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躰が、重い。全身の血管に、鉛を詰められたようだ。……身動きが、とれない。

どこかで俺を呼ぶ声がする。

ああ、そうだ。こんな事をしている場合じゃないんだ。行かなければ。……どこへ?

記憶と思考が混濁する中、俺は声のする方に、光の射す方へ向かった。




「お兄ちゃん、よかった、目が覚めたんだね!」


横たわる俺の顔に、見下ろす少女の涙が落ちて来た。

紬、なんで泣いているんだ。誰に泣かされたんだ。言ってみろ。お兄ちゃんがそいつをシメてやる。


「なにがあったの、青翠館(せいすいかん)で……」


紬のその言葉に、俺の頭に雷鳴が(とどろ)いた。

メアの哀しそうな顔が、部屋いっぱいに広がった。




「今日は、何日だ?

 俺は、どの位眠っていた?

 眠る前、何をしていた?

 メアは? メアは? メアは? …………」


俺は矢継ぎばやに質問を浴びせかける。不安を打ち消す言葉を求めるように。


「落ち着いて! 今日は7月27日、時刻は午前11時。お兄ちゃんは昨日の夕方、青翠館(せいすいかん)に行った後、夜八時に気を失って帰って来た。亜夢美は『お酒を召し上がれて、思いの外お酔いになられたようです』と言っていた。アーちゃんが診た所、外傷は無いし、呼吸も脈も異常なさそうだから様子を見てたけど……。酔ったとかじゃないよね」


……夢じゃ、なかった。

昨日のことは、夢じゃなかったんだ。

なんてことを――したんだ!


「一体なにがあったの? メアちゃんが、どうかしたの?」


不安そうに、紬は問いかける。


「みんな、俺が悪いんだ。

 俺が、メアを裏切ったんだ。

 俺が、メアを傷つけたんだ

 俺が、俺が、俺が………………」


歯の根が、ガチガチと鳴っている。身体中が、痙攣したかの様に震えている。

取り返しのつかない過ちの大きさに、メアを失う恐怖の深さに、慄然(りつぜん)として。

世界が終わるより、恐ろしかった。



ひゅん、という空気を切り裂く音がした。

ぱんっ、という小気味いい音が、俺の左頬から聴こえた。


「落ち着きなさい。心を整え、なすべき事をしなさい。後悔なんかは後回し。あなたは何がしたいの? 嘆くこと? 自分を責めること? それともメアさんを守ること? 進むべき道を、選びなさい!」


明日香が、張った自分の右手を左手で握り、その痛みに耐えるように顔を(しか)めながら、叫ぶ。

悲鳴のような叫びだった。

茨の道を、裸足で、大地を血で染めながら歩く彼女の、心が(きし)む音が聴こえた。



「ありがとう……。もう……大丈夫だ。……説明する。昨日、なにがあったかを」


俺は、青翠館(せいすいかん)での出来事を語る。

多分要領を得ない説明だったに違いない。その時の俺は、いつもの俺ではなかった。

急き立てられる焦燥感に襲われ、底なしの後悔に溺れ、果てしない自己嫌悪に苛まれていた。

そんな俺の話を、紬は、明日香は、鈴は、根気よく、優しく、聞いてくれた。

……少し、救われた。


「なんでメアちゃんは、その場を立ち去ったの? 私だったらお兄ちゃんも亜夢美も、ボコボコにするけど」


紬は暗い雰囲気を少しでも(やわ)らげようと、無理して明るく言った。


紬の言う様にされた方が、俺にとっては、どんなに楽だっただろう。

だがメアは、そんな真似はしなかった。

彼女は優しく、……残酷だった。


「メアは、信じることが出来ないんだ、自分自身のことを。『自分が愛されるはずがない』――心の底でそう思っている」


俺はメアの、哀しい笑顔を思い浮かべる。


「『そうじゃない。俺はこんなに愛しているんだ!』……折に触れて、そう伝えて来た。メアはそれを嬉しそうに受け止めてくれた。だがな、時間が経つと、あいつの頭におかしな考えがよぎるんだ。『これは何かの間違いだ。この幸せは、かりそめだ』ってね。自分がそれを受け取るのに、値しない人間だと思い込んでいるんだ。……だから、身を引いた」


それが、メアの愛なんだ。哀しく、優しく、そして残酷な。

その愛は、俺に喜びと悲しみを与える。


「砂漠に水を撒いてる気分だ。ざあざあと流れ落ちて行く。俺の想いも、メアの幸せも。乾いたまんまだ……」


メアを責める気も、煩わしく思う気持ちも、まるでない。

ただ、そんな考え方をするに到った彼女の境遇が、哀しかった。

彼女に愛を与えられない、自分の無力さが憎かった。



「メアを、迎えに行く。謝って謝って、愛してる愛してると何万回も叫んで、帰って来てもらう。許して貰えなくてもいい、憎まれてもいい、……ただ、傍にいて欲しい」


……それだけで、十分だ。



惚気(のろけ)はその位にしてくれる。聞かされるこっちは、堪ったもんじゃないわ」


明日香は頭をボリボリと掻き、うんざりした表情で言い放つ。

ただその顔からは暗い影は消え、どこか晴れ晴れとしていた。



「メアさんを取り戻すというのは反対しない。殿倉と事を構えるというのなら、協力する。でもね……」


明日香はごくっと喉を鳴らし、言葉を続ける。


「どうしてもその前に、ハッキリさせておかないといけない事があるの」


明日香の目は、この上なく真剣だ。


「これから私がする質問に、嘘偽りなく、誤魔化す事なく、真摯に答える事を、誓って!」


「誓う! お前たちとの友情と、メアへの愛にかけて!」


明日香は少し嫌そうな顔をする。『よりによって、それに誓うか』と溜息交じりに溢す。

だがすぐに気を取り直し、真っすぐに俺を見つめ、問いかけた。


「十三年前、殿倉 亜夢美とファースト・キスをした時、どちらからキスしたの? 唇を重ねただけ? 舌は入れたの?」


それかよ! そりゃあ明日香にとっては重大事項だろうが、いま訊くか? それも事細かに!


「ちょっと、気持ちは分かるけど、今はそれどころじゃないでしょう。後回しにしなよ。……それに聞いたら、元に戻れない。確定した事項は、(くつがえ)せない。聞かなきゃよかったって事は、世の中にはあるんだから」


鈴の言う通りです。知らぬが仏です。シュレーディンガーの猫です。


「そういう事じゃ、ないのよ。おかしいと思わない? いくら三歳で記憶がおぼろげだと云っても、 “五・一五事件“ よ、 “ファースト・キス“ よ、思い出して記憶の上書きがされないなんて、不自然よ」


“五・一五事件“ と “ファースト・キス“ を同列にするな!

だが明日香の言わんとする事が、見えて来た。


「その時に、何らかの精神干渉を受けたと……?」


鈴が考えを纏めるように話す。彼女もそれに気が付いたようだ。


「それ以来 “勇哉“ は、 “殿倉 亜夢美“ との接触はないんでしょう。ならば……そういう事よ」


みんな、しんと黙り込む。十三年前から、俺は “殿倉 亜夢美“ の支配下にあった。その事実を噛みしめるように。



「これから殿倉と事を構えるにあたって、この鎖を断ち切らないといけない。さもないと昨日みたいに、肝心な時に無力化させられる」


明日香の言葉に、これまでの事を思い出す。

一昨日(おととい)、相馬 聡美は『鎖は、しっかりと繋がれている』と言っていた。あれはメアと静さんが、俺を縛る “鎖“ と言っていると思っていた。だが、そうじゃなかった。 “鎖“ は俺に、打ち込まれていたんだ。


「どうやって “鎖“ を断ち切る?」


仮に “鎖“ と呼んでいるが、それがどういう物か、どうやって俺を縛っているのか、まったく見当もつかない。


「まずは、それの成り立ちを、性質を分析する事。正体が分れば、打つ手はある。完全無欠な物など存在しない。神さまは、おっちょこちょいだから」


人の悪い笑みを、明日香は浮べる。



「手掛かりは、あなたの中にある。あなたの中の痕跡を探り、それを解除する。私と鈴が協力するわ。私たち二人は幽体。あなたの精神に作用しやすい。私たちが導くから、あなたは心の奥底に潜り、その(いまし)めを解き放ちなさい!」


まるで預言者のように力強く語る。

彼女の前では、海も二つに割れそうだ。



「惚れた女を迎えに行くのに、他の女の残り香を付けたまま行くのは不誠実よ。ちゃんと(はら)って行きなさい」


……まったくこいつは格好いいな。

メアがいなかったら、惚れているところだ。




俺の右手を明日香が握り、左手を鈴が握り、明日香と鈴も残った手で握り合い、俺たちは円となる。

目を瞑り、五感を閉じ、己の境界を取り払い、宇宙と一体となる。

明日香が、鈴が、俺の中に流れ込んで来た。俺の心に入って来た。

俺は彼女たちに手を引かれ、記憶の深層に、心の底へと潜って行った。

84話『アイのウタ』で、写真にあったキスシーンが書かれなかったのは、こういう訳です。この後、その時のことが描かれます。


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