二十五話 哲学の森
シダクサが牢に繋がれてからちょうど四週間目の日。看守でレジスタンスの一員であるハンスがシダクサに今晩が脱走決行の日と教えた。
「やっとかぁ」
シダクサは手首に繋がっている鎖をぶらぶらと回して遊んでいる。
「すぐに動ける?」
ハンスはシダクサの身体を気遣ってそう言った。ハンスはシダクサにレジスタンスの一員とばれてからは、他に人がいなければ積極的に彼女に話しかけるようになっていた。
「勿論」
ずっと水さえ与えられていなかったシダクサだが、かすれもしない声で答えた。
「……やっぱり神様だっていう話は本当なんだね」
ハンスが少し寂しげな表情を見せて言う。
「ミーナから?」
シダクサが尋ねると、ハンスはそれに無言で頷いた。
「まぁ言うなとは言ってないけどさ……うん、私は祟り神だよ。名前はシダクサノカミ。シノブは通称だから、改めてよろしくかな」
「あー……うん。そうだね」
ハンスは気のない答えをする。
「どうかした?」
彼が余りに元気をなくしていたので、シダクサが少しばかり心配そうに声を掛けた。
「こんなことを言うのも無礼なことなんだろうけど。僕は君が……僕が、君を、ここから出してあげたかった……!」
ハンスはそれだけ言って、黙り込んだ。
「(それは人間の私を、ね)」
シダクサも敢えて声に出して言うことはしない。彼の想いは分かったのだから。
「そう。今まで話し相手になってくれてありがとね、ハンス」
「僕も楽しかった。ありがとう」
シダクサが鉄格子の隙間から手を伸ばした。ハンスが初めてとったシダクサの手は、別れの挨拶の握手。彼は無理に笑って彼女の手を握り、すぐに手を離した。
「僕はもう行くよ。元気で」
ハンスはさっと振り返り、牢の出口へと早足に歩き出す。
「私も貴方の幸せを願ってあげる。私、本当は恋愛成就の神様じゃないんだけどね」
シダクサは最後の最後に、いつもの調子でハンスに言葉を投げかけた。ハンスは立ち止まり、シダクサのほうへ苦笑を一つ向けると、今度こそ牢から姿を消した。
苦笑は苦笑でも、それはどこかすっきりとしたようでもあった。
†
その晩、オロチを伴ったミーナが牢に姿を現した。戦闘は一切なく、ハンスに教えてもらった警備の穴をついての侵入だ。
「シダクサ様、お待たせしました」
格子に手をかけ、ミーナがそっと言った。オロチも頭を袋から出して無事かと尋ね、シダクサはそれに笑顔で応えた。
「ご苦労様」
シダクサは、立ち上がってミーナの苦労を労った。ミーナはポケットから鍵を取り出し、それで牢と手錠の錠を外して、
「さぁ急ぎましょう。ハンスが時間を稼いでくれています」
と促した。
「ん、わかった」
シダクサはハンスに加護が与えられるよう、すっと目を閉じる。一瞬の硬直の後、彼女はひと月を過ごした牢を後にした。
「馬車を用意しました。このままタールベルクに行きます」
「作戦はミーナに任せるよ。巧くやってね」
「はい!」
ミーナはシダクサに任せられた初めての大役に意気込んだ。
†
みすぼらしい幌馬車に乗り込み、一行はタールベルクへと急いだ。シダクサはタールベルクに行ったらどう説得したものかと、今からすでに頭の痛い思いだった。
国境に近づくにつれ、戦争に巻き込まれるおそれが大きくなるため、国境越えは街道を行くのではなく、馬車を乗り捨てて森を抜けることになる。
脱獄から数日、追っ手をかわしながら進み、ついに国境間際の森にやってきた。
「馬はどうするの?」
馬車を捨てる際、シダクサが尋ねた。
「ここで放してやりますけど……」
「でも食べられちゃうよね」
「そう、ですね」
このあたりには魔獣が多く生息しているため、馬を放してやっても長生きするとは考えにくい。ミーナだって心苦しいのだ。
「じゃあ、私が食べてもいい? いいよね?」
まぶしい笑顔のシダクサに、ミーナは苦笑した。
「ど、どうぞ」
「えへへ」
シダクサが笑顔のまま馬に目を向けると、馬は野生の本能からかぶるぶると震えだした。
「いただきまーす」
一ヶ月ぶりの大物に、シダクサはご満悦だった。森の中を歩く足取りも心なしか軽い。
「シダクサ様、元気ですね」
森の中を歩きっぱなしでは、荷物を背負ったミーナには酷だ。
「満腹とはいかないけどね、そこそこにおなかが満たされれば幸せな気分になるんだよ」
シダクサはぴょこぴょこと木の根を飛び越えながら言った。
「少し休憩しましょうよ……さすがにもう……」
「ああ、そうだね。少し休もっか」
シダクサの許可を得ると、ミーナは木の傍に荷物を降ろし、自分もそこに腰を下ろした。
「ここで待っててね」
シダクサはミーナに背を向ける。
「何を?」
「ちょっと食事」
ミーナは理解が遅れたが、感覚を研ぎ澄ましてみると、あたりに多くの魔獣が潜んでいることが分かった。
「こっちを窺っているみたいだから、ぱくっとね」
シダクサは人差し指を立てて言った。瞬間、彼女の背後から四足の魔獣が飛び出してきた。けれどシダクサが振り向くまでもなく、それは虚空に掻き消えた。
仲間がやられたのを合図に、潜んでいた魔獣が一斉に飛び出してきた。
「ミーナは防壁だけ張っておいてね」
数が多いと対応しきれる自信がないので、万全を期しておく。祟り神の本領は祟りであって、戦ではないということを、本人が一番良く弁えているのだ。
「一匹……二匹……三匹……」
シダクサは蛇の尾を身体に巻きつけて防御を固め、大きな口では魔獣を飲み込んでいく。魔法のような派手さや効率の良さはないものの、安定感のある戦い方だ。
「十二で最後っと。ご馳走様」
オロチは久々の食事はシダクサに譲ってやろうという心意気で、じっと黙ったままだった。二者の腹は通じているため結果こそ変わらないが、気分の問題だ。
満腹となると、どうも睡魔に襲われがちである。シダクサもその例に漏れることはなく、ミーナに背負われて夢の世界に旅立っている。荷物とあわせて四苦八苦しているミーナを見かねたオロチは、人ほどの大きさになって荷物を請け負った。
「すみません、オロチ様」
ミーナは隣を歩く――訂正、這うオロチに申し訳なさそうに言った。
『よい。いつもシダクサが迷惑をかける』
「そんな、迷惑だなんて」
『世話にはなっている。我らだけではできないことに手を貸してくれるそなたには感謝している。今回もシダクサの救出を無事果たせた』
「私がいなくとも出来たことですよ。オロチ様は強いんですから」
『さてどうだか。我は知恵が人より幾分劣るのでな』
ミーナはオロチが笑ったような気がした。
「神様が謙遜なんて、可笑しいですね」
彼女はそんなオロチにつられて笑った。
『シダクサの請け売りだ。神は人々の理想ではあったが、それは完全なモノではなかった。そもそも人の理想が完全ではないのだから仕方の無いことだそうだ。我らはそれを知るだけの知恵は持っていたということだ』
「結局、人も神も完全ではないということですか?」
『そのようだ。この世界の神々も不完全であったが為滅んだと聞く。だが不完全な姿こそ完全という見方もできる』
オロチは一つの頭を、ミーナの背に揺られるシダクサに寄せた。
「どういう意味ですか?」
『変化の為だ。完全であるということは、同時にそれ以上のことを期待できないという意味でもある。それが生き物であるとしたら死んでいるも同義だ。死なないために完全を敢えて忌諱し、不完全を以って仮の完成とした。それが生きるということに繋がると、そういうことだ』
オロチは目を細めてシダクサを見つめている。
「なんだか難しい話ですね。でも、完成を求めるために不完全に生まれたとして、いつの日か完全な存在に至ったらどうなるんですか?」
『やはり死だ。といっても肉体的・精神的な死ではなく、存在としての死だが』
「なら、私たちは死ぬために必死に生きていると?」
『それもまた短絡的な考えではある』
そんなオロチの問答にミーナは少々混乱し始めてきたようだ。
居心地が良くなくてもぞもぞとう動いたシダクサがずり落ちそうになったので、オロチがひとつの鼻先でそっと支えた。
「なんだか訳が分からなくなってきました」
『今はそれで良いのだ。少なくとも、こうして議論しているうちに死ぬことはないのだからな』
「むむ……」
「ん……森が切れてる」
話し声で目を覚ましたシダクサが呟いた。