比翼の鳥たち
私は何も喋らなかった。言葉を紡ぐ事が出来なかった。
言葉と一緒に、涙が零れそうだったから。
彼に涙声を、聞かせたくなかったから。
勇哉の息づかい、優しく呼びかける声、それらの音が糸を伝い、私の心に届く。
それだけで、十分だった。どんな飾り立てた言葉より、響いた。
彼は私が落ち着くまで、根気よく、何度も何度も語りかけた。
彼の呼ぶ私の名が、蜂蜜みたいに身体中に溶けていった。
「雄兵郎たちは、上手くやってくれたの?」
ようやっと落ち着いた私は、涙を啜りながら尋ねる。
「ああ、この上ないくらいに」
彼は今日あった事を話した。……そしてこれからの計画を。
「そう。その怜司っていう人は、信用できるのね」
念を押すように訊ねる。
「紬の旦那として、認めてもいいくらいには」
私はぷっと吹き出した。それは、最上級の信頼だ。それにしても、意外だった。
「ああ、ごめん。てっきり勇哉は『紬が欲しくば、俺を倒してみよ』って言うもんだと思っていたから」
勇哉にとって、紬ちゃんは特別だ。残された、唯一の家族だ。
私もお嫁さんにして貰って、家族として迎え入れてくれたけど、それでもやはり血縁は違う。
私にとっての静母さんみたいなものだ。替えの利かないものだ。唯一無二だ。
溺愛というか、それはそれは大切にしていた。
そんな紬ちゃんの伴侶としてもいいと認めたのだ、これ以上の信頼はない。
「でも今聞いた話の中に、ときめくような要素があった? バトルして、セッションして、ディスカッションして……。友情は芽生えるとしても、恋愛が生まれるシチュエーションとは程遠いんだけど」
コイバナ好きな女子としては、是非聞きたい。
「……おまえの言う通りだよ。生まれてないよ、これっぽっちも!」
え~と、どういう事かな? 私は話を整理する。
「じゃあ勇哉は、その気丸っきりゼロの二人を、結婚対象として扱っているの? 家どうしの繋がりが、どうこうじゃないよね。勇哉そういうの、嫌いだもね」
大事な紬ちゃんを、家の為に犠牲とするなど、彼が最も忌み嫌うものだ。
「……いろいろ事情があるんだよ」
ああ、またこの声だ。彼の姿は見えないが、今どんな顔をしているか、はっきりと目に浮かぶ。
この声を出すとき彼は、いつも同じ貌をする。
困ったような、申し訳なさそうな、言いたくて言えないといった、最近見せる様になった、あの貌だ。
うつむき、口をきゅっと引き締め、目に憂いを湛え、何かに耐えている。まるで巨大な流れに抗うかのように。
『なにがあったの? 悩みを打ち明けて』――そう言いたい気持ちを、私はぐっと抑え込む。
彼は何かを隠している。だがそれは、隔意があっての事ではない。逆に、思いやっての事だ。
彼から『辛い』という気持ちが伝わってくるが、それ以上に『深い愛』が伝わって来る。
包み込むような、温かく、優しい愛。
そんな彼の気持ちを、無下には出来ない。
「そう。深くは訊かないけど、干渉し過ぎないでね。下手にいじると、却って拗れるものだから、恋って」
私は知ったような口を利く。
「……ずいぶんと、詳しそうだな」
低く、小さい声が伝わって来た。
かわいい嫉妬と、抱き締めてあげたい不安を引き連れて。
「実戦は一回きりだけど、参考書は読み込みましたから。紫式部から樋口一葉まで」
見栄を張っているのか、自虐しているのか、よく分からない答えを返す。
だがこの答えは正解だったようで、糸からホッとした溜息が伝わって来た。溢れる愛情が伝わって来た。
その気持ちはとても温かくて、私を幸せにし、そして……心をざわつかせた。
私は思わず黙り込む。
「…………メア?」
沈黙する私に、彼は心細そうに呼びかける。
「……勇哉。あんまり私に執着しては、いけないよ」
いつかは言わなければと思っていた言葉。
分かってはいたが、言い出せないでいた言葉。
もう、言うべき言葉。
「私とあなたは、二羽の鳥。飛んで行く先は一緒でも、違う鳥なの」
顔が見えなくて、よかった。 涙を見せなくて、よかった。
「勇哉が求めるのは、私の幸せだよね。……けどそれは、迷惑極まりないの」
人の心を踏みにじる、鬼にならなければいけない。
「……私の幸せは、勇哉にあるの。あなたが笑うのが、私の喜び。あなたが泣くのが、私の悲しみ。みんなみんな、あなた次第なの。私の幸せを、奪わないで!」
私たちは、しんと黙り込む。
お互いの想い、お互いの愛が、見事にすれ違っていた。
「俺たちは、比翼の鳥だな。一つの翼と一つの眼、それしか持たず、二羽で隣り合い、支え合い、飛ぶ、一対の鳥。」
勇哉が沈黙を破り、話し始める。
「おまえと一緒なら、どこまでも飛んで行ける。荒れ狂う嵐の海も、風が渦巻く吹雪の山も、地平の果てまで、時の彼方まで、飛んで行ける。だが、おまえが居なければ、羽ばたく事すら叶わない……」
そんな事を言わないで。心が……鈍る。
「……それじゃ、いけないんだよ」
私は心を奮い起こし、言う。
「私が死んでも、勇哉は死んじゃいけない……」
私の信念を、語る。
「私が死んだら、私の翼を千切り、あなたの躰に括り付けて、飛んで行って!」
私の決意を、表す。
「私を乗り越え、進んで。私を取り込み、行って。私に囚われず、生きて。輝く未来に、向かって!」
私の望みを、伝える。
「たとえ私が力尽き、翼を失おうとも、心の翼が折れることはない。魂はあなたと一緒に、飛び続ける」
私の描く未来図を、見せる。
「飛んで行って。昇って行って。高く、高く、……宙よりも高く。
そして、輝く星になって…………」
私の祈りを、捧げた…………。
彼は、応えなかった。ただ、水が葉に落ちる音だけが聴こえた。
「勇哉はね、神さまなんだよ」
泣いている彼に、私は幼子に言い聞かすかのように語りかける。
「私、イヤな子だったでしょう。初めて会ったとき……」
私は自分の醜い貌をさらけ出す事にした。
「いつもみんなを羨んでいた。いつも世の中を恨んでいた。
何で私には、お父さんがいないの?
何で私は、お友達を作っちゃいけないの?
何で街に、行っちゃいけないの?
何で私の髪は、みっともないの?
何で私は、『飛鳥山の鬼』と呼ばれるの?
……いつもお母さんを困らせていた。苛立ちをぶつけて、悲しませていた。
……最低でしょう」
呪詛のような言葉を並べる。
「そんな私を変えたのが、勇哉、あなたなの!」
暗闇の中、灯りを見い出した彷徨い人のような声をあげる。
「覚えている? 初めて会った、あの雪の日。あの日、私の “世界“ は変わったの。あなたによって!」
奇跡の目撃を語るように、熱い口調で話す。
「私と一緒に、祈ってくれた。寂しい夜を、吹き飛ばしてくれた。醜い私を、キレイだと言ってくれた。メアという、名前をくれた。…………温かさを、くれた。救われたのよ、私は」
感謝という言葉では足りない。この救済は、どんなに言葉を並べても表す事は不可能だろう。
「世界を呪っていた私が、ささくれ立っていた心が、清められた。喜んでもらいたい、幸せになってもらいたいと云う気持ちが芽吹いたの。それはとても素敵で、甘い感情だった。私の世界は、変わったの!」
それでも私は言葉を紡ぐ。少しでもこの感動を解ってもらう為に。
「そんなの、神さま以外にないじゃない――――」
あなたはまさしく、世界を創ったの。
「私の躰はここで朽ちようと、魂は千里の道を越え、千の満月を越える。いつまでも……一緒だよ」
この気持ちに誇張はない。それくらい、やってのける。
「私と一緒に堕ちて行く、馬鹿な勇哉は……嫌い。あなたはいつも、空高く輝く星じゃなければいけないの」
愛しい彼の、尊い姿が浮かんで来た。
とめどなく、涙が流れてきた。
この涙を、彼に伝えては、いけない。
「だから、だから、だからね。私を幸せにしてくれるというのは、とっても嬉しい。けどね、それは勇哉の幸せあっての事なの。勇哉の犠牲で得られた幸せは、意味がないの」
解って! お願いだから!
「いざとなったら、私を見捨てる覚悟を持って欲しい……」
容赦ない祈りを、私は唱える。
「『一緒に逝って』とは、言ってくれないのか…………」
勇哉……それは……駄目だよ。
「私の愛はね、そんなに安くないの。砂漠の砂を数え切れぬように、私の愛は測れない。数えられるほど貧しくないのよ、この愛は。勇哉の為なら、私の命など惜しくない。――そんな愛なのよ」
誘惑しないで。私の心を折らないで。振り切るように、私は言う。
「私が一番怖れるのは、あなたが消えてしまうこと……」
私は、自分の心の深淵にある恐怖を伝える。
私が絶対に避けたいと思っている事を。
その気持ちが生まれたのは、一葉の写真を見た時だった。
それは、初めて勇哉に会った、そのすぐ後だった。
その時私は、彼に『メア』という名前をもらった。『マリア様』と呼んでもらった。
喜びに打ち震えた。そして同時に、冷や汗がでた。
なんとしても次に会うまでに、その名に恥じぬ人間に成らなければいけない。
焦った私は、お母さんに助けを求めた。
「お母さん。マリア様みたいになるには、どうしたらいい?」
……完璧に人任せで、無責任な訊き方だった。
今の私がそこに居たら、当時の私をぶん殴ってやりたい。
お母さんはその問いにキョトンとし、そして『ああ』と何かを察したような声をあげ、嬉しそうに私を見つめた。
「そう。あなたもそんな風に思う様になったのね。大切にしてね、その気持ち」
そう言うと、『これが役に立つかもしれないわ』と呟きながら、奥の箪笥から何やら取りだしてきた。
それは紫色の袱紗に包まれた、本ぐらいの大きさの物だった。
母さんは袱紗をほどき、中身を取り出す。桐の箱が出て来た。
更に桐の箱を開けると、白い封筒が中にあった。
母さんは封筒をうやうやしく両手で持つ。
「ずいぶんと、念入りに仕舞ってるんだね」
何でここまでするんだろうと、疑問が浮かんだ。
「大切な……人から、もらった物だから」
遠い目をしながら、ささやく。
そう答える彼女は、少女の貌をしていた。
封筒から、写真が出て来た。
母さんはそれを大事そうに優しく持ち、私に手渡した。
写真だった。二人の人間が彫られた、彫刻が写っていた。
一人の男が、手足をだらりと垂らし、横たわり、こと切れている。
一人の女が、その亡骸を膝に乗せ、哀しみを湛え、慈しむように、抱きしめている。
「『ピエタ(哀れみ)』という像よ。マリア様の本質を、よく表している。言葉で説明出来るものじゃない。これを見て、何か感じ取って」
『マリア様はね、こういう方よ』という答えを期待していた私は、面食らった。
こんな観察力を、洞察力を、解釈力を求められると思ってもいなかった。家の母さんは、結構厳しい。
私は目を皿のようにして、写真を見る。
横たわる男性は、間違いなくあの御方だろう。そしてこれは、磔から降ろされた後だろう。
閉じられた目と口は、すべての表情を削ぎ落したようで、『無』の極致にあるみたいだった。
だがそれとは対照的に、彼の血管が、肋骨の浮き上がりが、『生』の痕跡を雄弁に語っていた。
そしてその対比が、命の終わりを生々しく伝えた。
それに対して聖母は、若々しい生命力に溢れていた。
健康的な力強い肉体。死せる息子を軽々と抱き、しっかりと持ち上げている。
まるで地に寝かすのを厭うように、天に還すかのように。
その目は細められ、口は真一文字に結ばれ、泣き叫ぶような表情はしていない。
だがそれ故に、哀しみが溢れ出し、押し殺した悲しみが伝わってきた。
聖女は何を思っていたのだろう。
愛する息子への憐憫? 苛酷な運命への憤り? 神への忠誠? 復活への望み?
それはどれも正解のようで、すべて的外れのように思えた。
私は写真の二人を、勇哉と私に置き換えてみた。
ぞっとした。怖気に粟立った。想像するだけで、気を失うようだった。
世界が終わる。そんな感覚だった。到底受け入れなかった。
彼を守る為なら、私は全てを捧げる。この身も、魂も。みんなみんな、持って行け!
全人類滅亡を前に、我が身を惜しむ奴はいないだろう。
私の『真の恐怖』は、彼を、世界を、失う事だ。
それに比べれば私の命など、些末な事だ。
私は、勇哉から貰った名前の、聖母の高みを少し昇ったような気がした。
それ以来私は、その階段を一歩ずつ昇っていった。彼に胸を張って会う為に。
「あなたさえいれば、私は消える事はない。だって、ずっと一緒なんでしょう」
私は理想の世界を思い描き、恍惚と話す。
「バカやろう…………」
彼はいたわしい者に呼びかけるように声をあげる。
「私は、あなた。あなたは、私。
見える? 私たちを繋ぐ糸が。糸電話に並んで伸びる、赤い糸が。
私たちの小指から伸びる、赤い糸が」
私には見える、くっきりと。二人を結ぶ、断ち切れぬ絆が。
「一緒だよ、この世の終わりまで…………」
この絆がある限り、あなたを見失う事はない。
「愛してます、この世のなによりも…………」
私は告げる、絶対の真理を、揺るぎない声で。
私の囁きは、甘く、残酷に、呪いのように彼に染み込んでゆく。
吹く風が、彼の心の悲鳴を運んで来た。
ごめんね、勇哉。辛い思いをさせて。
そして主よ、この身勝手で、浅ましい私の願いを、どうぞお聞き届けください。
祈っています。どこまでも飛んで往くことを。
見守っています。いつまでも輝くことを。
誓います。あなたを愛し続けることを。
私は、永遠に一緒です。例えこの身が朽ち果てようと…………。
これが、メアの愛です。大きな、包み込むような愛。
真っ直ぐな、ひたむきな、亜夢美の愛とは違います。
どっちが良いとか悪いとか、言うつもりはありません。どちらも自分にとっては――愛おしい。
判断は、皆さまにお任せします。
『ブックマーク』、『星評価』、『いいね』をお願いします。下段のマークをポチっとして頂くだけです。それが執筆の何よりの糧となります。……筆者の切なるお願いです。




