絢子、職を得る。3
「まずは先触れを出していただきたいのですが」
「申し訳ありませんわ、ヴィンセント卿。わたくしとてそうしたかったのですが、殿下が構わないと申しましたの」
「またあの方は……妃殿下も妃殿下です。殿下の言葉通りにしてはいけません」
「そうね、今度からそうするわ」
額に手を当てるヴィンセントさんに微笑むこの高貴なお方が、王太子様のお妃様だ。ブランシュさん以上にふわふわ系で、柔らかな色味のブロンドの髪もふわふわウェーブで大変可愛らしい。それでいて品がいいのがそこら中から滲み出ていて、正真正銘お姫様という感じの印象を受ける。
私がついヴィンセントさんの後ろからじっと見詰めてしまえば、視線に気付いたのかこちらを見られてしまった。しまった、不躾だったか。慌ててスカートを抓んでお辞儀をすると、うふふ、と軽やかな笑い声が聞こえる。笑い声も大変可愛らしい。
「貴女のことは王太子殿下から伺っておりますわ。わたくしはフェリクス王太子殿下の妃、ティファニー・フェリス・プレスタンと申します」
「あ、えっと、塚原絢子と申します。絢子が名前で、塚原が苗字です。このような姿で申し訳ありません」
もう一度お辞儀をすると、可愛らしい笑い声がまた聞こえて来た。
「わたくしが仕事着のままでよいと申したのです。謝罪の必要はございませんわ。それよりも突然呼び出したのはこちらの方。非があるのはわたくしです。お詫びと言ってはなんですが、とっておきのお茶とお菓子をご用意いたしましたの。是非ご賞味くださいな」
妃殿下にそう言われはしたものの、応じていいのかわからないのでついついブランシュさんを見てしまう。すると小さな頷きを一つといつもの安心する笑顔を向けてくれるので、席に案内してくれるナディアさんに促されるままに椅子に座った。
ただ椅子を引かれて座るのも粗相がないようにと、ド緊張だったからすごく不格好な着席だったと思う。そんな私を微笑ましいものを見るような、例えるなら幼い子供を見守るような目で皆さんが見て来るので、いたたまれない気持ちで一杯になる。こういうお作法は生まれたてのヒヨコというより生みたての卵だからそういう見守りは大変有難いんだけれど、正直キツイ。自分がそれなりに人生経験のあるアラフォーのオバチャンだから、かもしれないけれど。
「粗相があれば申し訳ありません。慣れないことばかりでなにが正解か判断に迷うのです」
「ええ、殿下から教えていただいておりますわ。ヴィンセント卿を始め騎士団の方々や魔導師団のドウェイン師からの報告を、わたくしにも少しだけ。大変勤勉で、お仕事もご自分の意志で始められたのだと。貴女の境遇ならばすべてに於いて覚悟や勇気が必要でしょうに……」
どんな報告をされているのか非常に気になる。そしてこの可愛らしい王太子妃様がどんなことを教えて貰ってるかも、気になって仕方ない。評価ってやっぱり気になるものだ。けれどそれ以上に、私の身に起こったことを思ってくれたことは嬉しい。
そうなのだ。考えないようにしているけれど、どうしようもないなら考えても仕方ないと押し込めて、前を向くしかないからこの世界を知らなきゃいけない。だから勉強を頑張った。生きていくための糧を得なければならない。だから無理を言って仕事を始めた。私の持つスキルはレジ業務だけだし、それがこの世界で役に立つとも思えない。他にもできることが増えたら、このままお城に就職できるならそうさせて欲しいと、いつかのタイミングで言うつもりだ。
ナディアさんが私の前にお茶を用意してくれた。美味しそうなケーキもある。こういうのも、普段の食事とかも、なにもしていない私が受けていいものではない。仕事をさせて貰っているけれど、給金を貰えるほどのことはまだしていないと思っている。
ぽろり、思わず涙が流れた。一粒の雫が頬を伝った。それ以上は流れなかったけれど、目の前の王太子妃様には見えてしまっただろう。
「まあたいへん。ナディア、このハンカチをアヤコ様に渡して頂戴」
王太子妃様のハンカチを、ナディアさんが渡してくれる。つい受け取ってしまったけれど、それを汚すのは憚らる。綺麗な刺繍が施してあって高級ブランド品みたいだから、余計に。
どうせ一滴しか流れなかったし指で拭っていると、そっと背中が温かくなった。背後に控えていたブランシュさんが、手を置いて撫でてくれたのだ。大丈夫の意味を込めて笑い掛けるけど、どうやらヘタクソだったみたいで心配そうな顔をされてしまう。
「アーヤ様、ご無理はなさらないでくださいませ」
「大丈夫ですって! ごめんなさい、ちょっと気が緩んでしまって……でもほら、どうもありませんし平気ですし! あ、王太子妃様、ハンカチありがとうございます。洗ってお返しいたしますね」
「それは構わないのだけれど……配慮が足りませんでしたね。ヴィンセント卿の言う通り、きちんと先触れを出せばよかったわ」
しゅんとしてしまった王太子妃様の様子が、大変申し訳ないけど本当に可愛い。あのちょっと腹黒っぽい王太子様と、どうして結婚したのだろうか。やはり政略結婚だろうか。
「いえいえ、本当にお気遣いなく」
「わたくし、アヤコ様とお友達になりたかったのです」
「へ?」
お友達? 突然なにを言っているのだろう、この高貴なお方は。
「殿下から貴女のことを耳にして、素敵な方なのだろうと思ったのです。同時に、なにもかもが突然でさぞや困惑していらっしゃるだろうと。そばには護衛のヴィンセント卿たちや世話係としてブランシュがいるかもしれませんが、もう少しだけ交流の幅を広げてみたらいかがかと。わたくしの身分もあり難しいかもしれませんが、心安らぐ場所が増えたらば……と、殿下にお伝えしたのです」
そんなことを言われたらどうする。受け入れるしかないだろう。
というか、本当にこの人は王太子妃殿下なのだろうか。そういう地位の人がこんなに純粋でいていいものなのだろうか。それとも私に見せているのはすべて演技なのか。私は一応聖女だけれど、私に近付いてもなにも得になることはないのに……多分。
ああ、でもお偉いさん方というか古狸さんたちがいるという話だから、そういう方々とこの王太子妃様が繋がっている可能性があるかもしれない。こんなに可愛らしく純粋なお姫様なのだ、そうではないことを祈りたいが。
ちらり、こういう時はブランシュさん頼みだ。今回はヴィンセントさんにもご協力を得よう。すると二人とも大丈夫だというような表情で頷いたから、私はこの王太子妃様を受け入れる覚悟を決める。駄目だったなら、止めてくれるだろう。
「お心を砕いていただき、ありがとうございます。この短い時間で、王太子妃様が私に寄り添ってくださっていることは十分に伝わりました。私でよろしければ、是非お友達になってください」
すると、ぱあっと花が開いたような、まるで太陽のような飛び切りの笑顔を見せてくれた。
本当に本当に、この人はこの国の王太子様のお妃様なのか。まるで小さな女の子みたいではないか。これが演技とは思えない。いいや、思いたくない。少しはしゃぎ過ぎてナディアさんに咎められても、うふふ、と笑って喜びを大爆発させている姿を、私は眩しい目で見た。私は私が下した決断に、胸を張る。
冷めてしまったお茶を淹れ直して貰い、王太子妃様もとい、ティファニー様でもなく……ええと、ティフ様、アーヤ様の仲になった私たちのお茶会は、緊張しつつも楽しく終わった。
なんだかふわふわする気持ちのまま、騎士団詰め所のヴィンセントさんの執務室に戻って来る。
時刻はそろそろ仕事の終了時間だ。いつもは物足りないけど、今日はイレギュラーなことが起こったので疲労困憊だ。体に変な力が入ってたみたいで、なんだか全身が痛い気がする。
「あの方の印象は見たままの通りだ。普段は王太子妃然となさっているが、素顔はあのように幼さが際立つ」
「等身大でアーヤ様との対面を果たしたかったのでしょう。わたくしも久し振りにあのような妃殿下を拝見しましたわ」
へえ。じゃあ懸念することなく、これからもお友達でいていいんだ。
ふわふわ、私はヴィンセントさんとブランシュさんの会話を聞いていたはずなのに、ふわふわ、ヴィンセントさんに驚いた顔をされ、ふわふわ、ブランシュさんにも慌てた顔をされてしまった。
ふわふわ、なんだか体が熱いような。
どうやら私は、疲労とストレスとが原因かもしれない高熱を出したらしい。元々あんまり体は強い方じゃないから、この世界に来て約一か月もよく持った方だと、押し込められたベッドの中で自分自身を褒めた。