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幽霊となったクラスの女子が、僕のパンツから這い出て来た  作者: 相沢 真琴
第六章 燎原之火(りょうげん の ひ)
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願文

薬も過ぎれば毒となる。

天使も過ぎれば悪魔となる。


私は今、なにかと戦っていた。



「このクッキーおいしいよ。食べてみて」

「おでこも打ったんだよね。いたいのいたいの、とんでゆけー」


やめろ! 天使成分摂取過多だ。

私は天国という名の牢獄に囚われていた。

幸福と云う足枷が、私をここに(とど)めていた。


「血は止まったみたいだね、よかった」


邪気の無い顔で、天使が微笑みかけてくる。

その瞳に映る計算高い女の貌が、イヤだった。



「おなまえ、教えてくれるかな?」


乾いた血の跡を濡れたタオルで拭き取りながら、彼は優しく訊いてきた。


「あゆみ…………」


“殿倉“ の名は、なんとなく口にしたくなかった。

家とは関係なく、一人の人間として相対したかった。



「 “アユミ“ ちゃんか。僕は “ユウヤ“ 、よろしくね」


彼はそう言うと右手を差し出してきた。

最初その意味が分からなかった。

だが先程まで乗っていた汽車で、同じような光景を目にした。

再会した者が、別れる者が、お互いを想い、やっていた事だ。

私も右手を差し出し、彼の手を強く握りしめた。


「よろしく…………」


私はそれを言うのが精一杯だった。

彼の手は、温かかった。……幸せだった。


「 “たんけん“ に行こうか!」


彼が悪戯っぽい顔で提案してきた。



「 “たんけん“ ?」


「そう、 “たんけん“ 。このホテル、すっごい広いんだよ。キラキラしてキレイだし。 “たんけん“ に行こう!」


彼の瞳は輝いていた。

私はもはや、ホテルの探索などどうでもよかった。

ただ彼のキラキラした瞳を、見続けたかった。


「うん、行こう!」


私と彼は手を繋ぎ、仲良く駆け出した。


「ちょっとお待ちなさい。私も付いて行きますからね」


フミと呼ばれた長身の女性が、私たちを追いかけて来た。

私たちは連れ添い、ロビーへと降りて行く。




そこは、おとぎの国だった。

三階までの吹き抜けとなっていて、天井は高く、太陽光が燦々(さんさん)と降り注ぐ。幾何学模様の装飾を施した大谷石、黄色いスクラッチレンガで創られた“光の籠柱”は複雑な表情を見せ、太陽の移ろいと共にその陰影を変化させる。まさに生きた建物だった。


私たちはその芸術に、酔いしれた。



一通りロビーを堪能した私たちの興味は、外の世界へと向かった。

テラス席を見つけた私たちは、庭へと出た。


和洋折衷の世界が広がっていた。

左右対称(シンメトリー)の西洋風でありながら、灯籠(とうろう)や置石などを配置している。

それは統一感を持ち、独特の美を作り出していた。

私たちはその不思議の国に入り込んだ。




テーブルの下、大人の目の届かない場所で、二人だけの世界にいた。

そこは時間と云う概念が消えた、妖精の世界(ネバーランド)だった。

そこでは私たちは王であり女王であり、永遠だった。

終わりのない喜びに、包まれていた。

私たちはギュッと手を繋ぎ、はぐれないようにした。この至上の幸福から。




二人の笑い声だけの世界に、音楽が流れてきた。

パパパパーン!パパパパーン!

メンデルスゾーンの『結婚行進曲』だった。


ロビーから、結婚衣装を纏った一組の男女が出て来た。

純白のウエディングドレスとタキシード。おとぎ話の世界から抜け出して来たような二人だった。


周りの人たちが、拍手と花のシャワーで出迎える。

二人はこの上なく、幸せそうだった。



「きれい…………」


私は思わず零す。感嘆と憧れを込めて。



「あれ、花嫁さんかな?」


ユウヤは、ぼうっとした表情で言った。


「ハナヨメさん?」


私は知らない言葉を繰り返した。


「ケッコンする女の人のこと」


「ケッコン?」


またまた知らない言葉が出て来た。


「好きな人たちが、ずっと一緒にいること。ボクのお父さんとお母さん、キミのお父さんとお母さんがそう!」


“ケッコン“ ――なんてステキな響き。

私とユウヤが “ケッコン“ すれば、ずっと一緒にいられるのかしら。


「あの二人は、どうやって一緒になれたの?」


私はそれを、心から知りたかった。

ユウヤは『さあ?』と首をかしげる。

私たちがそれを知るには、幼過ぎた。




「まあ、お嬢ちゃん。恋がどうやったら叶うか、知りたいの?」


私たちの近くに居た老婦人が、話しかけてきた。


「こい?」


私は老婦人に聞き返す。


「そう、恋! 好きな人の隣りに、ずっと一緒に居たいと想う気持ち!」


それはまさしく、今私が求めているものだ。

私は縋るように彼女に尋ねる。


「 “こい“ がかなうと、ユウヤくんとずっと一緒にいられるの?」


「ええ、死ぬまで一緒よ。いえ、死んでからもお墓の中でずっと一緒。生まれ変わっても、一緒よ」


神のお告げに聞こえた。悪魔の囁きにも思えた。……どっちでも、よかった。


「どうしたら、“こい“ がかなうの?」


私はこれ以上ないというくらい、真剣な声で尋ねた。


「あらら、女の子ね――。その齢でもう恋をしてるの」


「よくわかんない。けど、ユウヤくんと離れたくない……」


私の素直な返答に、彼女はどこか切ない顔をした。


「そう。おばさんも、そんな気持ちになった事があったわ。その人は奥さんも子どももいて、とても幸せそうな人だった。その人の幸せを奪おうとは、少しも思わなかった。ただ、傍にいたかった……」


それは老婦人の目でなく、恋する少女の目だった。


「 “こい“ は……かなったの?」


「ええ、お陰様で。私は今、この上なく幸せよ」


「どうやって、かなえたの?」


私は興味津々で尋ねる。


「恋する人を、ただひたすらに想ったの。自分のこと以上に大切に、その人の喜びを自分の喜びより大きく感じ、その人の苦しみを自分の苦しみより切なく感じたの。そうするとね、伝わるのよ、『愛してます』って。そしてその “愛“ は、知らず知らずのうちに私に還ってきた……」


彼女の瞳は、輝いていた。


「もちろん挫けそうになった事は、何度もあったわ。鬼が頭をもたげて来る時が。そんな時は、神さまの力を借りたの」


「神さま?」


「『浅草寺(せんそうじ)』という有名なお寺の中に、『久米平内堂(くめのへいないどう)』って縁結びの神さまを祀ったお堂があるの。その神さまの力を借りたわ」


彼女のような人が、神仏に頼るのだろうか。私は疑問に思った。


久米平内(くめ の へいない)というのは江戸時代の武士でね、夜ごと辻斬りをして多くの人の命を奪ったの。年を取ってそれを悔やみ、自分の姿を石に刻んで、それを大勢の人に踏みつけられることで殺した人々への供養としたと伝えられているわ。そして『踏みつけ』が『文つけ』――いわゆる『恋文』に変換され、願文(がんもん)を納めると恋が成就すると信仰されるようになったわ」


彼女は淡々と話す。その目は冷静で、狂信者の匂いは無かった。


「 “人斬り鬼“ が “仏様“ になれるのなら、 “夜叉“ の私でも “観音様“ に近付けるかもしれない。そう思って願文(がんもん)を奉納したの。……びっくりしたわ。神さまって、お空の上やお月さまにいらっしゃると思っていた。けれど、そうじゃなかった。神さまは、私の中にいらっしゃたの」


どういう意味だろう。難しすぎて、私にはサッパリ分からなかった。


「澄んだ気持ちで祈っているとね、神さまがやって来るの。それは天から降りて来るとかではなく、私の心の内から、じわじわと染み出て来るの。思いやり、愛、優しさ、そんなものに包まれるの。それはとても心地良く、自分が気高いものになったように思わせてくれる魔法なの」


ああ、そういう事か。神仏に頼るのではなく、自分を神仏に近づけたのか。腑に落ちた。




犬養(いぬかい)さま、こんな所にいらっしゃたんですか。写真撮影が始まりますよ。どうぞこちらにお越し下さい」


先程会った、 “支配人“ と呼ばれた男が話しかけてきた。

彼は私を見咎めると、不思議そうな顔をした。


「亜夢美さまと、お知り合いだったのですか?」


「いま、お友達になったところですよ。こちらのお嬢さまは?」


「殿倉 主馬さまのご息女です。……殿倉 静さまの姪御さまに当たられます」


支配人の言葉に、彼女の表情が変わった。


「……そう、あの方の」


二人は私を通して、遠いものを見ていた。


「亜夢美ちゃん、私は貴方の叔母さまに助けられた事があるの。九年前、震災の日に、私はここにいたの。"ライト館" の落成披露宴に招かれて」


ありし日の思い出を語るように、しみじみと話す。


「貴方の叔母様は、立派な方だったわ。十三歳の幼い身でありながら、未曾有(みぞう)の災害に(ひる)まず、震災で茫然自失となっている人を導き、助けたの。……ああいう時にこそ、 “人の真価“ は(あらわ)れるのでしょうね」


あの叔母が? 殿倉を放逐されたあの叔母が?


「私の夫は、震災の次の日、9月2日から逓信(ていしん)大臣に就任する事が内定していたの。(逓信省(ていしんしょう):郵便、通信、運輸を管轄する中央官庁。総務省、国土交通省、日本郵政の前身) あの人の伴侶として、それなりの覚悟を持っていたわ。けれどあの時の私は……何の役にも立たなかった」


唇を噛みしめ、口惜しそうに言う。


「躰に突き上げるような縦揺れの感触が残り、燃えさかる帝都を()の当たりにして、ただ恐怖に(おのの)いていた。我が身の事しか案じられず、他の人の事を思いやる余裕はなかった。政治家の妻、失格ね……」


卑下するように言い捨てた。


「そんな私の前で、一人の少女が大の大人を叱り飛ばしていたの。『ぼうっとしてんじゃない。そんなヒマがあるなら、バケツに水を汲んで火を消せ。火が広がったら、死ぬぞ。誰かが助けてくれるだろうと、甘えるんじゃない!』って、小気味いい位に傲岸不遜に(ののし)っていたわ」


その人はもしかして……。


「ああ、これが導くと云う事なんだと、得心したわ。人からどう思われようなどと、考えの埒外(らちがい)。そもそも『人から嫌われてもいい』と云う考えが、さもしい。本当に人を思い遣る者は、そんな事は思いも寄らない。ただ人を救う事だけを考える。そこで自分が犠牲になるとかの考えがよぎるのは、安っぽい英雄願望(ヒーローシンドローム)で、生贄を捧げるような責務を放棄した甘ったれで、見苦しい自己陶酔者(ナルシスト)に他ならない。……あの人は、その対極に在った」


誰のことを言っているんだ。私は認めたくなかった。


「自分の、いえ皆のすべき事を明確に理解し、その道筋を整えた。……立派だった、惚れ惚れとしたわ。遥かに年下なのに、『あんな人になりたい』と思ったわ」


そんな立派な人だったの? 父の言葉と彼女の言葉が殴り合う。


「貴方も、叔母様みたいな人になってね」


私の頭の中は、混乱した。

彼女の語る叔母の姿、父の語る叔母の姿が、どうしても同じものに思えなかった。

だが彼女の言葉に縁どられる叔母の姿は、とても神々(こうごう)しく感じられた。






一行は、写真撮影のためロビーへと入って行った。


取りあえず叔母のことは棚上げだ。

父に話を聞かなければ判断できない。


それよりもこれからどうするかだ。

私はユウヤを見つめる。


『行く?』 私は目で尋ねる。

彼はじっと私を見て、コクリと頷いた。


私たちは新たな探検へ、出発する事にした。






玄関まで出た私たちはタクシーに乗り、『浅草寺』へと向かう。

当然フミさんも付いて来た。

仕方ない。三歳児だけでは乗れないし、何しろお金がない。

『後でお父さまが払うから』で通じた蒼森ではないのだ。


『逃げ出したら無賃乗車で牢屋に入れられますからね』と、フミさんは脅しをかけてきた。

逃亡は、出来ないようだ。



宝蔵門(ほうぞうもん)』をくぐり、『お水舎(おみずや)』で身を清め、『本堂』に昇る。

天上から、白く透明な天女が見下ろしていた。

憂いを秘めた微笑みは、その横にある龍のぎょろりとした目より、恐ろしかった。




本尊にお参りした後、私たちは本命のお堂へと向かう。

人が行き交う『宝蔵門』の近くに、それはひっそりと祀られていた。

久米平内堂(くめのへいないどう)』――小さなお堂が、そこに在った。



「さあ、奉納しますか」


フミさんの呼びかけに、私たちは隣接する『伝法院(でんぼういん)』に入って行く。

そこで願文(がんもん)を書くのだ。



『ユウヤと、けっこんさせてください』


『アユミといつまでも、あそべますように』


たどたどしい拙い文字で、願文(がんもん)を書き上げてゆく。

三歳児が文字を書けるだけでも、驚嘆に値する。


フミさんが『私が書きましょう』と言ってくれたが、私たちは(がん)として聞き入れなかった。

彼女に手本を書いてもらい、それを見ながら必死に書き上げた。

気は心だ。きっとこの祈りは届くだろう。


だがそれにしても……。

私は二人の願文(がんもん)を見比べる。



『けっこんさせてください』 『いつまでも、あそべますように』


……この願いの温度差は、如何(いかん)ともし難い。

まあそのうち彼の心を、私一色に染め上げてやる。



心地良い充実感に包まれ、私たちはタクシーに乗り帰途に就く。

時間は夕方五時を回り、日が陰り始めていた。




「首相官邸は、ご覧になられましたかい?」


人懐っこい運転手が、話しかけてきた。


「3年前に出来たんだけど、これが『ライト風』でね。ほら、帝国ホテルを設計したあの有名な建築家。あの人のデザインにそっくりなんでさ。お客さん、帝国ホテルに泊まっているなら、こっちも見ておいた方がいいよ。後で話のネタになるから」


「それ、どこにあるんです?」


フミさんが興味を示す。やはり新しい情報は、仕入れたいのだろう。


「帝国ホテルのすぐそば、1キロぐらいの所。たいして時間もかからないし、そこに寄ってからホテルに帰りますか?」


「そうですね、お願いします」


スポンサー了承のもと、私たちは少し寄り道をする事にした。




そこは、ホテルとすぐ目と鼻の先の距離だった。

私たちは官邸前の広場で降りた。

そしてそこからテクテクと歩き、正門前に辿り着いた。


「ここに総理大臣がいるのかー」


私はひとり言を零す。

そこは巨大な建物だった。殿倉の屋敷よりも、何倍も大きかった。

私は乗り越えるべき壁の大きさを感じた。




見物している私たちに向かって、一台の車が突っ込んできた。

車は急ブレーキを踏み、正面玄関に乱暴に横付けする。

危ないな――。私は不快感を覚えた。


その車からわらわらと、五名の若い男たちが降りてきた。

男たちの表情は、一様に緊張していた。



「首相と、面会したい」


代表者が、低く決意に満ちた声をあげる。

緊迫した、(ただ)ならぬ雰囲気が漂っていた。

門前にいた守衛が不審に思い、駆け寄って来る。

それを見咎めた男たちは懐に手を入れる。

鈍い鉛色の物体が握られていた。

男たちはそれを水平に構え………………発砲した。



1932年(昭和7年)5月15日。

『五・一五事件』の幕開けだった。

思ったより長くなったので、前回と合わせて前中後編の三話にして投稿します。

"帝国ホテル" を舞台とするつもりはなかったのですが、史実を調べると犬養毅首相夫人『犬養 千代子』さんは、この日知人の結婚披露宴出席の為 "帝国ホテル" にいらっしゃったそうです。ここを舞台とするしかありませんでした。 "帝国ホテル" 、恐るべし!


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