梟は黄昏に飛び立つ
殿倉邸に帰ると、館は騒然としていた。
「どうしたんです? 何かあったんですか?」
紬はぬけぬけと、女中さんに尋ねる。
「あ、お帰りなさいませ、勇哉さま、紬さま。え~と、街に出かけてらっしゃったんですよね。だったら、噂をお聞きになられませんでした?」
女中さんは探るように質問で返す。
「悲しいことに街の方々は私たちに距離を取られて、お話する事が叶いませんの。いつか、親しくさせて頂ければ嬉しいのですが」
ヨヨッと、軽く涙を浮べる。白々しい。なにが『距離を取られて』だ。おまえ、さっきまでゼロ距離で、肉体言語で語り合ってたじゃないか。
「この様な事を私の口から申し上げるのは、憚られるのですが……」
女中さんの口は重い。これは……あれだな。例のやつだ。俺は確信した。
「……お帰りになられたんですね。もう帰られないと思っていました」
押し問答を続ける俺たちに、一人の女性が近づいて来た。
相馬 聡美だった。
恐い上司の出現に、女中さんは身を竦める。
聡美は片手をシッシッと振り、女中さんを追い払う。
女中さんは最敬礼をし、逃げる様に去って行った。
「ご挨拶だな。そうあって欲しかったとか?」
聡美の無礼に、俺は無礼で返す。
「私としては、それでもいいかと思っています。けどそうなると、悲しむ方がいらっしゃいますからね」
誰の事やら。魔王か、その娘か。
「今日のお便りです。昨日お嬢様が書き上げた最新の三通。昨日の喜びをお伝えしたいと、嬉々としてお書きになられていました。そして昨日お渡しした続き、四歳の亜夢美様がお書きになられたお手紙です。まだまだ八年分あるんですから、さっさと読んで下さいね」
聡美はそう言うと、どさっと葛籠を置く。
床がみしっと悲鳴をあげる。
重い! 想いが、重すぎる。
「……悠真、これは読んであげるべきだわ。書いた物が読まれない。それは、とても残酷な事よ」
明日香が切ない声で言う。文筆家としても、恋する乙女としても、身につまされる物があるのだろう。
「その亡霊の言う通りです!」
『我が意を得たり』と、聡美は大きく頷く。
「『瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ』(川の流れが早く、岩に二つに裂かれました。けどまたいつか一つの流れになるよう、今は別れていても、きっとまた逢いましょう)――お嬢様が口癖のように詠まれていた歌です。……粗略にしたら、私が許しません!」
遠い目で昔を懐かしみながら、しっかりと俺を睨みつけるという芸当をして来やがった。
「ユマ、殿倉 亜夢美の “好き“ という気持ちに、裏も謀も無い。真っ直ぐで純粋な恋心には、敵とか味方とか関係なく、真剣に応えなければいけないよ」
鈴が後ろから銃を撃って来た。孤立無援、形成不利だ。なんとか立て直さないと。
「それはそれとして、どうしたんだ。ずいぶんと騒がしいようだが?」
不利な戦場は放棄するに限る。俺は強引に話題を変える。
「……街に、噂が流れています。『28日深夜に空襲がある。蒼森市街は全滅する。それに先立って、27日に空襲予告のビラを米軍が撒く。もしビラが撒かれたら、空襲は間違いなく有る。これは、 “オシラ様“ の予言だ』という噂がね」
忌々しそうに聡美は言う。
「へ――――。そんな噂があったんだ。知らなかったな――――」
俺は棒読みで答える。
「白々しい。どうせ何処かの誰かさんが、手引きをしたんでしょう」
当て擦るように、聡美は言い放つ。
「何の事やら」
俺は両手を脇に付け、掌を上に広げる。『意味が分かりません』と全身で主張する。
「……まあ、いいでしょう。籠の中の鳥がどんなに囀ろうと、逃げ出す事は叶いません。鎖は、しっかりと繋がれているのですから」
聡美は冷たい笑顔を浮かべ、去って行った。
「……明日香、鈴。聡美に “オシラ様“ は憑いていたか?」
俺は大切な事を確認する。
「……いなかった。残り香はあったけど、いなかった」
鈴は少し怯えながら答えた。
「常に一緒という訳では無いようね。探査装置としての聡美は厄介だけど、あのとんでもない力が常時発動するのとしないのじゃ、大違いよ」
希望を見いだした様に、明日香が語る。
「よし。ならば予定通り、今夜決行だ!」
日付が変わり、全てのものが眠りについた深夜、俺はその時を待っていた。
『ホーホーホホー』 梟の重い鳴き声が聞こえてきた。他になんの物音もしない。今だ!
俺は寝巻を脱ぎ、黒づくめの衣装に着替え、部屋を抜け出す。
目指すは “八の倉“ 。メアたちがいる場所だ。
闇をつたい、姿を隠し、夜を往く。
伝説の吸血鬼のように、ほんの僅かな光も避け、音もたてずに駆けて行く。
心を掻きむしられる焦燥感が、俺を蝕む。
『早く会いたい。声を聞きたい』――心が叫ぶ。
俺は必死に、自分の感情に手綱を引く。
先走る気持ちを抑え、慎重に、慎重に、歩を進めた。
ようやく目的地が見えて来た。……長かった。時が、止まったかと思った。
月が、青い光を放っていた。
まるで水の底にいるみたいな、青い世界だった。
そこに、三階建ての倉が屹立していた。メアたちがいる、 “八の倉“ だ。
俺はそこに飛び込みたい気持ちをぐっと抑え、周りを見渡す。
倉の横に 、あすなろの高い木が影を落としていた。
俺は用意していた道具を取り出し、あすなろの木を登り始める。
ロープの両端に棒を結び付けた『ぶり縄』を木の幹に縛り付け、ステップとして使う。
とがった爪のような『昇柱器』を靴に取り付け、スパイクとして使う。
見る見るうちに、三階の高さまで辿り着く。
ここまで登り、ようやっと枝にしがみつく事が出来た。
ここから下は、侵入者防止の為に剪定されている。
大振りの枝に座り、一息つく。
やっと、ここまで来れた。
余裕が出来た俺は、周りを見渡す。
雲間が晴れ、梢の隙間から月の光が差し込んでいる。
葉に絡まったように、満月が空に浮かんでいた。
俺は苦笑する。
八十年後の今日は、新月だった。
だがいま空には、ぼうっと霞みながらも、月は全身を現している。
ああ、ここは違う刻なんだ。
俺は改めて実感した。
澄んだ風が流れて来た。
清冽な、穢れを祓うような風だった。
『さもありなん』と俺は思う。
風は倉から吹いていた。三階の窓から吹いていた。
その源に、一人の少女が佇んでいた。
俺は、涙を流した。
嬉しさに、淋しさに、愛おしさに。
彼女も同じように、泣いていた。
窓には鉄格子が埋め込められていた。
彼女が出ることは、能わない。
「ホーホー、ホホー」 梟の鳴き声が、彼女の口から放たれる。
「ホーホーホー」 俺もその声に応え、鳴き声を返す。
彼女はニッコリと笑う。俺も笑顔を返す。
鉄格子内側の明り取りの窓を、彼女は上に引き上げ、開ける。
ギイッと軋む音を立て、倉の窓が開いた。
風に乗り、彼女の薫りが届いた気がした。
俺は石を窓に投げ込む。
石は見事に鉄格子をくぐり抜け、コンコンと床の上を転がって行く。
彼女はその石を拾い上げる。
石には細い縄が括り付けられていた。
彼女はその縄を手繰り寄せる。
スルスルと、縄に括り付けられた袋が彼女の許に届く。
彼女は袋から目的の物を取り出す。
小さな筒だった。
片方は大きく口を開け、その反対側にはピンと張られた薄紙があった。
そしてその薄紙には、糸が取り付けられている。
彼女はその筒に、口を当てる。
「もしもし…………」
メアの声が、糸を伝い、俺の耳に流れて来た。
この粗末な糸電話が、俺に喜びを運んで来てくれた。
「もしもし…………」
再びメアの声がする。
幸せだった。満ち足りていた。
なんの意味を成さない言葉でもいい。
この声に、浸りたかった。
「勇哉、聞こえているの?」
不安そうなメアの声がする。
「聞こえている。天使みたいな声なんで、つい我を忘れていた」
「……ばか…………」
照れたような声だった。メアの赤い顔が、目に浮かぶ。
「勇哉の梟の真似、下手くそだね」
メアは照れ隠しに話題を変える。
「おまえが上手すぎるんだよ。危うく本物と間違えるところだった」
寝床でメアの合図を聴いた時、本物の梟が鳴いていると勘違いしそうだった。
「勇哉がいなくて、お母さんが寝た夜は、やる事が無かったからね。梟が、私の話し相手だった……」
メアの言葉は、いつも憂いを帯びている。
彼女に暗い影は無い。だがその立ち位置が、俺を切なくさせる。
「静さんの具合はどうだ? ちゃんと食べれているのか? おまえは理不尽な扱いを受けていないか? ……あいつらに、虐待とかされていないか?」
顔が見えなくて、幸いだった。いま俺は、修羅の貌をしている。
「薬も食べ物も、十分与えられているよ。拍子抜けするくらいに。暴力は振るわれていない」
感情を押し殺すような声で、メアは答える。
「『暴力は』と言ったな。『暴言』はどうだ。……殿倉 主馬は、殿倉 亜夢美は会いに来たのか」
メアは一瞬口ごもる。
「初日に一度、主馬さんだけが」
メアの声は、低い。『主馬伯父さん』とは呼ばない、『主馬さん』と呼ぶ。
「……なにをされた。なにを言われた」
多分俺の怒りは糸を伝い、メアに届いている。
「……なにも。ただ目も合わさず、『ここがお前たちの世界だ。ここに居るならば、治療・食料は保証する。殿倉は、お前たちに何も求めない。ここで好きなように生きろ』って言われた」
それは、ある意味暴言よりも酷い。
存在を否定されたような物だ。寄生虫と呼ばれたような物だ。
「勇哉、怒っているんだね。解るよ、声が聞こえなくても、顔が見えなくても。けど、心配はいらないよ。最初っから期待していなかったから。だって、生まれてからずっと放置されていたんだよ。今更だよ」
明るいメアの声が、筒から聴こえてくる。
こいつはいつもそうだ。辛い時、悲しい時ほど、明るく笑う。それが俺には……やるせない。
「けれど一つの懸念があるの。こんな私にも、利用価値があるんじゃないかって。殿倉に利用されるんじゃないかって」
メアの口調が、不安を表すように早口になる。
「私を、勇哉を取り込む材料にするんじゃないかって。勇哉を縛り付ける鎖にするんじゃないかって。……私はそんなものに、なりたくはない」
まるで悍ましい怪物になるのを怖れるように、声を震わす。
俺は切なくなった。わが身の非力さを呪った。
「俺は、風になりたい。おまえの許に飛んで行き、吐息でおまえの涙を拭い、両手で抱きしめてあげたい。おまえを温めてあげたい……」
俺は心からの望みを吐き出す。
「私は、小鳥になりたい。この窓を抜け出し、あなたの腕に止まる、小鳥になりたい。そしてあなたに呪いを掛けて鳥にして、誰もいない大空に一緒に飛んで行きたい……」
『あっ!』とメア声をあげる。
言ってしまって、『しまった!』と我に返る。
多分、俺の気持ちの吐露につられたのだろう。
恐らく、一生言うつもりは無かったのだろう。
数少ない、メアの心からの叫びだった。
「ごめん、勇哉! 今のは何かの間違い! あはっ、混信しているのかな、この糸電話。もしもーし!」
メアは誤魔化すみたいにお道化てみせる。
「メア、これからは本音で語ろう。美しい面も、醜い面も、見せ合おう。……忘れたかもしれないが、俺たちは夫婦なんだぞ。祝言をあげたんだぞ。キャンセルは受け付けないからな」
俺の言葉に、メアは絶句する。
「あれ、ホントだったの? 思い出作りとかじゃなかったの?」
…………おい! 紬が聞いたらブチ切れるぞ。あいつ祝言の準備で、どんだけ骨を折ったと思っているんだ。
「飛鳥山の神の前で誓っただろう。あの山は、おまえを育てた神聖な山だ。その名に掛けて誓う、永遠の愛を!」
糸の向こうで、メアが泣いているのが聴こえた。
幸せが、込みあげて来た。感情が溢れだした。
俺たちはどちらからともなく筒に口を近づけ、叫ぶ。
「「愛してます!」」
二人の声は、あざなえる縄のように絡み合う。
太く、強い、愛となってゆく。
一つの愛になってゆく。
誰もこの愛を、断ち切ることは出来ない。
新章になり、メア再登場です。
この二人の夜は、次回も続きます。
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