第88話
「私ね、夢がないんだ」
白浜に押し寄せるさざ波と、時たま聞こえる車の走行音とカラスの泣き声が耳に入る中、私はそう切り出した。
「昔はさ、例えば幼稚園の時とか小学生の時とかはさ、自己紹介のプロフィール欄に、ケーキ屋さんになりたいとか、ペンギンになりたいとかさ、軽い気持ちで書くじゃん」
「俺も戦隊ヒーローにずっと憧れていたな」
「確かに多かったね、そういう男子」
将来の夢って医者とか消防士とか警察官とかが定番で、運動神経が良い子はアスリートだったり、ちょっとミーハーな子はユーチューバーだったり、各々が思い思いに好きなように書くものだ、将来の夢なんて。
「でもさ、中学に入ってから、周りの皆が段々と夢を見つけて、それを目指すために高校を選んでさ、そこでまた新しい夢を見つけることだってあるわけじゃん。だけどね、いつの頃からか、私はそういうのがわからなくなってきたんだ」
頭が良い人は進学校へ、頭が残念な人は相応の学校へ、何か資格が欲しい人は工業高校とか商業高校へ、それなりに自分の将来を思い描いて学校を選ぶものだと思う。
でも、勿論まだそういうのが決まってない人もいるはずで、私みたいに友達が行くからという理由だけで選んだり、制服が可愛いからだとか、憧れていた先輩がいるからだとか、そういう理由があってもいいはずだ。
多分、高校までは。
「小学生の頃はさ、遊べる時間って不思議とたくさんあったんだよ。学校があって、色んな習い事があっても、空いた時間に好きな絵を描いたり漫画を読んだり映画を見たり、とくに目的もなく外を散歩したりできたんだよね」
「俺もよく散歩してたな。虫取りとか好きだった」
「なんだか意外だね。でも中学に上がってからさ、何故か急に自由な時間が減ったような気がして、毎朝起きて、学校に行って、塾に行って、あるいは習い事の教室に行って、家に帰って、勉強して、寝て、また朝を迎えて……そんな毎日の繰り返し。たまに友達の家に遊びに行くのが、唯一の娯楽だったかもね」
私は運動神経があまり良くないから文武両道というのは難しかったけど、もしそれを志していたならもっと忙しい学校生活を送っていたかもしれない。
「高校に入ってからはさ、習い事がちょっと減ったから自由な時間が増えたんだけど、その頃にはさ、もう自分の好きなものがわからなくなっちゃってたんだよね。色んな本を読んだり、ネットで色々調べたりさ、色んな情報を手に入れて、片っ端から自分が好きになれそうなものを試したよ。勿論、君との毎朝の会話も色々参考になったし」
「SMプレイも試したか?」
「うん」
「試しちゃったのか……」
「でも、どれも長続きしなかったんだよね」
流石にSMプレイは相手がいなかったから無理だったけど、それを快感に感じてしまったら私は抜け出せなかっただろうね、その世界から。
いや、もう我を忘れて没頭できるぐらいなら、そういう趣味だって持ちたかった。
「色んなことやって気を紛らわそうと思ってもさ、いつも、こういうことやってるよりも、もっと将来のためになることをやらないといけないんじゃないかって、そんな強迫観念にとらわれちゃうんだ。だから結局やることといえばさ、受験とか将来の仕事に役立ちそうな資格の勉強なんだよね。英検とかTOEICとかTOEFLとか国連英検とか」
「英語極めすぎだろ」
「あと仏検とか独検とか中検も、まだ一級は取れてないけど一応二級とかは持ってる」
「語学が好きなのか?」
「役に立ちそうだから勉強しただけで、あまり好きじゃないよ」
海外旅行には興味があるけれど、海外に住みたいとはあまり思わない。日本の街まるごと海外にあったら引っ越してもいいけど、私は母国語が通じる世界の方が落ち着ける。
「でさ、ふと考えちゃったんだ。私の人生、これから先もこんな感じなのかなって。毎日同じことの繰り返しでさ、ひたすら勉強と仕事のために生きて、休日は何も手に付かなくて、ただぼーっと過ごすだけ。とても、時間を無駄に消費してる気がして怖いんだよ。なにかしないといけない気がするのに、何もできない自分が……」
最近は特にこの『時間』という概念がとても怖く思えて、本当は息抜きも必要だってことを頭では理解しているのに、どうして私は遊んでいるんだろうって考えちゃって、たまの息抜きですら楽しむことが出来なくなってきていた。
そんな悩みを友達とか先生、家族には伝えられずにいたけれど、どういうわけか、私は彼に打ち明けてしまった。
「親御さんには相談したのか?」
「ううん」
「厳しいのか?」
「ううん、全然」
「かなり放任主義なのか?」
「そうじゃないよ。とても優しいよ、私のパパとママは。だから、なんだか期待を裏切っちゃいそうで怖いんだ、私。今までさ、私の教育のためにいろいろ施してもらってるけどさ、それを全部無駄にしたら、とんだ親不孝だもん」
アルコール依存症だとか、育児放棄だとか、虐待だとかそういうのは全然なくて、かといって過干渉してくるわけでもなく、放任するわけでもなく、私の両親は良い親なんだと思う。
「パパもママもね、優しいんだよね、私に。だからさ、多分、私が突然変な夢を掲げてもね、応援してくれる気がするんだよね。学校とか仕事が嫌だって駄々こねたら、嫌な顔せずに実家暮らしさせてくれると思うし」
そんな気がするってだけで、私が実際にそんなことを言ったことはないから、実のところ本当はどうなるかわからない。
「だから、余計に辛いんだよね。むしろ、甘えるなだとか、勘当して出ていけって言われた方が、頑張れる気がするのに……いや、本当に頑張れるかもわからないのに、無責任だね、私」
「まったくだな。お前はメソメソ泣いてそうなのに」
「うるさいやーい」
人って不思議なもので、本当は優しくしてもらいたいはずなのに、どういうわけか優しくされてばかりいると怖くなってきて、時には厳しく接して欲しいとさえ願っちゃうんだ。実際に厳しくされたら、とても怖いはずなのに。
「私はさ、パパとママの嬉しそうな顔を見るのが好きだから、ずっと頑張ってきたんだ。そしたら、いつの間にか、周りから優等生ってチヤホヤされるようになったんだよね。そしたらなんだか余計に優等生っぽく振る舞わないといけない気がしちゃってさ、自分が本当に優等生なのか、本当に根っから真面目なのか、どういう性格なのか、いつの間にかわからなくなっちゃったんだよね。本当の自分の気持ち」
人間なら誰しもが迎えるという思春期という大人への成長過程で、私は余計な悩みを、いや必然的かもしれない悩みを抱えていた。
自分が何をしたいのかわからない。本当の自分の気持ちもわからないから、ずっと不安に襲われていて、それを何かで紛らわしている。
「贅沢な悩みだよね、こんなの。私って、とても恵まれた環境にいるのに」
私の家は特別裕福ってわけじゃないけれど、私が頑張っている姿を見せたらそれ相応に褒めてくれるし、それなりのご褒美だってくれたし、私がもっと頑張れるための環境だって与えてくれていた。
そんな施しを全て無駄にしてしまいそうな自分が、とても怖い。
「毎晩のようにさ、そんなことが頭をよぎって、そんな人生でしかないなら、もう終わらせちゃえって、何度も思ったよ。どんな死に方なら痛くないか、誰にも迷惑をかけないか、何度も考えたね。で、結局考えてる途中で寝ちゃうの。バスに乗ってる時もさ、電柱とか看板が倒れてきて、私にクリーンヒットして、私だけ死なないかなって、何度も願ったよ。塾からの帰りに、突然雷が自分に落ちてこないかって、クマとか出てこないかなって、何度もイメージしたね。天気は晴れだし、ここら辺にはクマなんて出ないのにね」
死にたいだなんて、考えるのは自由。行動に移さなくても、そんなことを考えたことがある人は結構いると思う。私は考えるだけで、ちょっとイメージしていただけで、行動に移そうとは思わなかったけれど。
この世界には死にたくないのに理不尽な出来事で死んでしまう人もいるのに、心のどこかで死にたいと思っている人って、そう簡単には死なないんだよね。
「辛いことから逃げてたって、何も良いことないはずなのにね」
でも、こんなに悩み苦しむ日々が続くなら、彩りを失った将来を思い描くことしかできないなら、いっそのこと終わってほしいとは考えちゃうんだ。
私は大きく息を吸った。海の香りを存分に感じて、そして大きく息を吐く。
「本当は、誰にも話したくなかったんだけどね、こんなこと」
家族にも友達にも先生にも話せなかったことなのに、どうして彼には話せたのだろう。
「誰にも教えないまま、静かに消えようと思ってた」
もしかしたら、私が消えてしまうタイミングが近かったのかもしれない。
「一人は寂しいのはわかっているはずなのに、一人になりたかったんだよね。誰にも迷惑をかけたくなくて」
でも、いつもバス停で会っていた彼が、今こうして私の隣にいてくれる彼が、この同じことを繰り返す日々に変化をもたらしてくれたから、私は……。
「バカみたいでしょ、私」
「お前はバカじゃない」
「バカ」
彼は呆れたように大きく息を吐いた。きっと面倒くさい女だと思われたことだろう。いや、元々そう思われていたかもしれないけどね。
でも、意外にも彼は平気そうな顔をしていて、膝の上にかかった白砂をパンパンと払ってから口を開いた。
「じゃあ、今度は俺のことを話す番だな」
「いや、別に聞きたくないけど」
「せっかくお前の話を聞いてやっていたのに?」
「そんな深刻に受け止めなくてもいいよ。話してちょっと楽になったし」
「俺なりのアドバイスをしてやるだけだ」
私は、この長ったらしい愚痴を聞いてもらえたらそれで満足するはずだったけれど。
でも、彼がどんなアドバイスをしてくれるのだろうと、ちょっと気になっていた。




