ミッション
「お兄ちゃん――」
少女が心配そうに、横たわる俺を見下ろしている。
「……お帰り」
彼女はずっと繋いでいた手を、ぎゅっと握りしめる。
「ただいま。……心配かけたな」
俺は手を握り返す。
紬は軽く首を横に振る。
「信じていたから……。きっと還って来るって。お兄ちゃんなら、たとえ神様にだって負けないって。……信じていたから」
これは……。この信頼を裏切る訳にはいかないな。
「当たり前だろ。俺を誰だと思っている。『大道寺 紬』の兄ちゃんだぞ。『大道寺 紬』の名に懸けて、負ける訳がない!」
お前の兄ちゃんで在る限り、俺は無敵だ。
紬は小さく頷き、『うんっ』と応えた。
俺はさっき迄の出来事を、かいつまんで伝えた。
「……ホントに神様と喧嘩してきたんだ」
紬は半ば呆れた顔をしていた。
いや、こっちも好きこのんで神様と事を構えた訳じゃないからな。やむを得ずです。
「でもそれで、殿倉の “鎖“ は外せたんだよね。自由になれたんだよね」
おそるおそる、紬は訊ねる。
「ああ。だが本当に自由になるのは、これからだ。今から10時間後、今夜深夜、この館から脱出する!」
今夜、アメリカ軍がビラを撒く。明日には空襲がある。
逃げるなら、今日だ。
爆弾が投下される中逃げるのは、危険すぎる。
「メアちゃんと静さんは……」
「もちろん一緒に逃げる。そうじゃなきゃ、意味がない」
当然だ。俺たちは家族だ。
しかし紬は俺の言葉に、不安そうな表情を見せる。
「一緒に行ってくれるかな……。メアちゃん、お兄ちゃんが亜夢美と婚約したと思っているんでしょう」
俺は『うっ』と言葉を詰まらす。
そうだよな。あいつの性格上、身を引いて、ここに残ると言いかねない。
俺は、救いを求める。
「なに? その縋るような、子犬みたいな目は!」
明日香は不機嫌なオーラを隠そうともせず、冷たい目で俺を睨みつける。
「振った女に、好きな女への取り成しを頼むなんて、どこの鬼畜?」
女子はいつも正論を言う。
「だって、しょうがないじゃないか。人目のあるこの時間帯に、俺が見つからずに行ける訳ないし、行けるとしたら、お前たちしかいないんだから」
俺は涙目で懇願する。
「……最初に私たちに事情を説明させて、少しでも怒りを鎮めて、それから登場しようという気持ちが、見え隠れしているんですけど」
さすが作家。行間を読むのは、お手の物。
「いや。そんな気持ちがあるのは否定しないけど、それはそれ。お前に頼みたい一番の理由は、純粋に脱出を成功させたいからだ。メアたちを、ここに置いておく訳にはいかない。空襲も迫っていて、安全な場所に避難させたい。彼女たちを、助けたいんだ!」
これが偽らざる本心。まあ、100パーセントとは言わないが。
明日香は『はぁ――』と大きな溜息を吐く。
「……貸し、ひとつ。いい加減返さないと、負債は貯まる一方よ」
もはや俺は、明日香に頭が上がらなくなっているのではないだろうか。
平身低頭して、 “八の倉“ に向かう明日香を見送った。
明日香が帰って来た。沈痛な面持ちで。
そして静かに報告をする。
「静さんは “八の倉“ に居た。メアさんは…………昨日の夜から帰っていない。現在の所在は……不明」
メアが怒り狂っている、悲しみに暮れている。そんな事態は覚悟していた。
だがこれは……予想外だった。
「経緯を……教えてくれるか……」
俺は爪を掌に食い込ませ、努めて冷静に訊ねる。
「静さんが言うには、昨日の夕方4時頃、相馬 聡美がやって来た。『これから亜夢美お嬢さまと、勇哉さんの婚約発表会があります。見に行かれますか?」と訊ねたそうよ。静さんは『行く必要はありません。そんな事は有り得ません』と突っぱねたみたい」
静さんらしい。頼もしい。
「けど聡美はこう反論した。『人の思いは変わるもの。勇哉さんの幸せを邪魔するおつもりですか? 別に祝福しろとは申しません。その場面を見るだけ見て下さい。現実を見て、より良い道を探るのが、人としての在り方ではないですか』と」
悪魔はいつも、美しい言葉で着飾る。
「そしてこうも言ったみたい。『私たちは勇哉さんに、無理強いする事は出来ません。もし勇哉さんがその会に出席するというのなら、それは勇哉さんの意思です。私は亜夢美さまに、幸せな結婚をして頂きたいだけです。あなた方にそれを邪魔して貰いたくないんです』と。……静さんは最後まで反対していた。けどメアさんは、『勇哉の気持ちを確かめたい。私も勇哉の幸せだけを、願っている』……そう言って、行く事を了承した」
ああ、メアだ。――メアの言いそうなことだ。
メアはどんな気持ちだったのだろう。
会場に入れてもらえず、庭から窓越しに、愛する人が他の女と永遠の愛を誓い、口づけし、それをまざまざと見せつけられるのは。
俺は――なんてことをしたんだろう。どれだけ彼女を傷つけたのだろう。
『お・し・あ・わ・せ・に』――涙を堪え、切ない微笑みで語る、彼女の表情が忘れられない。
罪深い、自分を呪った。
思慮不足の、自分を蔑んだ。
自分のすべてが、許せなかった。
『ダン!』 鈍い音が、響く。
俺はしゃがみ込み、拳を握り、床に打ち付けた。
何度も何度も……何度も。
手の甲の皮は裂け、血に塗れる。床も赤く染まる。
それでも俺は、腕を振り下ろす事を止めれなかった。
痺れるような痛みも、捲れる皮の苦痛も、俺にとっては必要だった。
そんな俺に、紬が呼びかける。
「自分を責めるのは、その位にしておきな。その後悔は、誰のため? メアちゃんへの罪悪感? 罪の苦しみから逃れる贖罪? メアちゃんの為なら、こんな所で幾らやっても意味が無い。メアちゃんのいる所で、面と向かって謝らなきゃ。自分の為なら、程々にしておかないと。その苦しみも、大事に取って置いた方がいいよ。そうしないとメアちゃんに会った時、謝罪の気持ちが伝わらない。けっこう敏感なんだよ、女の子は、そういうとこ」
……『紬ばあちゃん』だ。やっぱりこいつは『紬ばあちゃん』だ。幼いながらも『紬ばあちゃん』だ。よくこうして、叱られた。
「ん? どうしたの? 変な顔をして?」
紬は怪訝そうな顔をする。
「いや。いい『おばあちゃん』になるだろうな、と思って……」
俺の言葉に、紬は眉を寄せる。
「なぜに『おばあちゃん』? 『お嫁さん』や『お母さん』をすっ飛ばして」
ジト目で紬が聞いてくる。
「……なんとなく、イメージが湧いて来て」
実物を見てしまっているからな。
「……お兄ちゃんは、 “デリカシー“ と云う物を学ぼうか。あと、女性に年齢の話は地雷だと云う事も」
明日香と鈴が、苦笑いをしている。俺と紬、両方の言い分が解るのだろう。
空気が少し、和らいだ。
「時間もあまり無い。今夜の打ち合わせをする」
俺は立ち直り、未来を向く。
「俺と紬は、静さんと合流して、殿倉邸を脱出する。メアのことは……その後で所在を確認し、救出する。……もう一度聞くが、メアはこの殿倉邸には、いないんだよな」
方針を確認する。そして一縷の望みを託し、最後の質問をする。
「それは間違いないわ。何度も、隅々まで調べた。ここに、メアさんは、いない」
明確に、迷いなく、明日香は答える。
「そうか……。だったら、俺たちが行動の自由を得る事が先決だ。まごまごしてたら、明日には空襲。早くメアを見つけて、助け出す!」
一度に全てを掴む事は出来ない。
欲張りは、何も得られない。
「プランA、B、C、D、E、F、G…………、どれを使うの?」
みっちり書き込んだ作戦案を見ながら、明日香が尋ねる。
敵の手に渡ってはいけないので、明日香に預けていた。
「ぜんぶ、廃棄。……新たなプランを作る」
明日香から紙を取り、火を付け、燃やす。
もうこれは、必要ない。
「いまさら? この期に及んで?」
質問というより、詰問だ。
あと数時間というのに作戦変更をするなんて、正気の沙汰ではない。
「俺の記憶は読まれていた。ならば、これまで立案した作戦はバレている可能性がある。それを使うのは、リスクがある」
優れた作戦も相手に知られたら、カウンターのいい的だ。
「なあに、ゼロから作る訳じゃない。所々は元々の作戦を使う。あと半日だ。新たな資材を用意するのも、大変だろうからな」
怜司の、『いい加減にして下さい』と怒りに満ちた顔が、目に浮かぶ。
俺は急いで走り書きをし、その紙を鈴に手渡す。
「これを怜司に届けてくれ。そしてお前は、怜司たちに協力してくれ」
鈴は渡された紙に目を通し、顔を顰める。
「……マジ、これ? これをするつもり? ……なんちゅう傍迷惑な」
予想通りの反応が返って来た。多分怜司も、同じような顔をするだろう。
「使えるものは、何でも使う。敵でも味方でも、関係ない」
俺は、吹っ切った。
この際だ。神でも悪魔でも使ってやる。
「あなた、歴史の改変を怖れてなかった? 大丈夫なの、これ」
不安そうな口調で、明日香が問う。
「歴史の修正力が、なんとかしてくれるだろう。最悪、俺が消えるだけだ」
今更、自分だけが安全地帯に居ようとは思っていない。そんなものより、もっと大切なものがあるんだ。
「……わかった。でもこれだけは覚えておいて。あなたが消失する事は、自分が死ぬことよりも “つらい“ と思う人がいる事を」
明日香が、身につまされるような口ぶりで訴えかける。
誰のことを言っているのだろう。明日香か、鈴か、それともメアか。……多分、ぜんぶだろう。
「わかった。俺の命は自分一人のものでないこと、肝に銘じる」
俺は、自分の重さを実感する。
明日香はニコッと笑う。意が伝わったと、満足そうに。
「よし。じゃあ私は静さんの所に行って、説明をしてくる。あんたは怜司くんの所に行って、作戦を伝えて、手伝ってきて」
明日香は心が晴れたように、明るい表情で指示を出す。
出された鈴は、嫌そうな曇った顔をする。
「え~。私、そっち? やだなー。怜司の奴、絶対文句言ってくる。代ってよ~。私、静さんの方がいい~」
不満そうな声で、明日香に泣きつく。
「わがまま言わないの。技術的な事で、あなたの力が要るでしょ。静さんの方が終わったら、私も駆け付けるから」
不承不承、鈴は了解する。
『有能な者は、大変だ――』とおどけながら。
歴史の波が、打ち寄せて来る。
俺たち卑小な人間に、それを撥ね返す力は無い。
だがその波に乗り、やり過ごし、望むべき未来を手に入れる事は、出来る。
そんなちっぽけな奇跡を、俺たちは起こそうとしていた。
いよいよXデーです。この作品はなるべく史実に寄せていますが、あくまでフィクションであり、現実とは違う所がある事、ご了承下さい。
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