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モグリとバケモノと

「モグリ設計士と古代女王、霊障地上げで時を越える――これは、世界に知られぬ神話の続編。」


建築と伝奇が交差する、異端のバディストーリー!


お楽しみいただければ幸いです




「もう少しいい車買えよモグリ、貧乏人のフリは楽しいか喪栗」

 助手席から飛んできたセリフに、純はハンドルを取りこぼしそうになった。

「え?ラップバトルとケンカのどっちを売ってんの明」

「ウチはそういう商売じゃねえな。だって事実だろ?貧乏人のフリしてるのも、モグリの建築屋なのも、お前の喪栗とかいう縁起の悪い苗字も」

「いいんだよ……俺にはこれで十分だから」

「いつもはな、だが今日この道では不十分だ。サスが弱くてケツが痛え、エンジンもやべえ音してる」

 いわゆる山岳地帯に差し掛かってからというもの、軽のエンジンは苦しそうに呻りっぱなしだ。アクセルべた踏みでもスピードが出ない。確かに、町乗り用の丸っこい軽自動車にとって、この道は荷が重い。

「わかってんだよ、儲けてんだろ?」

 助手席の小柄な女は続ける。つややかな黒髪にきめ細かい肌にはっとする美貌の持ち主の美少女と言っていい風貌である。だが、少し鋭い人間であれば、思春期のそれとは異なる妙なスレ方の口調と、濁りきった目が放つ不気味さに気付く筈だ。

「いいんだよコレで。デカい車乗ると厄介事押し付けられるんだよ、なんか荷物運べとか、どっか行くから乗せろとか、ヤじゃん?」

 ハンドルを握る男が答えた。ワイシャツにネクタイ、革靴、二十代半ば、中肉中背。ごく薄い色付きメガネ以外に目立つ特徴はないが、あんな少女(?)と軽口の叩き合いをしている時点で、穏便な人物ではないと検討がつくだろう。

「ほぉん、純にそんな事を頼む物好きがいるたぁ、知らなかったね。世の中は広いな。

 まぁいい。んで、だ。もういいだろ?腹が減って死んじまわぁ」

 蓮っ葉……と言うよりも純粋に言葉のチョイスに品がない。その品のないセリフの出所……小さく形の良い少女の朱唇は、これだけ喋ってまるで動いていない。

「まだ人目が多い。普通に食ってくれ」

「ざけんな、こっちのクチじゃ、食った気がしやしねえ」

 山岳地帯と言ったが、辺りにはマスのつかみ取りや道の駅がある程度の山だ。シーズンには早いが、キャンプ場だってある。

「じゃあ我慢、もう少し行ったらズレる、それからにしろ」

「クソッタレが、狭くなったもんだな、連中の領域も」

「お前もそっち側だろう、明」

 少々うんざりした様子の男の台詞に、明と呼ばれた少女がせせら笑う。

「馬鹿言っちゃいけねえ、オレの生まれはれっきと少した人間さ」

「え?生まれだけでしょ?」

 純の即答に明がゲラゲラと笑うも、やはりその口は動かない。

「今日の純は面白いな」

 笑い声と明の返事が重なった。勿論車内は二人きりであるのに。

 滝を超え、ダムを超え、アスファルト舗装もしていない脇道へ入ってしばらく。砂利道すらみるみる幅が狭くなって、灰色の軽自動車は熊笹の茂る中を掻き分けるように走っていく。窓外を岩と見紛うほど風化した道祖神と、荒廃した神社の跡が流れる――そろそろだ。

 ザザッ――最初におかしくなったのはカーナビだった。画面は明るいまま、表示が狂っていく。音声案内は怨嗟を上げるように掠れ、画面は見るに堪えないブロックノイズが入り乱れ、やがてぶつんと途切れた。車窓からは一切の人工物が消え、何もかもが濃密な緑に塗り潰されている。どうやら車外は完全に連中の領域であるようだ。

「よしよし、いい感じにズレてきた。明、もういいぞ」

「おお、やっとか」

 後部座席に手を伸ばし、明が引きずり出したのは大きなマイバック、中身は大量の菓子やホットスナック等の軽食である。麓のコンビニで買い占めてきたもので、ちょっとしたパーティが出来る量だ。

「はーあ、用もなく出掛けるもんじゃねえな。人目のせいで飯も食えねぇや」

「用あるわ仕事じゃい。お前とドライブとか苦行じゃ、帰宅する前に悟っちゃうよ」

「失礼なやつだ、こんな美少女相手に」

「俺はツラを免罪符にはしない主義なんでね」

「つまんねーやつ。道楽商売は楽しいぞぉ」

「百歩譲って道楽商売だとしても、ドライブと仕事を混同するのはもうパパ活女ぐらいのもんじゃね?」

「それはねえな、それなら昼はもっといい店をタカれるはずだ」

 カカカと笑って明は食事を始めた。艶やかな黒髪が意志を持つように動き回って大量の菓子の袋を掴みあげ、容易く引き裂く。中身はそのままざらざらと口内へと流し込まれていく。

 無論、人形のような小さな口ではキャパシティが足りない。それらを吸い込むように貪り食うのは、黒髪の奥から現れた、頭頂部に開いた巨大な口である。

「散らかすな、もっと上品に食え、高級ホテルでフルコースを食うように」

「無理」

 同乗者のおぞましい変貌から目を逸らしたまま、純は慎重にハンドルを握る。この変貌は見慣れたものだが、びっしり並んだ真珠色の細かい歯だけは、どうにも直視に耐えない。

「おい、マスタードとケチャップないか?入れてたよな?……あ、あった、こォんな下の方に押し込みやがって。そういやバカそうな店員だったな、あの汚い金髪のデブ。あれ四十くらいだよな?三頭身……いやギリ二頭身じゃなかったか?」

「知らんわ」

「いやいや、ドラえもんみたいな体形してたって。帰りに寄って見てみ?赤塚不二夫が描くタイプの不細工だったから」

「なんだその一人トキワ壮は、バケモンじゃん」

「バケモンだね、オレ負けたかもしんない」

 鼻で笑いながらもディスペンパックを折って絞るのも、赤と黄色でべっとべとのアメリカンドックを頭頂部へ運ぶのも、作業は全てを髪が請け負っている。なんとも器用な髪だ。

「あー、この安くて悪い油がたまんねぇ。いやあコーヒーにあうね、こういう時のブラックは至高だね、山岡もにっこりだよ」

 頭頂部の口にホットスナックを放り込み、顔面の口からコーヒーをすする。その表情に、ごくわずかな人間味が生じた。竹串を嚙み砕く破砕音がなければ、の話だが。

「ああ、コーヒーはそっちから飲むんだな」

「あ?ああ、頭の方は上向いてるからな、熱いモン流し込むと辛いんだ、咽るし」

「竹串が食えてコーヒーは咽る、どういう基準なんだお前は、シュレッダーか」

「繊細なんだよ」

 それぞれ別の口から食って、相性もクソもあるのだろうか?答えをもらったところで純には想像がつかないのだが。そんな疑問に気を取られている間にも、明の髪は弛まず菓子やらを頭頂部に掻っ込んでいく。

 一方窓外の光は随分目減りし、昼過ぎだというのにかなり薄暗い。その代わりに奇妙な緊張感と違和感が垂れこめる。窓の隙間から流れ込む鳥や虫のざわめきは、異様に重厚でしつこく、なんとも押しつけがましく厭らしいものへと変わっていた。マンガであればおどろおどろしい書き文字になっていることだろう。

「ほほう。今時珍しいな、これだけの力があるバケモノ」

「この辺じゃ有名らしいから……あ、全部食ったの?俺の昼飯だって入ってるのに」

「おっと悪ぃな、言うのが遅い。こいつ以外は食っちまったよ」

 胸ポケットに押し込まれたのは桃のグミであった。ちらりと見るとチャックまで開いているではないか。

「ひっでえ奴だな、あーあ、半分くらい食ってるじゃん」

げんなりして一粒口に放り込む。むにむにとした歯ごたえと、桃味味とでも言える念入りなフレーバーが堪らない。現代の駄菓子とでも言うべきわざとらしいこの味がいいのだが昼飯にしてはささやかすぎる。

「なんだよ、意外とかわいらしいもん好きだな」

「最近硬くてすっぱいパウダーまみれのグミばっかじゃん?俺あれあんまり好きじゃないんだよね。美味いか?あれ」

「知らねえよ、UHA味覚党に言え」

無駄話をしているうちに、車は茂みを抜けて広い空間に出る。鬱蒼とした森に囲まれたそこは、ただ異様な重圧だけが満ちている。目に見えない悪意や傲慢と、巨大な自尊の入り混じった不愉快なものだ。

「こいつぁ、すげえ。あれ?純は平気なのか?」

 どうやら人間の領域を完全に離れたらしい。純には判らない何かを感じ取ったか、明が露骨に顔を顰める。

「気持ちの良いものじゃないが……体調を崩すほどじゃない」

「ほぉ、鈍感ってのは幸せだな。ごちそうさん、まあ小腹は膨れたかな」

すっかり貪り尽したゴミ袋を握りつぶし、一つにまとめる明。頭の大口はデカいげっぷを一つ吐いて、髪の間に姿を消した。

「ゴミも食っちゃえよ」

「大食いと悪食は別物、言ったろ?繊細なんだよオレぁ」

「都合のいい食生活だことで」

 やがて現れた門構えに車を寄せる。重厚な瓦屋根に鋲の打たれた分厚い門扉は、屋敷というより寺院のそれを思わせる。両脇から伸びる漆喰の塀はどこまでも伸びており、その端は森に飲み込まれているようだった。

 降車。それを見ていたかのように、閂が無人のまま外れ、音もなく開く。

「こりゃ、立派だ。こんなの鎌倉あたりなら拝観料取れるぞ、四百円くらい」

 明のぼやきの絶妙なリアルさに、純は薄く笑った。

「金額が生々しい。おっと、俺が言うまでじっとしてろよ?」

「うーい。どうせあれだろ、今日も渋られそうなんだろ?」

「……まあね、だから明に来てもらってるわけだし」

 苦々しく頷く。できれば無難に済ませたいところであるが、その願いが通った例は極めて少ない。

「ってことは、またアレの出番か。あー、売ったオレが言うのもナンだが。あんま過信するもんじゃねえぞ?バカと度胸は別モンだから」

「とは言っても他に手がない。丸腰じゃ、どんな相手だってイチコロだよ?こっちが」

 純が軽口で返すも、明は納得していないようだ。

「しかしなぁ、どうにも素性が出て来ねぇ。多少は負けてやるから、予備を一つくらい買っとけ、ぶっ壊れてからじゃ遅い」

「勘弁してくれ。お前の店、馬鹿みたいに高いだろ」

「バカ言え自分の命の値段だぞ」

「ははん、時にはあっさり死んだ方が楽だったりするらしいじゃん?」

「けっ、ひねくれた野郎だ」

「あれ?知らなかった?筋金入りだよ?鉄筋入ってるよ?ピッチ100ミリでダブルだよ?基礎だったら木造三階建てイケるよ?」

「何言ってんだかわかんねえ。建築ギャグか?」

笑いながら後部座席から引っ張り出したのは書類鞄と作業着のブルゾンである。ワイシャツの上から袖を通し、ドアミラーでネクタイを直すと、一息ついて門をくぐる。

「ほぉう……おお?」

 門をくぐった先に広がる光景に、明が感嘆と困惑を漏らした。

「んん、良い庭だよなあ」

「庭はな。フジ、アジサイ、ヒガンバナにキク、季節バラバラの花が並んで咲いてらぁ、ヌシの力がよく判る。ヤクザの玄関先に黒塗りのベンツが止めてあるのと似たようなもんだろうさ。

 それよりこの屋敷だよ……なにがどうなってんだ?」

 重厚な瓦屋根に漆喰で仕上げた真っ白な壁、濡れ縁広縁や障子に火灯窓等々、それこそどこかの由緒ある寺社ではと見まごうほどのものである。だが、それらがまるっきり無秩序に、上下さえ問わずに延々と連続する様は、群生するキノコにも似た狂気的な光景であった。不可解な光景は続く。なぜか外に突き出ている階段は途中で途切れ、二階にはベランダもないのに扉が付いている。こういったありとあらゆる無用の長物が屋敷のそこらじゅうに散らばっているのだ。

「和風のビックリハウスか?日光江戸村でも移転してくるのか?」

「ああ、言われてみればそう見えるな。ほれ入るぞ」

 石畳から外れ、苔を敷き詰めた脇道へ踏み出す。背後の明は訳が分からないと呻く。

「……あれは玄関じゃないのか?」

 石畳の先には、でんと構えた立派な玄関がある。来客が宇宙人でもない限り、百人が百人そこに立つはずだ。

「ふふん、じゃあ中身を見てみるかい?」

 近くに隠したキーボックスから鍵を取り出し、その戸を開く。踏み込んだそこは、外見にふさわしい広々とした土間のある玄関であったが……それでお終い。框の先には腰を掛ける幅すらなく、ずどんと壁に塞がれている。

「……は?」

「というわけでマジの玄関はこっちだ」

 純が向かう先にこそ本当の玄関がある。それは偽玄関から完全な死角に隠されているものの、作りは全く同じであった。

 捥げる一歩手前まで首を捻る明をよそに開錠。上がり込む。暗闇に漂う青畳の匂いの中、純は我が物顔で歩きまわると、手当たり次第に窓を開けていく。

「居間にいてくれ、向こうもすぐに来るだろう」

 一見古風な屋敷であるが、開口の多くは雨戸ではなくシャッターである。一人でもサクサクと開くのだ。

 どこかが開き、内部に明かりが差し込むたびに現れるのは、壁にめり込む階段や、扉同士が至近距離で向かい合う薄っぺらい部屋、壁と床の入れ替わった部屋等々、意味のない物ばかりである。明の頭は疑問符だらけだろう。唯一の例外といえば――

「お?これ、この前ウチで買い込んでいったヤツだな?」

 明が指すのは窓の上に立てかけた御札である。木製の小さなもので、そこらの神社で頒布している物に比べれば随分と質素、悪く言えば雑な作りである。

「ああ、そうそう。工事中につまんないのが紛れ込んだら困るからな。見た目のわりに効果あったよ」

「当然、これかなり強力だからな。知り合いにウデ以外全部に問題のある拝み屋がいてさ、そいつの手製だ」

「ああ、なるほど。問題だらけか……そりゃあ明とウマがあいそうだな」

「褒めるなよ、照れるじゃねえか」

 皮肉と分かった上で効かないのでは、もはや無敵と言っていいだろう。肩をすくめると明が続けた。

「ほんで純。お前が設計したんだよな?この家」

「そうだよ、俺の設計。そういう仕事だからな」

 そう、純が今まで涼しい顔をしているのは、彼がこの狂的な屋敷を設計し、職人に作らせた張本人に他ならないからだ。

「頭大丈夫か?」

 頭に口の開いた奴に頭を心配されるのはそこそこ心外であるが……気持ちはわかる。

「設計通りさ。ここは最初からこういう屋敷なんだ。意味がないものがならんでいるからこそ意味がある、それがトマソン。一般的なモンとは少し違うけどな」

「判らんモンを判らん名詞で説明しても解決しねえよ」

 シニカルな明の反論に、少しだけ純の口角が上がった。

「そりゃそうか、トマソンと言うのは――」

 瞬間、くどいほど色濃い窓外の緑が騒めいた。なにか大きな存在が、近づいて来る。

「おっと、説明は後だ」

 窓上に立てかけた御札を外すと同時、一陣の風が吹き込む。舞い散る木の葉が視界を遮ったかと思うと、次の瞬間には二人の目の前にそれが立っていた。姿こそ若い男であるが、その陶磁器の如く白い貌は、人間の範疇を越えた端正さと美しさを持っていた。服装は一見平安貴族を思わせるが、どうにも蛇皮のような光沢を帯びていたりと、端々から異様な雰囲気を漂わせている。背後には小姓と思しき少年が控えており、こちらも似たような格好ではあるが、幾分簡素な服装である。

「いやあ、お早いお越しでしたね、君喰丸さん」

「控えよッ!人間ごときが無礼であるぞッ!」

 小姓が顔を伏せたまま金切り声を張り上げると、天井にくわんと反響した。その顔を覗き込むと、こめかみのあたりの毛が逆立ち、口元には牙が覗く、化け物じみた形相が見えた事だろう。

「君喰丸様に馴れ馴れしい態度をッ!恥を知れッ!下賤ッ!これだから人間はッ!」

「ははは。よい、よい」

一方で、当の君喰丸とやらは柔和に嗤ってみせた。が、それは寛大さの表れではなく、明確な蔑みである。まるで虫や猿の無礼など、いちいち咎めるまでもないとでも言いたげな、そんな微笑みだった。明には眼もくれない。

もっとも、こうして話ができるだけ、この手のバケモノにしてはかなりの取っつきやすさなのだが。

「やっと完成か。待ちわびたぞ、喪栗」

「お待たせしました。なにしろ私としても初めての試みが多くて……なかなか苦労いや、いい経験になりました。外観はご覧になりましたか?」

「うむ、外を一回りしてきた。まあまあだ」

 彼がこの屋敷の施主である。無論人間ではない。純はバケモノを相手に建築を請け負っているのだ。

本来バケモノは、ヒトとの関わりを避ける傾向にある。ましてや自身の住まう空間へヒトを招き入れる事などレアケースどころではないだおる。ましてや力と格があるなら、それは更に顕著になる。それでもバケモノなりに、人間とは少々違う形態での衣食住がある。中には気まぐれにヒトの形を取ったり、人間社会に隠れ住む変わり者も存外いる。そこで純のように、バケモノと建築の両方に理解のある人間の需要が生まれる。スキマ産業、胡散臭い言い方をすれば、ブルーオーシャンというヤツだ。

 君喰丸はすんすんと鼻を鳴らして、ころりと嗤う。

「気に入ったぞ、何よりここは全く臭くない。今まで、お前以外にも何人か屋敷を作らせたが、どれも臭くてな。中にいるだけで、めまいのする……四苦八苦ナントカと言ったか」

「?……ああ、シックハウス症候群ですか」

 純の言葉に、君喰丸はぽんと手を打つ。

「そうそう、それだ。星がどうとか訳の分からん言い訳ばかりでな、辟易しておった」

「ああ、人間向けの規格ですからねえ……こういうとこじゃ通らない理屈でしょうね」

シックハウス症候群。

建材や壁紙に使われる接着剤の有機溶剤、あるいは防蟻剤等に含まれる揮発性有機化合物を吸う事で引き起こされる体調不良である。多くのバケモノはそういった化学物質の耐性が人間よりも各段に低いらしく、極々僅かな量でも明確に体調を崩す。知ると知らないでは大違いだが……知っていたところで現代社会に流通する建材からこれらを完全にシャットアウトするのは至難の業である。

「今回は十中八九大丈夫だと思いますよ。全ての建材を、生産者や製造法から厳選しました。防蟻加工なんてまだ人間向けの認可すら取れてない奴ですからね……要するに、悪さをする物質は限りなくゼロです、ご安心ください。万が一を考えて、しばらくは換気を心がけていただけると、より丸いかと」

「そうか、よくやった」

「それはどうも……ありがとうございます、仕事ですので」

 小姓から殺気によく似た威圧感が噴き出す。純に平伏し泣いて喜べとでも言いたいのだろうが、一度主人に止められた手前、ぐっと黙っているらしい。

「さあ、もうよいか?家財道具を運び込みたいのだが」

「もう少しお時間を、新しい物だらけなので」

「そうだったな、細かいヤツじゃのう」

 バケモノでも引っ越しは楽しみらしい。奇妙な親近感を感じるが、君喰丸は友人ではなく顧客、これはあくまで仕事である。進めるべき手続きはいくらでもあるのだ。

 引き渡しというものは殆どが書類のやり取りである。人間相手だと火災保険の切り替えやら振り込みの確認やらで数時間かかるのだが、今回その辺の手続きは殆ど必要ない。下働きの眷属に給湯器と衛生機器周りを説明するだけで十分だ。人間だって全てを把握するのは大変なのだ、彼らもしばらくは取扱説明書と首っ引きだろう。こんな人里離れた異空間みたいな場所にウォシュレットやらビルトイン食洗器があると思うと、それだけで少し面白い。

「最後は鍵の引き渡しですね、こっちが本来の鍵です。一度これを使うと、今までの工事キーは一切使えなくなります」

 鞄から鍵の入ったパッケージを取り出す。これは『今まで誰も開けていないし、番号のコピーもしていない』という証明のために、メーカーが不透明な素材で密封したものだ。

 工事中の出入りに使用した工事キーは、本来の鍵に比べると幾分短い。一度でも本来の鍵を使うと、内部のピンが押し込まれ、工事キーでは二度と開閉できなくなる仕掛けがあるのだ。

「ふぅん、ややこしいな」

「人里では手癖の悪いのが工事キーをくすねて、後に盗みを働くなんてことが、稀に起きます。そういう連中に、我々の信用に傷をつけられては堪らない。まあ、不自由な連中だと、ご勘弁を」

「ヒトの世の方が余程物騒じゃな」

 皮肉というより、単純に興味が無いのだろう。あっけらかんと言い放つ。

「誰かしら常におるが……まあ、受け取っておこう。

 ここまで来れる泥棒がいれば、もてなしてやりたいものだがな」

 彼なりの冗談なのだろうと推測し、愛想笑いで答える。もてなしの意味は聞かない方が精神衛生上、丸い。

「ごもっともですね。少なくとも地元の人間は絶対に入りませんもんね、ここ」

 君喰丸は、古くからこの地に住まう非常に強力なバケモノである。山間の集落には刃向かった村をいくつも皆殺しにした逸話も残っており、近隣では彼を祭る奇祭が残っていると聞く。一種の禁足地なのかもしれない。

 純たちがここまで来れたのは、君喰丸が意識して招き入れているからに過ぎない。並の人間では、この場所すらつかめないだろう。

 君喰丸が顎をしゃくると、小姓が前に出てきた。溝に手を突っ込むようなイヤイヤ感を丸出しで手を差し出すのは、鍵を寄越せと言う意味だ。

「あの……なにかお忘れでは?」

「ああ、この鬱陶しい札も処分して行けよ?わしには少々痒い程度だが、眷属どもには息苦しいらしくてな、入りたがらんのだ」

「もちろん片付けていきます。今私が言っているのは、残金です」

 ふわりと小姓の掌に載せたのは請求書である。

「工事は全てキッチリ終わっています。総額三億二千万。手付と中間金で半分頂いておりますが、もう半分をまだ、頂いていません」

 銀行口座を持っているバケモノは稀であるため、なんと今時現金払いがまかり通っている。君喰丸もその例にもれない。さて、素直に払ってくれるだろうか……。

「喪栗ぃ、このわしが踏み倒すとでも言いたいのか?」

 表情こそ変わっていないものの、その奥にはごりっとした硬い物がある。

「逆です。信用の証として、最後まで半分も残してあるんじゃないですか。

 人間の世界じゃ、手付で半分、上棟で全額なんてところもあるんですよ?」

「もうよい、鍵など要らん。人間がここまで来れるものか、全員食い殺してやる。

工事中の雑魚よけの結界など、こうしてくれる!」

 輪郭が崩れるくらい目を吊り上げて怒鳴ると同時、純が手にしていた御札が炎をあげ、熱を感じる間もなく燃え尽きた。この屋敷全体で三十以上の札を設置したのだが、恐らく全てが同時にこうなっただろう。

「今すぐ額づき非礼を詫びよ。そうすれば、首と頭がつながったまま山を降りられるぞ」

 君喰丸の目に冷たい光が宿る。ぎしぎしと軋むのは、牙や爪が急速に伸びる音だ。

「そうもいきません、あなたが知っている頃とは事情が違う。金がないのは、首から上が無いのと大差ないんです」

 君喰丸の変貌はもちろん恐ろしい。だが世知辛い現代社会、ここで退いては飢え死にである。

「浅ましい。未だに遠慮を覚えられぬか」

「貴方が強いているのは遠慮じゃなくて報酬の放棄でしょう?浅ましいのはそっちだ。ウチはボランティアじゃない、働いた分はいただきますよ、そうする権利がある。それを欲と言われるのは心外です。

 もしかして全部ウチの儲けだと思ってます?恥ずかしながらカッツカツでやってるんですよ。職人の手間、材料に送料、全てに費用が発生します。無料じゃ釘一本手に入りませんし、誰も動いちゃくれません。

 そりゃ全部が支払いに回る訳じゃありませんけどね、設計の為に私は自分の時間や道具を使った、ここまで来るガソリンだって買ったモンですよ。全て私の人生や財産を浪費してやったものだ、それが人件費というものですよ。そこまで全部差っ引いたら、儲けなんてほんの少ししか残りません。人間社会は世知辛い。貴方が知ってる人間は戦に勝って米を貯め込めばどうにかなったんでしょうが、今は違う。

 人間は自分の知識や時間を労力として金に変えて生きているんです。希少な酒や食い物が高いのと同じように、希少な知識や技術も高くつく。これは暴利ではない、希少な存在が生きていくためには必要なんですよ」

 とは言っても、ヒトならざる存在がこれで納得してくれる公算は低い。なにしろ、そういう理屈が判らないのは、一部の人間も同様なのだから。

「ふざけるなよ。言わんでやっていたが、こっちが頼む先がないと思って、随分と足元を見ているではないか。

 舐めているのはそっちだ、そこらの業者の倍以上ではないか」

 君喰丸が小姓の手から請求書をひったくる、炎もあげず灰となったそれは、畳に触れる前に存在を否定されたこのように風に溶け込んだ。やはり素直にはいかないのか。一瞬だけ背後に目を向けると、既に明は慣れたように物陰へと引っ込んでいた。

「だぁから、そうやって普通の技術で安く作った普通の家は、シックハウス症候群で住めないのでしょう?そっちの方がよっぽど無駄がし、よっぽど高くついてるじゃないですか。

 踏み倒そうだなんて名のあるあなたらしくもない。誰の入れ知恵か知りませんが、外野にとやかく言われるのは、気分が悪い。

 この屋敷は私が、あなたの為に、あなただけの為に、私の持てる知識や技術を総動員して設計したものだ。世界に一つのワンオフを、そこらに転がってるものとの相場と比較されちゃ困りますよ、そもそも中身が別物なんだから。安売りハウスメーカーの坪単価と比べてませんか?どうしても納得いかないのなら、見積もりの時点で断るべきだったでしょう。着工前ならいくらでも断れましたよね?

 言いましたよね?化学物質を極限まで締め出すために、材料の製法から拘ったって?それだけで予算が何倍に膨れ上がる事か!」

 刻々と変容する君喰丸を目の前に、純は捲し立てる。上背の伸びる君喰丸の目に合わせていると、徐々に目線が上がって首が疲れる。ああ。今日も厄介なことになってしまった。

「そりゃメーカー品も使っていますよ。しかし、それだって何もかも特注品だ。全てはあなたの望みのままですよ。

それだけじゃない、後々どっかから足が付いたらマズいと言うから、ビス一本に至るまで秘密裏に流通させました。それでいて人間社会でも問題ない耐震性に耐火性を確保しました。もちろんシロアリと防水はメーカー保証が5年ついてるし、地盤改良は十年保証だ。なにしろ直径600ミリ長さ8メートルの杭が1658本打ち込んである。この規模なら表層改良した方が安いと何度も言ったのに、庭の土壌に混ぜ物をしたくないと貴方が言い張るから柱状改良にしたんですよ?秘密とこれらを両立させるのがどれほど難しいことか!

あなたの全ての希望に答え、それを説明し見積もりに記載し、山ほどの資料を添付し、了承を頂いた内容ですよ。ここまで出来るのは、少なくとも関東じゃウチだけ、下手すりゃ日本に二人といないかも知れない」

 バケモノ相手の商売は京都を中心とした関西が本場らしい。しかし、それも酒や塩などの取引が殆どだと聞く。バケモノと現代の建築事情に理解がある人間なんて、歴史を振り返っても何人いたことか。少なくとも、その記録は存在しない。

「つまり……元々ないんでしょう?払うつもりが」

「黙れ」

「脅して踏み倒そうとしてるんでしょう?煩ければ口を封じてしまえばいいと思っているのでしょう?そりゃこんなところで始末されたら、行方不明でお終いですからね。食われちゃ死体も出ませんしね!」

 内ポケットに手を突っ込む。サテンに包んだそれは、固く、冷たく、そして重い。

「そうか、そんなに死にたいか」

 君喰丸は既に人の姿ではなかった。天井ギリギリまで膨れ上がった上背に、丸太のような三対の腕、ざんばら髪の間からは捻じれた角が五本。輪郭が変わるまで深く裂けた口には、幾重にも牙が生えている。バケモノもバケモノ、ちょいとしたボスキャラの風格である。

「望み通り、今ここで食い殺してやる!」

 怒声は砲撃のような音圧であった。数十の爪が薄青い残像を引いて、純を劈くべく襲い掛かる。しかし、紙袋を叩き潰すのに似た軽い音を立てて爆ぜたのは、君喰丸の腕であった。呻いて飛び退く君喰丸であるが、その半身はひどい火傷のように爛れている。溢れ出た赤褐色の体液が、真新しい畳に染み込んでいく。

 溜息。

「どうしてちゃんと払おうとしないんですかね。働いたモンに報酬を与える、コブ取り爺さんの鬼だってやってたじゃあないですか。詳しくわかりませんが、ああいう鬼よりあなたの方が格上でしょう?

 ん?いや、あいつら人質取ってるか、じゃあ舌切り雀……いや、あれも結構グレーなとこあるな……」

 うまいことハマらず肩をすくめる純。価値観が違うのか、人間相手でない商売は、やはり難しい。だが君喰丸は、それでも戦意喪失していないようだ。

「貴ッ……様ァ!何か仕込んでいるな?」

「そりゃ仕込みますよ。バケモノを相手に商売をしているんですから、対策の一つくらい」

それは掌程度の小さな金属片であった。よくよく見れば刃物のようだが、柄や鞘の拵えもないちっぽけなものである。あちこち錆びている上に、半ばからばっきり折れて切っ先は失われているが――その刃は、音もたてずに掬い上げるような爪の追撃を受け止めた。

「なんだ?なんだそれはっ!?」

 随分前に明から買い求めたこの刀?あるいは剣?刃物としては全く使い物にならないが、一つだけ言えることがある。

「正体は私も知りませんし、正直どうでもいい。

 重要なのはただ一つ、どんなバケモノだろうと、コイツで斬れなかったモンはない、って事なんです」

 実力行使に出る相手に限り、この錆び剣を出すことにしている。握りもせず、ただ、サテン越しにふわっとつまんでいるだけ。それだけで、相手が岩を食らう鬼でも、鋼をまとった龍であっても、しっかり常温に戻したバターのように切り裂く。武力や暴力と言うよりも、制圧力とでもいうべき力があった。これが、純の唯一にして最大の武器であった。

「霊剣か?小癪な真似を、だったら焼き尽くすまでだ!」

 がばっと喉元まで口が裂け、炎が噴き出す。凄まじい炎に包まれ、純は無残にも焼き殺される――筈であった、この剣がなければ。

「無駄ですよ。炎だろうが毒霧だろうが、バケモノが絡んでれば例外はありません」

 理屈は純も知らないが、ただ事実は変わらない。純が雑に振り回すと、熱いと思う暇もなく、炎は残さず掻き消えた。

「どうでしょう、これくらいで収めてもらえませんか?あなたを殺しても、私は一銭の得もないんです。

 大人しく、約束通りのお支払いをお願いします。であれば危害は加えません、もちろん誰にも言いません」

「嬲るかッ!」

 穏やかに妥協点を提示したつもりであったが、君喰丸の耳はこれを挑発と取り、火に油を注いでしまった。だが、純としてはそれ以外に言いようがない。

「誇れ、百年ぶりにワシに刀を抜かせたことを」

 無事な方の腕を伸ばし、小姓の頭を鷲掴みにした。既に小姓の姿は、身の丈と同じ大きさの太刀に変わっていた。おそらくはあれが本来の姿なのだろう。

「かああぁぁっ!」

 裂帛の気合とやらと共に、銀色の斬光が迸る。瞬く暇もない猛スピードで撃ち込まれた斬撃であるが、剣は吸い寄せられるように跳ね上がると、火花の一つも上げずに斬撃を受け止めた。そうして受け止めてから、君喰丸の背後、壁と天井の一角がどさりと落とされた。

「うおぅ、み、見えなかった……たまにね、自動で動くんですよ。生きてんのかな。

 いやもうほんとやめましょうって。君喰丸さんが強いのは判ってるんですよ、丸腰だったら、私もう三回くらい死んでます。持ってないわけないでしょ?だって、しっかり前金払っ――」

「どうせ切れぬのは承知の上!」

 セリフを塗り潰して吠えると同時、君喰丸が膨れ上がった。斬撃に妖気や霊力と呼ぶべき不可視の力を込め、純ごと圧し潰しにかかる。

「ごぉああああっ!」

 けだものの咆哮が、莫大な圧力を伴って圧し掛かる。恐ろしいほどの力がかかっているのだろう、今度は火花が散り、空間がぐにゃりと歪んでいく。背中に冷や汗が滲んだ。不本意ながらそれなりの数のバケモノを相手にしてきた純だが、これほど大きな力を叩きつけられたのは初めてだった。

「純!」

 背後から明の声。微かに混ざった狼狽が彼の神経を掻き毟る。しかし動揺を顔に出せばこちらの負けだ、それを噛み殺し、軽く答える。

「大丈夫、重くもない」

「そうじゃねえよ!自分の手を見ろ、そっちがやべえ!」

 そこで初めて気が付いた。剣から何かが生えている。蔦や、毛皮、あるいは蛇の尾、ざらついた黒いなにか、ぬるりとした光沢のなにかがじわじわと伸びながら、純の腕に巻き付いていくではないか。

「うぉっ?な、なんだこれ!?」

「わかったぞ!そいつはバケモノを斬ってるんじゃねえ……喰ってんだ、力を!だから炎も、バケモノの吐く炎なら食っちまうんだ!もしかして……今キャパがやばいんじゃないか?限界超えたら何が起きるか判ったもんじゃねえぞ!」

「そんな、今更……ッ!」

 無論、打つ手はない。ここで剣を手放そうものなら、純はアルミ箔のようにぐしゃんと押し潰されるだろう。だが逡巡するうちに、蔦は純のほぼ全身を絡め取っていた。逃げ道なんてどこにもない。

「に、逃げ……られないッ!」

「そのままブッ潰れよ、無礼者めがぁぁああああっ!」

「ッ――!!」

 殺意の籠った圧力がさらに膨れ上がる、圧倒的強者の迫力を目の前に純は凍り付く。悲鳴を上げる余裕すら残されていなかった。

 あ、これホントにダメなやつだ、死ぬ。と思った瞬間、

 弾けた。

 剣から膨れ上がった”それ”が純を跳ね飛ばした。巨大な蕾が開くような、卵の殻が割れるような衝撃。純は畳の上を二転三転と子らがされ、くらくらしながらもなんとか顔を上げる。

 真っ先に目に入ったのは、何者かに目線を奪われた明である。信じられない、訳が分からない、でかでかと顔にそう書いてある。恐々そちらを振り向くと、数秒前まで両者火花を散らしていたそこ佇む影がひとつ。反対側では君喰丸も、唖然とそれを見上げている。

 それは小柄な人影だった。ざっくり見ればお伽噺の天女が近い。だが纏っているものは羽衣ではない。樹皮や毛皮を編み上げたらしきゆったりとした衣であった。袖や襟に施された文様は稲妻にも、蛇にも見える、まるで何処かの民族衣装にも見えるが――見たこともない。よく言えばエキゾチック、悪く言えば異形だ。

 だが人間ではない。ヒトのそれより巨大な手足には物騒な鈎爪が光り、蔦のように絡み合った髪には数か所も蕾が揺れている。極めつけに、剣から出ていたそれと同じ蔦や毛皮が全身に緩やかに巻き付き、脈打つようにぼんやりと光を放っているのだ。

「何者だ?あんた……」

 純の声に、まずは大きく尖った耳が、一拍遅れて首がこちらを向いた。顔立ちこそ少女のそれだが、やや堀りが深いだろうか、半眼であっても眼光は不気味に鋭く、翠色の虹彩が印象的である。

「……ン、ナウ カンナ ノア……イッカ ワヤ……?」

「え?」

 何か喋ったようだが、今のはなんだ?強引に例えるなら、関西のイントネーションでどぎつい琉球弁を捲し立てるような――そのくせどこか品のある、全くの未知の言語であった。

「なんだ……何者なんだ……?」

 茫然と呟く純の言葉に、そいつはなにか気付いたらしい。少し考えを巡らせる様子を見せると、そこから先は日本語であった。

「ここはどこじゃ?わぁ(我)に何の用じゃ?……ん?……あれ……わぁ、何じゃったろうか……まぁ、構うことでもないか。

 なんじゃい、ヌシら……取り込み中か?……ふわむ」

 欠伸。どうやら半眼ではなく、寝惚けまなこであるようだ。

 ふわりと少女が浮き上がった。風に揺蕩う煙のようにふよふよと浮遊する姿は、幻想的ですらある。あっけにとられる一同の中で、真っ先に我に返ったのは明であった。純の手から錆び剣を引っ手繰ると、少女の姿をしたバケモノに見せつけるように掲げる、

「オレたちに力を貸してくれ!」

「え?そういうヤツなの?ランプの魔人的なヤツな――ぶごふぁっ」

 明の裏拳が鼻に直撃、純は仰け反る。少女の姿をした何者が明を気だるく眺めること数秒。返された返事もまた、気だるい。

「ああ?なんじゃあ?……」

「お前の本体はこれだろう?なら、これの持ち主がお前の主人のはずだ!」

 怯まず畳みかけるのは、明なりにこの状況のヤバさを実感しているからだ。いくらバケモノ同然の明とて、君喰丸と比べれば虫けらなのだから。

「……知らんわそんなもん。どこかの決めごとを押し付けるな、寝起きに……気分悪い。

 そもそも何じゃお前?……鬱陶しいのぅ。失礼じゃろ、カモイにする態度かそれが、ボケェ」

「カモイ?……精霊か!こんなにはっきりした自我のある精霊なんて見たことねえぞ!」

 愕然と呟き青ざめる明に、純も事態が飲み込めてきた。

 君喰丸と五分に戦えていた錆び剣、その力の源はこの精霊とやらなのだろう。端的に言えば、命綱に自我が芽生えてしまったのだ。彼女の力がなくては、純たちは君喰丸に対して無力である。

 カモイとか言う精霊の言葉からは悪意も打算も感じない、だからこそ偽らざる本音であろう。よりによって明は、その意志ある命綱とのファーストコンタクトに失敗したのだ。

「まあ、どうでもよいわ。邪魔したの、わぁはどっかで二度寝をキメ――」

「お待ちください」

 君喰丸が割り込む。力のあるバケモノである彼は、この場の誰よりも精霊とやらの力を深く見抜いたはずだ。先ほどの小姓を連れた貴族風の姿に戻ると、恭しく頭を垂れた。

「私は磔ヶ峰守君喰丸麗玄、千年前よりこの山に住まうモノにございます。

 カモイ殿、由緒のある太古の精霊であるとお見受けしました。まずは騒ぎ立てた非礼を詫びさせていただきたく存じます」

「ほぉう、口の利き方が判っておるようじゃな」

「騒ぎを鎮めるのにほんの少しだけお時間をいただきます。その後はどうぞごゆるりと、気のすむまで我が屋敷でお過ごしください。記憶がなくてはご不便でしょう。後ほど我が眷属に出自を調べさせましょう。その剣と一緒に」

「おお、これは親切な御仁じゃ。ありがたい」

「力を貸せなどと無礼な事は言いませぬ、宴を儲けさせていただきます。その為にも先ずは、邪魔者を片付けます」

 さっきまでの尊大な態度はどこへやら、君喰丸は不気味なくらい下手に出る。少女の姿をした強烈なプレッシャーは、本能にそれが正しいと、今更気づかせる。

「宴か……ふぅん。酒はあるか?」

「もちろん」

「そうかそうか」

 精霊の仕草は一見、少女のようでありながら、君喰丸よりも尊大で傲慢なものがある。なにしろそれに釣り合うだけの存在感を、彼女は放っているのだ。

「明、やらかしてくれたな……逃げるか?」

「さぁ、逃げ切るまでに何回死ねることか」

 ひそひそと喋っている間に、事態は最悪に転がる。精霊が頷いたのだ。

「好きにせよ、わぁには関係のないことじゃ」

 次の瞬間、君喰丸は再び小姓を太刀として抜き、振りかぶっていた。

「悪巧みの最期は自滅と決まっていたようだな、喪栗。さあ、引っ越しと客人のもてなしをせねばならぬ、手足を切り落とし、生きたまま酒の肴にしてやる」

 再び、銀色の斬撃が閃く。純は身を捩る暇もなく、バッサリと真っ二――

「待て」

 精霊がたったそれだけ言うと、君喰丸の斬撃は空中で凍り付いたように動きを止めた。

「君喰丸……ヌシはアマトの者か?」

 ざらついた精霊の声に、君喰丸は唇も動かさずに答えた。

「アマト?お許しください、それがなんの事を指しているのか、私には判りませぬ」

「あ?あー、あれ?なんじゃったかな。わぁにも判らんが……そういう振る舞い、どうにも不愉快でな」

 ふわりと回り込んだ精霊の鈎爪が、太刀の横っ腹を軽くひっかいた。そう認識したときには、既に太刀はボロボロに錆びて崩れ落ちていた。

「妙じゃな……アマトが何かも判らんのに。知らん者が知らん者を叩き切るのを、止める理由なぞ……だが、どぉうにも不愉快でならん。

 争いは仕方ない、その結果勝敗がつくのも必然。じゃが、いたぶり弄ぶのはどうにも腹が立つ。預かり知らぬところならまだしも、目の前でやられるのは不愉快で……我慢がならぬ」

 凍り付く君喰丸の横をすり抜けて、精霊がこちらへ寄ってくる。眉根を寄せて頬を掻く様子から、どうにも座りの悪い何かが引っかかっているようだ。

「しかし、わぁも自分がどうしたいのか、判っておらぬ。

 おい……そこの一番弱っちいの」

一転けろっとした顔で、精霊が純の鼻先まで近寄る。彼女の纏う獣と草木の入り混じった臭いが、どこまでも香しい。それくらいの近距離で、鼻をすんすん言わせている。

「ヌシ、甘い香りがするのう。懐に……桃を仕込んでおるな?」

言われてポケットから引っ張り出したのは、先ほどの桃グミであった。運転中に押し込んだため、チャックが閉まり切っていなかったのだろう。

「この……グミ?」

「アホか、桃言うとるじゃろが。香りがする」

 震える掌に転がり出た数粒に、精霊は怪訝な顔を作った。ふんふんと嗅いで見せる仕草は、見知らぬ餌を警戒する犬のようでもあった。

「なんじゃ?やたらと強い桃の香りがする……グミの実でもないな?」

 気怠そうな寝ぼけを擦りながら首を傾げる。

「に、人間の作った、グミというお菓子です……桃味の。い、いいいかがですか」

「ほぉん、なんかややこしいモン作るなお前ら」

 口調のわりに、精霊は興味津々のようである。

「まあよい、もらおうか」

 べろりと舌を伸ばす。どう収まっていたのかと思う程長い舌は、細長く先端が二つに割れている。やっぱりバケモノだ、腕ごと齧られるんじゃないかとヒヤヒヤしながら硬直していると、その舌が器用にグミだけを巻き取った。

「む……口の中あっちこっち行くのう。桃の味はするが、硬いのか柔らかいのかよくわからん。

 汁気はないが、味が濃いな、えらく甘いの。うむ……おうおう、わりあい美味い」

 グミにうっとりすること暫く。精霊はゆらりと君喰丸へ肩越しの視線を向ける。

「小童……君喰丸とか言ったか。わぁはこの弱っちいのに付く」

「はぁ?そ、そんな菓子一つに!」

「今の菓子が気に――ゲフン、弱い者いじめは好かぬ。ちぃとばかりヒトの世に興味がわいた。行ってみたい」

「自分も判らぬまま人里へ下りて、どうなさるおつもりか?我らの居場所はもうありませぬぞ!」

 絞り出すような君喰丸の抗議も、精霊はまるで意に介さず、へらりと嗤ってみせた。

「居場所?……ふん、わぁがいるその場がわぁの居場所よ、誰の許しも請わぬし、誰かを脅かすつもりもない。

 どこで生まれたかより、どう生きるかじゃ。出自がわぁにとって大切な事ならば、いずれ勝手に判ること。調べねば判らん程度ならば、誰も知らんでも困らぬわい。

 と、言うわけじゃ。わぁに免じて折れてくれぬか?何を揉めているのか知らんがな。

 命拾いしたな人間、よかったのう」

 そして精霊はケラケラと笑う。その笑顔は美しく妖艶でありながら、どこか……

「カモイ……あんた、名前は?」

 ケラケラと笑っていたはずの精霊が、ぎょっとしたように目を瞬かせる。

「ふむ……強引な男じゃな」

 何言ってんだコイツ。とは思っても口には出せない、引き攣った愛想笑いを浮かたまま、純は続ける。

「多分カモイって、名前じゃなさそうだし……それに」

「それに?」

「なんか笑い方が……寂しそうだったから」

「わぁが?……そう見えたか?そう見えたのか、それでカモイに名を聞くか……ふふん」

 精霊が鼻で嗤った。冷笑のようでもあったが、僅かに自嘲が見えた。

「調子に乗りおって、まあよい。気の迷いだ、戯れに答えてやってもよいが……生憎覚えておらぬ。今はまあ、メミコとでも呼べ。さて、ではヌシの名も聞いてやろうか」

「俺は純、喪栗純だ」

「純か。そうか、よかろう」

 精霊――メミコが頷くと、髪や着物の各所から芽吹いた蕾が一斉に花開き、瞬きするうちに萎れると実を結び、ぱらぱらと種をばら撒いた。

 その種は足元で一瞬で芽吹くとみるみるうちに蔦を伸ばし、瞬くうちに床や壁が覆い尽くす。屋敷の周辺よりも、夏場の郊外で猛威を振るう葛よりももっともっとバケモノじみた緑の暴力であった。

 気が付けばメミコと、純と、明。それ以外の全てが蔦に飲み込まれていた。君喰丸もその例外ではなく、青々とした蔓にすっかり取り込まれて毛玉に手足の生えたような姿になっている。まるでどこかのゆるキャラのようであったが、本人はその内側でぎりぎりと締め上げられているようで、苦悶の呻き声をあげている。

「ぐっ……があっ!」

「無理に動くな、その五十倍の力を出しても千切れぬように出来ている。三つ数える、そのうちにこいつらを諦めると言え。逆らうなら命の保証はせぬ。よいな?……ひとぉつ」

 大人と子供、それ以上の差がある。もがくことしかできない君喰丸は、いまや蜘蛛の巣にかかった哀れな虫である。

「ふたぁつ。耳と喉は締めておらぬ、聞こえているじゃろう?声も出るはずじゃ。手を引くと言わぬか」

 それでも名のあるバケモノの意地があるのか、なんとか蔦を切り払おうと太刀を握っているが、ロクに動けないようだ。それどころか彼を締め上げる蔦だけが葉を落とし、茶色く枯れている。枯れて乾いた蔓は一層動きを封じる事だろう。

「みぃっつ。諦めの悪い奴じゃ……言ったからな?恨むなよ、脅しは実行せねば意味がないからな」

 精霊の顰めた額に翠色の燐光が灯る。それと同時にぱしんと乾いた音と一緒に一筋の雷撃が走る。それが君喰丸を絡めとっていた蔦を一気に燃え上がらせた。枯れた蔓は容易く燃え上がり、あっという間に火だるまになってしまった。絶叫が轟くが、蔦は硬く引き締まり、僅かな身悶えすら許さぬまま、火勢はみるみる増していく。

「判った!払う!従う!だからこの火を消してくれぇっ!」

「よかろう。というかまだ生きとるんか、なんちゅう頑丈なヤツじゃ」

 メミコが頷くと同時、炎と蔦が瞬時に消え去った。あとには真っ黒に全身を焦がした君喰丸が、虫の息で倒れていた。

「これで良いな?純よ」

 精霊が肩越しに微笑を浮かべる。その額に翠色の目が縦に開いていた。瞳孔まで縦に裂けたその目は、まるで蛇のようであった。


「……好きなだけ持って行け」

 やはり支払う気はなかったのだろう、現金の用意はなかった。代わりに君喰丸がずらりと庭に並べさせたのは、棺桶ほどもある長持であった。どれも漆塗りで螺鈿細工や蒔絵が施してある。恐らくどれもとんでもなく古い、長持だけでも相当な価値があるだろう。しかし純は、適当に見繕って奪っていくつもりはない。化け物相手とは言え、公正な商売をしに来ているのだ。

「明、頼んだ」

「はいよ。こりゃあすげえ、舌切り雀レベル百って感じだな」

 このために明を連れてきた。彼女はバケモノでありながら、人間社会で曰くつきの物品を取り扱う骨董商を営んでいる。狭く深い一部の界隈では、塚荒明は名が通った鑑定人でもあるそうだ。彼女の鑑定で、純の請求と同等の物品を、この場で見繕うのだ。

びっちりと白手袋をし髪を束ね、長持の中身の鑑定に没頭する姿は、存外様になっている。

「ほぉん古刀か、こりゃあ鎌倉前期か……無銘だが状態はいい。ざっと三百万だな。おっ、こっちはルソンのツボじゃないか、この状態だと……百万には届かんかなぁ。純、何円分だっけか?」

「一億六千万」

 明の肩がずり落ちた。

「おおう……そうなると価値があって、かつあの軽に積める物に絞る必要があるな。なかなか難しいぞ。あんだよ、先に言やあトラック出したのに」

「お前が運転してくれるならいいぞ、どうせマニュアルだろ?俺もう五年位オートマしか乗ってないから」

「けっ、軟弱なヤローだな、オートマなんか面白くもなんともねえだろ」

「移動手段にエンターテイメントを求めてどうしたいんだよ」

 ぼやきながらも次々と長持を覗き込む明である。得体のしれない物ばかりが敷き詰められたそこは、半ば異空間である。

「なぁ、この白い壺とか高そうじゃないか?」

 適当に見繕ってみるものの、明は振り向きもしない。小汚い手帳に何やら書き込んだり見返したりしながら答える。

「そりゃ柿右衛門だな、ざっと五億、国宝モンだから売りにくい。そういうのは闇に流して何年か経ってからニュースになったりするからめんどくせえ」

「マジか……じゃあ、こっちの傘立てみたいのは?」

「傘立てぇ?……ああ、そりゃ古代中国の青銅器、ざっと二億ってとこか。出所もでっちあげやすいから悪くはないが……お前の車に積めるか?座席ボロッボロになるぞ」

「邪魔して悪かった、ゆっくり探してくれ」

「まあ、うまいこと帳尻合わせしてやる、少し待ってろ」

 目利きに自信があるのか、それとも言い値で売り飛ばすツテがあるのか、どちらでも構わないのだが、時間がかかりそうだ。

「そういうわけで、君喰丸さん。少しお時間いただきま――」

 振り返ると、そこには元の人型に戻った君喰丸がいた。爆ぜた腕やコゲこそ元通りであるが、明確に顔色が悪く小姓に支えられてやっと立っている。その様子から、消耗と言うよりも衰弱が見える。

「あー、いやその。先に、鍵をお渡しします。それと、あなたが壊した壁や床の修理、どうされます?追加になりますが、お受けできますよ?」

「不要だ。あの程度なら自前で直す……もうこりごりじゃ。

 今更多少の差額に文句は言わぬわ。多少多くとも構わぬから、好きなだけ持って、とっとと帰れ」

 吐き捨て、人が殺せそうな恨みがましい眼光を射掛けると、君喰丸は現れた時と同じ、一陣の風となって姿を消した。

 その風が純の掌から鍵をまきあげる……気が付けば頬の薄皮が一枚切れていた。

 もしも自分の背後で、メミコが未だに桃グミにうっとりしていなければ、純はバラバラにされていたかもしれない。


※ご注意※

この作品はフィクションです。実在の人物、団体、出来事とは一切関係ありません。

娯楽作としてお楽しみ下さい。

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こんばんわ。 改めて読ませていただきます。 ボリュームが…… よろしくお願いします(^^)
めっちゃ面白かった!最初は軽口叩き合ってるだけかと思いきや、気づいたらめっちゃヤバいバケモノ相手に命がけの請求書回収劇になってて笑ったしドキドキした。 精霊のメミコ登場シーンとか完全にボスキャラ級なの…
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