絢子、攫われる。1
ここはどこだろう? 状況も全く把握できていないので、なんとも言えないし混乱ばかりしている。
とりあえず、深呼吸だ。なにもわからないし不安ばかりだけれど、落ち着くことが最優先事項だろう。そうすれば、なにが起こったとしても冷静に対処できるはずである。
私はいくつか深呼吸すると、さっきよりも少しはマシになった思考でまずは己を確認する。
特に拘束具はない。衣服も、記憶にある中で最後に着ていた物と一緒だ。髪は崩れているけれど問題はなく、怪我などを負っていることもない、と思いたい。
いやいや、だって。この年齢になると、いつの間にか打ち身があったりしない? いつどこでどうやって打ち付けた記憶もない謎の青アザを、発見した時の自分の鈍感さにビックリしない? 私はまだビックリする。記憶を遡っても、該当する項目がなくて自分自身にがっかりしちゃう。
まあ気付いていないだけで、もしかすると体のどこかに青アザの一つや二つあるんでしょう。気付いていない今は、とりあえずは怪我などの負傷はない、ということにしておく。
さて、次は周辺の確認だ。ざっと見るだけでは普通の部屋のようだけれど、私の記憶にあるどの部屋にも該当はしない、気がする。
この世界に招かれてからは、スウィートルームみたいな王宮での部屋と、少しグレードダウンしたマッケンジー公爵家での部屋と、更にもうちょっとグレードダウンしたグレイアム辺境伯家の部屋にしか御厄介になっていないので、こういう質素な部屋は知らない。
けれども、既視感があるのはきっと、この世界の一般人……ええと、貴族ではなく平民が使うような部屋はこういう感じなんだろうな、と思えるからだ。ベッドとテーブルと椅子と洋箪笥、という簡素な家具は、むしろ私はとても落ち着くのだけれど。
どうやらベッドで眠っていたらしい私は、今度は窓の外を確認するために床に足を降ろす。履いていた靴も綺麗に揃えてあったので、裸足で動き回らなくていいらしい。ペタンコに近い、ロー過ぎるヒールでよかった。これなら走らなきゃならない場面でも、なんとかちゃんと走れそうである。
靴を履くと、家具をポンポンと触って質感などを確認しながらも窓の方に向かう。カーテンで閉ざされた向こう側を見て、この世界新参者の私が把握できるわけないけれどどういう立地なのかくらいは確認したい。
「……うわ……詰んだわ……」
カーテンを開けると、どん詰まり、という言葉が脳内を占めた。同時に、全身で鼓動しているように感じる。ドクンドクンという音で耳を塞がれ、まさしく独りになった。
カーテンの向こう側など、存在しなかったのだ。そこは暗闇で、なにもない空間だった。
「今度こそ、異世界転移二回目、とかじゃないよね……?」
前回それを感じたのは、ヴィンスさんと一緒にエル様に会える空間に強制連行された時。今回もその時と同じだろうか、とも考えてしまうが、あそこはただ真っ白な空間だったので違うような気がする。エル様の姿もない。もしかしたら隠れているだけかもしれないけれど、ごめんごめん冗談だよ、と言ってそろそろ出て来てもいいぐらいなのに。
これは異世界転移二回目の可能性が高くなった気がする。カーテンの向こう側に広がる空間が暗闇、という世界があるならば、ではあるが。
「とりあえず……ここは多分、ヴィンスさんの御実家ではない。ヴィンスさんたちも、ここにはいない。外は暗闇で、どこなのかもわからない。この場所で目を覚ます前の私の最後の記憶は、夕食の後に竜に話を聞こうとみんなで決めたこと。私は疲れてるだろうからって、ヴィンスさんが休んでていいって言ってくれて」
つまり、夕食は食べてない。辺境伯家でのお食事をしていない。お義母様が、ウチの料理人に郷土料理を中心に作って貰いますね、と馬車の中で言われていたので楽しみにしていたのに。紅茶もお菓子も美味しかったから、期待値は密かに高まっていたのに。
そう思ってしまえば、メラメラと怒りが込み上げてきた。食い意地が張っている方ではないけれど、期待してただけに食い物の恨みとやらが湧いて出たようだ。
「パイ包みの煮込み料理が美味しいって、お義母様が仰っていたのにぃぃ……駄目だ、考えたらお腹減ってきちゃった」
あの時はそんなにお腹減っていなくて、折角の夕食は食べきれないんじゃないか、と心配になっていたのに。きゅるる、とちょっと可愛く鳴る腹の虫が憎い。だって、この部屋には食べ物の類はないんだもの。
「……いやいや、あったわ。むしろ出てきたわ。なんだこれ……はっ! 私は、念じれば食べ物さえも出せる聖女?!」
そんな馬鹿な、と思いながらもテーブルの上に現れたパイ包みのなにかを、同じく現れたスプーンを掴んで突っつく。どうやら幻覚とかではないようなので、パイの部分に思いっきりスプーンを突き立てた。すると湯気が立ち上り、とてもおいしそうな香りが漂う。
「私がもし念じれば食べ物さえも出せる聖女ならば、これを食べたらお腹が膨れるし、特に毒とか痺れとかの危険な薬物の心配もなくおいしくいただける、と信じて念じてぇぇ!!」
スプーンを持ったまま、勢いよくいただきますのポーズ。素早く椅子に座り、パイをもう少し砕いて熱々のビーフシチューを一口食べてみる。
「……うっま! え、美味しい! お肉ホロホロ! お野菜も味が染みてて柔らかくて美味しい! ちょっと贅沢を言えば、ロールパンを一個でいいので欲しい! ……あ、出た」
パイもいいけれど、ロールパンをシチューに浸して食べたいと思ったのだ。そしたらやっぱりポンッと出現したので、私は念じたら食べ物も出せる聖女で大決定である。これでこの先の生涯、食に困ることはないだろう。やったね!
「やっぱり美味しい~! 私って天才だわー!……って、なにやってんだろ。食べてる場合じゃないでしょ、どう考えても」
私がご機嫌でロールパンを少し千切ってシチューに浸して食べていれば、不意に正気に戻ってしまった。なにかをやっている最中に正気に戻るの、やめて欲しい。そのまま最後まで変になっていて欲しかった。
けれど、もう食べてしまったのだ。パイ包みのビーフシチューもロールパンも、まだ残っているのだ。そして私のお腹はまだ満たされていない。
「……よし、食べてから考えよう。勿体ないのでね。もう食べちゃってるしね。ここで食べるのをやめたら、逆にお腹が減って仕方なくなる」
わかっているのだ。これは現実逃避だ。だけれども、もう少しだけ逃避させて欲しい。そしてお腹も満たしたい。ちょっと食べて呼び水みたいになってるから、食べなければ空腹感とも戦うことになってしまう。
私は無心で食べる。あんなに美味しく感じていたけれど、途端にただ腹を満たすだけのものになってしまったのだ。いや、美味しいんだけれどね、気分的な問題だ。
パイの部分も綺麗に平らげると、手を合わせてごちそうさまのポーズをする。食後にほんのちょっと、お水も欲しいな、と念じたらお水もコップに入って出てきた。これは人体に無害のお水だ、と思いながらも半分くらいまで飲むと、ここでようやく一息吐けたような気がした。
「さて。お腹も満たされたし、どうしよう? 外は確認できたし、今度はこっちの扉の向こう側、よね?」
窓がある側の対面の方に、扉がある。ということは、直接外に出られるか、ここが建物の一室だと考えていいだろう。外ならば暗闇だろうし、建物の一室ならば他にも部屋があるかもしれない。
それを、私が確認するのである。
「こういう時に誰か……ヴィンスさんがいてくれたら心強いのに」
そもそも、いないかもしれない。私が、あの世界にいない、のかもしれない。
けれど聖女の念じれば割となんでもできる力は健在のようだから、私はまだあの世界にいると信じたいのだ。
――ヴィンスさんに会いたい。大丈夫だアーヤ、と言って貰えたら、少しは頑張れるのに。まだ恥ずかしいけれど、抱きしめて貰いたいし、私だけに向ける甘い表情と声音で私を包んで欲しい。
途端、バキッともドゴッとも聞こえるような、なにかが壊れるような大きな音が聞こえてきた。
念じればご飯も出せるかもしれない聖女。
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