隠し部屋と知りたい気持ちと
千絵の大まかな姿は巫女に近い。しかし、緋袴に似たそれは妙に毒々しく、千早に似た上着もよく見れば毛皮で荒々しく拵えてあったりと、強烈な違和感がそこかしこにある。
怨竜が喉を唸らせる。先週目にした姿よりも太く大きく、力強い。親と言われれば信じただろう。
「ほぉん、おめぇがクニツカミか。巫女のコスプレがしたいなら、もっと映えるところでやりゃあいいのによ」
「……滅されたいなら素直に言っていただきたい、手間が省けるので」
千絵は不愉快さを隠そうともせずに吐き捨てた。炎を模した赤い髪飾りが揺れる。
「ははん、傲慢な小娘だな」
看破されてもヘラヘラしている明は無視して、千絵はこちらに向き直る
「喪栗さん……手を引かないのですね」
「どうにも、納得いかないので」
返答が気に食わなかったのか、怨竜がわざとらしく舌なめずりをして見せる。舌が人間のそれに似ているのが、非常に不気味である。手の中でお土産ドラゴンが光っていなければ、腰を抜かしていただろう。
「ヒメミコ様の言う通り妙な……いや、やはり狂人か。
しかし、民家にK社の呪源が仕掛けてあったとは……ここからは我らが処分します。半端者には退去願いたい。そいつは怨竜で処分する」
怨竜は鈍色の涎を滴らせて、ぐぅと腹を鳴らせた。なにせこいつは一旦メミコを丸呑みにしたのだ、それが浄化なのか消化なのか知る由もないが、文字通りこれを腹に詰め込むつもりなのだろう。
「バカ言え、勿体ない。新作のバリバリの邪法だぞ?クニツカミ様には価値が判らんだろうがな。
考えられるか?このご時世日本で、生きた人間にこんな真似をするキチガイがいるんだぜ?
こんな貴重品があるもんか、何億に化けるか判ったもんじゃねえ」
「金ですか。なるほど、教団に餌付けされ政治屋と同類と見做します。誰がその金の価値を担保しているのか、一旦考えてみて頂きたい」
千絵が苦々しく吐き捨てると、怨竜が吠える。咆哮圧がびりびりとガラスを震わせるが、明は一歩も引かずに鼻で嗤って見せた。
「バカを抜かせ、国を守るのは税金で食ってる公務員様の仕事だ。オレぁ青色申告だぜ?税金で生かされてるてめえらの飼い主様じゃあねえか、大事にしろよ公僕。
それとも何か?クニツカミは民間をいじめるのが仕事か?役所で遊んでる税金泥棒以下の存在だな」
「滑稽ですね。バケモノが国を語るとは」
「あんだぁ?最近の宮内省は税金で軽口の研修もやってるのか?手厚いねぇ、そんな暇があるなら人質にとられた内親王をニューヨークから取り返してこいよ、役立たず」
互いに罵りながらも、怨竜は鎌首をもたげ、銃口は千絵の眉間を睨み続ける。放っておけばこのまま無限にやっていそうだ。
「明、クニツカミとコトを構えるのは避けたいんじゃなかったのか?」
「五分前なら逃げてたさ。だが、こんな大物を見ちゃ話は別だ。下っ端一人ならどうにかなる」
そのセリフを聞いて、千絵は大きく嘆息し、忌々し気に肩をすくめて見せた。
「……手に負えませんね……好きにしてください。しかし、売る相手は慎重に、二度と日の元に晒さないように」
その台詞も言い切らないうちに、怨竜が不意を突いて薙ぎ払う。明はモロに食らって跳ね飛ばされ、壁に叩きつけられた。首が完全に折れ曲がり、片足が前後逆に捻じれている。人間ならば即死だろう。
「怨竜、よくやった」
千絵がこちらに飛び移る、と同時に三度の銃声。しかし千絵の額で翠の燐光が明滅し、弾丸を弾き返す。
「意外とケンカ慣れしてるな、コスプレ国家公務員」
すくっと明が立ち上がる。折れた首と捻じれた脚に、髪を巻きつけてばきばきと強引に元に引き戻す、見る分には鳥肌ものだが当人はどこ吹く風と言った様子だ。
その髪の間から零れ落ちた小箱を拾い上げ、叩き割る。中身は小さな日本人形、本体に対して異常に長い髪と、肩から上に何重にも巻きつけてある神札は、見るからに曰くつきの風体である。
「だがバケモノ相手のケンカは、ちょいと不慣れと見たね」
「否定はできませんね……その不慣れな分の埋め合わせを、ここでできるのはありがたい」
怨竜が吠え、弾かれたように襲い掛かる。限界まで開いた口は、冷蔵庫くらいならそのまま丸呑みにできただろう。
「いいねぇ!容赦が無いのは気持ちがいい!」
引き裂かれた神札の下からは、ひどく歪んだ人形の顔が現れた。強烈な憎悪が胡粉に刻むひび割れは、一目でこの世の全てを憎み嫉み恨んでいると判る。
『ィイぁアアアアアぁぁ――ッ』
人形の上げた絶叫が空間を歪め、怨竜の攻撃を捻じ曲げる。噛みつきを逸らされた巨大な顎は床も壁もウエハースのように齧り取り、飲み下す。
「小技には長けているようで」
「そんな顔すんなよ、面白くなってきたじゃねえか!」
強敵に対峙して火が付いたのか、明は無数の得物を取り出し、それらを駆使して怨竜と渡り合っている。よくは判らないが、おそらく拮抗しているのだろう。一瞬だけ、明に加勢する考えが頭をよぎったが……あの苛烈な攻防に首を突っ込んだ日には、お土産ドラゴンだけ残して自分が吹き飛ぶと確信し、踏みとどまった。
「ああ、賢明な判断じゃ」
はっと振り向くとすぐそこにメミコがいた。空中でゆるりと脚を組み、その膝の上で力なく頬杖を突いていた。
「ヌシがあやつに手を貸すようなら、わぁも千絵に加勢してやらねばならん」
さも当然のようにそこにいる太々しさが、半月近くの空白期間を吹き飛ばしてしまった。何か言いたかったハズなのに言葉が出てこないではないか。
「手を引けと言ったろう……物好きめ」
「そりゃそうさ、素直なやつに日陰者なんかできない」
「うぅわっ、可愛くないのう」
「そんなことないさ、メミコのいない二週間は辛くて辛くて」
素直に口を割ったつもりであったが、メミコは鼻で嗤うばかりであった。
「そういうのはな、最初に言わねば意味がない。予防線を張るな臆病者、心に響かぬ」
「そりゃあ悪かったな……心に、ねぇ。こっちは響くかな?」
懐から桃グミのパッケージを取り出すと、じわっと目の色が変わった。辛うじて引っ手繰るのは堪えている様だったが……試しにほれと放り投げてみると、一陣の風が袋を裂いた。その刹那、桃色の粒は地面に落ちる暇もなく、次々と空中で捕食されていく。蛇のように伸びる舌が、ぬめりとした光沢を残して空を薙いだ。
「気が利くではないか……不思議じゃな、なんなら桃より桃の味が濃い気がする」
「香料だろうな……意外とそういうの気にならないんだな」
「何だか知らんがどうでもよい、美味いもんは美味い」
グミを頬張りしばらく口内で弄び……唾液に濡れたグミを一粒見せつけてくる。
「ほぉら、きれいじゃ」
「うわきったね、口から出すなよ」
こうして数分ばかり油を売り倒していたが、それでも千絵と明の衝突は続いている。正確には、明は何度もクリーンヒットを受け、既に首や脚がばっきり折れているのだが、それをまるで気にせず立ち上がるものだから終わりが見えないのだ。
「千絵を相手にこれだけ粘るか。明とか言ったか……意外とやるのう」
「頭と道具で戦うタイプだとか言ってたな」
「わぁには無限耐久で相手に音を上げさせる性悪に見えるが……どっちにしろ千絵とは相性が悪いな、短気で真っ直ぐなやつは、曲がったやつに勝てんのじゃ。まして、しぶといだけの性悪にはのう」
「短気どころじゃないだろ。こっちは殺されかけてるんだ」
「その件は頭を下げさせたじゃろ。一度許したら蒸し返すな、度量を見せよ」
何もかも水に流すのは簡単ではないが、拘っていては話が進まないのも確かである。小さく嘆息しては、頷いて見せた。
「よかろう。なあ、千絵はいくつに見える?」
「さあ、二十半ばか?俺よりちょっと若そうだ」
「そう見えるだろう、だが実際はその十近く若い。潜り抜けた修羅場が不釣り合いな太々しさをあたえ、いくつも背負ったものが、心労を滲ませる。心の余裕が失われれば……魂が老いる」
「意外だな、メミコが誰かを労うなんて」
「情も湧く……遠い遠い縁者だと思えばな」
「縁者か。じゃあ、出自とやらは判ったんだ?」
「まあな……だが、どうにも妙でな、記憶があっても実感が薄い。こう、他人の思い出を覗き込んでいるようじゃ」
頬杖のまま軽く顎をしゃくった、話し相手になれと言うのだろう。いいだろうと、壁に背中を押し付けたままずるずると座り込む。
こうして喋っている間にも千絵と明は幾度も衝突を繰り返し、余波はあたりの壁やサッシをバカスカ破壊していく。しかしその衝撃はメミコの纏う不可視の力の前には威力を削がれ、純のところまで届くころにはそよ風のように和らいでいる。そのせいか、眼の前の激突がよくできた映像でも見ているように現実感が薄くなっていく。
「縁者か、そういやお前と千絵、うっすら似てなくもないよな」
顔のパーツや雰囲気に近いものがあり、なんなら服装も似通っている。千絵の方が幾分簡素であるが、同じ文化圏の服装には見える。
もっとも、メミコの場合は巻きつく蔦やら自由に動く毛皮やらでどこまでが服なのかが曖昧ではあるが。
一番似ているのは傲慢で人の話を聞かない厄介な性根なのだが、ここで持ち出すと話がこじれるのは目に見えている、黙っておこう。
「そうか?随分遠いハズじゃが……まあ、悪い気はせぬ」
力なく笑うメミコの表情は、超自然的な存在である精霊ではなく、何かに疲れ、諦め、受け入れた人間にそっくりであった。
「ゼェ……ッ!……ハァッ……ッ!しぶといッ!」
数えきれないほど攻撃を打ち込んだせいか、それとも長時間に渡る怨竜の使役のせいか、千絵の顔に疲労が見えてきた。額に汗の珠が浮き、肩で息をする。
対する明は……一見してズタボロ、捻じれた里潰されたりした四肢を髪で縛り上げて動かしている有様だと言うのに、口調はさっきと全く変わらず、ヘラヘラとしている。効いてはいるが、堪えていない。
「そろそろ頃合いだな、そぅらッ!」
明の放り投げた市松人形が一層甲高い絶叫を上げる。
それに応えるように、周囲の瓦礫が渦を巻いて吸い上げられ――巨大な人間の上半身を作り上げた。
「ウナギのつかみ取りだぜ」
巨大な瓦礫の腕が怨竜の顎を鷲掴みにし、ぐいぐいと締め上げる。
かつてメミコにやられたのと同じくダメージが反映されるのだろう、千絵の首が見えない掌に締め上げられるのが見える。目を血走らせて首を掻き毟るもやはり意味はなく、みるみる顔が紅潮していく。
「ぐうっ……ぎぎぎ、こ、んな奥の手を……ッ」
「ハッ、最初っからブン回す方が間抜けなんだよ。勝負の八割は仕掛けどころさ、宮内省じゃ教えてくれなかったか?」
「このっ……このっ……お前なんかに、何も知らないお前なんかに……ッ!」
「おうよ知らねえなぁ!地球上の七十億人にゃ七十億通りの事情があるんだぜ?生きるってのはな、多少なりとも他人の事情を踏み躙るってことだ。
拝み屋と国家公務員様のダブルで浮世離れしてちゃあ、判らんだろうがな、ボケが!」
「そんなこと!二千年前から知っているッ!」
くわっと目を見開くと同時、額の燐光が一層輝きを増す。怨竜がそれに呼応して瓦礫の腕に巻きつき、逆襲とばかりにめりめりと締め上げる。
それは明にもダメージが通っているらしく、その額には血管が浮き上がり、勢いよく鼻血が噴き出す。しかしこちらは呻き声一つ漏らさず、手鼻でもかむように吹き飛ばした。
「ふん、来るとわかってりゃこんなもんだ」
「やせ我慢があああっ!」
「だからどうした。何でもいいのさ、耐えりゃあな!」
今や揃ってズタボロの両者であるが、互いに一歩も退こうとしない。互いの尾を喰いあう蛇のようだ。
「……死ぬまでやるだろ、あれ」
「当然じゃ。とっくの昔に腕比べではない、殺し合いじゃ」
朝がきたから明るくなる、くらい当然の口調でメミコが呟いた。一体こいつらは何なんだ、純は眩暈すら覚えた。
「メミコ、お前らは一体何がしたいんだ?敵は教団なんだろう?とっとと潰せばいいじゃないか。俺らみたいな外注の業者なんかにつっかかってないで、K社を叩けよ」
「クニツカミ……とやらとしてはそれが正解じゃろうな。実際、わぁの知らぬところで動きもあるらしい。
本来、何もせずにいるのが最も効率が良かろう。じゃが……千絵はこの土地を見捨てられぬ」
「何を言ってるんだ?今この土地は、真っ当にK社が買ったんだ。連中がどんなにゲスだろうと、法律にでも触れない限り、誰も止められない」
「買ったというのは……グミや食事のように、その切れ端や金属と交換した、ということか?」
メミコは軽く頭を抱える仕草をしてみせた。どうやら売買の概念は理解できるようだ。
「……そうだ」
「ヌシら本気か?いや、正気か?」
ふっと見上げたメミコの目には、驚愕、恐怖、困惑、色々なものが入り混じっているようだが……元も大きいのは軽蔑である。
「土地を買う、か。理解ができぬ……この時代の人間は思いあがっておる。そりゃ住処や食料集めのために土地は要る、まあ縄張りと言ったところか。じゃが、元の住民を追い出して土地を奪い、あまつさえそれを売るか……浅ましい。自分で作ったつもりか?
止められぬと言ったな?本気か?誰かを騙して、私腹を肥やす連中が真っ当なのか?法より先に問うものはないのか?」
やはりメミコには、人間の感覚が判っていない。その思想はあまりにも真っ直ぐで、純には眩しく見えるほどであった。思うにこの眩しさは、太古の昔に人間社会から失われたものだろう。
「そういうモン……社会なんだよ」
「ならばその社会とやらが歪んでおる、ヌシもそれに気づかぬほどバカではあるまい」
メミコは相当長い期間眠っていたのだろう。その思想はあまりに原始的であるが、それ故に曲げようのない説得力があった。彼女から見れば現代人そのものが大きく歪んでいるのだ。それは、現代社会がヒトが本来持つべき動物の本性から逸脱しているという証明なのかもしれない。
「ああ……そうなんだが、困ったな」
苦い顔をする純に気付いてか、メミコは小さく息を吐いた。
「いや、ヌシに言っても仕方なかったな……許せ。
なんと厄介な時代じゃ、言葉が通じても話が通じぬ。通じるのは殺し合いだけ……野蛮さだけが変わらぬなら、いっそ手当たり次第に食い殺してやるべきかもな」
メミコが吐き捨てると、掌の中でお土産ドラゴンの纏う光に翳りが差した。
メミコとこれの二つがクラウドのように繋がっているな……メミコはきっと虚勢を張って誤魔化しているだけで、おそらく胸中では純粋に嘆き悲しんでいるのだ。
メミコもその光に気づいたらしい。さすが本体、一目見てその本質を理解した、
「ん?ああ、牙の欠片を仕込んだか、それならわぁにも効き目があるじゃろう……なら、いっそのこと刺してみるか?こんな世界を見るならば、以前のように剣の中で眠っている方が幸せかもしれぬ」
そう言って、メミコはぐいと胸元を開いた。
その仕草に目を奪われかけたが、すぐに視線が吸い寄せられたのは、豊かさではなく――左胸に走る大きな傷痕だった。
ヒメミコはそれを隠そうともせず、むしろ誇示するようにさらけ出す。
「この傷を突け。如何にわぁでも、心の臓を破られればただでは済まぬじゃろう」
メミコの眼に挑発の意思はない。むしろ自らを哀れみ助けを求めているようで、痛々しくて直視に耐えない。
「やめろ……イヤな冗談だ」
「冗談に聞こえるか?そんなことも判っているぬれぬのか?」
「わかるさ!……だから嫌なんだ」
メミコは力なく笑った。気分は晴れずとも、多少の慰めにはなったかというような、薄い笑いであるが。
「教えてくれメミコ……お前たちに、何があったんだ?」
翠色の虹彩を真正面から覗き込み、はっきりと口にした。
その瞳の奥にある深い痛みと向き合わねばならない。何の力もない純にはこうして誠意を示すことしかできないのだから。
「む?」
「俺はメミコの事を何も知らない、気にもしなかった。価値観も何もかも違うのが当然だと思ってたから、それ以上考えもしなかった。でも……そうじゃない、そうじゃいけなかった。だから知りたい、メミコのことを」
「ほう……知りたいか。じゃが、長ったらしくくっちゃべるのは面倒じゃなぁ」
暫く考え込む様子を見せていたが……やがて思い立ったのか、パチンと指を鳴らした。
「千絵、やめよ」
さして大声ではなかったが、千絵の耳には届いたらしい。ばさりと袴をなびかせて飛び退き距離を取る様子は、訓練された猟犬のようであった。
「どうした?自惚れコスプレ巫女、もう少しカッコつけてみせろよ。ケンカの引き際くらいは手前の意思で決めろや」
明の挑発に眉すら動かさない。しかし、その背後では怨竜が巨大な口裂を胴まで届かんばかりに開いて吠え猛っている、ハラワタの沸騰を無理やり抑え込んでいるのだろう。
「申し訳……ッありません、ヒメミコ様。もう少し、もう少しお時間を頂ければ……」
「おやおや、ヒメミコ様とやらはお前のやせ我慢も見破れないボンクラなのかな?追い込まれてるのはおめえだろうがよぉ!」
千絵の目の下には既に濃いクマができ、明らかに顔も血の気がひいている。怪我こそないが、疲労は大きく、虚勢であるのは見え見えである。
対して明は、折れた首や脚に髪を巻きつけて何とか立っている状態であるが、目はらんらんと光り、頬には邪悪な笑みが張り付いている。このまま続ければ千絵の精神が先に擦り切れるだろう。
「ここで勝とうが負けようが、なにも変わらぬ」
とん、とメミコのつま先が床を打つと、そこに小さな苔が芽吹いた。なんだと首を傾げる数秒の間に苔はみるみる広がり、辺り一面を塗り潰していくではないか。
君喰丸の屋敷で見た蔦よりは遅いが、あれよりもずっと深く、濃い。気が遠くなる長い年月をかけて遺跡や岩を覆う光景を、何百万倍もの早回しで見ているようだ。
「!」
千絵は無言で跳びあがると、怨龍の背に跨った。
「うおっ!」
あの時の蔦と大きく違うのは、苔が純ら二人と周囲の廃墟を区別することなく、足を這い上がってきた事だ。意思を持つ冷たい波が全身を這いあがる感覚がもたらす恐怖は尋常ではない。肝を潰して反射的に毟ってみたが、苔は触れた指先にも食らいつき、じわじわと加速しながらこちらを覆いつくそうとしてくるではないか。
「メミコっ!お前――」
「騒ぐな、攻撃ではない。ヌシの望み通り、教えてやる、明はまあ……ついでじゃ」
ひんやりと柔らかく湿った苔は、全ての服の上と肌、口腔、鼻腔、眼窩を区別しない。文字通り全てが、それにすっかり覆われる。痛みはなかった。しかし自分という存在が微粒子に分解されていくような、ずっと強力にした立ち眩みに似た感覚が全てを上書きしてくる。
喉は絶叫していたはずだが、意味はない。震える喉も、耳も、恐怖心も消えていた。
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