2-7 信仰に染まる地
次の日の朝、藤緒は早く目が覚めた。窓を開けて寝たので、冷気が入ったからだろう。藤緒は着替えると、さらに窓を開けて東の霊峰を眺めた。
(どこか、懐かしい気がする・・・)
これは血が感じている記憶だろうか。藤緒はここには初めて来たのだから。
感慨に耽っていると、熱を帯びた赤い石が、突然話し出した。
『僕は、古い記憶を持つ者。藤緒に必要なこともたくさん知ってるよ。だから肌身離さず持ち歩いて』
昨日も懐に入れたのだが、熱くて枕元に置き直したのだった、と藤緒は思い出す。荷物の中に、絹でできた鴇色の巾着袋が入っていたので、赤い石を入れて懐に入れ直した。これを用意したのは宮木だろうか。それにしてはお膳立てされ過ぎているようにも藤緒は思った。
(これもひょっとして今朝現れたのかしら・・・そんなこともあるの?)
占い道具以外の出現は、かつて起こったことのないことだ。
『無理しちゃだめよ!』
『ひとりで生きていく決断を今するのはまだ早い。あなたは弱音を吐くことを覚えた方がいい』
カードたちの声が聞こえた。新参者のオルメカの声までする。弱音を吐くとはどういうことか。弱音を吐くなんて、したことがないのでやり方がわからない。
藤緒は首を振った。考えても仕方ないことは、最近は特に考えないことにしていた。
最後かもしれないまともな朝餉を食べて、馬車に乗り込んで西の霊峰へと向かった。
本来であれば海岸線沿いを走るのが、馬も疲れず景色も良いらしいのだが、達磨の旗の集団から隠れたいと清雪が言ったため、都から来た一行は、山あいの谷を利用して進んで行った。悪路ではあったが集落も少なかった。しかし、その少ない集落の中でも達磨の旗は存在感を放っていた。
「阿毘達磨の教えはなんなんでしょう。なぜ、危険なのでしょうか」
馬を休ませている間、藤緒は思ったことを口にする。秀眞の国は人の信仰には寛容な国のはずだ。
「教えはなんであれ、短期間でこれほどまでに熱狂している。熱狂した人間は、何を起こしてもおかしくないのだ。だから、調査と対応が必要なのだ」
清雪は言った。
『彼は気が急いているのかな』
「情熱があるのはいいことですが、表裏一体だと言われていますよ」
藤緒はオルメカを引いた結果を述べながら苦笑した。
本当であれば、阿毘達磨側の人にも話を聞いてみたいと、藤緒は思った。でも他の信仰をしている者を阿毘達磨側の人間が迫害するのであれば、やはりむやみやたらに近づいてはならないとも思った。西に向かえば、教祖がいるのか。西の祠は無事なのか。
ダリアが話したいというのでカードを引く。結果を見ながら、藤緒は清雪に語りかけた。
「誠実で信頼できると思っていた友人に秘密があると、カードが言っています」
「西の祠は、すでに落ちているかもしれないな・・・」
それを聞いた清雪は、そう呟いて黙り込んでしまった。誠実で信頼できると思っていた人間と言えば、おそらく西の祠の守り人であろう。西の霊峰は東の霊峰よりも修行が厳しいといわれているが、それでも山に入る人は絶えないと、藤緒は聞いたことがある。
(都で聞いていた話はしれてるけど、西の霊峰は歴史も古いっていうのになあ。そんなにかんたんに崩れるものかしら)
どうしても馬車では超えられない箇所があり、海沿いに出た。海岸線から見る海は、船の中から見る海とはまた違って魅力的だった。きらきらと光る水面に藤緒はまた目を奪われていた。だから気づいていなかった。島の東側とは比較にならないほどの達磨の旗の数に。
馬車の行く道に、人の騒ぐ声が聞こえた。
「この世は幻~~照らすは神~~阿毘達磨神こそが~~」
人々は口々に歌い、踊っていた。馬車を邪魔することはなかったが、この集落自体がすでに新興の神に侵されきっていることを示していた。
「怖い・・・」
思わず声が出てしまった。神に狂った人たちは、狂人というのが一番ふさわしいと思えた。藤緒の言葉を聞いて、清雪が手を握ってきた。藤緒は驚いて清雪を見る。
「こうしていれば少し安心だろう」
そう言っている清雪も不安なのだろうか。握る手に力がこもった。そのまま2人は沈黙に沈んでいった。それを見ていた他の人間が不自然に視線を逸らしていくのに、藤緒は最後まで気づかなかった。
馬車はまた山あいに入っていった。集落を離れると少しほっとした。ホッとしたからいいのに、清雪は握った手を離してくれなかった。
藤緒は、その清雪の行動に困ったが、馬車の外を見て気を紛らわせようとした。気を紛らわせたいのに、達磨の旗の数はどんどん増えていっていて、西の方が阿毘達磨の影響が強いといわれていたのが実感された。
山あいを抜けて西の霊峰までたどり着いた。山の下には旅籠がある。その点は東の霊峰と一緒だ。
しかし、決定的な違いがあった。西の霊峰の下の旅籠には阿毘達磨の、見たこともない大きさの旗が掲げられていた。そして旅籠の中では、先ほど民衆が歌っていた歌が絶え間なく歌われていた。狭い馬車の中で3日も寝泊まりしたのに、たどり着いたところがこれかと思うと、愕然とせざるを得なかった。
(この歌がすごく頭に残って仕方ない・・・)
藤緒は嫌悪感に包まれていた。何かを嫌悪するなんて、人生で初めてかもしれない。
『この拍子こそが、信仰なのだろう。何を歌っているかが重要なのではない。文字よりも伝わりやすいものは、世の中にはある』
オルメカがそう言った。オルメカは太古の昔から歴史を見つめてきたのだろう、と藤緒は思った。
「明日は西の祠に向かう。一応、山には達磨の旗がない」
清雪は言った。
皆の疲れは限界であったが、今日も馬車の中で雑魚寝をするしかなかった。
「藤緒さま、大丈夫ですか?」
碧葉が頓食を口にする藤緒に声をかけた。藤緒は笑顔を作る元気もなかったが、目を合わせてうなづいた。
(もともと信心深い文化がある場所とはいえ・・・、新しい熱狂的な信仰心を持つには、どういう精神状態だったのかしら・・・)
そんなことを考えながら藤緒は眠りについた。いつか父が、人は絶望の中で差し伸べられた手を取るとき、その手の善悪の区別はつかないものだと言っていたのを、藤緒は意識を失う寸前に思い出した。




