絢子、念じる。1
ちらり、と視線をやれば、そそくさと離れていく。まるでいけないものを見たような反応はやめていただきたいが、この状況ならば仕方がないと腹を括るしかないのだろうか。
私は今、ヴィンセントさんにエスコートされながらも、お城の中をお散歩中である。
鎮まれ心臓、と叫びたい気持ちで歩いているため、正直ちゃんと歩けているのかさえもわからない。ふわふわしてしまうのは、こういうエスコートなんて生まれて初めての体験だからだ。そして相手がヴィンセントさんだからだ。心臓に悪過ぎるだろう。
ヴィンセントさんは話し掛けてくれるが、上手く受け答えができているかも定かではない。率直に今の気持ちを伝えてもいいならば、スウィートルームに帰りたい。
「そういえば、昨日は申し訳なかった。妃殿下とのお茶会の席は俺が護衛を務めるべきだったのに、途中で交代してしまった」
「い、いいえ。なにか緊急のことでもあったんでしょう? ヴィンセントさんは騎士団の副団長ですから、どうぞそちらを優先してください」
「ヴィンス」
「……はい?」
「いい加減、アーヤも俺を愛称で呼ぶべきだ。勿論、特別な呼び方でも構わないが」
こうやって甘い声と言葉で私を翻弄するの、やめて欲しい。今すぐにスウィートルームに逃げ帰って、お布団被って寝てしまいたい。
私はここ十年は恋人がいない状態が続いたから耐性がマイナス値なので、アラフォーにあるまじきウブな反応しかできない。つまりは真っ赤になっていると、ヴィンセントさんは歩みを止めて私の頬を手の甲でそっと撫でた。ぎゃー、である。辛うじて心の中で叫ぶと、ヴィンセントさんはフッと笑う。
「そうだな……ヴィンスが嫌なら、ヴィニーはどうだ?」
「……ヴィンス、さんで……」
「さん、はいらない」
「ヴィ……ヴィンス……」
私が息も絶え絶えに名前を呼んでいるのに、ヴィンセントさん……ヴィンスさんはまたフッと笑った。
ぎゃー、である。私だけではなく、私とヴィンスさんのお散歩を野次馬している方々もざわざわとしているので、ヴィンスさんの笑顔の殺傷力は高い。
いいや、ざわざわしているのはなにもヴィンスさんの笑顔だけが原因ではないだろう。私という存在自体も、ざわざわの原因なのだ。あのオバサンは誰だ、とざわざわしているに違いない。あの英雄の隣にいるのはどこのオバサンだ、と言っているに違いない。被害妄想甚だしいが、だってそういうシチュエーションでしょう、これは絶対に。これまでこの世界の英雄の隣は不在だったのだ、私が皆さんの立場だったら普通にそう思うだろう。
「あ、あの、ヴィンスさんっ」
「ヴィンス」
「ヴィ、ヴィンス……」
「どうした、アーヤ」
そんなに呼び方にこだわらなくてもいいのではないか。そして、希望通りに呼ばれたら嬉しそうに微笑むのをやめて欲しい。笑顔が心臓に悪い。発作起こしてぶっ倒れても私は悪くない。
「そろそろ、お部屋に戻りたいんですけど……」
これ以上お散歩を続けていたら、私の心臓が木っ端微塵に粉砕するに決まっている。そしてなにより、野次馬の皆さんの視線が痛い。そう思ってヴィンスさんに言えば、周囲に視線をやって少し思案してから困ったように笑われた。
「そうだな。今日はこのくらいにしておこう。アーヤを珍しがっているんだろうが、俺がその視線に耐えられない」
違う。絶対に困っていない。困ったように笑っているだけで、実際は楽しんでいるに違いない。私のこの、アラフォーにあるまじきウブさを。
私がスンッとなっていると、ヴィンスさんが手を差し出してくる。部屋に戻るためにエスコートを再開、ということなのだろう。手を取られてその腕に私の腕を絡められることも必死であるということを、ヴィンスさんは理解してくれるだろうか。不満と羞恥を込めてジッと見ていてもヴィンスさんが折れることは絶対にないので、私は大人しくエスコートを受けるしかなかった。
私がどうしてヴィンスさんのエスコートでお城の中を歩いていたのかというと、つい昨日のティフ様とのお茶会まで遡る。
ティフ様にマッケンジー公爵の義妹になったこととヴィンスさんの婚約者になったことをお祝いされたことから、話が弾んでしまったのだ。特にティフ様が、まるで少女のようにキャッキャと楽しそうに弾ませていた。まだ二十歳という年齢だからか、たとえ既婚者だとしてもそういう話が楽しいのだろう。
そのキャッキャとしたティフ様が、こう仰った。
『アーヤ様のお散歩ができる範囲が広がれば、ヴィンセント卿とお散歩の時間が増えますね』
その発言をティフ様がした時にはヴィンスさんは騎士団の方に呼ばれて不在で、ヴィンスさんを呼びに来たロドニーさんが代わりに護衛役になっていた。だからヴィンスさんの耳には入らない言葉のはずだった。けれど、お茶会にも付いて来てくれた優秀なお世話係のブランシュさんが伝えたのだろうと思う。もしかしてロドニーさんだろうか。ともかく、ヴィンスさんの耳に入ったらしく、お昼過ぎに私のスウィートルームへ顔を出したヴィンスさんが私をお散歩に連れ出した、というのがことの顛末である。
ヴィンスさんの決断力と実行力と行動力が凄まじい。流石は騎士団の副団長とも言うべきか、そういう部分が備わっていなければ今の地位にはいないのだろう。きっと裏の護衛役の方々の配置なども、すぐにパパっと決めてしまったに違いない。私の存在を公表する方向に進んでからしばらく経っているので、ガッチガチに固めなければならない城内の護衛もしっかり固まったのだろう。とはいえ、ヴィンスさんが私的に騎士団を使用している気がする。咎めることができるのはラルフお義兄様だと思うので、後で抗議のお手紙でもしたためよう。
「アーヤ様、ヴィンセント様とのお散歩は如何でしたか?」
ブランシュさんがお茶を淹れてくれる。柑橘類のフレーバーの、爽やかな紅茶だ。おやつのお菓子は、今日はスコーンだ。クリームの他にこちらも柑橘類のジャムが添えられていて、スコーンに付けてもいいが紅茶に溶かしても美味しいかもしれない。
ありがたく紅茶をいただきながらも、私は小さく溜息を吐く。
「明日もお散歩に連れて行ってくれるそうです」
「まあ、それはようございました。お時間も同じくらいでしょうか? 明日はわたくしはお休みをいただいておりますので、マリーネにきちんと引き継いでおきますね」
今日はマリーネさんがお休みなので、きっとお世話係の二人の日誌みたいなものに連絡事項として記載されるのだろう。午後からヴィンセント様がアーヤ様をお散歩に連れて行く予定、なんて書いてあるに違いない。
「それにしても、こんなに早く実行されるとは思いませんでしたわ。ヴィンセント様も、アーヤ様とゆっくりとお散歩がしたかったのですね」
はい、決定。ヴィンスさんにティフ様のお言葉を伝えたのは、ブランシュさんに決定だ。ジトッとした目をブランシュさんに向けるが、いつものにっこり笑顔で躱されるので効果はない。それが悔しくてムッとしてしまう。
「そうですね、副団長に伝えてよかったです」
「っロドニーさんだったの?! 伝えなくてもよかったのに!」
「え……? 申し訳ありません……よかれと思って副団長に伝えたのですが。アーヤさんはお嫌でしたか?」
困惑しているロドニーさんには悪いけれど、八つ当たりさせて貰う。私がどれだけあの野次馬さんたちの視線が恥ずかしかったか。私がどれだけヴィンスさんの存在に心臓をあの世に持って行かれそうになったか。
真っ赤になってロドニーさんを睨み付けていると、ブランシュさんが扉のノック音に気付いたようだった。ロドニーさんも慌てて扉へと向かい、私の睨みから逃れる。そうして顔をひょっこり覗かせたのは、イアンさんだった。
「お、よかった。アーヤいるな。いや、ヴィンスが戻って来たからいなかったら大問題なんだけどさ」
「どうかしたんですか?」
「んー……俺があんまり護衛できなくなったから、代わりと言っちゃなんだけど」
部屋に入って来るイアンさんに続いて、六人の騎士が入って来る。
「こいつら、ロドニーの直の部下。団長と副団長の命令で、アーヤと私的な会話は禁止ってことになってる」
そういうわけで名前も顔も覚えなくていいよ、とイアンさんが言うと、六人の騎士たちはそれぞれ敬礼をする。
私は六人の騎士たちを一人ずつ確認しながらも、過保護、という言葉が脳内で生まれる度に握り潰していた。ラルフお義兄様とヴィンスさんがなにを考えているのか、わかりたくはなかった。
義妹とはいえ、アラフォー。婚約者とはいえ、アラフォー。過保護に入念になにをしとるんじゃい、というツッコミを浴びせたいが、二人はこの場にはいないのでそうするしかできなかった。