第90話
「幸せってのは人それぞれだ。だからこそ、自分の幸せは自分で探さないといけない」
あまり期待していなかったというわけじゃなかったけれど、意外にも彼の言葉がすんなりと私の耳に、いや心に入ってくるから、私達がこの砂浜に来てどれだけの時間が経ったのかわからないけれど、まだまだ彼の話を聞きたいと思えていた。
「辛い環境は勿論、恵まれた環境にいても、幸せは見つけづらくなってくる。その分、幸せのハードルが上がるからな。庶民はそこら辺に溢れているものでも満足できるのに、富裕層は何かと特別なものを求めるからな。生活に困窮していて日々生きるのが大変な人達が俺やお前の悩みを聞いたら、きっとオノや包丁を持って切り掛かってくるだろうさ」
同じ日本にだって、いやきっと私達が住んでる町にだってもっと苦しんでいる人達はいるだろうに、あくまでそれはこの恵まれた国での苦しみで、苦しい国での苦しみとは別物だ。
「実際、自分に与えられていたはずの幸せを失ってからようやく自分がどれだけ幸せな環境にいたか気づくかもしれないが、気づいてからは手遅れだろう。それに、辛いことばかりだと余計に幸せを見つけづらくなるだろうからな。だから、一旦苦しいことや辛いことから距離を置くのも一つの手だ」
「現実から逃げて、何か解決するかなぁ」
「逃げることが恥ずかしいか?」
「うん」
私が弱音を吐くと、私の隣に座っていた彼がいきなり立ち上がって、海に向かって叫んだ。
「生きるために必要な行動を選んで何が悪い!」
彼の大声なんて初めて聞いたから、ちょっとびっくりしてしまう。
「生きるための選択肢を放棄して、一体何が人間か!」
なんか、スイッチが入ったっぽい。
「人間が寝て起きて、美味しいものをたらふく食べて、そして溜まりに溜まった性欲を発散するのは生きるためではないのか!?」
彼は唯一の聞き手であるはずの私の方を向かずに、何故か海に向かって演説していた。
「それらはあらゆる生物に共通する基礎的な、いや当然あるべき願望のはずではないか!」
確か、倫理の授業で習ったマズローって人の話でそういうのを聞いたことある気がする。生きるために必要な睡眠欲とか食欲とかの欲求が、ピラミッドを支える一番下の土台にあるみたいな。
「生きることの何が恥ずかしい! 当たり前のことを願って何が悪い!」
彼の心からの叫びを聞いて、私はなんとなく理解した。
彼は私をただ励まそうとしているんじゃなくて、きっとそう自分に言い聞かせているのだろう、と。
「俺達はなんのために生きるのか!? 自分の幸せのために生きるのではないか!?」
段々と赤みが増してきた夕空に、幸せを叫ぶ彼の声が響く。
「この世はなんと幸せに満ち溢れていることか! だが、それに気づかない人間がなんと多くいることか! 生きることすら辛いなら、どうして人は醜くも生きるのか!? 生きていれば、まだ自分が何かの幸福に触れることが出来ると信じて疑わないからではないのか!?」
彼は、そんな幸せの哲学を持っているから強く生きることが出来たのだろうか? それとも、強く生きていたからそんな幸せの哲学を考えることが出来たのだろうか?
どちらにしろ、私は不思議と彼の演説に引き込まれていたのだった。
「この世に生を受けた人間は皆、幸福になる権利を有する! 誰もが幸せに生きたいと願う権利を有する! その幸せの要素こそ違えど、これはどんな身分の人間も変わらない!」
そう、権利なら誰でも持っている。それを行使するか、実行するかはその人の自由というだけで。
幸せになりたいと願うからこそ、私達は苦しむこともあって、そして苦しめば苦しむほど、より幸せを求めるようになってしまう。自分に限界が来るまで。
「ではこの幸福の価値を決めるのは誰か!? それは自分以外の何者でもないはずだ! 自分の幸福を他人の尺度で決められてたまるものか!」
もしかしたら、私と彼とでは幸せと感じる物事に差異があるかもしれない。でもそれは当たり前のこと、人によって食べ物の好き嫌いがあるのと同じなんだ。
もしも私が誰かをパートナーに選ぶことがあるなら、その幸福の尺度が似ている人が良いかも。
「俺は突然、この世に生を受けた! 望んでいたわけでもないのに、この不可解なことばかりの世界に放り込まれた! そんな迷い子がこの世界でどう生きるか、それを教えてくれる者がいるはずもない! なぜなら大人も子どもも、死の瞬間まで皆未熟な生物だからだ! 最後で幸せに生き、最後まで生きたいと願い続けた人間こそ、幸福にこの世界を去ることが出来るだろう!」
私が求めている幸福と、彼が求めている幸福とじゃ、どのくらいの違いがあるのだろう。
「俺はあと何年生きるかもわからない! しかし、もしもこの瞬間自分が死んだとしたら、きっと多くの未練を残すことになるだろう、もっと生きたかったと願うだろう! しかし、俺は常に幸福な人間だ! 生きるために、より多くの幸福を感じるために、日々刺激を追い求めている! どれだけ多くのことを成し遂げたとしても、きっと俺は多くの未練を残したままこの世界を去るはずだ! こんなにも広い世界に存在するあらゆる物事は、百年かけても踏破することは不可能だからだ!」
自分がどう生きたいのかなんて、友達と話したことなんてないし、そういうことを考えるのってもっと先の話だと思っていた。
「きっとこれからも、俺は多くの幸福を享受するだろう!」
だから、私と同い年なのに自分なりの答えを見つけている彼を凄いと思えたし……。
「そして、幸福な死を迎えるのだ!」
この人と出会えて良かったと、思えるんだ。
「ふぅ、疲れた」
演説を終えると、彼は再び石段の上にあぐらをかいて大きく息を吐いていた。
「俺、何の話をしてたんだっけな」
「なんで忘れちゃったの。良い演説だったよ。君、何かの教祖になれるんじゃない?」
「そこは政治家と言ってもらいたいところなんだが、そういう道も悪くないかもしれないな」
「私は公安を目指すから」
「取り締まる気満々か」
演説している時の彼はまるで別人のようだったけど、こうして私と話している時の彼はああいうポリシーが根底にあって生きているんだと思うと少し面白いかも。
「まぁ、お前はお前のやりたいようにやれば良いのさ。それは別に壮大な夢じゃなくて良い、少しでも幸せを掴んでそれが積み重なっていけば、お前の人生も明るくなるだろうさ。心が辛さを感じている時よりも、幸せを感じている時の方が良い答えが出るに決まってる。やりたいようにやれ、勿論公共良俗に反しない限りでな」
「じゃあさ、私が君のことを殴りたいって言ったら殴らせてくれる?」
「公共良俗に反しない限りって言ったはずなんだがな。しかし、俺はマゾだからどれだけ殴られても喜ぶ!」
無敵だねこの人。
というわけで、私は軽く彼の肩をグーで殴ってみる。
「えいっ」
「効かぬわ」
「まだ足りない?」
「まだまだだな」
私は別に彼を満足させるために殴ってるわけじゃないはずなんだけどね。
「えいえいっ」
「痒くもないな」
「えいえーいっ」
「百年早いわ」
「ねぇ、本当に今の君は幸せなの?」
「あぁ、勿論だ」
「変わってるね」
「よく言われる」
そういう変なところも、この人の素なのかな。それとも私のために作ってくれている側面なのかな。でも、真面目な自分も変な自分も、自分の幸せの範疇に取り込めてしまうんだから、この人は凄いんだと思う。
「ね。君にとってさ、私と話すことって、どれくらい幸せなの?」
私よりたくさんの幸せを感じているはずだから、私は気になってしまう。
彼の幸福における、私の価値を。
「そうだな……」
さっき堂々と演説していたときもそうだけど、彼は隣にいる私にそっぽを向いたまま答える。
「俺の人生で一番の幸せだな」
私の方を向いてくれないのは、彼なりの照れ隠しなのかな。
「じゃあ、今の私達、とっても幸せだね」
「そうだな」
こんな身近に、幸せってあったんだね。




