魔王
ランプの灯りがちょろちょろと揺れる。まるで部屋が息をしているように。
殿倉 主馬はその中を、奥へ奥へと進む。
一番奥の棚まで行くと、そこから何かを取り出す。
大事そうに宝物みたいに掴み、そしてそれを傍にあった機械にそっと置く。
その機械は、蓄音機だった。置かれた物は、レコードだった。
彼は慎重に、レコードに針を落とす。
プツップツッという音がスピーカーから流れる。
おどろおどろしく、緊張感のある旋律が聴こえて来た。
三連符の畳み掛けるようなピアノの連打が、重い質感を持って鳴り響く。
弛緩した空気が、ピンと張り詰める。
俺は思わず声を上げる。
「シューベルトの、『魔王』――」
作品ナンバー『1』――『魔王』。
『歌曲の王』――シューベルトが十八歳の時、ゲーテの詩を元に書いた曲だ。
その曲を奏でるピアノは若く、荒々しい音だった。
「ピアノ伴奏は私、そして独唱は君たちの父上――直輝さんだ……」
主馬はそう語る。そして彼の言葉の後、懐かしい、銀のように澄んだ声が聴こえて来た。
父さんの声だ。俺の思い出の中にある、父さんの声だった。
ただその声は少し高く、若々しかった。
「私たちが東京帝国大学にいた頃、スタジオで録音した物だ。直輝さんが二十歳、私が十九歳の時だった……」
遠い目で、主馬は呟く。過ぎ去った日を思い返すみたいに。
「意外かい? そんな顔をしてる。これでも芸術には造詣があるんだよ」
俺の表情を見て、問いかけて来た。
「いえ、そっちじゃなくて。……主馬さんと父さん、不仲じゃなかったんですか?」
俺は思い切って飾らず尋ねる。
「ははっ。私たちは仲が良かったんだよ。よく一緒につるんで、本郷の街に繰り出したもんだ」
愉快そうに主馬は笑う。俺の無礼を咎めもせずに。
そして目を細め、曲に耳を傾ける。
父の歌声が、部屋に満ちていた。
語り手、父親、息子、魔王――四役を見事に歌い分けていた。
中音域で、冷静な口調な『語り手』
低音域で優しく宥める『父親』
高音域で恐怖に怯える『息子』
中高音域の甘い声で誘惑する『魔王』
見事に演じ切っていた。
そしてそれを引き立たせるのがピアノの伴奏。
迫力ある三連符の連打は、疾走感、不安感、緊張感を高めてゆく。
「直輝さんが、この曲を気に入ってね。二十歳の記念にレコーディングしたんだよ。『これは今でしか歌えない曲だ』と言って……」
シューベルト作曲、『魔王』。
暗闇の中、高熱にうなされる息子を抱き、馬を走らせる父親。息子は『魔王がいる』と怯え、父親に訴える。だが父親には、魔王は見えない。『気のせいだ』と父親は息子を慰める。だが息子の恐怖は益々強くなってゆく。息子に聴こえる魔王の声は最初は甘く、天国のような場所へと誘う。だが魔王は段々とその恐ろしい本性を現し、息子を力づく連れ去ろうとする。掴みかかる魔王に、息子の恐怖は極限に達する。その様相に、父親はただならぬ物を感じ、馬を急がせる。そしてやっと辿り着いた時、……息子はすでに息絶えていた。
確かこういった粗筋だったはずだ。
なぜ父さんは、この曲を選んだのか……。
物語が紡がれてゆく。
『息子』が恐怖に慄いている。魔王の声によって。
『父親』が必死に宥めている。恐怖に怯える息子の声を聞いて。
それはどれも父さんの声だった。懐かしい父さんの声だった。
しかしそれは、俺の知っている父さんの声とはどこか違っていた。
「なんで直輝さんが、『これは今でしか歌えない曲だ』と言ったか――分かるかい? 端境期だったんだよ、子どもから大人への、理想から現実への……」
主馬の目は、俺たちを見ていない。遥か彼方の、時の向こうを見ていた。
「東京に出て来たばかりの頃は、理想に燃えていた。本気で世界を、未来を変えられると信じていた。だが理想に一歩ずつ近づくにつれ、その距離が遠のいて行くのを感じた。確実に近づいている筈なのに、進む為に乗り越えねばならない壁がはっきりと見え、その数や高さに絶望を味わった。決して到達出来ないと、打ちのめされた。それでも希望は捨てたくなかった。……そんな時代に、歌ったものだよ」
主馬の眼には、哀しみが零れていた。
「君たちが知っている直輝さんの声は、どんな声だった? おそらくこの『父親』のように、威厳があり、思いやりに溢れ、頼もしい声だっただろう。……だがその声は、最初から備わっていた物ではないんだよ」
蓄音機から流れる歌が、『息子』のパートになる。
高い声の、恐怖に圧し潰されそうな、悲痛な声だ。
「直輝さんは本来、繊細な人だった。優しく、情け深く、人の痛みを我が事のように感じる。それは尊く、清く、…………脆かった」
『息子』の叫び声が、心の軋む音に聴こえる。
少年から青年に。脱皮する蛹の季節。
『息子』と『父親』の両方を歌い上げるのは、この時しかなかったのかもしれない。
「『魔王』とは、何だと思う?」
唐突に主馬は尋ねてきた。
それは昔から議論されてきた事だ。
「シューベルトやゲーテがどうこうではない。そんな物に興味はない。私が訊きたいのは、直輝さんが歌っている『魔王』が何なのか、彼がどう捉えていたかと云う事だよ」
父さんが歌う『魔王』が、優しく誘惑する。
レガートで連続する二つの音を途切れさせず、滑らかに歌う。
そして甘く囁く。理想郷へおいでと。
「理想は、美しい。だが残酷だ。誰の腕にも抱かれず、その美貌を見せびらかす、高慢な性悪女だ」
忌々し気に主馬は吐き捨てる。
「直輝さんは名前の通り、真っ直ぐな人だった。太陽に恋する向日葵みたいに、光に向かって真っ直ぐ伸びていった。そして、求める物に決して届かない事を知った。……それでも彼は諦められなかった。理想を手にする事を」
主馬はこの演奏をしていた若かりし日に返ったように、感情を嚙み締めながら語る。
『魔王』の口調が変わった。
優しい誘惑者から、猛々しい簒奪者のそれに。
人の思いを踏み躙る暴君の声に。
「お兄ちゃん……こわい……」
紬は怯えていた。この歌に、根源的な恐怖を感じていた。
震えながら、俺の体にひしとしがみ付く。
俺たちは父の知らない一面を見せられていた。
俺たちに見せていた『優しい父親』は、彼の一部でしかなかったのだ。
物語は終局に差しかかる。
ピアノがオクターヴ連打をする。
左右両手が、高さの異なる三連符を奏でる。
音がぎっしり詰まった演奏が、津波のように俺たちに襲いかかる。
テンポは加速し、俺たちは必死で音の奔流に抗う。
部屋中が、音の洪水に満たされる。
俺たちは魅入られたように聴き入った。
だが突然、終わりはやって来た。
弾幕のようなピアノの連打が止んだ。
馬が走りのを止める情景が、はっきりと浮かんで来た。
静まり返った景色の中、『語り手』が最後の一文を読み上げる。
「In seinen Armen das Kind war tot.」(父の腕の中……息子は息絶えた)
『語り手』の冷静な声が、最期を告げる。
そしてピアノの硬い音が、この世界を終わらせた。
部屋は静寂に包まれる。
レコードの、プツップツッと引っかかる音が虚しく響く。
異音を鳴らしながらレコードは、いつまでも回っていた。
主馬の、前回との落差が……。書いていて『こいつ、ほんとに同一人物か!」と思ってしまいました。
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