負の遺産の清算と
千絵に半殺しにされ、二千年前の関東でアマトの侵攻と戦い、一週間で提案書を仕上げ……ここしばらくで純の神経はすり減っていたのだろう、帰ってから数日は引きこもった。
出かける先は精々スーパー。動いている案件から連絡があった時だけ対応し、あとは殆ど眠って過ごした。
「すぐ戻る、少しだけ待っておれ」
ガラにもなくメミコのその言葉を信じた純であったが……買い物に行く度に目がいってしまう。ほんの数日で冷蔵庫には桃が、パントリーには桃のリキュールとワインが並んでしまった。あの頃のヒメミコの嗜好からして、酒の好みは清酒より濁酒、濁酒より果実酒の方が近いだろうという、無駄で健気な気の使いようであった。
「……バカ野郎が。
あのバケモノに何を求めているんだ、俺は。あんなやつ、いたって何の得もないだろう。
やっと以前の平穏な生活に戻ったんだ。のびのびすればいいじゃないか……」
そういう理屈は理解しているのに……どうにも気分が晴れなかった。遊びに行く気力も湧かないし、飯を美味いと思う気力すら失われ、無気力に過ごしていた。
そんなある日、何の前触れもなく背筋が凍った。
「ウソだろ……」
僅かな荷物を掴んで車に飛び乗ると、電話が鳴った。明である。
「判るか?この気配」
「間違いねぇ……アマトの異形だ」
二千年経っても忘れるものか。今はまだ極めて遠いが、これは間違いない。アマトの異形の気配だ。明を拾ってF市へと車を飛ばした。
この時間に大宮なんか通ったらどれだけ混むか分からない。地図上では迂回になるが、川越から迂回してF市に向かう。国道からやたらと田んぼの広がる一帯を駆け抜けるのだが……様子がおかしい。
「純、お土産ドラゴンあるよな?絶対に身から離すなよ」
「……わかった」
田んぼに、建物に、川に、そこらじゅうに車が突っ込んでいる。中には煙や炎を上げ、本格的な火災を引き起こしかけているところもある。だというのに、消防車のサイレンも聞こえず、野次馬の一人も見当たらない。町中が死に絶えたかのようだ。
車が町中にさしかかると、歩道と言わず店頭と言わず、あらゆるところに人が倒れていた。買い物袋を下げたものや、スマホを握った者も見受ける。
ゾッとしながらアクセルを踏み込み、ようやくF市に近づく頃には、動くものは炎と煙くらいになっていた。
異常だ、余りに静か過ぎる。パニックすら起きていないではないか。まるで、範囲数キロの全員が同時に気を失って倒れたようだ。お土産ドラゴンを通したメミコの加護がなければ、純も同じように気を失っていただろう。
「異形の仕業か?」
「……多分な、アテられたんだろ。妖気が膨れ上がってる……このまま放っといたら、ここら一帯にバケモノが湧くぞ」
向かう先はもちろんあの廃墟群だ。開け放しの蛇腹ゲートを潜り、廃墟群を駆け抜ける。
そう、この数日で廃墟群のど真ん中を貫く道が作られ、鉄板が敷かれていた。軽自動車どころではない。ユンボを積んだ重機トレーラーだって通れるだろう……この先、丘の上のカルチャーパーク跡地まで。
「やっぱり……ッ!」
廃墟群の中心の丘には大きな重機が何台も運び込まれ、どう見ても大規模な土木工事の様相を呈していた。
ドアを開けた瞬間、背筋の怖気が一段と強くなる。じわりと熱を帯び始めたお土産ドラゴンを握り締めた。足元の悪い現場では走るべきではない。急ぎ足こそ最善である。
かつて辺りの瓦礫はすっかり片付けられ、一帯は見るからに禿山のようである。その片隅に作業着とヘルメット姿のエサキの姿を見つけた。
「エサキさん!これはどういう事ですか?丘には絶対に手を出すなと、言ったじゃないですか!」
瞬間、頭上の空間が裂けた。そこから飛び出した巨大な拳に跳ね飛ばされ、純は鉄板の上に転がった。お土産ドラゴンを握っていなかったら、ミンチになっていただろう。
メミコの見立て通り、拝み屋としての力を隠していたらしい。
「……これが御社の返事ですか?」
「防げるんですか……ああ、拝み屋じゃなくても防御手段はあるんですね」
エサキは振り向きもしない。肩越しにちらりとこちらを見る目には「面倒なのが来たな……」と辟易を隠そうともしない。
「おわかりいただけたようですね。今回弊社は、喪栗さんの案を見送りました。
流石にあれでは資金の回収も見込めませんし、手離れが悪いので。いえ、事態は解決したので、お約束の残金は振り込まれるはずです。
また、よろしくお願いします」
ほんの十秒前に叩き潰そうとしておいて、いけしゃあしゃあとよく抜かしたものだ。
「今すぐやめろ!何が起こるか――いや、もう起きてる。川越のあたりまで、人間が不可視の力にアテられて倒れてる。
今すぐ戻せ、バケモノが湧く!無防備な人間にはもう危険だ!」
「すぐ終わらせます。
いや……そもそもウチの現場とは関係あるんですか?」
平坦な喋りで返す顔には「うるせえなぁ、仕事の邪魔だろうが」と書いてある。こいつ、正気か?
「こんなバケモノがそこらにゴロゴロ埋まっててたまるか!」
「大した数じゃないでしょう、そんなもの」
これが殺戮や破壊を楽しむ異常性やら、信者以外から巻き上げるのを美徳とする教団の狂気やらが透けているならまだ理解できた。
「工事関係者以外は、立ち入らないでください。危険なので」
虚ろな名エサキの目には、愉悦や狂気や破壊衝動といった、いわゆる敵意はなく、ただただ無気力無感情である。
ある意味アマトの異形寄りも不気味であった。目的もなく彷徨うゾンビのようなその精神は、そこらのバケモノよりも理解できない。まるで人型の虚空のような不気味さ……一つだけ心当たりがあった。
(ああ、こいつもぶっ壊れてんだな)
ブラックゼネコンに精神を破壊され、首を吊った友人がこうだった。
文字通り莫大な仕事に忙殺されたのだろう。本来なら擦りきれる筈の精神が、拝み屋の技術で守られた結果、その精神は悍ましいバケモノに成り下がったようだ。
「ご協力をお願いし……いいや。口を封じておきますか」
伸びる前に雑草の芽を刈っておこう。それくらいの軽い口調で振り向くと、再び頭上に現れた空間の裂け目からは、さっきの巨大な腕の持ち主がずるりと上半身をのぞかせた。
それもまた、肉と骨で作られた悍ましい人形だった。体の各所に人面が点在するあの姿には見覚えがある。熱で溶けた人形をこねくり回したように、ねじ曲げられた人間で象った歪な人型である。全長およそ五メートル、廃墟群の隠し部屋にあった呪物と同様のものだろう。少し違うのは、長い事放置されて干からびていたあれと違って、まだ生感が残されていることだ。その分、一段と気色悪い。
「くっ……」
武術も霊能も心得のない純には構えがない。熱くなるお土産ドラゴンを手の中で握りしめる事しか出来ない。
「まったく……依頼料はお支払いするというのに、よく判らない方だ。まあ、現場経費が浮くので良いのですが」
地球の裏側のほのぼのニュースくらいどうでもいい、それくらい無感情な口調でエサキが呟くと同時、巨人が襲いかかってくる。
純には何も出来ない。ただ、お土産ドラゴンが勝手に反応して攻撃を弾いてくれるのについていくのが精一杯だ。
「くっそ……」
ジリ貧に追い込まれる純をよそに、エサキはこれが作業の邪魔にならないかが心配のようだ。にわかに始まった小競り合いにぎょっとしている職人に対して「ああ、こっちは私が対応します。作業を進めちゃってください。あと、社長に聞いてもらっていいですか?一人分の死体を処理したいんですが」と純の相手は片手間に後始末まで考えている。
「舐めやがって……」
エサキの力がメミコに匹敵する筈がない。だが、お土産ドラゴンを通して引き出す力、それを操る技術に限れば、その差は歴然だ。
それを指摘もせず、煽りもせず、淡々と始末にかかるエサキの背後で、重機が石棺に取り掛かった。
「やめろ!本当に何が起きるか――」
ぽーん、と空気鉄砲のような甲高く乾いた音がして、石棺の蓋が跳ね上がった。
「えっ……」
次の瞬間、歪な人型が動きを止めた。エサキも、周囲で作業を進める職人達も同じだ。
それらは皆、石棺から伸びた腕に鷲掴みされていた。何人かの職人が絶叫をあげる中、エサキはヘルメットの上から額に手を当てて呟いた。
「ああ……困ったな。また工事が遅れてしまう」
ボソリとそう呟いた瞬間。ぐしゃんと生卵のように握りつぶされ、血肉となって飛び散った。職人も、エサキも全員。
「ヤバいぞ……」
背後で呟いたのは、なんとか腕から逃げていた明である。
「アマトの異形が……アイツらの魂喰って復活しちまう」
既に腕は石棺へ引っ込んでいた。背筋が凍ったのは今日何度目だろうか?
「こんなに何度も凍ったら……背中が高野豆腐になりそうだ」
呆然と純が呟くが、石棺から這い出ようとするアマトの異形の巨体に比べれば、どうでもいいことであった。
全長二十メートル強。無数の腕を持つ上半身から、首の代わりに更に歪な上半身が生えた生白いバケモノ――その大まかな姿は、二千年前と大差ない。
ただ違うのは、その全身が骨と皮ばかりのガリガリの姿となっていたことだ。
「ぎぃぁあああああっ!ごぉおぅあああああっ!」
天を仰いて発した咆哮は、既に人間のものではなかった。二千年の封印に完全に狂ったか。あるいは太古の狂人と現代の狂人の魂が入り混じって完全にぶっ壊れてしまったのか。傍目には想像もつかない。
「あああああっ!うぐわああああっ!」
無数の腕が自らの胸板を引き裂き、そこに自らの手を突っ込む。何度見ても慣れないその光景は、そこから七枝封征剣を引き抜くのも同じであった。二千年前と違うのは、その剣に肉と骨がまとわりついて脈打っていることだけだった。
「ぎぃいやぁぁぁあっ!」
虚空を薙ぎ払った異形の刃は、遠くに見えるビルをぐしゃんと突き崩す。空間を超えた遠隔攻撃で幾つかのビルを突き崩していたかと思うと、気がつけばその枝分かれした刃には、半透明の人型の何かが無数に串刺しになっていた。
「なんだ……あれ?」
「人間の魂だろうな……そこらの気を失った人間からかき集めてやがる」
明が吐き捨てるように答えたのは、大きく引き裂かれた異形の胸元の傷口が更に広がり、そこにびっしりと牙が並んでいたからだ。
「嘘だろ……」
胸板に現れた巨大な口裂は、無数の魂を串刺しにした剣にむしゃぶりついた。自らを刺し貫くことも厭わず、魂を貪る。
「二千年の断食はキツかったらしいな。力そのものは昔より落ちてる……だが、あまりの飢えで変質しちまったらしい。
周囲数キロの無力な人間を昏倒させて魂を食らうバケモノ……こんなのもう、歩く災害だ。クソが、こんなバケモノと鉢合わせると判ってりゃ、ウチで昼寝したまま殺された方がマシだった」
力なくその場に座り込む明であるが、純は違った。明の首筋を掴んで助手席に放り込むと、自分も、車に飛び乗ってエンジンをかけ、もうスピードでその場を離れる。
「……今更どうする気だ?逃げたって死ぬ順番が前後するだけだせ?」
力なく呟く明の鼻先にお土産ドラゴンを突き出すと、それは激しく明滅していた。自らをアピールするように。
「この音、聞こえないか?」
「あ?」
純が指さしたのは車の天井のその向こう、空である。
空が唸っている。いや、周辺の市街地に立ち込める煙の向こうから、何かが近づいてくる。
飛行機である。しかも一機や二機ではない。十数の飛行機が編隊を組んでこちらへと接近して来るではないか。ブォンブォンという独特のエンジン音は、旧式のレシプロエンジンそのものであった。
「えらく……古臭いな」
眉を顰める明の独り言を劈くように、口火を切ったのは戦闘機である。廃墟群上空に切り込んだ数機のそれは、後部にプロペラ、機首付近に前翼を持つ前翼型という特異な形をしていた。それがすれ違いざまに機関銃を叩き込みながら、異形のスレスレを掠めるように飛び交っていく。
不気味なくらいの速度と運動性を誇るその翼は、異形の注意を引きつけながらも決して捕まることがなかった。
続いて大型機がやってくる。船のような胴体をもつ大型機が数機と、それを率いるビルのように巨大な爆撃機であった。
大型機はアマトの異形を中心に旋回し、上空から大型火砲を叩き込む。その上から爆撃機が爆弾の雨を降らせる。異形が反撃に手を伸ばそうとしても、戦闘機の機銃掃射がすぐさまそれを叩き落とし、攻撃の合間を縫って鼻先を掠めて牽制し続ける。さながら怪獣映画の光景であった。
弾丸や爆弾もただの鉛玉や炸薬ではない。炸裂する度に見慣れない文字や術式のようなものが空にくっきりと広がり、物理的な打撃以上に異形を悶えさせているのが見えた。
「じ、自衛隊か?」
「違うな……あれは震電、二式大艇に……あっちは富嶽か?第二次世界大戦の、骨董みてえな旧日本軍の飛行機だ」
「は?」
「旧日本軍……つまりどこの……いや、誰の戦力だと思う?」
「……クニツカミか!」
明が頷いた。
船のような大型機の腹が開くと、爆弾とはまた別の何か空中へ飛び出していく。
クニツカミの拝み屋たちだろう。パラシュートではなさそうだが、カモイのようなモノを使ってゆっくりと地面へ降下していくのが見えた。
異形からもそれは十分見えていただろうが、三段構えで畳み掛けられる航空打撃を突破してそれを撃ち落とすのは不可能だったろう。
その中の一つが翠色の輝きを放っているのを見て、純は車から飛び降りて駆け出した。敷き詰められた鉄板とその継ぎ目に躓きながら、輝きの降下地点へと滑り込むと、
「うわどけバカ、危ない!」
「うるせえ!」
問答無用と純は翠色の光を抱き締めるように受け止めた。勢いは止まらず二人揃って鉄板の上を数メートルすっ転がるが、それでも離さなかった。
「いてて……メミコ、怪我はないか?」
と、腕の中にいたはずのメミコは既にそこから抜け出していた。
「……危ないわボケ。飛べるわぁが着地でケガするわけないじゃろ」
メミコはこちらに背を向けたまま、土埃をはたきおといていた。
「……そっか」
バツの悪そうにしている純に、メミコはほんの少しだけ、殆どわからないくらいの微笑みをみせた。
「まあ良い。次はもう少し優雅に出迎えよ。で、何が起きている?」
「K社が俺の提案を蹴った。封印に手を出して、アマトの異形が目覚めた、変質しててなんかヤバい」
極めて極限まで削った純の状況説明に、メミコはうんざりした様子でため息を吐いた。
「ああ……底抜けのバカと底抜けの強欲が揃ったか」
近くに降下したと思しき千絵が駆け寄ってくる。先日の巫女に似た奇妙な装束で、降下に使ったのだろう、既に怨竜を従えていた。
「ヒメミコ様、ご無事でしたか」
千絵がバックパックから取り出した桃を受け取って、メミコは皮ごとかじり始めた。
「おう千絵。今純から話を聞いた。上で聞いたヌシの説明とほぼ変わらん」
一瞬だけ眉をひそめた千絵であったが、純の姿に気づいて少し驚いたようだった。
「喪栗さん、こんなところまで……」
「アフターサービスですよ」
「物好きなことで……避難して下さい。今からここは戦場です。部外者の安全は保証できかねます」
「いいや、違うね」
「……は?」
千絵がわずかに眉をひそめる。純はお土産ドラゴンを構えてアマトの異形へと向き直る。どう構えるべきかもわからない間抜けな構えではあるが……明らかに非力なこの男にしては珍しい、明確な抗戦の意思であった。
「ここが戦場になるのは今からじゃない。二千年前からとっくに戦場なんだ。ついでに言うと……関係者だ」
メミコが笑った。
「ふふん。まるでアクルイまで連れてきてしまったようじゃ……ちと非力じゃが」
航空戦力の打撃の中地上に降り立ったクニツカミは十数人。おそらく千絵のような強力な拝み屋なのだろう。それぞれが不可視の力を展開して、攻撃態勢を整えているようだ。
それらは全身に呪文の刻み込まれた大仰な鎧武者であったり、光る剣をくわえたオオカミ、物々しい雰囲気の巨大なブリキ人形の兵隊や、刀を構える銀髪褐色の黒肌の軍人、翼の生えた双頭のクマや無数の呪符が舞う竜巻など多岐にわたる。上空からの援護を盾に、彼らもそれぞれ攻撃を開始した。
閃光やら飛ぶ斬撃やら隆起する大地やらが畳み掛け、アマトの異形を悶えさせる。
「……凄いな、爆弾とかより強いんだ」
「心霊兵装の物量で動きと反撃を封じ、術者による直接攻撃で叩き潰す。クニツカミの大規模実力行使の基本形です。人間相手ではない分、こういった力押しが有効なのです。
二千年の間にあらゆる技術が進歩したように、霊能技術も進化しているのです。そう簡単にはーー」
アマトの異形が吠え、剣を無茶苦茶に振り回した。無数の斬撃は圧縮された不可視の力となって打ち出され、渡り鳥の群れのように巨大なうねりを伴って空を裂く。そのうち一つが旋回していた大型機を掠める。
「当たった!」
「問題ありません。見た目は古いですが、強化護式加工を施した特殊超々ジェラルミンです、あの程度ならーー?」
そうではない。掠めた不可視の力は通り抜けたのではなく、粘液の塊でもぶつけたように、そこを手がかりに絡みついた。
今まではアマトのバケモノの支配下にあった不可視の力だが、一度その支配下から離れたらどうなるだろうか?
答えは、先日までこの地で起きていたことと同じだ。飽和した不可視の力はみるみる膨れ上がり、脈動する肉塊に姿を変える。腕か足かもわからない突起の突き出たそれは、大型機を端から飲み込むと、数秒で腫瘍にまみれたような無残な姿へ変えーーやがて、コントロールを失って墜落した。あの中で何が起きたのかは想像もしたくない。
墜落した残骸からもうじゃうじゃとバケモノが湧くのを見て、千絵が青い顔で息を呑んだ。異形の攻撃のたちの悪さに気づいたのだろう。
不可視の力をただ投げつける。異形の攻撃は単純で、炎や電撃が出るわけでも、防御を食い破るわけでもない。ただ、そこをバケモノを生み出す温床とするのだ。そのバケモノは、無秩序で自我すら希薄、動くもの全てに襲いかかる。これを周囲にばらまき始めたら、何千人があっという間に食い尽くされるか、想像もつかない。
「ガワがどれほど丈夫だろうと……人間は変わらんからの」
呟き、メミコは桃の種を吐き出した。額の目がかっと開くと、複雑な色味の翠の虹彩からは炎のように揺らめく光が広がる。
「……結局は、わぁが勝負をつけねばならんか。さあて……千絵のとこで食っちゃ寝して、どこまで力が戻ったかの。
クニツカミよ!わぁがしかける、援護を頼むぞ!」
メミコは翠の流星に姿を変え、頭上へ飛び上がった。火花を散らす翠の流星は、再びアマトの異形に絡みついて大蛇へと姿を変える。
二千年と違うのは、大蛇の頭が腕に深々と噛み付いて、巨大な七枝封征剣の動きを封じた事だ。
「一気に縊り殺してやる!」
さらに大蛇の額からは、同じく巨大なメミコの上半身が生えていた。鋭い鉤爪をギラリと光らせると、アマト異形の首に深々と突き立て、気道や頸動脈のあるべきところを直接抉りこむ。
アマトももちろん黙っていない。鼓膜を引き裂くような絶叫をあげながら、無数の腕でメミコを締め返す。
「我慢比べか、この野郎……があっ!」
アマトの異形は狂ったように上半身をうねらせると、メミコを執拗に地面へと叩きつける。
こいつは二千年前もそうだった。ヒメミコを引き剥がすよりもとにかく苦痛を与える方を優先していた。
「前は随分苦しめられたが……今度はそうもいかんぞ!蛇の執念深さ、思い知れぇぇッ」
既にメミコは傷だらけであった。頭を地面に叩きつけられる度に、一瞬意識が飛びかけているようにも見えたが……それでも歯を食いしばって耐えていた。
大蛇の胴が足を締め上げると、異形の巨体がバランスを崩して倒れ込む。それでもメミコを地面に打ちつけるのをやめない異形であったが、メミコも意地だ。背を仰け反ったところを捉える用に巻きつき、鯖折りの形て締め上げると膝をつかせた。
「仕掛けよ!」
異形の背中にクニツカミの総攻撃が集中する。異形が人体と同じ構造であれば、背面は決して脆い場所ではないが、メミコを巻き込むことなく高火力を叩き込めるのは好都合だったろう。
閃光と爆音、無数の術式や呪符が舞い、絶叫が大地を揺るがす。
「ふぅんぬぅうううっ!」
仕上げとばかりに渾身の力で締め上げると、大木が伐採されて倒れるのに似た、生っぽく硬い音とともに、異形の背骨がへし折れた。
「まだまだぁっ!」
メミコは巻き付いたまま上下を逆にねじ曲げると、バケモノを力任せに上下にねじ切った。
「ヒメミコ様!」
クニツカミから一部歓声が上がる。しかしメミコは一旦異形から距離をとって、いつでもとびかかれるようにとぐろを巻いた。
「油断するな、二千年生きとった奴じゃ」
巨大な蛇の尾が、ねじ切った下半身をばちんと弾き飛ばし、上半身と距離を置く。できるかどうかは知らないが、一応合流を防いだ。
「ゼェッ……ハァッ、ハァッ……ヒィ……うぉえ」
この一瞬で文字通り死力を尽くしたのだろう、大きく肩で息をするメミコは目の下に濃いクマを浮かべ、頬もやつれ、額の目も随分と光量が落ちている。それでも油断せず今だ暴れてのたうち回るアマトの上半身から目線を外さない。
「がぁあああっ!ごぼぼげしゃぁぁっ!」
盛大に半腐れの体液をばらまくその姿は巨大ゾンビである。
「うぎぃあぁぁああっ!」
断末魔の叫びと共に、手にしていた歪な七枝封征剣を投げつけたが、悪あがきを予想していたのだろう。メミコはそれを避けると同時に体を翻し、長大な蛇の体を叩きつけ、異形の頭を叩き潰した。
「オラァあっ!」
拳を握って吠えるメミコに、今度こそクニツカミから歓声があがるが、メミコはそれを手で制する。
「まだじゃ……死んだふりくらいするぞこいつ」
動く気配はない。メミコは念入りに大蛇の目から稲妻を放って浴びせてみるが……反応はない。やがてその骸は墨で染めたように真っ黒になると、灰のように崩れ落ちた。
「……死んだか」
ようやく因縁を断った。メミコが胸を撫で下ろした瞬間。
「後ろだっ!剣が下半身に刺さってるぞ!」
どこかに隠れていたらしき明が声を張り上げた。その指す方向を見れば、確かにそこにはまだ形を保つアマトの異形の下半身と、それに刺さった七枝封征剣があった。
「狙いはこっちか?!ずる賢いッ!」
メミコが身を翻した時、既にその下半身は無数のバケモノに分裂し、高波のようになってメミコに襲いかかっていた。
無数のバケモノが剣によって制御されているのか、本能のまま巨大な相手にかじりついているのか、ソバクやエサキの悪意が残っているのか、それはわからない。だが、群体となったバケモノは明らかにメミコに襲いかかって、グンタイアリのように執拗な攻撃で、鱗を食い破らんと食い下がった。
「うわっ!やめっ……くそっ!振り払い……切れぬ!ぎゃあああっ!」
額の目が明滅する度に、メミコの全身を雷撃が迸り、群体を焼く。しかし、消耗したメミコの力では、無数の群体相手にはキリがない。みるみるうちに体の各所を食い破られ、そこから翠の燐光が噴き出す。
「メミコっ!」
「ヒメミコ様!」
「来るなっ!」
駆け寄ろうとした純と千絵だが、メミコはそれをわかっていたように叫んだ。
「小さく見えても十分強い!お前らでは危ない!」
「だが……それじゃあどうするんだ」
「くっ……こうなったらもう一度石棺に……蓋は?蓋はどこじゃ?」
蓋は異形が開放された時に吹き飛んでいる。それに、この群体とメミコを一緒に封印してしまったら……彼女は封印の中で食い尽くさてしまうではないか。
「クソッ……クソッ……仕方ない!クニツカミよ、わぁ毎焼き払え!」
「はぁ?!」
「ヒメミコ様?!そんなことできません!」
「やれっ!わぁは二千年前に死んだ身……今更構いはせぬ!ここでアマトの異形を道連れにしてやるッ!」
千絵が膝から崩れ落ちた。もはやそれしか無い。クニツカミの誰もがそれを直感で理解したのだ。
純の手の中でお土産ドラゴンが光を帯びる。あの苦境で、メミコはまだ純を守ろうとしている。メミコと繋がるこの剣はその意志を確かに感じさせた。
「ん?……もしかしたら……」
純は手近な棒を拾い上げると、地面にガリガリと模様を書いた。今までの仕事の経験と、夢の中のようであったアクルイとして過ごした日々のカモイを使った経験と、手の中にある銅鏡と。全てを思い返しながら。
「喪栗さん?一体何を?……これは!」
やがて出来た図形は、直径およそ十メートル、渦巻きのようでもあり、今まさに開こうとする蕾のようでもあり、クモの巣のようでもある、複雑で有機的で精巧な形をしていた。
千絵にも何となく見覚えがあるだろう。それは、純がK社に提案した、分譲地全体に広がる、不可視の力の拡散経路……と、似て非なるものであった。
それをひっくり返し、更に……
「君喰丸の屋敷に似てるな」
覗き込んた明の言葉に純は大きく頷いた。
「そうだ」
この図形は、不可視の力を集める働きがある。君喰丸の屋敷に施した仕掛けを、アクルイの知識と銅鏡で更にブラッシュアップさせたものだ。
「千絵!協力してくれ!クニツカミの術者達を、この図形通りに立たせてくれ!明も並べ!」
並べるのはトマソンではないが……一般人よりも遥かに強い力を持つクニツカミの術者達が協力してくれれば、トマソンよりももっと強力な流れを作れる。純には確信があった。
純の提案書に目を通していた千絵も、どうやらその意図を汲んだらしく、とにかく術者達を呼び寄せる。
「だが純、こんな小さくてどうするんだ?それにこれ、メミコが真ん中にいないんじゃダメだろ?」
「いや、真ん中には俺が立つ」
「はぁ?なんだ、助けに行くつもりか?」
図形の真ん中に立った純は、お土産ドラゴンを見せてこう言った。
「明はこの前、これとメミコがクラウドで繋がってるようなもんだって言ってたよな。
いつもは俺がメミコの力をダウンロードして……守ってもらってばっかだった。でもさ……クラウドなら、アップロードも出来るんじゃね?」
「……はぁ?!」
明が目を見開くと同時に、クニツカミの術者達が並んだ。ずん、と腹の底に届く地響きのような衝撃と一緒に、莫大な不可視の力が純へ、純の手にしたお土産ドラゴンを通じてメミコへ流れ込んでいく。
「お?おお?おお!
力が流れ込んでくる!こ、これならなんとか……なるッ!」
メミコの額の目に、再び炎のように揺らめく光が灯る。迸る雷撃は身体から群体をすっかり払い落とし……逃さない。こちらの番だと蛇の体で巻き付くように一カ所に纏め、ぎりぎりと圧し潰すように締め上げていく。
さっきまでの苦戦が嘘のようだ。逆に言えば、それほどまでに、両者は消耗していたのだろう。
「頑張れメミコ!もう少しだ!」
「ふぬぬぬぬっ……クソッ……往生際の悪い……」
だが、最後の最後で押しきれない。無数のバケモノは、一つの黒く輝く、スイカほどの石のような姿に押し固まって攻撃を耐えているようだ。雷撃を浴びせても、拳を振り下ろしても、これだけは滅しきれないようだ。
効果ありとわかって、既にクニツカミの術者や明も全力をメミコへ注いでいるのだが……それ故に、最後の一歩が届かない。極限まで折り畳んだ紙切れのように、どんなに力を加えても耐えられてしまう。
「クソッ……ここまでやって……どうしたらいいんだ?」
歯噛みする純……その体に、生白い何がが巻き付いた。なんだと思って見てみれば、それは怨竜の胴体である。
「千絵?!何をする気だ?」
突然のことに狼狽する純に、千絵はあっさりと言い放った。
「拝見したところ、その武器を通じてヒメミコ様に送れる力には……そう、今風に言うなら通信制限があると見受けました。
確かにそうなんですよ。媒介が小さな牙の欠片ですので、限度があるのはまあ……自然なのでしゃう。
では……ここは一つオンラインではなく、オフラインで届けてみてはいかがでしょうか?」
「……え?俺ごと?」
次の瞬間、純の意見は聞いていないとばかりに怨竜は純を振りかぶる。
「行きますよヒメミコ様!受け取って下ーーさい!」
怨竜の長大な胴体にぶん回されて、純は猛スピードで投げ飛ばされた。
「くっ……!」
手の中でお土産ドラゴンが熱く燃えるのが判った。
「純ーー来いッ!」
腕を広げたメミコの胸元へ突っ込む。お土産ドラゴンが触れたのは、左胸の傷跡。かつてアクルイが貫き、折れたアカルワカヌキの剣の切っ先が残ったままの場所である。そこに再び莫大な力が流れ込んだその瞬間、メミコの全身が太陽のように眩しく輝いた。
「本ッ当に純は……物好きというか、お人好しというか……」
あきれたような物言いが聞こえた。眩しいくらいに強く鮮やかな翠の光の中で目を開けると、そこにはメミコがいた。
「そう……かな?
メミコを知りたいって言ったのは俺なんだ、これくらいやらなきゃだろ」
「ん?……そうか……ありがとうよ」
光を纏ったメミコは、本当に美しかった。力強く瑞々しくもあるが、どこか禍々しい中に、それ以上の神々しさを感じてしまう。それは、かつてのアクルイの記憶の影響もあるのかもしれない。
だが……メミコを支えたい、力になりたいと思ったこの気持ちは、間違いなく自分のものだ。
「……良い香りがする。桃……いや桃味の菓子か?」
本当に鼻が良い。胸ポケットにある桃のグミを引っ張り出すと、メミコは少し微笑んだ。
「一粒くれるか?今は、手が離せぬ」
パッケージを開けて一粒つまみ出す。こんな訳の分からない状態だと言うのに、不思議と心は穏やかで、指が震える様子もなかった。
「ほれ」
「うむ」
人間のそれの何倍も長く、見るからにざらついた、先端が二つに割れた舌にグミを置く。赤く、柔らかく、熱く、艶かしいその舌は、指先の残り香まで念入りに舐め取ってから、グミを口腔へ運ぶ。
「甘いのう。ちと濃すぎる気もするがまあ、これもよいか。全く同じでは、辛い記憶まで呼び起こしそうじゃ……うん、やはり良いな。力が湧く。
さて、おわりにするか」
くるりと身を翻したメミコの手の中には、黒い小石が握られていた。かつてアマトの異形であった最後のそれは、圧倒的な力に押し固められ、そこまで縮んでいたのだ。
もはや何も出来ないだろう。小さく震えて唸り声を発するだけの、矮小な存在だ。
「わぁの力が足りぬばかりに、すっかり狂わせてしまったな。二千年も……禁星も、禁星が食った狂人共も……さぞ苦しかったろう」
指先に力を込めると、無数のヒビが走っていく。
「眠れ。そこはきっと、寂しくも苦しくもないところじゃ」
小石は粉々に砕け散ると、灰となって光の中で消滅した。
地上の太陽ほどでもあった光が納まると、メミコは見慣れた姿に戻り、目の下のクマもすっかり消えていた。
純と一緒にふわりと地面へ降り立つと、熟睡したあとの寝覚めのように大きく伸びをした。
「ああ……すっきりした。胸のつかえがとれた」
「……よかった」
なんと言っていいのか分からなかったが、ヒメミコは大きく頷て、微笑んだ。
「うむ。純と、千絵に、クニツカミの皆と……一応明もか。力を貸してくれたおかげじゃ。一人ではどうしようもなかった……ふぅ」
大きく息を吐くと、一気に撫で肩になったようだった。
「二千年ぶりに死力を尽くして……少し、疲れた」
その言い方にぎょっとして見ると、メミコの姿が、薄っすらと透けているではないか。
「待てメミコ!消えるな!」
泡を食って駆け寄るが、純の手は幻のようにメミコの姿を通り抜けた。息を飲む純に、メミコは優しく笑いかけた。
「消えはせぬ。少しの間眠るだけじゃ……今度は待たせぬ」
「本当だろうな!戻ってこなかったら承知しないからな!お前の為に、酒と桃だって買い込んであるんだからな!なあ!メミコ!」
「そうか……楽しみじゃ」
それだけ言うと、メミコは笑顔のまま、ふわりと姿を消した。
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