分譲とゼネコンと(その1)
翌朝、純の軽自動車はF市に向かっていた。距離的にはそう遠くないが、夏日室からはアクセスが悪いせいで、全くと言っていい程馴染みがない。なんとなく聞き覚えがあったのも、有名お笑いタレントの出身地であったり、随分前に市営プールで子供が死んだ事故があったりで、うっすらテレビで聞いただけのことである。
「お前なあ、紹介したんなら一言言えよ。顔あわせてたんだからさ」
『うはは、完ッ全に忘れてた、紹介してもそれっきりのヤツが多くてさ。
って言うかオレじゃなくて、向こうがまず『塚嵐さんからの紹介でお電話差し上げました』って言うべきじゃねえの?』
「ま、それもそうなんだけどさ。え?ちょっと待って他にもあんのか紹介した話って」
『だってお前、霊障どんとこい!モグリ建築設計だろ?』
「だッッッさ、ダサすぎてワイパー動いちゃったわ」
『なんだと、このネーミングセンスはもはや夏日室の糸井重里だろ』
「ふざけろ、ほぼ日刊糸井重里のチャンネルひらいてスマホに土下座しろ、二時間……で?あと何件あんだ?」
『気にする必要ねえよ、今まで何件も紹介はしたけど、これが初だろ?じゃあ電話しないまま終わってるんだ。アレだな多分純は拝み屋っぽくないからありがたみがないんだろうな』
「なんかそれはそれで腹立つな」
「うっさいのう!もう少し静かにせんか!」
『うぅわ、あの精霊まだいるのかよ』
「おっ、どぉういう意味じゃ小娘ぇ。わぁが一晩でどっか行く野良犬みたいなモンだと思っていたのか?」
「メミコもうるさい!グミやるから静かに食ってろ!」
「お、わあい」
スピーカーで通話するとどうにも声がでかくなるのは、人間も精霊も変わらないらしい。桃味のグミをパッケージごと後部座席に放り込んだ。
「で、何者だっけ?あのエサキってのは」
『K社って知らね?文明放送で昭和臭いラジオCMやってるゼネコンの』
「俺TCSしか聞かないからわかんない」
『そうか、よくある地方のハウスメーカーなんだか中小ゼネコンなんだかみたいな会社でな、そこの工事担当者らしい、現場監督ってヤツか』
「ふぅん……ゼネコンの監督かぁ、そりゃあ遅くまで仕事してるワケだ。中小ゼネコンの監督は生き地獄だからな」
『その生き地獄の工事現場にバケモノが出まくるんだと、お似合いだな』
「その話だけだと拝み屋の仕事だろ?なんで俺に振ったのさ」
『なんでもよォ、拝み屋入れると一旦は引っ込むが、すぐ湧くんだとさ。このパターンは土地か何かにカラクリがあるヤツだろ?となれば一人しかいねえ、そういうの得意だろ、純』
「得意だろ?じゃねえって、お前無駄に顔広いんだからいないのか?自称天才物理学者と自称天才マジシャンのコンビとかさ」
『そういうのに一番近いのが、霊障どんとこい!モグリ建築設計ってわけよ』
「気に入ってんじゃねえよ」
電話の向こうで大笑いする明に業を煮やし、一方的に通話を終えた。F市に到着したのだ。
どうにも古臭い街並みであるが、電車一本で池袋に出られるせいか、それなりに人通りはある。
「この辺か……平成初期の夏日室ってこんな感じだったな」
「人は多いが……なんか全体的に埃っぽくて喧しい……あまり好かんな」
後部座席でグミを嚙みながら呟くメミコである。概ね同意見だが、それも悪いことではない、喧しいのは町が代謝している証拠だ。
「水が綺麗過ぎたら魚は住めないだろう?人間も似たようなもんさ」
「知ったような口を」
メミコが鼻で嗤った。昨日の説教を踏まえると、どうやらこれくらいまで嚙み砕けば通じるらしい。
「今日はヒアリング……話を聞くだけだから、大人しくしててくれ。姿とか出すなよ?」
「判っておる。今日のわぁはヌシの目と耳にしか入らぬわ」
「そうかい、器用で安心したよ」
駅前から少し離れたところに築浅のマンションが並んでいる。目的地は更にその奥、安全鋼板と呼ばれる鋼製の仮囲いでぐるりと囲われた一帯である。見るからに工事現場と言った光景であるが……辺り一帯は死に絶えたように静まり返っている。駅から歩ける距離だというのに。
「うーわ、なんかヤバいな、ここ」
「そうじゃな、ここまで淀んだ空気も珍しい……まともな人里ではないな」
メミコの口調はうんざりが七、残りは呆れといったところか。囲われた一帯に近づくだけで、空気が重く澱んでいくのが判る。周囲のマンションも、築浅の筈がどこか陰気で薄汚れた様子雰囲気が拭えない。もう初夏だと言うのに辺りの街路樹は残らず萎れているし、駅へ向かう通行人は明らかにこの一帯を避けているのが判る。
「そりゃあ、住みたくないわな……こんなとこ」
窓を開けていると、遠くからえらく耳障りな女の悲鳴が響く。物陰から人影が飛び出してきたと思って急ブレーキを踏んでも、誰もいない。視線を感じで振り向けば、先述の囲いと地面の隙間から、こちらを凝視している真っ赤な目が横並びに三つ……等々、午前中だというのにベタな怪奇現象の枚挙に暇がない。予想は付いていたが、囲いの内側はよっっぽどバケモノだらけなのだろう。しかしこういう場合、大概は根源となる強力なバケモノがどこかに潜んでいて、他の有象無象はその影響であることが大半だ。
「なんか大物がいそうな雰囲気だな……どうよメミコ、いそう?すげえの」
「んん?どうかの……あまり、これといったモンは感じぬな」
頬を掻くメミコ。流石に脚を使うほど人間離れはしていないらしい。
「そうか……期待外れなのか安全なのか……でもまあ、それならメミコがいれば安全ってわけだ?」
「どうかな。いざ鉢合わせたら、逃げてしまうかもしれぬな」
「おいおい、昨日と言ってることが違うじゃないか」
ぎょっとする純の顔にメミコがケラケラ笑う、あまり気分のいい冗談ではない。ハンドルと一緒に汗を握って、仮囲いの出入り口である蛇腹ゲートを潜って中へ入る。敷き詰められた鉄板と擦れて、タイヤがきゅうきゅうと鳴く。
静かだ、この規模の現場なら出入り口にはガードマンが立ち、内部では十数台もの職人の車が並んで、あちこちで重機やコンプレッサーが爆音をあげている筈なのに。何処にも工事をしている様子が見えない……そもそも人の気配が全くしない。
「うっわ、なんだこれ」
車から降りると同時、周辺の光景に目を奪われた。
そこ広がっていたのは、戦前のフィルムに入り込んでしまったような、恐ろしく古臭い街並み……というか廃虚群であった。新築当時からお世辞にもキレイとは言えなかっただろう高密度の建物群は、一切の手入れが放棄されてからおそらく数十年、レトロなどという都合のいい言葉では誤魔化せない、残酷なまでの荒廃の末に、建っているから建物の体裁を保っているだけで、崩れていれば瓦礫といった有様になっている。少なくとも見渡す限りこの有様、スラムの抜け殻とでも呼べる惨状である。
「へえ?九龍城塞ってチェーン展開してたんだぁ、こォんな近所にあるなんてなぁ、あははは」
小規模な現実逃避で一人ヘラヘラしていると、背後から声をかけられた。
「喪栗先生ですね、お待ちしておりました」
メミコに「姿を見せるなよ」と目くばせで念を押し、頷いたのを確認してから振り向く。
昨夜の電話の主、エサキは薄汚れた作業着に傷だらけのヘルメット、何やらごちゃごちゃと道具のぶら下がった安全帯と、野丁場(いわゆるビル等の大規模な現場)の現場監督そのもののいでたちであった。
小柄で、目つきは鋭いと言うよりも卑しい。表情に乏しく見えるが、これは彼の人柄以前に、劣悪な労働環境に疲弊して感情がブッ壊れているのだろう。純の知り合いにもいるが、野丁場の監督はゼネコン社員の中でもとびぬけてキツイ仕事だ。あの仕事をこなせる人間は極めてタフか、ぶっ壊れているかの二択だ。
「では……お話を伺いましょうか」
「はい、事務所へどうぞ」
通された先は立ち並ぶプレハブの一つ、の二階であった。大きな現場では監督の事務作業や打ち合わせ、職人たちの休憩室として複数のプレハブが設置されることが一般的なのだ。中小であっても流石はゼネコンと言うべきか、無数のコンテナが並んでいる。人気がまるで無いのは同じだが、なまじ現代文明の物であるだけ、廃墟群よりも不気味に見える。
「くッッさ!なんじゃこの部屋!うぉえ、おえぇっ!」
メミコが身を捩って悶える。盛大にえづいてのたうち回る騒音は、エサキには聞こえていないハズなのだが、どうにもヒヤヒヤする。
埃っぽさと、黴臭さ、油臭さに汗臭さに有機溶剤らしき臭いまで入り混じったこの臭気は、純にとっても少々不快である。バケモノ、特に見るからに鼻の効くメミコには辛いのだろう。彼女は出入り口をこっそり半開きにして、隙間の真ん前に陣取った。
照明はあっても妙に薄暗い。それは、廃墟側の窓が掲示物や真っ白な工程表でびっしりと覆われているからだ。安全目標やら工程表だのなんだは、いかにも工事現場らしい掲示物であるが……それらは掲示板やホワイトボードがあるのに、明らかに窓から優先的に埋めている。明確な意図がある。
「ははあ……来ますか、窓から」
「ええ……今は入っては来ませんが、それでも覗き込むんですよ」
なるほど、掲示物に埋め尽くされたガラス窓の外には、今この瞬間も異型の影が貼りつている。辛うじて入ってこないのは、掲示物の隙間を埋める御札やお守りのおかげなのだろう。よく見る有名神社の札から、何語なのかも判らない札までごった煮にだ。
ガタつくパイプ椅子に腰を下ろし、憔悴したエサキの話に耳を傾ける。
K社がこの一帯を買い上げたのは二年ほど前だそうだ。自治体主導の再開発の持ち上がる駅前、更に大型スーパーや小学校も近いここを、住宅地として分譲する……社運を賭けた一大プロジェクトだそうだ。そのプロジェクトの先駆けとして廃墟群の解体から造成を任されたのが目の前の男と言うわけだ。ビルすら手掛けるゼネコンにとって、大したこともない片手間のような工事……の筈だった。
余程酷い目に遭ったのだろう、時たま青ざめたり、背後を見たりと挙動不審なのが目立つ、既に壊れかけているのだろう。気の毒ではあるが大の男にこんな動きをされると少々見苦しい。
「いやあ、今時こんなに大きな分譲地があるもんですねえ……流石ゼネコン。ウチみたいな個人とは桁が違う。
ここから見えますもんね、御社の本社ビル。いやぁすごい」
「先生の所は施工もなさるんですか?設計事務所では?」
「いえウチは……いやその前に、先生はやめてください。私は建築士を持っていないんですよ。設計としてはモグリです」
いわゆる「建築士」とは弁護士や税理士のような資格である。
嚙み砕いていうなら建築士は「建築物を設計し、設計通りに作らせる資格」である。実際には、機能とデザインと法律をすり合わせ、それを図面に起こし、行政の許可である建築確認を取り、施工品質の監理をする資格である。建築と言うプロジェクトの中心だ。そのため慣習的に『先生』と呼ばれる事が多い。これに比べれば監督や職人はいくらでもいる裏方に過ぎない。
この資格の有無は、建築業界においては年齢や職歴よりもずっとずっと重要なことだ。なにしろ、建築士の存在無しで建てられるのは大きめの小屋が限界なのだから。ところが、純はその免許を持っていない。名前が喪栗なら仕事もモグリと、生まれながらに日陰者の宿命を背負ったような男である。
「え?……設計事務所なんでしょう?」
「いいえ、設計事務所とは一度も名乗ってはいません、名刺にも書いてませんよ。だから昨日も言ったでしょう?人間相手には仕事をしないって。
免許も法律も建築確認も、人間社会のためのものだ、私のお客はそこにはいない。資格じゃなくて、知識で仕事してるとでも言っておきましょうかね、バケモノ専門にね。
不服でしたら早めに仰ってくださいね。帰ります」
エサキがぶんぶん首を振って見せた。モグリと知っても頼らざるを得ないとは、なんとも哀れな男だ。話を戻す。大方の予想は付いていたが、やはり依頼内容は『安全に工事できるようにしてくれ』であった。
「ふぅん……ところで御社は、これだけバケモノの溢れる……曰くつき土地を分譲……赤の他人に売るつもりなんですか?そこに積み上がってるの、分譲の広告ですよね?」
片隅に積み上げられた広告を摘まみ上げた。仰々しい煽り文句と小洒落たイラストに間取り図が並んだ、何の変哲もない分譲の広告である。分譲にしては一軒一軒が少々広めではあるが、近辺の地価を考えると、かなり高い部類の価格設定に見える。
「随分と……強気ですね。現状を知る身としては、好感が持てない」
「い、いえいえ!当社が責任をもって安心、安全に配慮したうえで、です。弊社は快適生活応援企業としてーー」
「……ほぉん」
どの口が抜かす、配慮できなかったのがこの有り様だろうが。と言いたいのを生返事でかみ殺し、丁寧に会社に刷り込まれたであろう薄っぺらい建前を聞き流す。別段この男と腹を割って話したいとは思わない、いちいち嚙みつくのが面倒だ。
個人的な感情を切り離して考えると、K社の判断は正しいのだろう。これだけの土地、決して安い買い物ではあるまい。一日も早く売り出すため、施工を急ぐ判断は当然だ。完成しない工事現場なぞ金食い虫だ。休工中は職人の手間こそ発生しなくとも、プレハブ、仮囲い、敷き鉄板といった設備のレンタル代は際限なく嵩むし、安月給でもエサキの人件費もかかる。
工期が一日延びれば、それだけ会社の利益は露骨に目減りする。経営陣としては現状は言語道断であろう。
「この廃墟群は……なんだったんですか?」
「以前はちょっとしたリゾート地だったようです。こっち側は従業員の住むエリアだったのでごちゃごちゃしてますが」
「リゾート?海も山もない埼玉のど真ん中に?」
「ええ、聞いたことありませんか?オロチの砦って昔話」
「え?ああ、なんか埼玉の昔話でしたね……この辺なんですかあの話。もっと山の方かと思ってました」
一帯を支配していたオロチの一族とやらが、なんだかんだ偉い人に討伐されてめでたしめでたしとかいう、どこにでも転がっている昔話である。〇〇太郎のようなキャラの立った登場人物もいないせいか、いまいち面白みに欠け、印象はかなり薄い。
「随分前に沼から大昔の鎧や骨が発掘されたそうです。調査したら鏡や砦の痕跡とかが出たとかなんとか……どうやって話を通したのか、それを元にしたテーマパークがあったらしいです。当初はそこそこ賑わったらしく、バブル期には別荘地もあったそうです」
昔話の歴史的な裏付けというエピソードは興味深い。しかし、テーマパークとリゾートなんて舞浜の夢の国並み経済効果を、埼玉の地味な昔話一本でどうにかしようだなんて……現代の純の目にはとんでもない見切り発車に見える。
「古戦場をテーマパーク化ですか、バブルの人間は怖い物知らずですね……遺跡が出てきたりしたら工事なんて止まるでしょうに、それを取り込むだなんて、どうやったんだか……今度は結構大規模な造成もするんでしょう?また遺跡が出ないとも……ああ、もしかして?」
地域によっては、工事現場から遺跡が出ることはそこまで珍しくない。だが見なかったことにして埋め立て、工事を進めてしまう事例は多い。身勝手で乱暴な開発によって日の目を見ないまま闇に葬られた発見がいくつあったことか想像もつかない。
現代でこそ怪しい地域は土工事中に自治体が遺跡の有無を確認しているが……それも木っ端役人がちらりと現場を見るだけの杜撰なものだ。それがバブル当時であれば、何が出ようがいくらかつかませて見なかったことにさせただろうことは、想像に容易い。
「ええ、もう出ません。決まっています」
過去に見つかった遺跡が既に廃リゾートに取り込まれている現状、きっとこの先は杜撰な調査すら行われず、全てを掘り返して埋め立てるだろう。ゼネコンにとっては、遺跡も不法投棄の粗大ゴミも等しく邪魔者にすぎないのだ。
「ご都合の宜しいことで」
「バブルが弾けて別荘地は値崩れ、リゾートも潰れてゴーストタウン化して誰も寄り付かなくなって何十年も経ったところを、ウチが買ったワケです。最初はただの薄気味悪い廃墟だと思ってたんですけど……」
解体工事が始まると同時に、異変が始まったという。
「最初は人影や、不気味な声程度だっそうです。私はそういうのまったく信じていなかったので……」
気のせいだと無視する間に事態はみるみる悪化し、バケモノを見ただの襲われただのと、実害が噴き出したそうな。しかし、K社はそれでも作業を続行したそうだ。大きな会社はこれだから恐ろしい。なんともベタな話である。もしかしたら純は帰り道で見知らぬ地元のジジイに『お前あそこに行ったんか?』と絡まれたりするかもしれない。
「いやあ……強気ですね。ゼネコンは怖いもの知らずだ」
無論皮肉であるが、これだけ無法な連中にこんなささやかな言い方では、分厚い面の皮には傷すら付かないだろう。
「ええまあ、職人はいくらでもいます。仕事が欲しい業者も」
「なるほど……いやあ、恐ろしい」
替わりはいくらでもいる、これだけ堂々と言ってのけるのが、少々に気に障った。彼にとって職人や業者は心底「使い捨ててもよい駒」なのだ。この時代それでもついていくお抱え業者はそれでもいいのだろうが、こちらまで同じ感覚で使い潰されては堪らない。
さて当時の現場であるが、当然そんな現場が長続きする筈もない。怪我人が続出すると職人が、やがて業者が次々逃げ出し、挙句の果てには次席の監督も体調を崩し――この有様が出来上がったという。まったく、思った以上にベタである。
「そりゃあひどい……しかし、建築屋なら付き合いのある神主くらいいるでしょう?地鎮祭とかやってるんでしょうから」
「ええ……神主に拝み屋、ウチの副会長がどっかから妙な研究者みたいなのまで連れてきたんですが……一時的に効果があることはあっても、すぐに元に戻ってしまうのです」
なるほど、その辺の胡散臭い連中から明を経由して、純に話が回ってきたのだろう。確信した、絶対に貧乏くじだコレ。絶対面倒なことになる。経験則とかそんな甘っちょろいものではない、見えてる地雷だ。見えるどころかライトアップしてるまである。
「あー、申し訳ありませんが私では――」
純の言葉をさえぎって、エサキがパイプ椅子を放り出す。
「お願いしますッ!このままでは、工事が進みません!」
ノータイムでエサキは土足の床に額を擦り付けた。よくもまあ、ここまで気軽に自分を捨てられるものだ。そんなに仕事が、あるいは会社が大切なのだろうか?大企業勤めとは縁の遠い純にとっては、そうまでして会社に従い続けるその神経が判らない。盲従を通り越して執着の域である。上司に死ねと言われたら、本当に死ねそうだ。
「はぁ……」
胸中に膨れ上がるのは、理解できないものを目の当たりにした不快感である。平たく言えば――
「気持ち悪い。こいつら狂っておるわ……」
苦笑いが頬を痙攣させるのは、メミコの吐き捨てた言葉が胸中とシンクロしたからだ。おそらくこの男とその周辺は、現代社会の最も惨めで狂った一部なのだろう。
「正直な話、分譲計画全体がとんでもなく危険だと思うんですが……」
エサキは答えない。あちらは随分と土下座するのに慣れているようだが、生憎こちらが土下座をされ慣れていない。靴を舐めろと言えば舐めるだろうが、おっさんにそんな事をさせて喜ぶ癖もない。うんざりだ、とにかく一秒でも早くこの場から離れたい。
「うーん……一旦、様子だけ見せてください。それから考えます」
この場にいたら頷くまで引き止められるだろう、とにかくここを離れなければ断ることもできない。……それに、お手上げと言うにはまだ早い。一つだけ心当たりを探ってからでも、逃げ出すのは遅くないだろう。おそらく一度断ればそれまでだ、何しろ業者はいくらでもいると、エサキ自身が言ったのだから。
「づぁー、しんど」
不気味な廃墟群をスマホ片手にふらつく。こうして現場に出ることも多いので、上着だけは作業着然としたブルゾンにしているのだ。
やはりと言うべきか、初夏の晴天の昼日中、上空には何の遮蔽物もないのに、なぜかこの廃墟群は微妙に薄暗く、肌寒い。
この規模の廃墟に浮浪者が住み着いている様子がないのも、この不気味さの効果だろう。
「ほんっとに多いな、バケモノ」
今この瞬間もあちこちにバケモノが見え隠れしている。全身口だらけの子犬や、踊り狂う鈍色の人型など、直視に堪えないモノも多い。そんな連中をひと睨みで蒸発させながら、メミコがぼやく。
「どいつもこいつも小粒な割りにタチが悪い。ここはもう、何の力もないヒトのいられる場所ではないな。何が起きたらこんな訳の分からんことになるのか、想像もつかん」
メミコが不愉快そうにぼやく。
「あんなやつの願いなど聞く必要はない、断れ」
「んー、そうだね。怖いねゼネコン、想像の五倍くらいロクでもなさそうだ、さぞかしブラックなんだろうな。業者相手に業者はいくらでもいるって言っちゃうんだもの、だいぶ狂ってるよな」
大企業と仕事をして得る信用や人脈、所謂コネは貴重なものだ。あるいは仕事の質を選ばなければ、この先一生仕事に困らないかもしれない。しかしそれは人間社会での話、純の生業はバケモノ相手の商売だ、このコネが役に立つとは考えにくい。
「哀れだねエサキってのも。現場監督の宿命か……気の毒に、無力な人間がこんなところでよく耐えられるもんだよ」
その昔『現場監督は現場を選べない、風俗嬢と同じだ』と言って上司から大目玉を食らったオッサンが知り合いにいる。その発言の是非を問うつもりはないが、こんな危険な現場を押し付けられるのなら、あながち間違っていない。文字通り命がいくつあっても足りない。
「いいや……あの男、無力ではない」
「え?」
「目や耳で捉えているいる様子はなかったが……わぁに感づいておる」
警戒しているのだろう、メミコの目は笑っていない。信じられない、強大な力を持つ精霊が、あの矮小な男を警戒していると言うのか。
「……でもアイツ、自分はそういうの信じてなかった、って言ってなかったっけ?」
「ああ、言っておった。なんとなく妙に思って何度か軽く睨んでみたら、そのたびに震えあがっておったよ。加減したから無力な人間には絶対に感づけぬ、あの男はそれなりの力がある。
見破れずともわぁに気付けるなら……ここらで見かけるヒトの身にしては、まあまあなんじゃろう。こんなところにいて神経をやられずに済むのも、ただの鈍感ではない、自衛手段があるからじゃろうな」
「なんだ……精神的にぶっ壊れて挙動不審になってるんじゃなかったのか」
そんな事も判らんのとか言いたげに、鼻で嗤ってからメミコは続けた。
「壁の札もそうじゃ。殆どがただの飾りのようじゃが、数枚は確かに力を感じた。見慣れぬ札じゃ、遠い地の信仰かのう」
「どんな特技があっても構わないが……それを隠して真逆の事いうのは、信用できないね」
「じゃな。必要以上に弱者を装う者にロクな奴はおらん。土壇場で足元を掬う、性根が歪んだ連中の手口じゃ」
明らかに隠し事がある。その事実だけで信用にはヒビが入る。そんな人間が、そんな人間に現場を任せる企業が、押し付けてくる事態なんて、どう考えても危険だ。依頼のふりをした生贄だっておかしくない。
「断る方が丸いな」
「そうせい。というかお前一人じゃ無理じゃろ、こんな広い土地」
「……何か勘違いしてるみたいだけど、俺が直接作業するわけじゃないからね?
俺の仕事は、基本的に設計と監理だから」
極めて大雑把に言えば、全体の計画を考えてそれを図面にするまでが『設計』。実際に図面通り、計画通り施工しているかを確認するのが『監理』である。純の仕事はやってもそこまで。監理すら常駐ではなく、たまに現場を覗いて確認する程度の事だ。実際に作業する人員や材料の調達や段取り、工程管理を含めた『施工』はK社の仕事になる。実際に現場で手を動かすのは更に下の業者である。
「何だか知らんがどうでもいいわ。あのテの顔は好かん」
「ヒラメ顔は嫌いか。流石に顔つきだけで嫌うのは理不尽だな」
苦笑い。精霊がえり好みするくらいに人間を判別しているだなんて、思いもよらなかった。
廃墟群の建物はかなり古く、リゾートの裏側という外部の目が届かない環境だったのもあってか、古びたなアパートらしき建物同士が溶け合い絡み合って無限に広がっていく。
「古いな……木造モルタルやらトタンやらで継ぎ接ぎしまっくってる、元が何軒なのかもわからん……元はかなり古い文化住宅かな?そこに素人が無計画に増築しまくった感じか。埼玉九龍ランドってところか……嫌いじゃないが、遠くから見るのが一番面白そうだ」
放棄されてからかなりの時間が経っているのだろう、積み上げられた粗大ごみも廃墟の一部となり、禍々しい雰囲気の演出に一役買っている。うんざりしながらキョロキョロしていると、すぐそばの建物の奥で何かが動いた。反射的に覗き込むと、中ではスイカほどの生白い肉塊が無数に跳ね回っていた。いくつも開いた口が歯をむき出しにしてけたたましく笑いながら、天井や壁に激突し血飛沫を撒き散らしているではないか。
「うっげ……ッ!」
バケモノを間近にして、絶叫せずに呻き声で済ませたのは我慢できた方かもしれない。しかし、悲しいかなバケモノの注意を引くには充分であった。一斉に反応した肉塊共は、天井と床の間をゴムボールのように弾んで、一瞬で距離を詰めて襲い掛かってきた。びっしり並んだ歯が純の鼻を齧る直前、メミコの爪がそれを薙ぎ払った。
「フゥゥーッ!」
髪を逆立て牙を剥き威嚇を振りまくと、解き放たれた不可視の力が空間に波紋のように伝播する。それが、残った肉塊を飲み込むとチリも残さず消滅させた。
「し、死ぬかと思った……」
辛うじて失禁こそ堪えたが、腰が抜けて立ち上がれない。対してメミコは呆れた様子である。
「情けないのう、あの程度で。雑魚じゃろうが」
細長く青黒い舌が、爪にこびりついた血肉を舐めとって――吐き捨てた。生々しく艶めかしい舌に奪われる目を、意思の力で引き剥がす。
「命が惜しくばわぁから離れるな。なんとなく、気配が濃くなってきた」
首肯。外で見かけたときよりも、バケモノが明確に悪質になっているのが実感できた。
「あの程度、本来昼間から具現化できるような格ではあるまい。大方、この一帯に漂う力が具現化したんじゃろうな」
「飽和してるみたいだな。どうなってんだよホントに」
ここは霊力、あるいは妖力と呼ぶべき不可視の力があまりに濃い。その濃い力が、不安定な存在をバケモノとして産み落としているのだ。いわば溶け残った砂糖のようなものなのだが、残念ながらそんな可愛いものではない。
「こんなとこ分譲するとか……K社はバケモノの養殖でもしたいのか?」
こうして発生するバケモノは、本来煙のように不安定な存在であり、蹴散らしてしまえばそれまでのはずである。しかし、濃厚な不可視の力でがっつり具現化してしまったせいで、立派な脅威になってしまった。よくもまぁ、工事が怪我人だけで済んだものだ……黙っているだけかもしれないが。
「ああいうのは自分以外のモノはとりあえず齧る。増やそうと思えば無限に増える、虫けらと変わらぬ」
悍ましさに背筋が震える。ナメていた、ここは既に並みの人間が生きられる場所ではないのだ。地獄を歩くくらいのつもりでいなければ、本当にあの世送りだ。
「一応聞くけど……もういっそ一帯に漂う不可視の力を吸収しちゃうとか、そういう便利な真似ができたりしない?」
こいつの眠っていた剣に出来て、本体に出来ない理屈はなかろうと話を振ってみると、メミコは露骨に渋い顔を作った。
「できるかできぬかで言えばできる。だがやらん、気持ち悪い。この辺の力は淀んでおる。水たまりの泥水を好んで吸いたいか?
ほれ、そろそろ立てるか?」
幸い差し出してきたのは、血肉を舐め取ったのとは逆の手であった。
「女子に手を借させるな、甲斐性なし」
「おな……ご?」
「ぶっ飛ばすぞこの野郎」
気を取り直して廃墟群を進むことしばらく、わずかな時間のうちにバケモノの襲撃に見舞われた回数は、とうに両の手を超えていた。しかし、メミコにとっては埃が飛んでいるのと大差ない。文字通りの瞬殺をその都度繰り返すばかりであった。
「まだ増えるのかよ……バケモノどもめ」
「鬱陶しいがこれは無限に湧く、どれだけ蹴散らしても一時しのぎにしかならん。水溜りを手や足で引っ掻いてもすぐ戻ってしまうじゃろ?そんなところだ。波が立ち泥を巻き上げ、中にいる者が――うわなんかデカいの来たな」
首なし牛車を片手でなぎ倒したメミコがうんざりと呟く。舐めとるのも飽きたのか、全身に浴びた返り血は、肩を払う程度の仕草のうちに蒸発した。
「こんなとこ、金貰っても住みたくねえな」
メミコが鼻で嗤った。
「ふふん、まずここまで入ってこれるかのぅ。普通の人間ならあっという間に狂う……いや、それより先に食い殺されるか。あー気色悪い」
「メミコでもいやか、ここ……なんか、バケモノ強くなってきたっぽいな」
「この程度痛くも痒くもない。じゃが目の前に羽虫の群れがおったら気分悪いじゃろ……その羽虫が小さめのガくらいになってきたらもっと気分悪くなると思わぬか?あーやだやだ空気が悪い、少し高い所へ登らんか?ここよりはマシなはずじゃ」
メミコが視線を向けた先は、この廃墟群のほぼ中心にある小高い丘であった。どうやらあの丘の上を中心にテーマパークの跡地があり、それを挟んで別荘地が拡がっているらしい。
「……なにかありそうか?」
「さあな、気配が濃くてはっきりせぬ。雑魚だらけでどこに何がいるのかもわからん。鬱陶しい、気が滅入るわ……」
「案外、デリケート……繊細なんだな」
「ふん、腰を抜かしたヌシ程ではない」
ケラケラと嘲笑う気力もないのか、うんざりとぼやくメミコを見て、純は丘へ足を向けた。
※ご注意※
この作品はフィクションです。実在の人物、団体、出来事とは一切関係ありません。
実在する人物、団体、出来事、思想には一切関係ございません。またそれに対する批判、意見する意図は一切ございません。娯楽作としてお楽しみ下さい。