幕間:緩やかに忙しい日々に ―ヴィンセント・グレイアム
ドウェイン曰く、飲み込みが早いそうだ。一から十まで教えずとも察し、間違いに気付けば確認の質問をして来る。まったく知らないことは十分に聞いた上で自分の中で咀嚼し、それでもわからなければ質問するのだと。教え甲斐がある、とは作法を教えているブランシュも言っていた。自分もそうだが、この年齢ならば新たになにかを教わるのは苦労するだろう。これまでの経験が邪魔をするからだと考えているが、彼女は柔軟に対応できているらしい。
それは恐らく、なにもわからないこの世界で生きるためだ。極限状態であれば、喰らい付いてでも自分の物にするだろう。その姿勢は、純粋に美しい。尊敬できることだ。
「すごいね、アーヤ。お前さっきの聞いてた? 軽くだったけど周辺国の経済云々を習ってただろ。そしたら、じゃあプレスタン王国とはこういう関係なんですね、ってすぐにドウェインに言ってたよ」
「確かに理解が早い。軽くではなく、きちんと習えば今からでも高官になれるかもしれん」
「わー。お偉いさんが知ったらどうなるんだろう、怖ぇ~。護衛強化する? ロドニーを行ったり来たりさせるのそろそろやめて、アーヤの護衛専任にしようぜ」
「確かにな。書類を見るだけで胸焼けがしそうだ」
俺とイアンは今、俺が本来捌くべき書類の他にも騎士団に寄越された書類をほとんどすべて請け負っている。アヤコ嬢ことアーヤは主に部屋で勉強をしているため、暇を持て余さないようにという計らいだ。騎士団は元は体を動かす方が得意な者ばかりなので、ここぞとばかりに俺たちに押し付けているのかもしれないが。
「あ、これも団長案件だぜ。あの人、絶対にヴィンスを騎士団に残留させようとしてるよなあ」
ほら、と差し出された書類は、確かに騎士団の団長が決済しなければならない物だった。イアンの言う通り、こういう書類を目に触れさせどういう判断を下せばいいのか考えさせるために紛れ込ませているのだろう。少し考えた上で、丁寧に除けた。ラルフさんに突き返す書類は、今の分だけではない。
「この分じゃ、退団して領地に帰ることもできんな」
「休暇で帰って、そのまま爵位も領地も継承しちまえば?」
「父はそれでも構わんだろうがな。ラルフさんと、なにより陛下や王太子殿下が黙っていない」
「あとお偉いさん方とか、ご令嬢たちとか……お前、本当に人気者だな」
「まったく嬉しくない」
苦虫を噛み潰したような顔をすると、イアンはケラケラと笑う。この軽い調子は、幼い頃からずっと変わらないな。
俺はその内退団して辺境の領地に戻り、いい加減跡を継いで父に楽をさせねばならない。本来なら六年前にそうなるはずがこうしてずるずると副団長の座に就いているのは、俺の肩書きのせいだ。【英雄】になってしまったばかりに、国に請われて騎士団に所属したまま現在に至る。もう一つの肩書きが『騎士団長』ではないのが、俺のできる唯一の抵抗だった。そもそも、その肩書きはラルフさん以外に相応しい人物はいない。
「まあ、お前が帰る時は俺も一緒だからさ。俺の再就職先、グレイアム辺境騎士団だからよろしくな」
「ああ、引き続きよろしく頼む」
「その時はアーヤも連れて帰っちゃえば? さっきからお前、アーヤを見すぎ」
はい次はこれ、と驚き固まる俺にイアンが渡して来たのは、ドウェインからの報告書だった。
◇◇◇
彼女の勉強時間終了後、ドウェインを伴って騎士団詰め所にある俺の執務室へ訪れる。彼女の護衛はイアンとロドニーに任せ、処理した分の書類はついでに持って来た。あとでラルフさんに提出し、最終的な処理がなされるだろう。
「うーん、やっぱりそうだなぁ」
定位置の椅子に座った俺に近付いたり離れたりを何度か繰り返したドウェインは、報告書のことを言っているのだろう。
「アーヤがそばにいると、俺に近付いても魔力が吸われてるような感覚がないかもしれない、というヤツか」
「そう、それ。でも今はやっぱりゾワゾワするんだよね。気のせいかなって思ったけど、ここ何日も同じだと確定でいいのかもしれない」
「そういえば、数日前に俺に驚いていたな」
「アレほんとビックリしたんだから」
教えるのに熱中していたのか、俺が部屋に入って来たことさえ気付かなかったらしい。簡易的に作った執務用の机までは、彼女とドウェインが勉強しているそばを必ず通る。それ故に、普段のドウェインがまったく俺に気付かないなんてことはないはずなのに。
もっとも、通常なら気配を感知しないということはない。騎士である俺は勿論備わっているが、高位の魔導師であるドウェインにも気配感知ができないことはないのだ。ただ、俺に関しては例のゾワゾワを基準にしているらしく、感知の方を切っているらしい。
「厳密に言えばね、ヴィンスが近付くと段々とゾワゾワの感覚が強くなってくるんだよ。でもそれがない。だからこの前はビックリした。ということは、アーヤの魔力の流れがそうさせてるって考えてもいいかもしれない。つまり、解決方法があるのかもしれない!」
机をバンッと叩いてキラキラさせる目をこちらに向けられる。そんな目を向けられても、どうしろというのだ。
「お願い、ヴィンス。僕と君との仲じゃないか。同じ【英雄】仲間だよね。うんうん、仲間っていいよね。だからね、アーヤのことを研究していいか、王太子殿下やランドン宰相、あとラルフ様に一緒にお願いしよう!」
「却下だ」
「なんで! 僕が可愛くないの?!」
「お前が可愛いわけがないだろう。それに、彼女を研究するということは、それこそお偉い方がなにを言って来るかわからん。殿下の足を引っ張りたいのか」
ただでさえアーヤの存在は城内だけではあるが噂程度には広まっている。外に漏れ出ていないだけマシだが、ドウェインが彼女を研究対象にしたらどんな噂になるかわからない。次期国王は王太子殿下ただ一人だ。対抗馬はない。他に擁立できるような人物がいない分、弱味としてなにかしら握りたい連中の餌を作るわけにはいかないだろう。
そして、アーヤ自身にも危険が及ぶ可能性が今以上に高くなる。ドウェインの研究も、安全とは言い切れない。
三十も半ばの男が頬を膨らませても可愛くはない。ドウェインは口を尖らせるまでするが、俺には協力するつもりはない。
「そんなに研究したいなら、直接ラルフさんや殿下や宰相に言えばいいだろう。アーヤにも話を通せばいい。どうして俺を巻き込む」
「だって……同時にヴィンスも調べなきゃいけないと思うから、最初から協力して欲しいかなぁって」
「これまで散々ザワザワするとほざきながらも何度も協力させておいて、更に要求するのかお前は……!」
「……えへ」
頭痛がする。頭を抱えれば、治癒魔法掛けてあげようか、と言って来るので執務室から追い出してやった。治癒魔法で怪我以外を治せるものなら治してみろ。どうせならそちらの研究をしてくれ。
◇◇◇
「そういうわけだから、アーヤには気付かれないように研究することになったからよろしくね!」
目の前に突き出されるのは、許可証。王太子殿下の名前である『フェリクス・エヴァン・プレスタン』が記され、印璽までもあるので公式なものに違いない。
「お前……いつの間に……」
「この前、ここを追い出された足でラルフ様の所に直談判に行ったら、そのまま殿下の所に連れて行かれて、宰相とも合流。それからなんでかウチの師団長も呼ばれて。そんで、トントン拍子で許可証発行。すごい速さで正直僕も驚いてる」
「俺はお前の行動力に驚いている」
公式な許可証がある以上、ラルフさんも王太子殿下も宰相閣下も考えがあってドウェインの研究を許可したのだろう。俺がなにを言おうと覆ることはない。
「ともかく、この許可証があるから研究するよ。ヴィンスにも協力して貰うからよろしくね」
許可証をくるくると丸めて筒状にしたドウェインは、あと一週間程度で騎士団預かりから解放される。同時に研究棟への立ち入りもできるようになるので、それまでにアーヤの観察や魔力の流れの確認などをするのだろう。アーヤの勉強も取り敢えずは終わったので本当ならば今すぐにでも研究を始めたいのだろうが、諸々の調整のために待たなければならない。
「それにしても、アーヤが働きたいって言い出すなんてね。それで体力が多少付くならいいと思うけどさ、魔法も教えたいし」
「魔法はともかく、元の世界でもよく働いていたんだろう? ならばなにかしらしたいと思うようになるのは自然なことだ」
国王陛下に一切の件を任されている王太子殿下は、アーヤをどう扱うかまだ決めていない。どうなるのかわからない状態であれば、アーヤも生きるための行動に移したいのだろう。護衛する身としてはあまり出歩いて貰いたくはないが、ブランシュの提案に異を唱えられなくなった。騎士団の詰め所内であれば、誰かしらすぐに対応できるだろう。それならば彼女の一歩を純粋に応援できる。
ドウェインの騎士団預かり開放や研究開始日が一週間程度先なのは、この件での人員などの調整があるからだ。
「うーん、でもそれでまた違った影響が出ちゃったりするかなぁ……?」
「なんの話だ?」
懸念することは確かにあるだろうが、なにかしら影響があるとすればお偉い方関係か。
俺が思案していると、ドウェインは体がゾワゾワするのか顔を顰めたまま、耳打ちするように小さな声を出す。
「あのね、許可されてるからヴィンスには教えるけど、陛下の病が綺麗に消えた、って話なんだって。これってアーヤがいる影響なんじゃないかな」
だから研究の許可が出たんだよ。そう言ったドウェインは、ラルフさんからも騎士たちの怪我の頻度が少なくなったことを教えてくれた。
後者は知っている。ラルフさんから最近は大きな怪我を負う者が少ないと伝えられていた。たとえ魔物のいる森へ演習や討伐に向かっても、なんとか自力で動ける程度で帰還するのだと。ただ、自己や危機の管理ができていると判断すれば、そうだろうと流せることだ。アーヤの影響云々の話にするには、まだ弱い。
しかし、前者が懸念通りのことならば。
「だとすればアーヤの……【星の渡り人】の存在を、民に秘匿し続けるのは厳しいかもしれないな」
未だに世界には脅威は訪れていない。それならばなんのために【星の渡り人】が現れたのか、民が混乱するやもしれない。いたずらに召喚したのかと、事実に反することで王家を凶弾する者も出て来るだろう。
そうなれば、この世界は。……否、アーヤのいるこの国は。
――彼女自身は。