2-8 静かなる扇動者
西の霊峰は東の霊峰より厳しいというのは、修行だけではなく山道もだということを、藤緒は実感した。
(疲労がにじみ出ていて、速度が上がらないわね・・・)
藤緒は籠に揺られているだけだが、男衆は息が上がって遅れる者もいた。東の霊峰には湧水もあったが、西の霊峰には湧水もほとんどなく、乾いた山であった。土と緑に囲まれた山で、東の霊峰とはまるで印象も違った。
「あれが、祠だが・・・」
清雪が絶句した。祠の周りにあったのは、あの忌まわしい達磨の旗だったからだ。麓からここまでは、あの旗はひとつもなかったのに、ここだけ密集して立てられていた。
『ここで心が折れてはいけない』
オルメカがいった。藤緒は石をひとつ取り出して、結果を清雪に伝える。
「勇気を持って立ち向かえば、勝利する、と出ています。清雪さま、行きましょう」
進もうとして前に出た藤緒を追い越して、何を思ったのか清雪は祠まで走って行った。
「龍堂殿!龍堂殿は中におらぬか!!」
祠の人間の様子は、東の祠の人間と違っていた。東の祠の人はみな白い着物を着ていたのに、ここにいる人間は朱色の着物を着ていた。香が焚かれているのか、煙があちらこちらから出ており、むせ返るような異国情緒あふれる匂いが溢れかえっていた。
(信仰の中心はここだわ・・・)
藤緒に直感が降りてきた。懐の一番奥にしまっていた懐剣を握る。碧葉がいるとはいえ、自分の身は自分で守るのだと、決意する。
「おお、これはこれは。国の中枢にいるお方が、都からこんなに離れた鄙びたところへおいでくださるとは。ようこそおいでくださいました」
返事をした龍堂と呼ばれた人は、口調こそ恭しく丁寧なものの、態度は慇懃で清雪を馬鹿にするような振る舞いであった。また、髭を蓄えているが、杖もなく歩き恰幅もよく、堂々と威厳と風格を感じさせる男であった。
(国の中枢・・・ね。いろいろとわかる人は清雪さまとわたしの関係も気づいていて、清雪さまを身分や名前で呼ばないのだわ・・・)
藤緒は隆元のところでも感じたことをここでも感じた。祠の守り人というのは、相応の実力者だということなのだろう。
「これは、どういうことか?」
清雪は苛立ちを隠さずに、旗を指差してそう言った。祠は帝の管轄だと道中で清雪から教わったが、だとすればこれはやってはならないことだろう。
(この人には人を煽動する力がある。あとは恨みがわかれば・・・)
藤緒は龍堂から目を離さない。碧葉も、藤緒にぴったり張り付いて離れない。危険ではないという確証が感じられなかったからだ。
重苦しい空気の中に、藤緒は敵意に似たなにかを感じていた。清雪に、国の中枢に向けられた悪意のようなものを。
「今どき、八百万の神も山岳信仰も流行らぬ。私はここで三蔵の書を読んだ。経蔵・律蔵・論蔵と言われる書だ。若輩のお主たちにも聞いたことぐらいはあろう?」
龍堂は慇懃な態度を崩さずに話し続けた。本来であれば、清雪のことを龍堂は敬うべきであるのだ。そのうえであえて清雪を挑発している。藤緒は全身にビリビリとした感覚を感じていた。
「どれも一通り読んだことはある。ただ、この国の信仰にはあまり馴染まないな。信仰するのを止めはしないが、西の祠の守り人である人間のすることではない。職務を忘れるな」
清雪は吐き捨てるように言った。
やはり、帝の直轄の祠で新しい宗教を立ち上げるのは職務に反しているようだ。そして、ここが信仰の中心であるという自分の直感は正しかったと藤緒は確信した。
「先帝の兄でありながら、これだけの能力を持ちながら、西の祠に押し込められた。あれから何年、経つと思う?わたしに元々信仰心などないと、彼らは知っていたはずだ」
龍堂の独白が始まった。
先帝の兄ではあったが、才覚がないと決めつけられ、後継者にはなれなかった。しかし、龍堂を帝にしたい一派はおり、そのため龍堂はどの都からも距離のある西の霊峰の守り人としてここにきたのだそうだ。
「守り人といっても何をしていいかもわからず、書を読み漁ったのだ。どうすれば、わたしをこんな鄙びたところに送った人間たちを、見返してやれるかと」
(いろいろな政治的な思惑が絡んでこの人はここにいる。だからこそ、いろいろな恨みが積み重なったと、アカンサスは言ったんだわ)
藤緒は考える。体に無意識に力がこもっていくのを感じた。
「そこにいるのは、歴史から消された家系の者だな。あの家同士を縁組させるなど、国の脅威になると思わなかったのだろうか」
突然、藤緒に話の刃が向いた。東の祠でも少し聞いた話だ。
「今はそんなことではなく!!」
清雪は珍しく大声を出した。重苦しかった空気が凍りつき、龍堂は話を戻して続きを話し始めた。
阿毘達磨を作ったのは、ただの思いつきだったそうだ。しかし、島に阿毘達磨を広めるまでに、十五年かかったという。
「信心深いものが多くて、なかなか信じるものがいなかった。しかし、日照りや飢饉のたびに、施しとともに阿毘達磨を教えていった。いやあ、民の扱いとは存外かんたんなものだな」
そうして、民は徐々に阿毘達磨に傾倒していったという。昨日、寝る前に思い出した父の話はこの暗示だったのか。
(この人の目的は何?)
藤緒は、復讐の方法が思いつかなかった。この信仰がどう見返しに繋がるのだろう。
「高辻の娘よ、時間をかければお前は気づくだろうが、わたしの願いをせっかくだから教えてやろう」
(今、思考の奥を吸い取られた感じがした。頭の中まで侵食される嫌な感じだわ・・・)
藤緒は驚く。そういった能力には聞き覚えがないからだ。
「わたしの願いは、この民たちが都へ向かい、阿毘達磨神の脅威を今の朝廷に認めさせ、わたしの方が実力者であったと思い知らせることよ」
龍堂は話をその言葉で締めくくった。民が都に向かうには海があり、現実的ではない気がするが、それだけの用意があるというのだろうか。
「民は、いつ動く」
声を絞り出すようにして、清雪が尋ねた。
「それはそのお姫様の方が良く分かるんじゃないかい?
道中、旅籠に寄らなかったようだが、信者は客には嫌がらせはしない」
(この実力、確かに・・・。今の帝の実力は知らないけれど・・・。
この能力があれば、あるいは。海を越える準備など、とっくに・・・)
藤緒が考えるとすぐに、龍堂は返事をしてくれた。
「さすがだな、そこまで予測できているとは。女だからといって侮ってはならないなあ。だからこの二つの家の縁組を許してはならなかったのに、帝の血筋も衰えたものだ」
(東の祠でも、聞いたことのある話。この人も何か知っている・・・)
藤緒は緊張が絶頂に達したのか急な疲労感を感じていた。父の家系と母の家系は、結ばれてはならなかったと、この男は言いたいのだ。
「ちなみにわたしは何もしない。もう舞台は整ったからだ」
龍堂はにやりと気持ちの悪い笑みを浮かべる。
多分この人は扇動しただけで自らが動く気はないのだろう、と藤緒は思う。ただその千里眼で全てを見通す。海を渡る準備も、そそのかしただけで民たちが自分でしたことなのだろう。
この男をこれ以上敵に回してはならないが、これ以上ここにいても仕方ない、そう藤緒は感じた。
「都に戻ったら、もう少し適切な役職につけないか打診しておく。龍堂殿がこれ以上何もしないなら、ここにいる意味はなさそうだ」
清雪はため息をついた。
「龍堂殿と対峙すると、いつも何かを吸い取られる感じがして疲れる。このあとの民の動きの方が大事であるので、帰らせていただく」
清雪は、龍堂に会ったことがあるのだろう。そしてそのたびにこの気色悪い思いをしていたのだろうな、と藤緒は考える。
秀眞の国では次の帝は帝自身が決め、最も才覚のある者を選ぶ。龍堂は選定に漏れたというが、先の帝の話は藤緒はほとんど知らないため、この男より優れているかはわからなかった。
ただ、「最も才覚のある者」という選び方に問題があるのかもしれない、とうっすら感じた。
清雪の指示に従って急いで西の祠から山を下る。下りは早く進めるはずが、悪路なこともあるのか、気持ちの問題か、みな足取りが重い。たいして事情を知らない碧葉までぐったりしているのだから他の人はよけいに足が重かろう。
その日は、麓の旅籠に泊まることにした。達磨の旗はかかっているが、もてなしは普通だった。
その夜、碧葉が一言、
「僕は藤緒さまを守り切れるでしょうか」
と生まれて初めて聞く弱音を吐いた。
「守り切ろうなんて、思わなくていいのよ」
藤緒は言った。
「いえ、僕は藤緒さまを守ると決めたのです。ご両親とも、約束しました」
碧葉は食い下がる。碧葉の手を取って、藤緒は自分の想いを伝えた。
「天命は、決まっているものだと思うの。守り切れなかったときは、わたしが命を失う運命だったということだから・・・」
そう返した藤緒に、碧葉は背を向けて震えていた。こういうときの碧葉はたいてい泣いているときだと、藤緒は知っていたが、それ以上は何も言わずにいた。
(それでも、決して離れていこうとはしないのよね・・・)
藤緒は碧葉の背中を見つめていた。




