絢子、転移する。1
自然豊かな方ではあるけれど、ド田舎というわけではない。コンビニは車で数分圏内に何軒かあるが、大規模な商業施設はない。全国展開のチェーン店は一店舗や二店舗はある。……出店しては潰れての繰り返しで、長く根付いているのは結局は地方のチェーン店だけれど。
そんな中途半端なところは、多分全国各地に存在しているだろう。だからこの地が特別におかしいとか珍しいとかではなく、至って普通の都会にも田舎にも属さない、どちらかと言えば田舎寄りの場所で、私は生きている。
私の職業は、地方チェーン店のスーパーの店員だ。主にレジ係。少しずつ過疎化している我が地元も例に漏れず高齢化社会で、お客さんの半分以上は高齢者と言っても過言ではない。若い親子連れも勿論いるけれど、少なくなった印象が強い。
お客さんは様々いるけれど、可愛いおじいちゃんおばあちゃんや小さなお子さん連れのお父さんやお母さんなんかは、存在だけで微笑ましく思う。おしゃべりが得意なマダムは時にはためになる知識を披露してくれたり、部活帰りの爽やかな学生が元気にありがとうと言ってくれると嬉しい。疲れた顔でお酒とおつまみを買っていく仕事帰りのお兄さんやお姉さんには、心の中でお疲れ様なんて思ったり。
いろんな人が利用するウチのスーパーでも、理不尽なお客さんは勿論存在する。初めから不遜な態度を取られたり、言葉尻を捕らえて言い掛かりをつけてきたり、商品への意味がわからないクレームとか、そういうのばかりだ。中には気持ち悪い行動を取る人だっているし、実害といえばお釣りを手渡す際にねっとりと手を触られたこともあった。あれはかなり気持ち悪くて、流石に店長に報告した。今度来店したら教えて、と怒ってくれたけれど、それからは来ていないからどこか別のお店を利用してるんだろう、多分。
あとは電話で名指しされたから応対したら、まったく存じ上げない人からだったこともある。名前を窺っても、もしもしと何度も言っても、電話の向こうでもじもじ……と埒が明かなくて、業務に支障が出ますので失礼しますと切ったこともあった。勿論店長に報告したけれど、それ以降は音沙汰なし。気持ち悪いことこの上ない。
私はただレジでピッてして支払い清算してありがとうございました~って気持ちよく送り出したいだけなのに、対面での接客は本当に難しい。色々な人がいるっていうのはわかっているけれど各個人に完璧に対応はできないから、私もそこは理解するしお客さん側も理解して欲しいなと思う。
それでも楽しくやっていれば問題ないんだろうけれど、やっぱりストレスというものは溜まるものだ。こういう人がいた~とか駄目な対応しちゃった~と同僚たちと話をして吐き出すだけでストレスが減るならいいのだが、そうじゃない場合もある。長年勤めていると、溜まりに溜まる物もある。
「……いっそ辞めた方がスッキリするかな」
十数年と働いていたら、そういうことも考えてしまう。考えては踏み止まって、今もこうして働いている。転職しないのは、単純に職がないからだ。こんな都会モドキで田舎モドキの地方じゃ、そもそもの求人が少ない。それに――
「あーあ。なんで資格とか取らなかったかなぁ。そしたらちょっとは有利だったのに」
車の免許くらいしか資格を持ってない私には、本当に、本っ当に、職がない。
医療事務だったら勤めながらでも資格を取れたりするらしいけれど、そもそも私に事務職ができるのかという話だ。こちとらスーパーのオバチャンしか経験ないから、未知数すぎて手が出ない。
思い切ってまったく違う職種をやってみるのもいいかもしれないけれど、そもそも面接が受からなかったらどうするのだ。いやスーパーに勤務したまま転職活動すればいいんだけど、どこも受からなかったら接客に影響出るんじゃないだろうか。だって私は、自他共に認めるほど顔に出やすいのだ。そのせいでクレーム受けたことだってあるのだ。露骨に嫌な顔されたなんて言われても、そりゃ嫌でしょう指をペロっと舐めてお札を出されたら。
「そういや今日も指ペロしたジジイがいたな……召されたらいいのに」
どこに、とは言わないけど召されたらいいのに。本当に。真面目に。
神様お願いします、と溜め息交じりに車を家の車庫に入れる。今日はお母さんが、ちょっといいお肉を買ったから今夜は牛丼ね、と言っていたから今日の仕事も頑張れたのだ。ちょっといいお値段の薄切りの牛肉で作る牛丼は、とてもいい。すき焼きとかではなく、牛丼だからこそ贅沢だと思わせてくれる。ビバちょっといいお肉の牛丼。
取り敢えずお風呂に入って、お母さんが作ったちょっといいお肉の牛丼を食べて、それから今日更新分の漫画をチェックして読んで、日課のアプリゲームをして。仕方ないから明日も定時通りの十一時に出勤してフルタイムで勤務してあげましょうかね、と玄関を開けたら、その瞬間に立ち眩みを覚えた。元々あんまり体が強くないから立ち眩みとはお友達なんだけれど、倒れそうになるくらい強いのは遠い過去以来だ。でもちょっとしたら復活して、あぁびっくりした、と思ったんだけれど。
もわっとした空気が肌に当たる。まるで……そう、温泉とか銭湯とかの扉を開けた時に感じる、湿度の高さだ。
いやいや、我が家のはずである。築三十年くらいの一戸建ての我が家だ。玄関開けたら温泉施設でしたってこと、あるわけがない。
「……はあ?」
そもそも我が家じゃなかった説だろうか。温泉施設に来ちゃった説の方だろうか。しかし、温泉施設は我が家とは逆方向の山の中だし、間違えるわけがない。それに、建物に入ってすぐに浴場ということは、ない。
大混乱で狼狽えていると、ザパーンという水の音が耳に届く。
――嘘でしょ、どこかもわかんない温泉施設に瞬間移動した上に誰かいるとか、ものすごーくピンチ過ぎない?
「……誰だ」
いよいよ詰んだ。声が明らかに男だ。せめて女性の声であって欲しかった。
意識が遠退きそうになっていると、湯煙が次第に薄くなる。その先には案の定、男性が湯船から出て身構えていた。綺麗な金髪と、すごく整った日本人にはない顔立ち。それから……よかった、腰に布を巻いてくれていた。全裸だったら流石に叫んでいた。
「えっと……あの、すいませんすぐに出て行きますけど、ちょっと確認したいことが。ここって四季の湯さんですか?」
私はそう訊ねたかったのだ。日本語がわかるようだし、でも訊ねたかった言葉の半分は多分言えたと思うけれど『ちょっと確認~』の『確認』くらいで途切れてしまった。
「うわ……うわあっ!」
……という野太い悲鳴を、浴びせられてしまったからだ。
そこで私は、いよいよ混乱が最高潮になる。
ちょいとお兄さん、本来なら叫ぶのは私の方じゃないのかい? いやこの場合はお兄さんが裸だから叫ぶ権利はお兄さんにあって私はお兄さんにとっては覗き趣味の変態女……つまり私は通報される? なにそれ無理。ワケわからん内に犯罪者になっちゃったの? お母さんお父さん、ごめんなさい。嫁も行かず孫の顔……はお兄ちゃんが見せてくれたからそっちで勘弁して貰って、実家暮らしでのんびり生きてるアラフォーの娘があれよという間に罪を犯してしまいましたよ。人生なにが起きるかわからないね。本当にごめん。
あとは……そうだな、職場だ。店長になんて言えばいいのだろう。今の店長、すごく優しくて従業員の気持ちを理解してくれて理不尽にも怒ってくれる歴代ナンバーワン店長なのに。できればずっとウチの店長でいて欲しい、絶対に異動しないでねって同僚たちと言ってるのに。清らかなものしか見て欲しくない人ナンバーワンなのに。
そんな店長に、知らない場所で知らないお兄さんのお風呂を覗き見しちゃいましたエヘヘ、って言うの? 控えめに言って無理。親には土下座したら許してくれるだろうって甘えがあるけれど、あの人畜無害な優しさの君の店長に軽蔑されるのは私の硝子のハートが粉々に砕け散る。
混乱の中でもせめてお兄さんを視界に入れないように背を向けると、ドタドタと浴場に何人か入って来る音がするではないか。
ウソ待ってちょっと言い訳をさせて。多分警備員とかだろうけど、捕まえるのまだ待って!
「ヴィンス、どうした!?」
「副団長、なにごとですか?!」
ええーん、待ってってば~!
焦っている私の目の前に現れたのは、漫画やアニメとかでよくある、騎士服みたいなのを着たお兄さんが二人だ。ここはなんかのコスプレ会場でもあるんかい、とツッコミを入れたい気持ちを抑え込んであわあわとしていると、そのお兄さん二人に両腕を取られてあっという間に床に押し付けられた。一瞬の出来事で声も出なかった。
「?! へ? え?」
「突然その女が現れてつい叫んでしまった」
「あー……ばっちり裸見られちゃったってヤツね、ご愁傷様」
「それ狙いのどこかのご令嬢でしょうか」
「罪に問えばどうとでもできるよ。身分が高ければできないかも、だけど」
えーと、お兄さんたちは一体なんの話をしてるのかな? 裸? ああ、見ちゃったよ。全裸じゃないけど見ちゃいましたね。ご令嬢? 私がご令嬢とかないわ。ただの庶民の独身実家住みアラフォーのオバチャンだわ。罪……罪ってあれでしょ、覗き見。これってなんの罪状が付くの? 軽犯罪法違反だっけ? 建造物侵入罪とか住居侵入罪とかも付いちゃう?
「俺を狙った暗殺者の可能性もある。とにかく俺は着替えるから、イアンは団長に報告、ロドニーはその女を独房に……オイ!」
暗殺者ってなに……私はしがないスーパーのレジのオバチャンですぅ……
多分、極度の緊張と不安と混乱。私はお兄さん二人に押さえつけられたまま、ぐったりと気を失ってしまった。