贖罪
所詮、名家の御曹司・お嬢様だと思っていた。
銀の匙をくわえて生まれてきた、苦労知らずの、傅かれるのを当然として育った、恵まれた者だと思っていた。
妬ましく、自分の惨めさを照らす光のようだった。
楽器は心を写す鏡。音は想いを紡ぐ糸。
彼らが奏でる音楽は、僕の想像とはまるで違っていた。
その音は、ひとつの情景を浮かび上がらせる。
その世界は、輝いていた。キラキラと、色鮮やかに。陽の光は閃々と降り注ぎ、大地は芳醇な匂いを放ち、清冽な風が漣のように押し寄せる、神聖なる山がそこにあった。余人が立ち入る事が叶わぬ、伽藍だった。
その世界に、彼ら以外にもう一人の少女がいた。
太陽に負けないぐらい輝く黄金の髪。湖みたいに底知れぬ優しさを湛えた碧い瞳。そしてそこから湧き出す感情は、泉のように澄み切っていた。
これは、『飛鳥山の鬼』?
生まれの不幸を呪い、人の幸せを妬み、生き血を啜り人肉を喰らう、あの鬼?
――違う!
粗野な振舞い、粗末な衣服、優雅さの欠片もない。
だがその目は凛として前を見つめ、背筋を伸ばし、胸を張り、太陽の下恥じらう事なく屹立する。
そこに妬み、嫉み、僻み、恨み、辛み等の、負の感情は一切なかった。
彼女は、美しかった――――。
その姿だけでなく、心根が、生き方が。
彼女はニッコリと微笑んでいた。
全てのものに感謝して。与えられるものに満ち足りて。
貪欲とは、無縁の存在だった。
聖母様だと思った。その透明さに。
彼女は語る。『私を見て』と。
『私は、こんなにも愛しています。こんなにも幸せです』と。
零れる花のような笑顔で語りかける。
『行こう』
彼女はその両手で掴む。この少年と少女の手を。
彼ら三人は横一列となって、野を駆ける。
そこは、紛れもなく天国だった。
争いも憎しみも無く、ただ慈しみだけが在る世界だった。
僕は、暗い海の底に居るようだった。
手を伸ばす。その世界に連れて行ってと。
溺れる者がもがくように、バチを振るい、三味線を掻き鳴らす。
光が、欲しかった。
響けっ
僕は、悲鳴のような情念を吐き出す。
響け!
彼は御しきれぬ恋心を叩きつけるように、腕を振り下ろす。
響け……
彼女は溢れる愛情を囁くように、息に心を乗せ、鳴らす。
響け――――――
僕たちは、魂をぶつけ合った。
曲が、終わった。
静寂が、訪れる。
魂の解放に酔いしれた。
誰も、声を発さなかった。
言葉はもはや、不要だった。
宴のあとの寂しさは、じわじわと染みてくる。
先程までの熱狂が急に行き場を失い、身の処し所を無くしていた。
僕は後ろ髪を引かれる思いで余韻を断ち切り、課せられた責務を行う。
「それで『殿倉からの脱出』でしたっけ。どうするつもりなんです?」
津軽三味線を仕舞いながら、仏頂面で尋ねる。
お遊びは終わりだ。仕事の時間だ。
僕には、快楽に浸る贅沢は許されない。
仲間の生死は、僕の肩にかかっているんだ。
「なんでそんな事を訊く?」
訝し気に、彼は問い返す。
「聞かなきゃ、協力でき無いでしょう」
いらつくように僕は答える。
「言ったでしょう。『雄兵郎から、力になってくれと頼まれている』と」
「それは聞いたが。……いいのか。殿倉を敵に回す事になるぞ」
良い訳がない。本来なら避けるべきだ。
だが、雄兵郎には借りがある。いや、罪悪感と言った方がいいかもしれない。
十日前、蒼函連絡船空襲の日、僕たちは分裂の危機にあった。
僕たちは、蒼森市内の子ども達だけで作った組織だ。
最初は単なる遊び仲間、子ども会みたいな物だった。
それが戦争が激しくなるにつれ、遊ぶどころでは無くなった。
会は徐々に ”生き残る” ことに主眼を置き、互助会の色合いを強めてゆく。
最新の正確な情報、それを集め、共有した。
それは虚飾に塗れた戦時下では、黄金より貴重だった。
大人たちは、隣組の相互監視で身動きが取れない。
そこで僕たちは必要な場所、必要な時に、必要な情報を流した。
僕たちは、上手くやっていた。
あの時までは。蒼函連絡船空襲の日までは。
あの日、多くの “仲間の家族“ が亡くなった。
みんな、悲しみに暮れた。行き場のない怒りが充満した。爆発寸前だった。
悲しみは、怒りは、どこかに流さなければいけない。
危険な、状況だった。
蒼森は元々、一枚岩ではない。
西の津軽と東の南部は、長年骨肉の争いを繰り広げていた。
戦国時代、 ”南部家” は蒼森全土と岩手県中部までの広大な領土を治めていた。
それが戦国末期、津軽地方の代官として派遣されていた南部家の一族、 ”大浦 為信” ――後の ”津軽 為信” が反乱を起こす。
南部本家を裏切り、津軽地方を自分の領地とした。
南部家は激怒した。
なにしろ津軽は、北東北唯一の米の産地。他は山間部で寒冷で、米が育たない。
討伐軍を差し向け、津軽を奪還すべく、激しい戦いが繰り広げられた。
だが折しも戦国末期、中央では豊臣秀吉の天下統一が間近となっていた。
津軽 為信は秀吉に使者を送り、津軽の領有を認めさせた。
戦闘は、終った。天下人秀吉に逆らえる筈がない。
だが、煮えたぎる怒りは収まらない。
それは何百年も冷めることなく、現代まで続いた。
今その憎しみの炎が、僕たちの中で ”津軽派” と ”南部派” の間に燃え上がろうとしていた。
それは決して、悪意があっての事ではない。
ただ、やるせなかったのだ。父が母が兄弟が、亡くなった事に。
この悲しみを、怒りを、ぶつける相手が欲しかったのだ。
このまま行けば、内部分裂、相互密告の懼れがあった。
みんな、その危険性は認識していた。だが、頭で理解していても心が言う事を聞かない。
求めていた。 ”贖罪の山羊” を。
選ばれたのは、 ”雄兵郎” と ”千多” だった。
みんな彼らのことを、 ”死神” ”疫病神” と呼んだ。
『おめんど来だはんで空襲さ遭ったんだ。父っちゃや母っちゃが死んだのは、おめんどのせいだ』――そう詰った。
三か月前に関東から来た余所者。おまけに来る直前、茅崎大空襲に遭い父母を亡くしている。
そして今回、保護者である小父さん夫婦も亡くなった。
『不吉』と云う言葉を、『異端』と云う言葉を、体現した存在だった。
”津軽派” も ”南部派” も、二人を責め立てた。
両派は、ひとつとなった。
僕は、傍観した。
そして二人は、蒼森を去った。
僕たちは、一瞬のカタルシスを味わった。
だが熱狂は、やがて冷める。
興奮が去り、冷静になった心に訪れたのは、深い悔恨だった。
両親を亡くし、新たな保護者を亡くした子どもに、自分達は何をしたんだ。
自責の念に苛まれた。
あいつらが帰って来たら、心から詫びよう。そして犯した罪を償おう。
みんな、同じ気持ちだった。
そして八日後、7月22日、雄兵郎と千多は帰って来た。
みんな、非難の言葉を覚悟していた。
それを甘んじて受けるつもりだった。
だが、そうはならなかった。
僕たちの前に立った二人は、躊躇なく跪いた。
そして額を床にこすり付け、声を振り絞って叫んだ。
「頼む! こんな事言えた義理じゃないのは、よく解っている。それでも、頼む! あの人の、力になってくれ!」
ほこりの匂い。蒸し暑い空気。
彼の言葉だけが、澄みやかに響いた。
誰も、異を唱えなかった。
「僕たちは、貴方の力になります。雄兵郎と千多の名にかけて。蒼森の誇りにかけて」
これは、みんなの総意だった。
みんな雄兵郎たちの為なら、なんでもするつもりだった。
『ありがとう。恩に着る』と、彼は言った。
『お礼なら、雄兵郎に言って下さい。僕たちは雄兵郎の為にするんです。貴方の為じゃない』と答えた。
『それでも言わせてくれ。 “ありがとう“ と』 彼は深く頭を下げる。
僕は『ふんっ』と鼻を鳴らし、横を向く。
その言葉を受け止めるには、自分が許せなかった。
「あいつは、僕たちの事を何か言ってましたか? ここを出て行った経緯とか……」
雄兵郎の本心を知りたかった。
僕たちに頼み事をする以上、憎しみは隠していたに違いない。
「……『ああなるのは、当然だ』と言っていた。『親兄弟を亡くして、 “まとも“ でいられる訳がない。 “まとも“ でいられる奴は、おかしい。オレだって父ちゃん母ちゃんが亡くなった時は、そうだった』ともな。恨みも強がりもなく、そう言っていた」
二人の顔が、目に浮かぶ。
傷つき、失い、裏切られ、それでも思いやる、彼らの顔が。
「何故あいつは、『貴方の力になってくれ』と言ったんですか? 何があったんですか?」
こいつと過ごしたのは、わずか八日間だ。僕たちとの三か月にも及ばない。
その短い期間に、何があったのだ。
「何も、ないよ。ただケンカして、一緒にメシ食って、畑仕事しただけだ。ああ、祝言であの二人に媒酌人をしてもらったかな」
七歳の媒酌人?
「でもそんな事は、関係ないと思うぞ。俺は、あいつらが好きだ。十年間想い続けた位、好きだ。きっと、その気持ちが伝わったんだと思う。人はな、弱っている時の好意は沁みるもんなんだよ」
彼は気負いもせず、自然な口調で、愛情深く、そう言った。
――なにか、解った気がした。
雄兵郎たちは、救われたのだろう。この飾らない愛に。
人を信じる気持ちを、失わなかったのだろう。
『ありがとう!』
心の中で、彼に大きく頭を下げる。
僕は、貴方のために、全力を尽くします。
まさかの怜司回でした。
でも彼らが勇哉に協力する理由、雄兵郎への想いを語るには、彼が最適でした。
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