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分譲とゼネコンと(その3)

「おぉう小娘ぇ。しばらく見ないうちに、随分と派手になったのう。赤い赤い、なかなか似合うぞ」

 周辺からふわふわと集まってきた翠の燐光が、メミコの姿を取った。傷どころか、汗すらかいていない。

「馬鹿な……そんな筈が……怨竜が、こんなに簡単に……ッ!」

 無残な姿で呻く女を見下ろす形で、メミコはこれでもかというくらいに嘲笑って見せた。

「怨竜とやら、本来はそれなりに強かろう……じゃが、使い手がこの程度では限度があるわい。哀れよの、いひひひひ」

「な、なにもここまでしなくても……」

 純の言葉にメミコは肩をすくめて見せた。

「わぁの仕業ではない、呪詛返しじゃ。術と術者は繋がっておる、術を破られれば、そこにつぎ込んだ分だけ痛手が返る。後先考えずに全力をつぎ込めば、こうもなる。自爆じゃな、バカめ」

 煽りに煽って全力を出させておいてよく言ったものだ。

「ぐ、ぎぎ……」

 女は無事な方の腕で地面を掻き、立ち上がろうとしている。しかし、自らの血だまりに滑って、どしゃりと崩れ落ちる有様だ。

「丁度良いな、小腹が空いた」

 背筋が凍った。ぎらりと光ったメミコの鉤爪には、何かを抉ろうとする意図がある。

「新鮮なうちに心の臓からいこうか、脳みそもいいのう。ああ、あの骨董屋から蠱毒酒をちょろまかしておけば生血で割れたのぉ……残念じゃ」

 メミコの長く細い舌が唇を湿らせる。もはやその目に映っているのは獲物だ。

「よせよ、悪趣味な冗談」

「ああ……純は生肉はあまり好かぬか。仕方ない、薪を拾ってこい。焼けば食えるじゃろ。

 純には脚を一本やる。なかなかいい脚じゃ、食いであるから血を補えるぞ」

 毛皮の一房が鞭のように唸ると、瓦礫を吹き飛ばし地面を大きく抉った、女を横たえるのに丁度いいサイズに。

「ぐっ……くっ……」

「やめろメミコ!頼むから……やめてくれ、人間なんだから」

 狼狽する純であるが、振り向いたメミコは呆れ顔である。

「……これを見ても言えるか?」

 メミコの額がぼうっと光ると、彼の全身を包んでいた毛皮がはらりと剥がれ落ちた。

 全身のどこにも痛みは残っていないが、肩口、脇腹、背中、額はべったりと血にまみれていた。特筆すべきは脇腹の大穴、分厚いブルゾンを何かが貫通した痕跡がある。

「頭蓋と背骨が砕け、片腕が捥げ、脇腹には何か硬いモンが刺さっておった……それじゃ」

 ごろっ、と服の大穴から掌サイズ円盤が転がり落ちた、冷たくて重い金属の手応えだ。錆びまみれだったらしき上にべったり血塗れ、何がなんだか判別がつかないが、こんなものが刺さっていたら、腹の中身はぐちゃぐちゃだったろう。

「殺す気で来たなら、殺されても文句は言えまい。

 殺したモンをどうするかは、仕留めた者に権利があるじゃろ。ならわぁはありがたくいただくまでじゃ、もったいない」

「……助けてもらったことは感謝してる。でも、俺は生きてるんだ、だから殺さなくても――」

「もう時間の問題じゃ。放っておけば虫が食い草の肥やしになるだけじゃ、わぁが食うのと何が違う?

 嫌なら目を背けよ。コトの大小はあれど、バケモノ相手に商売しておいて、命のやり取りはいくらでもあったろう?ヒトの世の道理が通らぬ世界だと、今まで知らなかったとかふざけたことは言うまいな?」

「でも!あいつにもきっと家族が、親がいて――」

「そこらの雑魚を殺すのは良くて、小娘は庇うのか?昨日食った肉にも米粒にも親はいたのではないか?

 わぁから見ればヒトも獣もバケモノも草木も変わらぬ、都合よく贔屓させたいなら、説き伏せるなり抑え込むなりすれば良い。守ってもらった身でできるなら、な」

「ぐっ……」

 反論ができない。そもそも、上位存在にヒューマニズムが通じるはずがないのだ。そもそもが、今日だけで何度も守られている。純メミコとって主ではない、手を貸す相手、もっと言えば庇護対象である。愛玩や気まぐれ以外で命令など聞くものか。

 無力。自分が余りに無力であった。仮にも味方の言動でこんな事を思い知るだなんて、なんたる屈折した屈辱であろうか。

 純を押しのけ、メミコは血だまりの中でもがく女の襟首を掴み上げた。振り上げた爪がぎしぎしと伸び、出刃包丁を悪意に染め上げたような、凶悪な鋭利さと分厚さを備える。

「苦しませると肝臓が不味くなる、とっとと血抜きをせねば」

「ぐ……ぎぎぎ」

 身を捩ることもできず、女の抵抗はただ歯を軋らせ呻くだけであった。呼気にも血が混じるのは内臓を損傷している証拠だ。

「あああっ!」

 血反吐交じりに女が取り出したのは一振りの短刀、あっと思う間もなく自らの喉を突い――すんでのところで、その腕をメミコが掴んで止めた――そして嘆息する。

「……やめんかバカモノ、寝覚めが悪いわ」

 一房の毛皮が女にするりと巻きつく。ねじれ曲がった腕をバキバキと締め上げ、元の形に戻していく。

「ぎゃあああっ!」

「喚くな、純はもっとひどかったぞ。ふん……運が良かったな、まだ繋がっとる」

 するりと毛皮が解けると、女はなんとか――血まみれではあるものの――その場に座り込める程度にはなっていた。

「なんだよ……脅しか」

 純が胸をなでおろすと、伸ばした爪を噛み千切りながら、メミコが鼻で嗤った。

「半分な。何も知らんようなら本当に食ってやるところじゃったが、何やら知っている風じゃったろ?死なれては困る。

 本当は小便漏らして命乞いするまで追い込みたかったんじゃが……」

「鬼かお前は」

「いいや?鬼とやらには会ったことがないな」

 せせら笑うメミコに純はうんざりと肩を落とす。

「ほれ小娘、命拾いした分、多少は喋れ」

 女はしばらく戸惑っていたようだ可、やがて口を開いた。

「確認します。あなた方は、K社……一丸教団とは無関係であると……そう解釈しても?」

「いちがんきょうだん?」

 怪訝に首を傾げるメミコの背後で、純は小さく吹いた。

「やめろ人聞きの悪い……まあ、メミコは知らないだろうさ。ちょっと前にいたんだ。そういう迷惑な……連中が」

 一丸教団。一時は日本で幅を利かせた新興宗教であった。

 表向きは世界平和を掲げていたが、彼らの言う世界平和とは『教団の導きによる世界平和』であり、頭の悪い言い方をすれば世界征服そのものであった。

 理想の実現ためならば教徒以外の人間、団体、国家から物や金をむしり取ることを肯定――どころか美徳とまでしていた連中であった。

 それこそ、心霊商法から脅迫めいた献金強要までやりたい放題だったと聞く。

 だが、今はもう存在しない。

「そもそもあの教団、もうないだろ?もともと詐欺とか脅迫で印象最悪だったけど、たしか元大臣の政治家を殺したんだよな、それで国が解散命令を――」

「いいえ」

 女が口を挟んだ。

「あれが命令一つで片が付く問題のわけないでしょう。実際は、日本が実力を行使しました」

「なんか俺の記憶より響きが物騒なんだけど……そんな大事件だったっけ?」

「本当に……部外者なのですね。では……金に汚い政治屋を殺害した詐欺師、程度の認識でしょうか。

 連中の実体は、欧米中露各国からテロ組織と認定され、バチカンとWCCからは異端認定まで受けている、国際的に悪質なカルトです。

 そのような存在がこの国で活動できていたというだけで、重大な失態なのです。

 献金・組織票・選挙支援をもって一部の政治屋を手懐けていた集団……国家にとっては、もはや腫瘍のような存在でした。

 ──もっとも、そこまでご存じとは思っておりません。

 いずれにせよ、あの教団を排除したのは、間違いなく日本の“国家”です。餌付けされた政治屋でもなければ、解散命令によるものでもありません」

 メミコが大あくびをかました。随分前から聞き流しているのだろう。

「日本?……あんた公安か?それとも自衛隊?」

「いえ、違います。……義務教育の社会科で、うっすら聞かされませんでしたか?

“戦後、欧米的価値観に塗り潰される以前、この国は誰のものであったか”と」

「え?」

「その存在は、今日では形式上、権力と切り離されています。

 ですが今なお、“この国を護る力”として、我々は戦っています。

 おかしいと思いませんか? 正月と誕生日に窓から手を振るだけの存在に、巨額の税金が投じられ、専門の行政機関までが付属していることを。

 ……ここまで言えば、ご理解いただけますね。私は宮内ぐうない省の人間です」

 なるほど官僚か。道理で口調が固くて回りくどいわけだ……宮内省?

「宮内省?……宮内庁でしょ?」

「表向きは宮内庁です。ですが、宮内“省”の方が本来の呼称。戦後、GHQにより形式的に解体された後も、水面下では活動を継続しています」

 そのセリフが、中学生で止まっている公民の知識と組み合わさると、信じられないような説を浮かび上がる。

「え?いやいやいや……え?そんなまさか、んな訳ないでしょ」

 顔が引きつる純を見て、女は頷いた。

「ご理解いただけたようですね。さすがに戦前のように“神と崇めろ”とまでは言いませんが……大人であれば、それなりの敬意を持って接していただくのが賢明かと。

 この国には、敵対的な心霊侵略に対する戦力が、太古から存在しています。我々、宮内省第二祈祷課クニツカミは、その一端を担う者です。表には出ませんが、れっきとした国防の一部です。

 件の教団は、まず我々が実力を行使し、残った組織を行政手続きで整理したに過ぎません。国民の知る“解散命令”とは、最後の仕上げ――行政の面子のために、形だけ花を持たせたようなものです」

 にわかには信じがたい、現存する宮内省が水面下で戦力を?敵対的心霊戦略?そのトップがかつての日本の統治者?眉唾どころ陰謀論ではないか。しかし、その無茶苦茶な話とここの惨状と何の関係があるのだろうか。

「で?そのやっかいそうな連中が何じゃ、ここに潜んでおるのか?」

「いえ、違います。奴らはここを霊的汚染したのです。ここにいた住民ごと……バケモノに食わせたのか、変えたのかは判りませんが」

「えっげつな……」

 言葉を失う純に対し、メミコは首を傾げた。

「ん?聞いてた話と違うのう。

 あの小男は『解体を始めたら』バケモノが湧くようになった、と言っておったぞ、教団から引き継いだのか?」

 女は深いため息をつき、心底うんざりとぼやいた。

「……そこからですか。全く。全く、あなた方がなぜここに来たのか、理解に苦しみます」

「そういうのは攻撃する前に言わんか、小娘が」

 露骨に牙をむくメミコを宥め透かして、女に続きを促す。

「確かに、こちらにはかつて廃業したテーマパークが存在しておりました。

 しかし、すぐに廃墟となったわけではありません。産業の不在にもかかわらず、都心へのアクセスが良好であったため、立地そのものは依然として価値がありました。確かに、地域は一部スラム化していたものの、それでも一定の住民が存在していたと考えられます。K社がこの地に目を付けた理由も、まさにこのためでしょう」

 埼玉の片田舎とは言え。確かに悪い立地ではない。電車で都心まで一本なのは魅力的だ。

「目を付けた地域にバケモノを解き放ち、住民を追い出すか殺害するか、いずれにせよ排除した上で土地を低価格で買い叩く。これが教団残党、K社の手法です。

 土地を買った後は自力で祓い清め、住宅地に転換して高値で販売する。こうした悪質な手法で利益を上げてきたのです」

「ああ……それでここ数年急成長したのか」

 宗教法人が金を集めれば『私腹を肥やす』と悪し様に言えようが、表向きいち企業が金を集めるのは健全な『利益の追求』に過ぎない。税金さえ払っていれば行政に目を付けられることもないだろう。無論、実に悪辣なやり口ではあるが。

「それはつまり、心霊地上げ屋ってこと?」

 女は頷いた。

「人間社会の法律も権力も届かない領域の商売、本来なら一旦監視して様子見が好ましいのですが……放置するには前身が厄介この上ない。また国に害を加えるのは時間の問題。宮内省はそう判断し、クニツカミが動いています」

「なんとまぁ……」

 かつては権力と癒着していた教団にしては、随分落ちぶれたものだ。もっとも、脛に傷のある人間が潜り込むのに、不動産や建築業界は恰好の環境の一つなのは事実なのだ。

 とんでもない事態に巻き込まれた。軽いめまいに頭を押さえていると、今度はメミコがふうんと唸った。

「解せぬな。なぜ残党が純を呼び出す?自分で嗾けたなら、自分で祓ってしまえばよいじゃろうに」

「……私はそのお抱えの拝み屋が呼ばれたかと思って接触し……返り討ちにあったわけだ」

「ブァーカ」

 シンプルに煽るメミコであるが、少女は視界からその存在ごと締め出しているらしく、髪の毛一本の乱れも見せなかった。あまりの空気の悪さに耐えきれず、純は自らの名刺を取り出した。

「あのですね……拝み屋じゃなくて、こういうものなんです」

 怪訝な顔で受け取った女だが、あまりにも予想外だったのだろう、気の抜けた声を上げた。

「設計事務所?……なんでこんなところに?」

「普段はバケモノ相手に建築の仕事をしてるんですが、今回は訳アリ現場に詳しい者として呼ばれてるんです。だから教団がどうのこうのは、本っ当に知らないんです。

 聞いた感じ、自前の拝み屋じゃ歯が立たなくて……別のアプローチとして私に話が流れてきた感じらしくて」

「そうでしたか……精霊連れで拝み屋ではないどは――」

 話がかみ合わない訳だ、と言いたかったろうが、流石に後半は飲み込んだようだ。誤解で一般人を半殺しにした件を追求したかったが、向こうも十分半殺しには遭っている、こちらも飲み込む。

 しかし、なんと厄介なことか。国とか宗教だのは余りに大事過ぎて、個人事業主の手に余る。

「……なら、この件からは手を引くのが懸命です。残党の用心棒でもないなら、巻き込まれても損するだけです」

 口調は硬いが、流石にばつが悪いらしく、女が早口に切り上げる気配を出す。顔を突っ込みかけた瞬間殺されかけるとは、拝み屋界隈とは思った以上に恐ろしいところだ。

 しかしこちらも仕事であると反論しようとしたところ、ぐいっとメミコに襟首を引っ張られた。

「ほれ見ろ、わぁの言った通り、あのツラはロクな者ではない。気に入らなかったのは正解じゃ」

 メミコの存在に気づいていたエサキが、それを隠しているのも説明がつく。何重にもウソを積み重ねて、面倒ごとを何もかも処理させようとしていたのだ。なるほど『弱者を装う者にロクなヤツはおらん』というメミコの暴言も、あながち的外れではない。

「……とはいっても、あっちもあっさり信用していいもんかね。結局裏は撮れてないし」

「バカを言え、目を見ればわかる」

「本当か?エサキの顔が嫌いだからそっちに傾いてるんじゃねえの?」

「そうじゃ。気に食わぬ」

 堂々と言い張るメミコには、一種の清々しさすらあった。

「自信満々に偏見でモノ言うなよ」

「バカめ、言い切らねば人の心には響かぬわ」

 バケモノが振りかざす虚勢の分際で謎の説得力があるからタチが悪い。いよいよ自分の価値観もそっちに毒されて傾いてきたかと僅かな辟易に顔を顰めていたのだが、メミコはそれを同意であると捉えたようだ。

「ふふん。ヌシの二つの目はごまかせても、この額の目は誤魔化せぬわ」

「メミコはなんか生きてて楽しそうだよな、羨ましくなってきた」

 メミコは口角を吊り上げ、きらっと額の目を光らせた。と、その光に息を飲んだのは女の方であった。

「……メミコ?」

 女の声が上ずった。自決を試みた時より動揺している。

「まさか、サムチルカヒメミコ……様では?」

「ほう。小娘、わぁに心当たりがあるのか?聞かせよ、なにも覚えておらぬのじゃ。純、わぁの眠っていたあれを見せてやれ」

 懐から引っ張り出したのは、サテンに包んだままの金属片である。

「メミコは……この刃物に眠っていたバケモノでして。正体は、俺にも判らない」

 掌を覗き込んだ瞬間、女は画鋲でも踏んづけたような顔で跳び上がった。瞬時にずぱっ、と音に聞こえるようなキレで、深々とメミコに額づいてみせた。

「お許しください……サムチルカヒメミコ様と気付けば、このような無礼は働きませんでした」

「ほほう……説明してくれるか?そのサムナンタラとやら、わぁは知らぬ」

「――見ていただいた方が、早いかと。表を上げるお許しを」

「最初から禁じておらぬ、とっとと喋れ、そういうめんどくさいのは好かん」

 すぅ、と女が少しだけ顔を上げた。その額には、開いてこそいないが薄皮一枚下に宿る翠の燐光があった。

「ほう!」

 流石のメミコも少々面食らったようだ。目を瞬かせている。

「恥ずかしながら、もう、名残りしかありませんが……これくらいなら」

「>¶ΓΘΦ――」

 女が口にしたのは、寝起きのメミコが口走ったものと同じ、得体の知れない言語であった。

「なんだ、コイツは……メミコのなんなんだ?」

「さぁな。だが、わぁの素性が向こうから寄ってきたのだ、好都合じゃ」

 メミコはその得体のしれない言語で返事を返す。元々そっちが母語なのだろう、女よりも流暢に喋っているようであった。

 やがて女は、明確に何かを承諾して頷く。すぐさまその額から翠の燐光が溢れ、玉となってふわりと離れる。それが、メミコの額に近づき――煙のように吸い込まれた。

「ああ……ああ……」

 額の目を塞ぐように手を当て、しばらく何かを思い返しているような様子のメミコであったが……不意に、一筋の涙をこぼした。

「そうか……苦労をかけたな……千絵、でよいのか?」

「ありがとうございます。まさかこのような形で生きていらっしゃるとは、一族の誰にも予想できませんでした。

 どうかそのお言葉は、私の父母と、その先へおかけいただきとうございます」

「ふふん……きりがないのう」

 メミコが見たこともない柔和な笑みを浮かべていた。

「じゃが、知ってしまったからには放っておけぬか」

 ふわりと浮き上がったメミコは、雄大な観賞魚のようにゆっくりと旋回してみせると、ふわりと純と向き合った。

「ヌシはこの件からは手を引け」

「言われなくても」

「うむ、賢い男は嫌いではないぞ。そして千絵よ」

 その一言で、千絵は純へ向き直ると、深々と頭を下さげ、額を地面に擦り付けた。流石にノータイム土下座は面食らう。半殺しには遭ったが、こんな頭ごなしの謝罪を求めたつもりはない。

「……なんだよ。あんたの後頭部には、俺の留飲を下げる魔法でも刻んであるのか?」

「純、そう嫌味を垂れるな、これはけじめじゃ。力を持つ者が、一方的に力の無い者を嬲るのは許せぬ……いや、そう考えると留飲を下げているのはわぁじゃな……許せ」

 メミコの様子がおかしい。尊大で太々しいのは元々だが、これはまるで部下に責任を取らせる上役のようではないか。

「……何を吹きこまれた?」

「ああ、そう見えるじゃろうな、だが……いや、間違ってはいないか」

 ほんの僅かに笑って見せた。メミコがこんなにも曖昧にものを言うのが意外であった。

「用ができた。世話になったな……すまんが手伝う余裕はなさそうじゃ」

「え?何言ってんだよ、どういう意味だよ?」

 聞き返してもメミコは薄く笑うだけで答えない。茶を濁してその場を取り繕うなどと、本当に人間臭くてむしろ気味が悪い。

「まあ聞け、メミコは慈悲深いカモイ……精霊じゃ、ヌシを見捨てはせぬ」

 メミコは口内で何かを噛み砕くと、ふっ、と吐息と一緒に吹き付けてきた。

 生々しい音にぎょっとする純の鼻先に、光るものが漂う。それは小指の爪程の滑らかな欠片で、僅かに湾曲した円錐であった。青みがかった真珠色でつやつやと濡れており、端は噛み砕いた粗面が覗いている。触れようと手を伸ばすと、手にしていた錆びた剣に吸い込まれて消えた。

「わぁの牙の欠片をそのなまくらに宿した。そいつがあれば、そこらのバケモノなぞ相手にならぬじゃろう」

「いや、そういうことじゃない。お前とこいつは何なんだよ?」

「まあ……遠い縁者のようなものだと思え。

 とにかくヌシは少し休め。勤勉であることと、不安に衝き動かされるのは大違いじゃ。

 ……短かったが、悪くなかったぞ。今度は酒を用意しておけ、季節がよければ桃もな」

 待てと言うより早く、メミコと千絵は姿を消していた。

「……なんだそりゃ」

 呆気にとられる純の手の中で、錆びた剣だけがじんわりと熱を放つ。今までの出来事が幻ではないと主張しているようであった。



「流石ですね。あの丘まで一人で行って、生きて帰って来れるだなんて」

 ずたぼろ血まみれで戻ってきた純の様相よりも、廃墟の中心まで単身乗り込み、更には正気で戻った事に驚くエサキであった。

「皆さん、だいたいちょっと見ただけで逃げ出したり、まぁ戻ってこなかったりでして」

 光のない目でヘラヘラと笑う。それなら下見に行く前に止めろ、と喉まで来たセリフは押しとどめた。言ったところで何の意味もない。末端と言えどこの男もK社の……教団の息がかかった人間である、信者でない人間がどうなろうと、なんとも思うまい。

「……軽く、死にかけましたがね」

 なかなか見上げた腐れ根性だ。「使える」と「使えない」の二択だけで相手を見ている人間は、えてして気軽に他人を品定めにかける。それで死んでもお構いなしだ。

 勧められた缶コーヒーに口を付けたのは、ともすれば顔に出るだろう軽蔑の目を誤魔化すためである。でなければ、ホームセンターでまとめ売りしている格安缶コーヒーを好んで飲みはしない。

「それで……お願いできますでしょうか?」

「そうですね。前向きに考えます」

 実際にはもう腹は決まっていた。だが、腹を決めた人間ほど「考える」と言いたがるものだ。

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