野暮な電話と新たな依頼と(後編)
寝静まる寂れた住宅地の一角。何の変哲もない一戸建ての狭苦しい駐車スペースに、灰色の軽が押し込まれるように停車した。純の自宅である。
「ただいま……っと」
反射的に口走るが、返事はない。
「他に誰も居らぬのか?」
「そうだよ」
「そうかそうか」
よくわからないがメミコは上機嫌である。壁を探って照明を灯すと、玄関と廊下の明かりが居間に差し込んだ。ゴミこそないが、今一つ殺風景で生活感がない。そろそろ掃除機くらいかけろと、床にうっすらつもった埃が主張しているが、こんな時間に掃除を始める筈もない。上着をかけ、靴下とシャツだけ洗濯機に放り込む。
向かうのは玄関のすぐ横、居間からも、玄関土間からも入れる部屋がある。風呂より先、こちらに目を通したかった。
さして広い部屋ではないが、大きな机の上には山積みの書類とノートパソコン。書棚に押し込まれているのは建築雑誌と設備機器のカタログ、そして大量の図面、図面、図面。
散らばるメモやゴミの溜まり方からして、居間よりも遥かに生活感のある空間であった。
「何じゃこの部屋、焦げ臭いのぅ」
建具枠から覗き込むようにメミコが呻く。その正体はおそらく、コーヒーと古い紙の匂いだろう。
窓を開け、外気を入れる事暫く、我慢できる程度に臭いが薄れたのか、ふよふよとメミコが入ってくる。少々眉を顰めながらも、物珍しそうにしている。
「触るなよ、崩れるから」
「……随分長いことこのままのようじゃな、物置か?」
どっかとデスクに付く。何やら色々会った一日に、やっと終わりが見えた一息つくと、両肩がずんと重くなるのが判った。
「失礼な奴だな、ここが俺の仕事場だよ」
この一室に構えるのが、純の設計事務所である。顧客はバケモノ、人間を相手にしないと言う点を除けば、やる事や置いてある物は、さして人間相手と大差ないだろう……まあ、他人様の設計事務所を覗いたことはないのだが。
パソコンを立ち上げ、メールやらなんやらチェックをしながら、小汚い手帳とにらめっこである。正直、丸一日君喰丸邸の引き渡しに潰れるのは想定内であった。しかし同時に動いている案件は大小様々である。進捗や問題発生を確認しなけらばならない。
「顔が疲れとるな、大して歩いてもおらんじゃろうに」
「知らなかったか?人間はな、振り回されると十倍くらい疲れるの」
「そうか、何があったのか知らんが大変じゃったな」
皮肉が効かないのか本当に自覚がないのか、今一判別できない。
「それよりも、ほれ、グミを寄こさぬか」
「はいはい」
帰りのコンビニでどっさり買い込んだグミを放ってやる。投げつけられたパッケージがヒメミコの手元に届いたころには、既にその爪がチャックごと切り飛ばしていた
「あーあ……」
「なんじゃ」
「もう口が閉じないじゃんか」
「要らん、こんな量一口じゃ……ん?なんじゃこれ、青いが……匂いは悪くないな」
しばらく鼻先でくんかくんかしていたが、やがて怪訝な顔で一粒口に放り込む。
「なんじゃこれ、さっきと違うぞ。むう、少し酸っぱいな」
「嫌いか?」
「不味くはないが……好みではない、桃じゃ、桃をよこせ」
「ああ……グミじゃなくて桃味が好きなのか」
グミならなんでもいいだろうと手当たり次第に買い込んだのだが、サイダー味はお気に召さないらしい。桃味限定となると絶妙に面倒くさい嗜好をしている。そのくせ香料でよいのだから、贅沢なんだか俗っぽいのかわからない。
「ほれ……これは桃と、ブドウと、ミカンの三種類だな」
「うむ……あ、これはブドウ味か。うん、悪くはないが……うむ、桃の方が美味いな」
ブツブツ言いながらグミをより分けて食う精霊を眺めていたら、自覚していなかった分の疲れまで表面化してきた。
「ぐっ……ああ、やべ、腰にキたな」
「あの陸の舟は狭苦しいからな。あんなもんに長々と乗っていれば、腰くらい痛めるわい」
「ありゃ車っていうんだ。船じゃない。もうちょいいい車ならマシなのかなぁ」
「そう言えば、純のクルマは他より小さいな?あれか、格下なのか?」
「そう言われると腹が立つけど……まぁ、間違っちゃいないか。そうだね、安いし、軽なんか遠出するタイプの車じゃない」
「ほう、ケイというのか」
逐一物の名前が伝わらないのは随分面倒だ。そういえば彼自身も、幼いころは父の車に対して、あたかも車種が名前であるかのように扱っていたものだ。子供なら微笑ましいが、人外までそうなるのは少々奇妙であった。
「面倒くせえ……構うか、知ったことじゃねぇや」
はてさてメールに緊急を要する連絡はないようだ。しかし、資料待ちで止まっていた見積もりや設計、仕事になるかどうかわからない打ち合わせとその日程やらと、やることは常に溜まっている状態だ。
「よくわからんが、随分と働き者じゃな」
「そりゃどうも……おっと、見積もり届いてるじゃん。纏めちまうか」
時計を見上げると、まだ日付は変わっていない。それほど凝った見積もりでもない、二時間もあれは目鼻はつくだろう。
こうして遅くまでだらだらと続けるのは非効率的だと判っているが、どうにも切り上げられない。数年がかりで動いていた大きな現場がやっと終わったのだ、(あの蟲毒酒を明が上手く売りさばけば)暫く遊んで暮らしたって金に困らないのだが……目の前に仕事があると放っては置けない、個人事業主の悲しいサガだ。
見積もりソフトを立ち上げ、添付書類やカタログやら、その他必要な資料を開く。
「……なにか始めるつもりか?」
バケモノ相手でも仕事の気配は伝わるようだ。人間社会の知識を持ち合わせていないだろうメミコがそれを嗅ぎ取るのは、少々面白い。
「見積もり、つっても判んねえか。お客さんが希望する工事をすると、これくらいかかりますよって伝え――なんだ?」
側頭部で何かぱちんと弾けるような音、振り向くとそこにはパーに近いメミコの掌がある。どうやら自分がデコピンを食らったらしい。なにしてんだこいつ、と眉根を寄せて見上げていると、メミコはふんと鼻息を鳴らして続ける。
「褒められてると思ったか?バカめ、今日はもう休め、太陽と共に寝起きするのが、ヒトのあるべき姿じゃ」
「……その様子じゃ、封印されたのはかなりの大昔だな。
さてはウガウガ言ってた頃の人間しか知らねえな?何でもいいけど、生憎もうヒトと動物は違う。現代人にはやらなきゃならない仕事がある」
「ふん、顔を見ればわかるぞ。嘘ではないがまるっきり真実でもないな?
急ぎでもないが、手を付けぬのも不安でグダグダしとるんじゃろ。
不安から目を背ける為だけ働いて良いものが出来るか、ボケ。適度に休み仕事の質を保て、それが仕事に、ヌシの仕事を待つ者への誠意だと気付け。
それともヌシは休む事と怠ける事の違いが判らぬ子供か?鋭気を養うのも大事な働きじゃ」
図星を言い当てられてギョッとした。口調こそ少々強いが、叱責と違い諭す口調はむず痒く、どこか心地よく、僅かに懐かしい。
そうだ、おそらくこれは説教なのだ、何年ぶりだろうか。八つ当たりや癇癪とは違い、文字通り説いて教える、面倒で手間のかかる作業だ。それはつまり、手間を惜しまぬ間柄であると証言しているようなものでもある。
「ヌシはあれか、冬の森は死んでると思っとるクチか?それは大間違いじゃ、冬の森は寒さに耐えながらも、水や油の形で力を蓄えておる。その備えが、次の春に芽吹く力となる。
わかるな?力を貯め込むのも大切な時間という事じゃ、これを無駄と切り捨てるのは大馬鹿者よ。なんの備えもなくただ動き続ければ、いずれ自らをすり減らし、緩やかに死んでいく。それは真っ当な人間の働き方ではない、奴婢じゃ、
奴婢になり下がるのは、簡単だが愚かなこと。負けて貶められてならまだしも、自らの奴婢になるのは……あまりに愚かじゃ。ヌシならわかるよな?」
こちらを覗き込むメミコの虹彩は、翠色の煌めく不思議で奇妙な色合いだ。春先の森を彷彿とさせる彩りは、芽吹いたばかりのような瑞々しさがあった。
恐怖はなかった。ある種の安らぎすら感じるのは、純の根深い所が何かを感じているのか、あるいは視線に魅入られているのか、とんと判別がつかない。
心があるいは魂と呼ぶべきものが、湯の中でほぐされていくような不思議な安らぎを感じていた。これが、まさかバケモノの説教によってもたらされるとは思いもしなかった。
「わかった……今日は切り上げる」
「よし、酒でも食らって寝ろ、わぁが付き合ってやろう」
「……俺ほっとんど酒呑まないんだよね、買い置きの酒なんて――」
殆どない、と言うより早くメミコはかっと目を見開き、信じられないと言う顔になっていた。
「んなッ……かぁーッ、つっまらん奴ぅ」
露骨に吐き捨てるメミコに、さっきまでの安らぎの分、カウンターが入ったのか苛立ちが湧く。
「……この野郎、酒にありつきたかっただけか」
「何を言うか。わぁの健気な気遣いが判らぬのか?」
もちゃもちゃグミを噛みながらへらへらと薄っぺらく笑うメミコからは、もはやすがすがしさすら感じる。
「もういいや、寝る」
「そうじゃ、夜更かしは毒じゃ。寝ろ、ほれほれ膝でも貸してやろうか?」
ざらざらと残りのグミを平らげると、舞い降りるようにソファに腰を下ろし、メミコが手招きする。背丈のわりに太く、存外白い腿に目が吸い寄せられる。
「なんだよ……面白い冗談じゃねえか」
「冗談だぁ?本ッ当につまらん男じゃな、いくじなしか?いい歳に見えるがこんなことも……いや、教え込むのも悪くないのぅ」
メミコの口角が笑みの形に吊り上がり、目の光が煽情的にとろりとやわらいだ。今までのケタケタとした笑い声ではなく、甘いものでも含んでいるような猫なで声を帯びる。
気付けば純は、唇から覗く牙が唾液に濡れて、挑発的な照りを帯びているのから目が離せなくなっている。
ゴクリ、と生唾を飲んだ。どうした、何を考えている。あいつは正体も知れないバケモノだぞ、しっかりしろ。頭蓋の中に自分の何度も声を走らせるが、足が勝手にメミコへ吸い寄せられる。下腹部にかぁっと熱いものがこみ上げるのを感じ――唐突に鳴り響いた電子音が、純を正気へと引き戻した。電話だ。
「ちぃっ……野暮な」
得体のしれない音に面食らったのか、メミコは露骨に舌打ちし、再びふわりと舞い上がった。
深呼吸、高まる鼓動を落ち着かせてスマホに手を伸ばす。
「……この辺の番号じゃない」
そろそろ日付も変わろうかという時間の電話。非常識ではあるが、今に限っては助かった。
さてこの電話、恐らくバケモノの仕業ではない。今時電話をかけてくるバケモノも珍しくないが、そういう手合いは大抵、電話の表示が異常であったり、あるいは知り合いの番号を表示したりと、なんらかの捻りを入れてくる。真っ正直に知らない電話番号を表示させることは、意外と少ないのだ。
「とすれば人間か……こんな時間に?」
相手が人間であっても、頭か状況のどちらかがまともならば、こんな時間に電話などかけてこない。他の案件がらみの業者や職人はもっとあり得ない、彼らは朝早く、夜も早い。この時間はまず間違いなく寝ているだろう。
ロクなことにならない確信はあったが、生憎、ロクなことの範疇では、彼の生業は成り立たない自覚があった。
「その喧しいの、どこかと繫がっておるのか?」
メミコが顎をしゃくった。さっきとは違い、その目には警戒の色が見えた。
「判るのか」
「そのちっこいのの向こう、イヤな気配がする」
ド直球に言われて、スマホが急に重く感じた。この小さなガラス片の向こうから、ドス黒い何かがのぞき込んでいるような気さえしてくる。
この画面を撫でて通話を開始する行為が、自らバケモノを呼び込む行為だと思うと、流石に指が鈍る。
「……出た瞬間呪われたりしないだろな」
「怯えるな。そんな真似はさせぬ」
するとメミコは、頭上でゆらりと、大きな熱帯魚のようにしなやかに旋回してみせた。瞬時に全身から広がる不可視の力が、部屋の空気を冷たく澄んだものに置き換えていくのが判った。
浄化と言うより、メミコの力が自身以外の影響をねじ伏せ押し出したのだろう。これならば、この通話が純に危害を加える事は不可能だと確信できた。
「はい喪栗です。
ええ……あの、お電話口はお一人で……すよね?ああいや、なんでもありません。混線でしょうかね、あはは、お気になさらず」
予想通りであったのは、内容以前の問題だ。相手の声にはねっとりとした嫌なエコーがかかり、その後ろで大勢がぶつぶつと呟いているのが聞こえる。もちろんクソ程不気味であるが、それだけならば無視できる。
「建築現場の怪奇現象?いや、うちは拝み屋ではないので、そういうのはちょっと」
どこから話が流れるのか、呪われただの、祓ってくれだのという話がたまに転がり込んでくる。だが、そういうスキルのない純としては迷惑以外の何物でもない。
視界の端を掠めたメミコを見て『あれ?コイツの力を借りれば簡単なんじゃね』とも思ったが……口に出すのはやめておく。
拝み屋の真似事だなんてとんでもない。勝手の知らない仕事になんとなく手を出す人間は、大概ひどい末路が待っているのだから。
「そういう話でしたら、知り合いに顔の広いのがいるので、紹介しますよ」
明である。蛇の道は蛇と言うべきか、明のツテには拝み屋連中が多い。変人奇人に悪党の大小まで取り揃えているが、知る限り無能はいない。きっと力になるだろう。内心厄介ごとが片付いたと思っていただけに、先方からの返事は予想外であった。
「え、塚荒の紹介でウチに?」
先にそれを言えと言いたいところであったが……とすれば少々話が変わる。明が純の仕事だと判断したなら、一度は検討してもいいかもしれない。
「そうですか……でしたら、一度お伺いしましょうか。場所はどちらですか?……F市?」
県内ではあるが、あまり馴染みはない。夏日室からだと大宮を越えた先、混雑しなければ車で一時間前後だろう。
「いったんお話を伺います。では、明日の朝十時で宜しいでしょうか?……ええ……はい、では、明日。失礼いたします」
通話終了。大した時間でもなかったのに、頭の芯に妙な疲れが残った。
今度こそ緊張の糸が切れたか、肺のどこに入っていたのかと思うくらいの長い息が出た。今日一日あれこれと振り回されて、何が何だかわからなくなってきた。さっき表面化した疲労が、今度は立体感を会得して再度襲ってきたのがわかる。今夜はもう限界だ。
「いい加減、少し……休むか」
ワイシャツを脱ぎ捨て、緩めていたネクタイを外す。寝室まで行くのも面倒で、リビングのソファにどっかと寝転がる。向こうへの到着を九時半とすれば、準備を逆算して数時間は眠れるだろう。シャワーは起きてからでいい。
「明日の仕事は……一応、着いてきてくれ。出るのは八時前……って言っても判んねえか。とにかく少し寝るから……日が昇るまでは大人しくしててくれ」
「良かろう。明日こそ存分に力を貸してやろう、楽しみにしておれ」
不敵に笑うメミコを見上げたら、あくびをする余裕もなく、意識が薄れてきた。そうだ、せめて歯くらい磨くべきだろうか……だめだ、一度閉じた瞼が重くて、とても持ち上がらない。
「……頼りにしてるよ……おやすみ」
「んむ」
何気なく口にしてから気付いた。おやすみを告げる相手がいたのは何年ぶりだろうか。些細なことであったが、案外悪い気はしない。そんな自らの生活のあまりに味気無さを自嘲するより早く、純の意識は眠りへ沈んでいった。
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