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幽霊となったクラスの女子が、僕のパンツから這い出て来た  作者: 相沢 真琴
第六章 燎原之火(りょうげん の ひ)
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魔王

ランプの灯りがちょろちょろと揺れる。まるで部屋が息をしているように。

殿倉(とのくら) 主馬(かずま)はその中を、奥へ奥へと進む。

一番奥の棚まで行くと、そこから何かを取り出す。

大事そうに宝物みたいに掴み、そしてそれを傍にあった機械にそっと置く。

その機械は、蓄音機だった。置かれた物は、レコードだった。


彼は慎重に、レコードに針を落とす。

プツップツッという音がスピーカーから流れる。

おどろおどろしく、緊張感のある旋律が聴こえて来た。

三連符の畳み掛けるようなピアノの連打が、重い質感を持って鳴り響く。

弛緩した空気が、ピンと張り詰める。

俺は思わず声を上げる。


「シューベルトの、『魔王』――」


作品ナンバー『1』――『魔王』。

歌曲(かきょく)の王』――シューベルトが十八歳の時、ゲーテの詩を元に書いた曲だ。

その曲を奏でるピアノは若く、荒々しい音だった。


「ピアノ伴奏は私、そして独唱は君たちの父上――直輝(なおき)さんだ……」


主馬はそう語る。そして彼の言葉の後、懐かしい、銀のように澄んだ声が聴こえて来た。

父さんの声だ。俺の思い出の中にある、父さんの声だった。

ただその声は少し高く、若々しかった。


「私たちが東京帝国大学にいた頃、スタジオで録音した物だ。直輝さんが二十歳、私が十九歳の時だった……」


遠い目で、主馬は呟く。過ぎ去った日を思い返すみたいに。


「意外かい? そんな顔をしてる。これでも芸術には造詣があるんだよ」


俺の表情を見て、問いかけて来た。


「いえ、そっちじゃなくて。……主馬さんと父さん、不仲じゃなかったんですか?」


俺は思い切って飾らず尋ねる。


「ははっ。私たちは仲が良かったんだよ。よく一緒につるんで、本郷の街に繰り出したもんだ」


愉快そうに主馬は笑う。俺の無礼を咎めもせずに。

そして目を細め、曲に耳を傾ける。


父の歌声が、部屋に満ちていた。

語り手、父親、息子、魔王――四役を見事に歌い分けていた。


中音域で、冷静な口調な『語り手』

低音域で優しく宥める『父親』

高音域で恐怖に怯える『息子』

中高音域の甘い声で誘惑する『魔王』


見事に演じ切っていた。

そしてそれを引き立たせるのがピアノの伴奏。

迫力ある三連符の連打は、疾走感、不安感、緊張感を高めてゆく。



「直輝さんが、この曲を気に入ってね。二十歳の記念にレコーディングしたんだよ。『これは今でしか歌えない曲だ』と言って……」


シューベルト作曲、『魔王』。


暗闇の中、高熱にうなされる息子を抱き、馬を走らせる父親。息子は『魔王がいる』と怯え、父親に訴える。だが父親には、魔王は見えない。『気のせいだ』と父親は息子を慰める。だが息子の恐怖は益々強くなってゆく。息子に聴こえる魔王の声は最初は甘く、天国のような場所へと誘う。だが魔王は段々とその恐ろしい本性を現し、息子を力づく連れ去ろうとする。掴みかかる魔王に、息子の恐怖は極限に達する。その様相に、父親はただならぬ物を感じ、馬を急がせる。そしてやっと辿り着いた時、……息子はすでに息絶えていた。


確かこういった粗筋だったはずだ。

なぜ父さんは、この曲を選んだのか……。



物語が紡がれてゆく。

『息子』が恐怖に慄いている。魔王の声によって。

『父親』が必死に宥めている。恐怖に怯える息子の声を聞いて。


それはどれも父さんの声だった。懐かしい父さんの声だった。

しかしそれは、俺の知っている父さんの声とはどこか違っていた。



「なんで直輝さんが、『これは今でしか歌えない曲だ』と言ったか――分かるかい? 端境期(はざかいき)だったんだよ、子どもから大人への、理想から現実への……」


主馬の目は、俺たちを見ていない。遥か彼方の、時の向こうを見ていた。


「東京に出て来たばかりの頃は、理想に燃えていた。本気で世界を、未来を変えられると信じていた。だが理想に一歩ずつ近づくにつれ、その距離が遠のいて行くのを感じた。確実に近づいている筈なのに、進む為に乗り越えねばならない壁がはっきりと見え、その数や高さに絶望を味わった。決して到達出来ないと、打ちのめされた。それでも希望は捨てたくなかった。……そんな時代に、歌ったものだよ」


主馬の眼には、哀しみが零れていた。


「君たちが知っている直輝さんの声は、どんな声だった? おそらくこの『父親』のように、威厳があり、思いやりに溢れ、頼もしい声だっただろう。……だがその声は、最初から備わっていた物ではないんだよ」



蓄音機から流れる歌が、『息子』のパートになる。

高い声の、恐怖に圧し潰されそうな、悲痛な声だ。


「直輝さんは本来、繊細な人だった。優しく、情け深く、人の痛みを我が事のように感じる。それは尊く、清く、…………(もろ)かった」


『息子』の叫び声が、心の軋む音に聴こえる。



少年から青年に。脱皮する(さなぎ)の季節。

『息子』と『父親』の両方を歌い上げるのは、この時しかなかったのかもしれない。




「『魔王』とは、何だと思う?」


唐突に主馬は尋ねてきた。

それは昔から議論されてきた事だ。


「シューベルトやゲーテがどうこうではない。そんな物に興味はない。私が訊きたいのは、直輝さんが歌っている『魔王』が何なのか、彼がどう捉えていたかと云う事だよ」



父さんが歌う『魔王』が、優しく誘惑する。

レガートで連続する二つの音を途切れさせず、滑らかに歌う。

そして甘く囁く。理想郷へおいでと。



「理想は、美しい。だが残酷だ。誰の腕にも抱かれず、その美貌を見せびらかす、高慢な性悪女だ」


忌々し気に主馬は吐き捨てる。


「直輝さんは名前の通り、真っ直ぐな人だった。太陽に恋する向日葵みたいに、光に向かって真っ直ぐ伸びていった。そして、求める物に決して届かない事を知った。……それでも彼は諦められなかった。理想を手にする事を」


主馬はこの演奏をしていた若かりし日に返ったように、感情を嚙み締めながら語る。



『魔王』の口調が変わった。

優しい誘惑者から、猛々(たけだけ)しい簒奪者のそれに。

人の思いを踏み(にじ)る暴君の声に。




「お兄ちゃん……こわい……」


紬は怯えていた。この歌に、根源的な恐怖を感じていた。

震えながら、俺の体にひしとしがみ付く。



俺たちは父の知らない一面を見せられていた。

俺たちに見せていた『優しい父親』は、彼の一部でしかなかったのだ。




物語は終局に差しかかる。

ピアノがオクターヴ連打をする。

左右両手が、高さの異なる三連符を奏でる。

音がぎっしり詰まった演奏が、津波のように俺たちに襲いかかる。



テンポは加速し、俺たちは必死で音の奔流に抗う。

部屋中が、音の洪水に満たされる。

俺たちは魅入られたように聴き入った。



だが突然、終わりはやって来た。

弾幕のようなピアノの連打が止んだ。

馬が走りのを止める情景が、はっきりと浮かんで来た。

静まり返った景色の中、『語り手』が最後の一文を読み上げる。



「In seinen Armen das Kind war tot.」(父の腕の中……息子は息絶えた)



『語り手』の冷静な声が、最期を告げる。

そしてピアノの硬い音が、この世界を終わらせた。




部屋は静寂に包まれる。

レコードの、プツップツッと引っかかる音が虚しく響く。

異音を鳴らしながらレコードは、いつまでも回っていた。

主馬の、前回との落差が……。書いていて『こいつ、ほんとに同一人物か!」と思ってしまいました。


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