情けは人の為ならず
雪峰のような清らかさで、白刃の如き鋭さで、亜夢美はじっと俺を見つめていた。
「さすがに一年分のお手紙を一度に見るのは無理ですよね。見終わったら言って下さい。次の分を持って来ます。……四歳の私が書いた手紙を」
冷たい川水のように、言葉が淋しさを纏って流れて来る。
それは孤独という木の梢から滴り落ちた、哀しいものだった。
十七歳の亜夢美の後ろに、三歳から十六歳の14人の亜夢美が立っている。
みんな嬉しそうに、俺を見つめていた。――やるせなかった。
「さあ、昔語りはこのくらいにして、これからの事を語りましょう」
亜夢美は両手を自分の目の前でパンと叩き、明るく言った。
「デートに行きましょう」
……はい?
「聞こえませんでしたか? デ・エ・ト――逢引きに行きましょうと言っているんです」
聴こえているよ! バーボン飲んだらチョコレート味で、脳が拒否反応起こしてるんだよ!
「どこに行こうっていうんだ。十日前の蒼函連絡船空襲で、街はまだ復旧してないだろ」
この状況で、遊び回れる場所は無いはずだ。
「浦町駅に行きます。そこで――炊き出しをします」
ああ、そういう事か。
空襲で焼きだされた人たちがいる。その支援か。
「十日前から殿倉家が行っているんです。県や市の配給だけでは足りませんから」
背筋を伸ばし、口をきゅっと引き締め、亜夢美は凛々しく言った。
「私も毎日行っています。勇哉さんも、お手伝いして頂けませんか」
断りづらい申し出だった。
行かなければ、無駄飯を貪る穀潰しだ。
「分った、行く。だがな……」
俺はせめてもの抵抗をする。
「それは、デートと呼べるのか?」
「愛する二人が出かければ、それは何であろうと、 “デート“ です」
恋する女性は強かった。
俺と亜夢美は浦町駅へと向かう。
二人っきりにはさせないと、紬と聡美も付いてきた。
駅は殿倉邸からすぐそこで、10分ほどで着いた。
「こんな駅、あったっけ?」
憑いてきた鈴が、明日香に問う。
「ないわよ、80年後には。私たちのいた時代の『平和公園』よ、ここ」
「『平和公園』! ということは、ここは……」
鈴の声が引き攣る。
「そういう事」
「マジか――、爆心地か――、ここ」
『平和公園』と名の付く場所は、日本中に沢山ある。その多くはそれなりの由来を持っている。ここも、例外ではない。
「この駅自体は燃えなかったけどね。ただ周辺の多くの建物が焼失して、ここは避難場所になったそうよ。1968年(昭和43年)に東北本線のルート変更に伴い廃駅となり、その跡地が『平和公園』に生まれ変わった……」
明日香は淡々と述べる。それが――より哀しかった。
「……そっか」
二人は四日後に起きる惨劇に思いを馳せ、駅をじっと見つめる。
「はいはい、順番ですよ。まだ沢山ありますから押さないで。さあ、召し上がれ」
満面の笑みで、亜夢美は豚汁を手渡す。
屋敷にいた時とは違う、粗末な服装だった。
割ぽう着にモンペを穿き、動きやすくて汚れてもいい恰好をしている。
装飾品は一切身に着けておらず、無意味に飾り立てるような真似はしない。
「殿倉んとこのお嬢さんだろ、あれ」
「年ごろの娘が、お洒落もしないで、汗水たらしながら毎日儂らに食べ物をよそってくれる。ありがたいこって」
あちこちから賛辞の声があがっている。
俺はその横で、黙々と豚汁の鍋を掻き回していた。
俺の心はこの鍋のように、混沌としていた。
「何が目的だ?」
行列も途絶え、休憩に入った俺は、亜夢美に問いかける。彼女はキョトンとした顔をする。
「この食糧難に、何の力も持たない庶民に大盤振る舞いをして、割に合わないんじゃないのか」
俺の言葉に亜夢美は目を細め、静かに言った。
「『何の力も無い』と云うのは――誤りです。彼らには力があります。それが集まれば、天をも揺るがす力となります」
俺の言葉を否定するのではなく、『もっと大きな目で見よ』とでも言うような口ぶりだった。
「これは、彼らの為だけに行っている訳ではありません。殿倉の為になる事なんです」
「民衆の好感を得ようとか?」
俺はその真意を掴みかねた。
「今さら殿倉がそんなものを必要とするとでも? 悪辣非道と謗られてても、涼風のように受け流す、あの父ですよ」
亜夢美の貌は、悲しそうだった。
「いまに……わかりますよ……」
枯れ葉を揺らす、秋風のような声だった。
炊き出しを終えた俺たちは帰路に就いた。心にモヤモヤしたものを抱えながら。
「おっと、ごめんよっ!」
そんな鬱屈した俺に、一人の少年がぶつかって来た。
十二歳くらいの、貧しい身なりをした少年だった。
身体は痩せ細り、骨が浮き出ていた。
少年は軽く謝り、足早に立ち去る。
それを見ていた聡美が、眉を吊り上げる。
聡美が少年を追いかけようとする。俺は彼女の手を掴み、それを止める。
彼女はキッと俺を睨みつける。俺は頭を振り、『やめろ』と意を示す。
「ずいぶんと、お優しいんですね」
当てこするような、非難がましい声で聡美は言う。
「気持ちいいですか? 施しを与えて。明日に繋がらない、実を結ばない優しさを振舞って」
少年は、スリだった。俺の懐から財布を掠めていった。
「やめなさい、聡美。無礼ですよ。いいんです、勇哉さんはそれで。担がれる神輿はこの世の些事に拘らず、ただその尊い気高さを見せればいいんです。至らぬ点は、私が補います」
亜夢美が、慈愛に満ちた声で、聡美を諫める。
その声は天から降るようで、どこか傲慢だった。
「行きましょう」
亜夢美は静かに歩みを進める。聡美はそれに付き従う。
俺もそれに続こうとした。が、それは叶わなかった。紬が後ろで立ち止まっていた。
紬は肩を震わせていた。
「あいつらの肩を持つ訳じゃないけど、――間違ってると――思う。お兄ちゃんのやった事は、小さすぎる」
紬は声も震わせていた。
その声を聴くのは、悲しかった。
「いつかおまえにも、分かる時が来る……」
俺はそれだけしか言えなかった。
今はそれだけしか…………。
その日の夕餉は、静かだった。
誰もしゃべらず、黙々と食べた。
砂を噛んでいるようだった。
翌日、俺と紬は再び街に出た。
殿倉の人間は誰も付いてこなかった。
離れた場所から尾行してくる奴がいたが、まあ、これはしょうがない。
紬は相変わらず不機嫌だった。
賑やかな街中に出る。
人々の話し声が聞こえて来た。
「おい、聞いたか。三日後、蒼森で大規模な空襲があるって」
「おう。その前日に、アメリカ軍が空襲予告ビラを空から撒くともな」
「もしそのビラが撒かれたら、空襲は本当にあるってことか」
「これは予言だからな、オシラ様の」
「……どうする、逃げるか?」
「様子見だな。28日までに家に居なければ、配給がもらえなくなる。27日にビラが撒かれたら……考えなければいかんな」
街は騒然としていた。
「ほお。思ったより早く、広まったな」
想像以上の成果に、俺は満足の笑みを浮べる
「……お兄ちゃん、何をしたの?」
紬は目を見開き、訊いて来る。
「俺は、何もしていない。やったのは、――雄兵郎たちだ」
俺は自分を飾らない。功績を横取りするような真似はしない。
「雄兵郎? 茅崎に帰ったんじゃなかったの?」
紬は驚きの色に染まる。
「まだ、帰ってない。最後に一仕事して、それから帰る手筈になっている。この蒼森で、俺の指示を待っていた。そして昨日、指示を出した。この噂を広めろと」
「いつ、どこで? そんな素振りはなかった!」
言った瞬間、紬はハッとした顔をする。
「もしかして、昨日のスリは――」
「雄兵郎の仲間だ。あいつにスられた財布の中に、指示書が入っていた」
スられる前に、あいつはハンドサインを送って来た。そうでなければ、易々とスらせはしない。
「おまえの兄ちゃんはな、財布をスられるような間抜けでもないし、無意味に施しを与えるようなお人好しでもないんだ」
俺の言葉に、紬は涙を流し始める。
「これで、犠牲者を減らせる…………」
俺は、心から安堵の溜息をつく。
「やっぱりお兄ちゃんは、お兄ちゃんだ……。私の自慢の――お兄ちゃんだよ」
嬉しそうに、満足そうに、紬は泣いていた。
「けっこう大変なんだぞ、おまえの兄ちゃんするの」
この妹に相応しい兄でいようと、俺は努力を惜しまない。
この顔を見るためなら、どんな苦労でも厭わない。
「ふふっ。己の生まれの不幸を、呪うがよいっ!」
紬は両手を俺の左腕に巻き付ける。
甘えるように、俺の腕に頬ずりをする。
俺は神に感謝した。紬の兄に生まれた幸運を。天使を授けてくれた配剤に。
俺たちは騒がしい蒼森の街を、連れ添い歩く。
俺たちはきっと離れない。
諍い、行き違いがあっても、いつまでも傍にいる。
たとえこの身が朽ちようとも…………。
携帯が存在しない世界です。古式ゆかしい接触方法をとってみました。昔のスパイたちは、大変だったんですね。
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