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暗い、暗い、闇のなかを、俺たちは落ちて行く。深く、深く、……深く。


闇のなかに、輝く球体があった。

ぼんやりと、頼りなく、光を放っていた。

周りに太陽は無く、兄弟となる星もなかった。

孤独に(そら)に浮かび迷う、惑星がそこにあった。

俺たちはそこに、舞い降りる。彷徨(さまよ)う虫が灯りに吸い寄せられるように、(あらが)(がた)く……。


あおい、星だった。

青く広がる空。

碧く輝く海。

蒼く茂る大地。

生命(いのち)に、喜びに満ちていた。


俺たちは大海に浮ぶ小さな島に、引き寄せられるように、降り立つ。


(ゆた)かな、(もり)だった。

鳥がさえずり、虫が鳴く。自然の営みに、輝いていた。

そこは一つの、神域だった。



そこに一際(ひときわ)、目を引く物があった。

巨大な、滝だった。

滝というより、瀑布(ばくふ)だった。


空を押しのけ、(そび)え立つ崖。

その崖から、轟々(ごうごう)と大量の水が流れ落ちる。

その水は、常ならぬ “気“ を(まと)っていた。


流れ落ちた水は大河となり、巨大な龍のように地を這っていた。

俺たちは川に近づく。

龍はその水面(みなも)に日の光を浴び、キラキラと鱗を輝かす。

綺麗だった。美しかった。……だがそこに、異様が混じっていた。



水面(みなも)の一粒一粒に、写真が貼り付けられたみたいに、フィルムのコマのように、躍動する少年少女が映されていた。

メアだった。紬だった。雄兵郎(おべろう)だった。千多(ちた)ちゃんだった。

飛鳥山で暮らす、俺たちだった。

ここは、 “記憶の川“ か。



「どうやら、目的地に辿り付けたみたいね」


明日香がほっとした表情で、水面(みなも)を眺める。


「それはいいんだけど、どっちに行くの?」


鈴が手を目の前にかざし、滝を見ながら訊ねる。

滝は、二つあった。


反対方向から二つの川が流れ込み、崖を落ち、大きな泉で一つとなった。

(あわ)さった川はより大きな流れとなり、大地を走る。


「……水が、教えてくれるわ」


明日香は小さく、そう呟く。

そして水飛沫をあげ、泡立つ滝へと歩を進める。



そこは、(もや)がかかった世界だった。

打ちつけられ、砕け、舞い上がった水の粉が、世界を覆っていた。

ぼんやりとした世界だった。

だがその水滴が巨大なスクリーンとなり、ある映像を流していた。




『ごめん、私のせいだ。私が何かしちゃったんだ。私が何か、お婆さまを追い詰めることを、しちゃったんだ……』


泣き崩れる鈴、それを抱きしめる明日香。

ICU室の前で立ち尽くす俺たち。

そして続く、轟音と振動。

……これは、あの日の事だ。



「こっちは、 “悠真“ の記憶みたいね。あっちに行くわよ」


明日香は(きびす)を返し、もう一つの滝へと向かう。

そこには、違う光景が映し出されていた。



『御手洗に行くから、ちょっと待ってて』 そう言いって紬は病院の中に消えてゆく。

丘の上から港を眺める俺の目に、敵機の群れが飛び込んで来た。

爆撃音と、もうもうと立ち昇る煙が、死神の襲来を告げる。




「見つけた……。 “勇哉“ の記憶は、こっちね」


喜ぶでも誇るでもなく、痛ましそうに、明日香は言う。



「これって、どういう事なの? ユマは、違う記憶があるって云う事なの?」


戸惑うように、鈴は訊ねる。


「『違う記憶がある』って言うか、『二つの記憶が(あわ)さってる』って言う方が適切かもしれないわね。源流は違えど、もはや “悠真“ と “勇哉“ は、同じ存在よ」


当人の意見は無視して、分析が進められる。


「混合比率は、どうなっているの?」


鈴らしい質問が投げかけられる。


「数値化して考えるのは、およしなさい。概念的(がいねんてき)に捉えて。じゃないと、こんな非現実的な出来事、やってらんないわよ」


はぁっと溜息をつきながら、明日香は零す。

『うっし!』と鈴は両手で自分の頬を叩く。


「よっし、考察は終わり。行っくよ――!」


鈴は明るく声をあげ、ひょいひょいと崖を登って行く。

俺と明日香は苦笑をし、鈴に続いた。






崖を登り、川を(さかのぼ)って行く。

水面(みなも)に、思い出がキラキラと輝いていた。




『死んでも私は離れない。魂となっても、ずっとそばにいる。生まれ変わっても、また巡り会う。永遠に、離れない』

父を亡くして失意に沈む俺に、そう誓い、口づけしてくれた少女。




『私が―― “マリアさま“ ?  “飛鳥山の鬼“ の、この私が?』

“メア“ という名前を贈られ、涙する少女。

『メア――――――っ』

その名を贈られ、両手を高く掲げ、歓喜の雄叫びをあげ、幸せそうな顔をする少女。




『わたし、お母さんが死んだら、生きていけない。そんな世界、考えたくもない』

『あなたも妹さんが死んだら、自分がどうなると思う?』

『ごめんね、変な事を言って。縁起でもないよね。考えたくもないよね』

『私たち、半端者だね。一人で生きられない、情けない奴だね』

愛する者の “死“ に怯え、涙を流し、震える少女。


『妹さん、治るといいね』

そんな恐怖の中、(おのの)く心を抑え、思いやりを見せる少女。




『お祈りしてくれるのか、紬のために』

『ついでよ、ついで。一人より二人のほうが、声が大きくなって届きやすいでしょ。 “ここのお地蔵様、ご利益ごりやくなかった“ ってケチつけられるの、嫌だからね』

不器用な優しさを見せる少女。




すべてが、輝いていた。


「妬けるわね…………」


水面(みなも)の光景を見つめる俺に、明日香はボソッと呟いた。

聴かせるでもなく、伝えるでもなく、ただ零した。




俺たちは更に川の流れを(さかのぼ)る。

水面(みなも)に映る俺は、どんどん幼くなっていった。

メアと出会った日、父と別れた日、紬が生まれた日を過ぎ、記憶も不確かな日々へと移っていった。


そして遂に辿り着いた。

三歳の皐月(さつき)の、『あの日』に。




俺と、黒髪の少女が、夕闇の官庁街を駆けていた。

多くの苦難を乗り越え、走っていた。

使命感と誇りを胸に。

そして目的は、達成される。



『首相官邸に、拳銃を持った男たちが押し入りました。 “総理はどこだ“ と叫んでいました!』


二人の子どもが、荘厳なホテルのロビーで声を張り上げる。


……あれは、俺だ。幼い日の俺だ。

あの日の空気、匂いが鮮やかに蘇って来る。

実感した。あの日、俺は、ここに居た。



『……頑張ったな。よくやった。あとは私たちに任せろ。お前は傷の治療をしろ。お前は私の――誇りだ』


懐かしい、忘れかけていた声が呼びかける。

俺は思わず振り向く。


大道寺(だいどうじ) 直輝(なおき)“ ――父さんが、小さな俺に優しく声をかけていた。

幼い俺は、わんわんと泣き出す。これまで抑えていた感情が、決壊したかのように。

成長した俺も、ぽろぽろと、とめどなく涙を流す。懐かしさと、寂しさと、切なさが、混じり合った涙だった。


亜夢美が、幼い俺を後ろからぎゅっと抱きしめる。そして一緒に、泣いた。

二人の涙は、同じ色をしていた。

他の誰にも解りえない、二人だけの色だった。


あの理不尽ともいえる暴力の嵐。

轟く銃声、燻る硝煙の匂い。

世界を染め上げる、血の赤い色。

世界の終わりを思わせる漆黒の闇。

空より襲いかかる、肉をついばむ鳥の群れ。


それらを乗り越え、祝福するように照らし出される、清らかな月の光。

『ずっと、一緒だよ』――交わされた、救いとも云える誓い。


(おび)え、(おそ)れ、苦しみ、その先にやっと辿り着いた、この祝福の地。


誰にも解らないだろう。

この当たり前の日常が、いかに危うく、掛け替えのない物か。

俺たち以外には。


俺たちは本能の赴くまま、互いに抱き合う。

離れていることが、耐え難かった。

ひとつに、溶け合いたかった。


腕を互いの背中に回す。

ぎゅっと抱きしめ、胸を押しつけ合う。

脚を絡め、ひとつとなる。

僅かな隙間も、許せなかった。


そして互いの目を見つめ合う。

遠い! もっと近くに。

顔を、近づける。

額がくっつく、鼻が擦れる。

そして……唇が重なった。


幼い二人が、その行為の意味を知っていた訳ではない。

ただ凍える者が身を寄せるように、自然と引き寄せられた。


『ひとつになりたい』――その渇望は、なおも(たかぶ)る。


亜夢美の口から、舌が伸びて来る。

柔らかく、熱い舌が、俺の口内を動き回った。

そして『見ーつけた』と囁くように、彼女の舌は俺の舌と絡みあう。

俺たちは求め合い、(むさぼ)り合った。


カシャカシャと、カメラのシャッター音が響く。

薄く開けた目に、俺たちに向けられるカメラレンズの群れが映る。

そのシャッターの鳴き声が、先ほど襲いかかって来た死神たちの咆哮に重なった。



『ずっと、一緒だよ』


彼女は口を離し、そう呟く。

コクンと、幼い俺は頷く。その意味も知らずに。


その瞬間、彼女の全身から無数の白い糸が伸びて来た。

何十何百という、ぐにゅぐにゅと(うごめ)く絹糸だった。


糸は、俺の全身を縛り付けた。

動けない、声が出せない。俺は救いを求め、ロビーにいる大人たちに目くばせをする。


誰も、気が付かない。

大人たちは、ニコニコと笑っていた。

微笑ましいものを見つめる様な、優しい目をしていた。

見えていないのか、この化物が!

俺は愕然とした。


『よそ見をしないで。私だけを見て』


亜夢美の声は、情熱的で、……空恐ろしかった。


彼女は再び口づけをする。

温かい舌が、這って来た。

一緒に、シュルシュルと糸が入って来る。

快楽と嗚咽が、交互に襲い掛かる。


糸は俺の口内を一通り撫でまわすと、全身へと広がって行った。

喉を通り、血管を通り、身体中くまなく広がって行く。

俺の躰が、彼女の糸に(おか)された。


全身の力が抜けて行く。

周りでは、万雷の拍手が鳴り響いている。まるで葬送の鐘のようだ。

俺の意識は、遠のいて行く。

(かす)む視界の中、亜夢美は俺に微笑んでいた。


『これから、ずっと一緒だよ。私たちは、ひとつになったんだから』


嬉しそうに、そう言った。

無邪気な、少女の貌で。



俺の躰に、当時の感覚が去来する。

まるで目の前の幼い俺と、躰が繋がったように。




グロテスクな、おぞましい場面が繰り広げていた。

俺たちは吐き気を抑え、それを眺めていた。


「ユマ…………。この事、すっかり忘れていたの?」


鈴が気遣うように訊ねて来る。その顔は、蒼白だ。


「ああ。だが、いま思い出した。これは、本当にあった物語だ、現実だ」


ラブストーリーとかじゃない。ホラーだ。悪魔憑き(エクソシスト)だ。


「あれは一体、なんだ? 亜夢美に憑りついている、アレは?」


俺は問いかける。答えを求めて言った訳ではない。ただ、言わずにいられなかった。まるで悲鳴を上げるみたいに。


「 “オシラ様“ でしょうね、多分」


明日香が俺を見ず、その光景に目を奪われたまま、答える。

その表情は怒ったようでもあり、嘆いているようでもあり、哀れんでいるようでもあった。



「 “家の神“ であり、 “農業の神“ でもあり、 “(かいこ)の神“ ―― “蚕女(さんじょ)“ でもある神。殿倉家では “オシラ様“ を、(あつ)(まつ)っていたと記録にあったわ」


感情を押し殺すような、静かな声だった。


「なんとか出来ないの? あいつを勇哉から引き剥がせないの?」


鈴は我慢の限界を超えたような、金切り声をあげる。


「これは今起こっている事じゃない。過去の記憶よ。映像記録をどういじっても、過去の現実には作用しない……」


無力感に苛まれるように、明日香は呟いた。悔しそうに。




幼き “勇哉“ の魂魄(こんぱく)が、白き神に(むさぼ)り喰われていた。

俺たちは、それをじっと見守っていた。



(こん)は天へ昇り、(はく)は地へ還る。せめてこの(はく)は、愛し子の許に届けようぞ』


突然、天からそんな声が聴こえてきた。

無数の糸が降り注ぎ、隙間なく水面(みなも)に突き刺さる。

糸は水面(みなも)に映る二人を、どんどんと吸いあげてゆく。

記憶の世界から、二人が消えてゆく。

二人がいないまま、残された登場人物が物語を紡ぐ。

滑稽な、隙間だらけの物語が、途切れ途切れに進んで行った。

これが勇哉に、亜夢美との記憶がなかった理由です。


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