脇に青い軽バンが停まっていて、中からTシャツとショートパンツ姿のスラリとした体型のポニーテールの女性が降りてきたところだった。
「あぁ……近くで買い物でもしてたのか」
電話をかけてからものの十分程度でやって来たいとこのお姉さんを見て、彼は納得したような、安堵したような、そして残念がっているような表情で溜息をついた。
その人はきっと、彼が言っているいとこのお姉さんのはずなんだけど。
その人は、どういうわけか私もよく知っている人だった。
あの人……私が通ってる学校の先生じゃん!?
私の手が滑っていたらノクターンノベル直行でしたね。




