メモリー
「愛してます」
うっとりと、酔いしれるように、亜夢美は甘く囁いた。
燦々と弾む夏の光が、庇をくぐり彼女に降り注ぐ。
金粉で飾られた彼女は神々しく輝いていた。
薔薇のような笑顔が咲く。その花は、ひとつ、ふたつ、みっつ……つられるようにどんどんと咲き迸り、幸せそのものといった貌をしていた。
彼女はいま、伝えられたのだ。積年の想いを。こんこんと湧き出る抑えきれない熱情を。
満開の桜のように、彼女の愛は咲き誇っていた。
「おい、そこの一級フラグ建築士!」
煮え立つ薬缶のような怒りに満ちた声が、背後から俺に浴びせかけられる。
「わたくしめの事でしょうか」
爆発しそうな亜麻色の髪の少女に、これ以上ないという位の丁寧な対応をする。
「てめえ以外に誰がいる! ぽんぽんぽんぽん見境なくフラグおっ立てやがって。立てるのはいいけど、折るか回収するか、きちんとしろ。ほったらかしが、一番タチが悪い!」
鈴は閻魔様みたいに眉を吊り上げ、真っ赤な顔をし、憤怒の化身と化している。
逆らっちゃダメだ。
「仰せの通りでございます。みんな私が悪うございます」
平身低頭するしか、選択肢は無かった。
「てめぇ――、謝ればすむと思っているのか! 誠意がない! その考えが気に入らない!」
鈴はなお激昂する。……どうしろって言うんだ。
「勇哉さんは、何をしているのかしら?」
不思議そうな顔で、亜夢美は俺を見つめる。
鈴が見えない人間からすれば、突然俺が土下座をして謝り始めたようにしか見えない。不審に思うのも無理はない。
訝しむ亜夢美に、聡美が擦り寄ってゆく。そして耳もとで、ごにょごにょと何か呟いた。
「ふむふむ。『あれは勇哉さんに懸想している亡霊。ただし “友達以上、恋人未満“ の扱いで、女の方はのぼせ上っているけど、勇哉さんの方にその気はなし。私の敵ではない』と――」
亜夢美は得心いったように、何度も頷く。
「てめぇ――、言ってはならん事を! やんのか、相手になってやんぞ!」
鈴の怒りの矛先が、俺から亜夢美・聡美ペアに移る。
助かった……のか?
「まったく、少しは落ち着きなさい。冷静に、クールに、激情に飲み込まれるのは、愚か者のする事よ」
明日香がスタイリッシュなポーズを取り、颯爽と前に出て来る。
腰を落とし、足を広げ、開いた手を顔の前に置き、その隙間から眼が覗いている。
……中二病かよ。
そんな明日香を、聡美が明確に分析する。
「格好をつけていますが、おばあちゃんの知恵袋的なポジションですね。大事にはされますが、それだけです。脇役の域を出る事はありません」
こいつ、21世紀の概念を理解してないか?
「……よろしい。その喧嘩、買わせて頂きます。かかってきなさい!」
明日香はファイティングポーズをとる。
……こちらの沸点も低かった。
かくて明日香・鈴 ✕ 亜夢美・聡美のタッグマッチのゴングが鳴ろうとした。
「お兄ちゃん、なにが起きているの?」
紬が怯えた表情で聞いて来る。
こんな修羅場、説明できるか!
「ええい、やめやめ! 『話せばわかる』――犬養さんもそう言っただろう。暴力と云う肉体言語で語るんじゃない!」
先程までの亜夢美の話に引きずられたのか、そんな台詞が出てきた。
「そうですね。このまま力任せに屈服させるのは、あの日の暴漢たちと一緒になります。私は自分の想いを穢したくありません」
俺の言葉に真っ先に賛同を示したのは、亜夢美だった。
あの日の体験が、共感を呼んだのだろう。
「話し合いに応じるのは、やぶさかではないわ。言葉という武器は、私が最も得意とするところだし」
続いて明日香が矛を収める。
よかった。これで平和的にいきそうだ。
だが、鈴がそれに異を唱えた。
「明日香、それでいいの? ただでさえメアって強敵がいるのよ。あいつらの参戦を許していいの? ここで叩き潰しておく方がいいんじゃない? ライバルをみんな潰して、最後に私たちが戦うのが、このラブ・バトルロワイアルの戦略じゃなかったの?」
お前たちは、どこで何を争っているんだ?
「私としては、あいつらの参戦を許してもいいと思っている」
「けどあいつ、 “姫川 歩“ だよ。ユマの性癖が歪んだら、どうするの!」
…………おい。
「私はそれでも構わない。悠真がそれを求めるならば。……いや、それはそれでアリというか」
おお――――い。
「腐ィルター通して見るんじゃない! うっすい本書き過ぎて、脳みそまでペラペラになりやがったか、この腐ェニックス!」
鈴は盟友をなじる。
なぜだろう。言葉の端々に、ルビが見える。
「あの人たちは、何を言っているのかしら?」
亜夢美は再び聡美に問いかける。
「申し訳ありません。言ってる言葉は分かるのですが、意味がさっぱり分かりません……」
流石の聡美も、21世紀スラングは理解出来ないようだ。
……よかった、解説されなくて。
ここには紬がいるんだ。男女の恋愛も理解していないこいつに、上級者向けの恋愛を教えたら大惨事だ。
俺は80年後の、腐りきったもう一人の妹を思い浮かべる。
「話し合いの前に、ハッキリさせておきたい事がある。これは、どういう事かな~?」
鈴がヒラヒラと、手に取った写真を振る。
三歳の俺と亜夢美が……キスしている写真だ。
「一切記憶にない!まるで覚えていない!」
どこかの政治家の答弁みたいになってしまった。
「大体なんでこんな写真があるんだ。あの非常時に、呑気に記念撮影してる暇はなかっただろう」
ご都合主義とは言わないが、いくら何でも出来過ぎている。
「あら、これは必然ですよ。あの日帝国ホテルには、アメリカの喜劇王が泊まっていたんです。その取材で大勢の報道陣が来ていて、その中のカメラマンが撮ったんです。インパクトのあるシーンでしたからね。本当なら『お手柄。三歳児カップル、国家の危機を知らせる』って新聞の一面を飾る筈だったそうですよ。それはまあ、家のお父様が握り潰しましたけど」
そういえばそうだった。ちょうどあの人が来日してたんだ。あの日犬養首相との歓迎会を予定していたが、変更したお陰で難を逃れたと聞いている。
「あんた、なんちゅう事してんのよ。バタフライエフェクトどころじゃないでしょ。ガッツリ歴史の本流を掻き回しているじゃない」
鈴の指摘に、返す言葉もない。
「鈴、そんな事はどうでもいい。問題は、もっと別の所にある」
明日香がこれ以上ないという位、真剣な顔で話しかける。
タイムパラドックス以上の問題とは、なんだ。
「問題は、…………どっちからキスしたかという事。悠真からだったら、私は――自分を抑える事が出来ない! うふっ うふっ うふっ」
こえ――――。
“笑い“ は “怒り“ より怖いと云うが、本当だった。
「どちらからとかでは、ありません。お互いが求め、魅かれ合い、魂の片割れが寄りそったのです。今でも思い出しますわ。熱く激しい口づけを。きゃっ!!」
いらん事言うな!
明日香と鈴が、怒髪天を衝いた。
いかん、なんとか納めないと。
「待て待て、ノーカンだ、ノーカン!」
俺の言葉に、亜夢美はキョトンとした顔をする。
「 “のーかん“ とは?」
「 “ノーカウント“ 、勘定に入れないって事! 三歳児のやる事に、責任持てるか! 大体俺はその事を覚えていない!」
「そう――ですか――」
彼女の目に一筋の涙が流れた。悲しみが零れてきた。
「私は、あの日の事を思い返さない日はありませんでした。この写真を見て、何度も何度も思い返してきました。」
自分の生きる縁、それに縋るような目をしていた。
「あなたは――そうじゃなかったんですね」
暗闇に取り残された幼子が、そこで泣いていた。
置いて行かれた淋しさで。求められない哀しさで。
「ユマ、それはちょっと……ないんじゃない」
流石の鈴も、痛々しくて見ていられないといった顔をする。
「けどそれも、仕方ないかもしれませんね。直輝さん――あなたのお父様は、あの日の事を無かった事にしようとしてましたから……」
父さんが、どうして?
「あの事件は、直輝さんにとっても不本意だったんです。結果的に東北の民に同情的だった皇道派を見捨てる事になったのですから。家のお父様みたいに割り切れればいいのですが、大道寺の血統はそういうのが出来ません……」
確かに大道寺の人間は融通が利かない。良くいえば “理想家“ 、悪く言えば “夢追い人“ 。
「直輝さんの前では、あの事件は禁句になったそうです。勇哉さんがあの日の事を忘れるのも、無理がありません」
そう言えばあの事件について、家で一度も聞いた事がない。
俺があの日東京にいた事も知らなかった。
「思い出は思い返さないと、消えてしまいます」
小鳥のような小さな声で、亜夢美は震えながら言った。
「匣から取り出さないと、死んじゃうんですよ、思い出は」
何度も思い返すことで、記憶は定着すると言われている。
ならばそれを怠ると…………。
俺と彼女の認識の違いは、そこから来ているのか。
「痩せ細り、しぼみ、薄れ、消えてゆくんです」
まるで赤子を案ずる母のような声で、愛しいものを慮っていた。
彼女は何を見ているのだろう。
輝かしい過去か? それとも共に宝物を分かち合う未来か?
「だから私は刻みました、思い出を」
亜夢美はそう言うと、聡美に目配せをする。
それを受け聡美は頷き、廊下から何かを運んで来た。
柿渋が塗られた、大きな葛籠だった。
亜夢美はその蓋を開け、何やら取りだす。
「あなたに宛てたお手紙です。三歳の私が綴った。……どうぞ」
葛籠の中には、沢山の手紙が入っていた。
百や二百の数ではきかない。一体幾つあるんだ。
亜夢美はその中の数通を取り出し、俺に手渡した。
『ユウヤ、おげんきですか。わたしはちょっと げんきがありません。ユウヤにあえないから。ユウヤにあえたら、きっと げんきいっぱいに なるのにな』
『さむくなってきましたね。ゆびが つめたいです。そんなときは ユウヤの手を 思いだします。あったかくて、ほっとする手。もういちど、つなげる日を 夢みて』
『月が きれいです。あの日ユウヤとみた 月みたいに。まんまるで、大きくて、やさしくて、ユウヤをみたいなお月さま。お月さまは わたしを照らす。かなしみをみんな、ふきとばしてくれる。そんな あなたに……あいたい』
三歳の亜夢美が語りかける。
切なく、いじらしく、……抱きしめたくなった。
目にうっすらと、涙が滲んできた。
亜夢美がそれをじっと見つめている。
不安気に、期待を込めた目で。
まるで最後の審判を待ち受ける者のように。
俺は一通読み上げるごとに、亜夢美に手渡した。
頷き、微笑を添えて。
彼女はそれを見るごとに、氷が融けるように歓びを現してゆく。
その貌は、俺の脳裏に埋もれた、小さな女の子を掘り起こしていった。
亜夢美は俺が読み終えた手紙を、机の上に並べる。
それを丁寧に折り畳み、紙飛行機を作っていった。
いつつ、むっつ、ななつ……そして十まできた時、亜夢美は燐寸を取り出した。
何をする気だ!
マッチ棒の頭を、箱の側面でシュッと擦り、火をつける。
そしてメラメラと燃える火を、紙飛行機の頭部分に近づけた。
紙飛行機が、炎に包まれる。
頭の炎は段々と燃え広がり、翼や胴体の周りの空気がゆらゆらと揺れる。
亜夢美はまだ燃えていない胴体部分を持ち、『えいっ』と勢いよく窓から飛ばした。
紙飛行機は飛んで行く。
亜夢美が書いた幼い字が見える。
それが段々と炎に包まれ、黒い塊に変わってゆく。
紙飛行機は飛ぶ力を失い、庭の砂利道に堕ちる。
そこでもうもうと煙を上げ、煙は天に昇ってゆく。
亜夢美は次の紙飛行機に火をつける。
ふたつ、みっつ、よっつ……。火の鳥が次々と羽ばたいていく。
「なにやってんだ!」
俺は思わず怒鳴った。
理解出来なかった。これはこいつの、大事な思い出の品じゃないのか。
「役目を終えたからですよ。私の気持ちをあなたに伝えると云う役目を。ならば天に還し解き放つのが、労いでしょう」
彼女は、微笑んでいた。身震いするくらい美しく。
「三歳の私の想いは、お伝えしました。それはきっと、あなたの心に残るでしょう。でもそれは、過去のことです。今の私の想いとは、少し違います。けれど今の私の想いは、突然湧き上がった物じゃないんです。三歳、四歳、五歳……これまでの私が積み上がって出来た物なんです。知ってください、『今の』私の想いを、その成り立ちを……」
毅然とした態度で、澄みとおった声で語る。
「思い出は、飛び石です。今の想いに到るための」
彼女のこれまで歩んで来た年月は、決して蔑ろにしていい物ではない。そう言っているのだ。
「あと、13箱あります。あなたに綴った手紙が、それぞれの齢にまとめて。また、お持ちしますね」
嬉しさに弾んだ、活き活きとした声だった。
これまでの14年間の自分を否定せず、未来へと繋ぐ事が出来たのだ。
思い出を焼べ、紙飛行機が燃える。
三歳の亜夢美が天に昇ってゆく。
そこに一人の子どもが駆け寄ってゆく。
三歳の、俺だった。
二人は手を繋ぎ、幸せそうに見つめ合い、そして……消えていった。
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