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分譲とゼネコンと(その2)

 丘へ差し掛かると、その一帯は飛びぬけて空気が淀んでいた。こんな空気を吸っていたら、肺までどうにかなりそうだ。それも厄介ながら、物質的にも面倒が生えてきた。

「なんだここ……オロチの迷宮ぅ?」

 一見、丘の斜面に柵を建てた雑な迷路に見えるが、朽ち果てた看板からギリギリ読み取れたのは随分と御大層な名前であった。

 なんでも、西からやってきた武人と戦うために、オロチとその一味が妖術で作ったとされる要塞を再現……したついでに迷路にしたらしい。

 看板によると凄まじいい突風で足止めして石の雨を降らせ、武人たちに大怪我をさせた伝承があるそうだ……そのイラストが妙に劇画タッチなのと風化具合の合わせ技で不気味さが益々加速する。

「オロチとやら、わざわざ砦までこさえて迎え撃ったのか。

 ……バカめ、とっとと逃げてしまえばよいものを。後世に悪名なんぞが残らずに済んだろうに」

 元も子もないことをぼやくメミコである。結末を知っている現代からなら気楽なものだ。

 その場合、現代人はオロチの一味の存在を知ることはなかっただろう。悪役扱いと忘れ去られるの、どちらがマシなのか想像もつかない。

「巨大迷路とかヌルいテーマパークのお手本だな……そら潰れるわ。まあいいや、サクッと通っちゃえ」

 ナメていた。入ってみると意外と迷路自体の難易度が高い。ぐねぐねと蛇行し遠回りする道のせいで、いつまでたっても頂上に出ない。まるで登るのを拒むような、実に意地の悪い設計であった。

 見渡す限り同じ光景で目が回ってくるようだ。その上足も痛くなってきた。本当にアトラクションなのか?嫌がらせじゃないのか?みうらじゅんとかあっちの方面の人が好きジャンルではないだろうか。

「なんだこの迷路……ネズミの知能テストじゃねえんだぞ。突破されたら死ぬんかオロチ一味、名前のわりに虚弱かよ」

 ブツブツ愚痴りながら迷路に翻弄される。

 遠目には柵も随分老朽化していたし、最悪蹴破って迷路の外を歩けばよいと思っていたのだが……生憎迷路を外れた斜面は大きめの石が敷き詰められ、ちょいとした石垣になっていた、山歩きのできるスニーカーでもないと、強引に登るのは危険だ。

「どうなってんだこの丘は……よっぽど性根の悪い奴が作ったんだな」

「純と気が合いそうじゃな。それだけではない、どこもかしこも瓦礫の山で、ヌシの部屋を見ているようじゃ」

「ああそうかい、光栄でございますよーだ。チクショウめ」

 手の甲で額を拭うと汗が黒い。廃墟というものは空気まで薄汚いのかと辟易する。

 やがて見た目の数倍の時間をかけ、廃墟群を見下ろす丘の頂上に至った。意外と見晴らしが良く、東には遠くに荒川、西側には富士山がうっすらと見える。

「んん……見晴らしが良い分、瓦礫の山が際立つのう」

 ふわりと漂ったまま、メミコが何の感慨もなく呟いた。テーマパークの廃墟と聞き、面白いものが見れるかと思ったが期待外れであった。遊具の形跡はいくつか残っているが、錆びて倒れて雑草が生い茂り、荒れ放題である。

「夜に霧でも出れば、いい感じの悪夢になりそうだなこりゃ」

 看板に描かれたオロチちゃんとかいうマスコットが絶妙にゆるいのが、荒れ具合と相まって不気味さに拍車がかかる。この類のゆるキャラは着ぐるみになると不気味さが一段階上がるのが純のツボであったが、流石にそんなものは残っていないだろう。

「これじゃあ、ピッカピカでも楽しくはなさそうだな」

 ぐるりと見渡すと思っていたより規模が小さい、おそらくこの場所がテーマパークとして現役だった時代は、舞浜に夢の国がやって来る前だ、当時基準ではこんなもんなのだろうか。

 ふと気づくとメミコがなにやら看板を覗き込んでいる。こちらもご多聞に漏れず錆びて崩れかけているものの、ぎりぎり残って読める部分を見るに、どうやらこの丘の俯瞰図らしい。

「これはあれか?砦が星形だったと書いてあるのか?」

「んん?そう……だね、石垣や柵の跡が星型に並んでたらしい……五稜郭みたいな感じか。へぇ、こんな所にあったんだ……ん?世界最古の星形要塞だぁ?まさかぁ、雑なウソついてんなぁ、言ったもん勝ちかよ」

 こういった星形の城郭は世界各地に点在し、五稜郭はその一つに過ぎない。しかしこれは銃火器に対する防御として、14世紀ごろのヨーロッパで開発されたものだった筈だ。つまり、銃火器よりはやく発明されるとは考えにくいのだ。大方、山の形がそれっぽく見えるところからかましたハッタリなのだろう。どこかに日本のピラミッドだと言い張る山があったが、あれと同じだ。

 他に目ぼしい物はないかとふらふらと見渡していると、奥の岩壁から水が湧いているのに気が付いた。それなりに由来のある湧き水らしく、手水舎めいた建物と看板が立っている。

「オロチの泉……こんな丘に湧き水があるんだ……。

 ギリ読めるな……オロチが積み上げた亡者から湧いた毒の水を飲まされ、武者たちは苦しみのたうち回った……うーわなんじゃそりゃ、そんなグロい話しだったっけ?俺が聞いたのは子供向けにナーフされたヤツだったのかな……」

「いやいや、なかなか冷たくてうまいぞ」

「ええ……ノータイムで飲んでるよこいつ。毒とかありそうな書き方じゃん」

 そもそも人間に効く程度の毒がこいつに効くのか想像もつかないが、なんぼ無害でも由来を聞いた上で呑みたいとは思えない。明らかに引く純をよそにがぶ飲みしたメミコはけろりとした顔である。

「何を言うか、汚くないぞ、流れておる」

「そりゃあステキな判定法だわ、えがったえがった。いくらでも飲んでくださいよ……」

「なんか腹立つ言い方じゃな」

「そうだね、プロテインだね」

「は?さては聞いとらんな?この野郎一晩でわぁを聞き流すとは随分肝が太いではないか、だったらもうちょっと勇ましいところを見せせんか、口先だけか?ああ?」

 メミコの抗議を完全なる生返事で聞き流しているうちに、丘の上を一周してしまった。仮にもテーマパークを謳っていた割には、どうにもアトラクションがしょっぱい。遊具の間を縫うようにちょくちょく史跡らしきものが散見している様子から、史跡と遊具の組み合わせで特色を出したかったのかもしれないが……そもそも遊具の合間に砦や戦場の痕跡を見せられてどう楽しめと言うのか。結果娯楽としても学習としても中途半端、その史跡も死体から湧いた湧き水だの、石の雨を降らせただの、ゆるキャラでは中和しきれない後味の悪さがキツい。当時はきっとありふれた教育マンガに似た薄ら寒い雰囲気が漂っていたことだろう。このうすら寒さを逆手に取って楽しめるのは、みうらじゅん的な角度がなければ不可能だろう。

「あー、そら潰れるわ」

 そう考えると、潰れて錆びだらけの廃墟となった今の方が多少は趣があるかもしれない。そういえば、このオロチの砦とかいう話自体が随分とふわっとしている。夢の国がどれだけ苦労して多数の童話でばっちり世界観を作り出しているというのに、話の舞台が何時代なのかも判らないような昔話には最初から荷が重い。せめてシンデレラ城的なランドマークくらいは……おや?

「あれは……館か?」

「ほう?」

 奥の建物が目を引いた。大きさもそうだが、わざわざ古めかしく厳つく作られた装飾が、当時はより一層遊園地から浮いていただろうと思わせる。

「ん?あれ、こけら葺きだよな……うーわ、贅沢」

館の大きく分厚い屋根は、薄く削いだヒノキなどの木片で葺かれていた。上品で優雅な仕上がりとなるが、文化財に使われるような代物で、テーマパークに使うなんて考えられない。かつては格調高かったのを伺わせるが、バケモノにやられたのか悲惨にも食い破られ、大きく傾いたそれは破裂したキノコのような醜態を晒していた。本当にここは現代の関東なのかと疑いたくなる。

「神社っぽいけど……なんか妙だな?復元した古い屋敷なのかな。すごいな、杮葺きって億単位かかるんじゃ……」

先述の杮葺きの切り妻屋根、板壁に高床といった、目につく要素こそ古い神社の特徴であるが、どこかに違和感がある。マリア観音にも似た、何かを隠そうとする不自然さからくる歪みなのか、あるいはただ単にクオリティが低いのか……なんとも断言できない。

「……気を抜くなよ。よく判らんが、どうにもすわりが悪い」

 ふわふわと辺りを漂っていたメミコが首をひねった。何かを警戒しているというより、地味な心地の悪さを感じているようだ。

「へぇ……判るんだな」

 純が僅かに口角を上げた。純の考えが正しければ、解決の糸口になりうるかもしれない。

「ほう?何に気付いた?わぁの目を搔い潜るバケモノがおるか?」

「いや、そっちじゃない。おそらくこの一帯が――あれ?」

 淀んだ空気が変わった。突如頭上から冷たくからりと乾いた風が叩きつけられると、あたりのバケモノどもが――物陰に潜む羽虫の様な小物も含めて――一匹の凝らすみるみる霧散していくではないか。

「浄化……された?」

「よくもぬけぬけと、さんざん汚染しておいて」

 背後の声に振り向くと、小柄な女が立っていた。若いとか色白だとかパリッとしたダークスーツだとか、それらの特徴を優に越える第一悪印象がある。それはそれは敵意満点の目で睨んでくるではないか。溢れる嫌悪感を隠そうともしないその眼光は、可能なら殺人光線の一つや二つぶっ放していたことだろう。

「それとも浄化した空間は居心地が悪いか?既に人道を踏み外した身分、そのまま人間もやめて、性根に相応しいバケモノに成り下がったらどうだ。なにせ生きてるだけで汚染できるんだ、お前らには好都合だろ」

 凄い顔で忌々しく吐き捨てる。対面五秒で済ませるには随分な罵倒であるが、流石に心当たりがなさすぎる。あるいは背後に誰かいるんじゃないかと疑ったものの……やはり誰もいない。

「まだシラを切るか、往生際の悪い」

 わざと低くしているようだが、それでも声色は若い。そんな声の裏に含んだ敵意は、段々と殺意に近づきつつある。

「え……俺?」

 挑発と取られたか、女の三白眼が不快そうに一層歪む。ここまでまっすぐな反応だと、若いというより幼いまである。

「日本を蝕む邪教の残党が、精霊まで従えてまだ再起を狙っていたか」

「なんだこいつ、頭のおかしい人か?」

「油断するな、わぁが見えているぞ」

「うーわ、マジか」

 只者ではない何者かが、明確な敵意を向けてくる。今までとは、危険の方向性が違ってきた。

 小さな赤い髪飾りが燃え上がるように揺らめくと、浄化されていた筈の空気が、女からあふれ出す不可視の力に塗り潰されていく。

「――――」

 低く渦巻くような声は何らかの呪文だろう、祝詞にも似た独特の節回しは、関西弁のイントネーションで琉球語をまくしたてるような……最近聞き覚えがある気もしたが、考えている余裕はなかった。なにしろ目の前の女は、安物のぬいぐるみを取り出し、五寸釘でその腹を貫いたのだ。

「うーわ、うぅーわ、ロクなもんじゃねえ」

 盛大に引く純を、メミコは鼻で嗤った。

「鈍いのはたまーに幸せじゃが、愚かなのは常に不幸せらしいな」

 串刺しのぬいぐるみが宙を舞って爆散。地面を揺らす爆音を刺すように、メミコの呟きがはっきりと聞こえた。

「ヌシが千人おっても、あの小娘相手では返り討ちになるぞ」

 舞い上がった砂埃から大蛇が姿を表した。全長は十数メートル、太さは電柱ほど。何より不気味なのは、鱗を持たないヒトに酷似した肌と、体側にずらりと生えた無数の腕である。それぞれがわさわさと宙を掻く様子が、生理的嫌悪感を掻き立てる。

「うっげ」

 拝み屋の才覚が皆無の純であっても、あそこまで大仰なバケモノを使役するようなヤツが、弱い筈がないのはわかる。一目散に逃げようとしたところ、瓦礫に上着を引っ掻けて転んだ。聞こえたため息を見上げると、メミコは僅かに口元を歪めていた。

「逃げたところで何になる?

 向こうは才能がある、訓練もしておるじゃろう。いい機会じゃ、この時代のカモイ使いの実力を見せてもらおうか」

 蛇の咆哮に廃墟が崩れた。ヒト一人丸呑みできそうな口裂に、人間そっくりな歯列が並んでいるのは、直視に耐えない不気味さがある。もはや自分が千人どころか、戦車に乗っていても勝てる気がしない。

「なんだこのバケモノ……こんなところで何を企んで――」

「バケモノだと?」

 次の瞬間、長大な尾の薙ぎ払いが純を真横に弾き飛ばした。

「が……ッ!」

 現実は味気ない。衝突の瞬間後ろに飛び退くだの、そういう真似を考える暇もなく、ダミー人形のように吹っ飛ばされた純は背後の館の壁をぶち抜いた。人間砲弾とでも言うべき一撃に柱が撃ち抜かれてへし折れた、黒ずんだ杮葺きの屋根が崩れ落ち、瓦礫となって純を生き埋めにしていく。

 仮に瓦礫に埋もれていなくとも、純は全く身動きが取れなかったろう。強く頭を打ったらしく、果たして今この瞬間自分がどんな態勢なのかも把握できていないのだ。

「言葉を選べ。

 言うに事欠いて、怨竜がバケモノだと?国土の守護者であるクニツカミを愚弄するか」

 心底不快だと吐き捨てる台詞が、異常に遠くから聞こえる。遠いのは物理的な距離ではない、意識だ。首から下の感覚が……かろうじて背中に、じわじわ生暖かい液体が滲んで広がっていくのがわかる。視界がますます白く霞み、意識が遠のいていく。死を感じた瞬間、何かが覆いかぶさる瓦礫を弾き飛ばし、全身を温かく包み込んだ。それは恐るべき速さで全身を絡めとると、瞬くうちに血の巡りを取り戻すと、文字通り全身がバラバラになりそうな激痛をもたらした。

「ぐっ!がああっ!!!」

「お、痛いか。よかったな、神経は生きとったか。動くな、死にはせんがもっと痛むぞ」

 巻きついたそれはメミコが纏っていた毛皮の一部であった。これが全身を包帯のようにぐるぐる巻きにするのが、純の命を辛うじてつなぎとめている、確信である。

「……さて」

 その声には明らかな怒りが満ちていた。常に浮かべていた微笑は消え、見せつけるように牙を剥いている。

「加減を知らぬな、小娘。力ある者がすべき振る舞いではない……殺す気か」

「無論」

 メミコのめかみに青筋が浮くと、周囲の空間が歪んだ。その身に纏う強力な不可視の力が、可視光線を歪めるまでの密度に到達した証拠だ。

「腕に覚えがあるようだが、膨れ上がった己の虚像で、目の前が見えぬようじゃ」

 口汚いメミコであるが、少女は反応しない。先ほどの激高とは一変、メミコの出方を窺う。

「どうした、無力な人間相手にしか強く出れぬのか?恥ずかしい奴め、恥も誇りも理解できぬようでは、人の姿をしたケダモノじゃな」

 長い舌をはためかせたメミコが煽る煽る、軽蔑と嘲笑に僅かな憐憫を加えたその顔は、挑発と分かっていても腹が立つ。

「つまらん奴じゃな、その生ッ白いのもこけおどしのハリボテか?どうした?主人の代わりになにか喋ってみよ、言葉も持たぬ低能か?はん、頭ケダモノのメスガキに飼い慣らされてるような格のカモイにはそれがお似合いか、ケダモノがケダモノ飼い慣らしとるのか、ケッサクじゃのう」

 その言葉に女が歯を軋らせた。ごく小さなものであったが、メミコの耳はそれを聞き逃さなかった、翠の双眸をいやらしく歪め、罵倒を一層加速させると、その標的を変えた。

「そんなにデカいナリして役立たずか?ああ、でかけりゃ強い、強けりゃ偉いと思ってる大バカ者か?なぁるほど、バカがバレる前に不意を突いてここまやってきた小悪党か、悪知恵ばかりしてると知恵がつかぬと見える。不意打ちしたいのにナリがデカいとかアホの極みか、バカの丸出しどころの話ではない、バカを磨いて飾ってるようなモンじゃ。

 何が怨竜じゃ、仰々しい通り越して寒々しいわ、スベり過ぎて笑えもせんわい」

 下あごを突き出し眉根を寄せて、とにかく露骨に煽ってやる。どうやらこれが刺さったのか、女は面白いように激昂するではないか。人相が変わるくらいに目を吊り上げ、吠える。

「食い殺せ!塵も残すな!」

 解き放たれたバネのような勢いで怨竜が襲い掛かる。しかしメミコの纏う不可視の力は、襲い掛かる咢が閉じる事を許さない。いきなり空気が強力な粘性でも帯びたかのように、その歯はメミコの手前で押しとどめられてしまっている。

「おうおうおう生臭い、墓でも荒らしたか?今の時代は随分とこぎれいな者が多いというのに……フフフ。不愉快なくせに面白いヤツじゃのう、ケケケ」

 傷一つつけられない。その事実に女の拳がギリリと鳴った。それを見てメミコの舌は更に回る。

「この程度でなにが守護者じゃ偉そうに。あれか、守護者とやらの中でもでくの坊の冷飯食らいか?お利口じゃのう怨竜、好き嫌いを判別する頭もなくて幸せじゃ、本当にお利口さんじゃのう、いひひひ。ケダモノに飼われるケダモノにはお似合いじゃ、どぶさらいと残飯処理は」

 怨竜は女にとって地雷だ、確信しているからこそ、メミコは執拗に何度も踏み躙る。若く、実力もあり、それに比例した自信もある女は、挑発と判ってもこれが聞き流せない。ましてや実際に攻撃を防がれているのだ、怒りと焦りは生成さを奪う。

「絞め殺せッ!」

 ぎゅるりと長い胴体がメミコに巻き付き、その細首を縊り殺すべく無数の腕を伸ばす。が、それらも顎と同じく不可視の力の前に阻まれて触れる事すら叶わない。そこまでは女も承知の上だったのか、指先に燐光を宿らせて、虚空に得体のしれない文様を書き殴った。呼応して怨竜の体側にも同じ文様が浮かび上がると、見る見るうちに胴回りが膨れ上がり、力を増して一層強く締め上げる。が、それでも怨竜がメミコに触れる様子はない。いいや……

「んん?」

 ぎしり……ぎしぎし……ビキッ――

 メミコ周辺の空間が、ガラスの軋るに似た嫌な音と共に亀裂が入る。彼女の纏う不可視の力場ごと圧し潰すつもりなのだろう。

「おうおう、力が届かぬと知って、更に力を叩き込むか。ほらほらどうした?もうちょっとじゃぞ?おやぁ?何か書いてあるのう」

 目線が怨竜に浮かび上がる文字をなぞる。読めるのだろうか。

「ははあ、悪食じゃが、粗食ではないらしいな……なるほど力だけは強い筈じゃ。さしずめ一族の結晶と言ったところか?くふはははは、楽しみじゃ、そいつを叩き壊したら、どんな泣き顔が拝めるのか」

「煩い!黙れ!殺してやる!今すぐ殺してやる!」

「やってみせろと言ってるのが判らんのか?ほれほれ」

 女が全力を注いでいるのは、額に浮いた玉の汗と血管が物語っている。しかし、それでもメミコの嘲笑すら止められない。これほど力を振り絞っても届かないという事実が、女の自尊心を傷つける。メミコはそれが楽しくて仕方がないのだ。

「どうした?野良精霊風情に手も足も出ぬのか?野良以下がバレてしまうなァ?大法螺吹き、役立たず!

 せっかく先手をくれてやったのに、文字通り傷一つ付けられぬのか?ほれほれ、どぉした、あぁん?」

「死ねッ!死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇッ!」

「ケケケケケ、少しおちょくり過ぎたか。それじゃあ、もう少しまけてやろう」

 瞬間、メミコを包んでいた不可視の力場が消滅した。無数の腕がメミコを捉え締め上げると、数秒もしない間に頭からげろんと丸呑みにした。

「やった……バケモノめ、お前ごときが怨竜に敵うものか!」

 らんらんと滾る目で、女が血を吐くように叫ぶ。上半身を大きくふらつかせ、息も上がり、明らかに疲弊している。

「次だ……」

 ぐりんと振り向きざまに目が合った。しかし、起き上がりもせずに純は返した。

「いやぁ、無理じゃないかな」

「戯言を!」

 女は気付いていないのだ。彼を包む毛皮が、まるで輝きを失っていない事に。

「怨竜、次はあの男を――どうした?」

 女の顔色が変わったのは、怨竜がじたばたと身悶え始めたからだ。よく見ればその喉が光っている、内側から翠に。

「そんな……バカな」

 女が呆然とつぶやくが、多分もう遅いのだろう、喉から広がった光は強さを増して、怨竜の全身がフィラメントのように強烈な熱と光を放っている。

 おそらく、メミコの纏っていた不可視の力場は破壊も突破もされておらず、自ら解除したのだろう。それなら、締め上げられても涼しい顔をしていたのも当然のことだ、花を持たせてやっただけなのだから。全身全霊を攻撃に振り切っていた女は、それに気付く余裕もなかったのだろう

「バケモンだバケモン……桁違いって意味のな」

 怨竜が弾けた。打ち上げ花火でも飲み込んでいたんじゃないかと思わせる派手な閃光を伴った爆発が、長大な体を吹き飛ばしていた。

「ぎゃあああっ!」

 同時に女の体中に裂傷が走り鮮血が吹き出した。いつの間にやら片腕があらぬ方向へねじ曲がっている様子は、本当に爆発に巻き込まれたように凄惨な有様である。



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