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ロング・グッドバイ

昇り始めた太陽が、朝靄(あさもや)を少しずつ拭ってゆく。

夜露に濡れる草を踏みしめながら、慣れ親しんだ土の感触を感慨深く味わっていた。


7月22日――飛鳥山を去る日が来た。




雄兵郎(おべろう)千多(ちた)ちゃんは、一足早く小屋を出る事にした。

殿倉の連中に見つからぬように洞窟でやり過ごし、俺たちが出て行った後で人知れず山を下りる算段だ。


「兄ちゃん、短い間だったけど世話になったな。この事は、一生忘れない」


雄兵郎は片手で俺の右手をがっしりと掴む。俺も強く握り返す。


「ああ、俺も絶対忘れない」


二人の視線が交差する。雄兵郎はグズッと鼻を鳴らす。


「『さよなら』は言わないぞ。『またな』と言わせてもらう。……また、()おう。その時は、お前と千多ちゃんの子どもや孫の顔を見せてくれ」


俺はそう言いながら、千多ちゃんの顔をちらっと見る。その顔は、沸騰するかのように赤かった。


「な、な、な、なに言うんだ――――――兄ちゃん――――!」


雄兵郎の絶叫が木霊する。うん、よかった、早めにしといて。これ、連中がいたら、こいつらの存在が絶対バレていた。


「なんだ、イヤなのか? 千多ちゃんと家庭を築くの」


俺はニヤニヤと、いやらしい笑みを浮かべる。俺の横ではメアが呆れたような顔をしている。


「い、い、イヤとは言ってねえよ。けどな、あるだろ、こう、流れとか、盛り上がりとか。そんな中で自然に、さり気なくしたいというか……」


俺はハァッと溜息をつく。


「お前……それ、一生告白出来ないパターンだぞ……」


そんな事をグダグダ言っている(あいだ)に、横から入って来た男に()(さら)われた奴らを、今まで何人も見てきた。俺の憐れむような視線に、雄兵郎は『うぐっ』と喉を詰まらす。


「雄兵郎くん。男の人は『言わなくても分かるだろう』って言うけど、女の人は不安なの。言葉にして欲しいの。愛されているって感じたいの。……その言葉がもらえるだけで、満ち足りた気持ちになるの」


横からメアの助け船が入る。……けどこれ、雄兵郎にかこつけて、俺にも言っているな。


先達からの助言に、雄兵郎は腹を括ったような面持ちとなる。

そして千多ちゃんに向かい合い、両手で彼女の手を握り、引き絞るように声を出した。


「オレは、お前が好きだ。ずっと一緒にいたい。そのためなら、なんだってする。お前に相応しい男にだってなってやる。だから、お願いだ。……オレのことを、好きになってください」


腰を90度に曲げ、懇願した。精一杯の気持ちを込めて、勇気を振り絞り。


「雄兵郎のくせに……生意気(なまいき)…………」


千多ちゃんは憎まれ口を叩き、涙を流し、心の底から愛情が湧き上がるような微笑みを浮かべた。

雄兵郎はそれを見ると、ぱぁっと周りを照らすような幸せな顔をする。

二人はそれ以上なにも言わず、ただお互いの手を握りしめた。



俺の後ろで、鈴が泣いているのが分かる。

自分の存在が消滅しなくなったのに安堵したのか、祖父母の純粋な愛情に感動したのか、分からない。

だが鈴が流す涙は、この上もなく、清らかだった。




長い二人の交わりの後、雄兵郎は俺の方を向いた。


「オレ、頑張った。兄ちゃんも……頑張れ……」


うん?


「……兄ちゃん、なんか、でっかい物に挑もうとしてるんだろ。なんかよく分かんないけど、すっごい物に」


雄兵郎は、上手く言葉に出来ないでいた。だが本能で、その本質を捉えていた。


「オレなんかが、どうこう言える事じゃないのは分かっている。……けど、諦めないでくれ。最後まで頑張ってくれ。応援してる」


雄兵郎が引き出しから一生懸命かき集めてきた言葉は、俺をジンとさせた。


「ああ、――ギブアップするには早すぎる」


俺は握り(こぶし)を雄兵郎に向ける。

雄兵郎はそれを見てニッと笑い、拳を差し出し、コツンと当てる。

その振動が、すべての想いを伝えて来た。……言葉は必要なかった。



そして――俺たちは別れた。

次に逢うまでの、長い別れだった。






それから数時間経ち太陽が中天に昇る頃、奴らがやって来た。

三日前の倍の人数、20人の行列だった。

僅か4人の女子供相手に、大層なことだ。

『ぜったい逃がさない』という気概が、見て取れた。


行列中央の駕籠(かご)の横に、見知った顔があった。


相馬(そうま) 聡美(さとみ)“ ―― 俺の未来のクラスメイト、“江角(えすみ) 未沙都(みさと)“ と瓜二つの人物。姿形が似ているというレベルじゃない。前回会った時、首をかしげる角度も話すスピードも、寸分(たが)わず一緒だった。


「あれはやっぱり江角なのか?」


俺は横に佇む仲間に、そいつだけに聞こえる小さな声で語りかけた。


「多分ね。この躰になって、 “オーラ“ とか “気“ と云う物に敏感になったの。私の記憶にある江角のそれと、あそこにいる奴のそれは、怖ろしいまでに似通っているわ」


どこか哀し気に明日香は言う。そんな能力なぞ、欲しくもなかっただろうに。


殿倉(とのくら) 亜夢美(あゆみ)は?」


俺はあの駕籠に乗っているであろう女性を思い浮かべながら尋ねる。


「……それも同じ。巫山戯(ふざけ)た話よね。性別が違うのに、まるで変わらないなんて。さすが “姫サマ“ 」


明日香は俺の親友の二つ名を呼ぶ。

俺は複雑な気持ちになる。

魂は同じという。ならばあいつは俺の敵なのか、親友なのか、どう捉えればいいのか。



駕籠が、小屋の前で待ち受ける俺たちの前に降ろされた。



「ごきげんよう、勇哉さん」


駕籠から現れた亜夢美は、乗馬服を着ていた。

白いシャツ、乗馬用ズボン。黒いジャケット、ブーツ。すべてがタイトに纏まっている。

そして手には乗馬鞭を携えていた。

彼女は手慣れた様子で、それをしならせパチンパチンと自分の掌を叩く。


「その恰好は……」


機能的な、攻撃的なその服装は、何かのメッセージのように思えた。


「駕籠は(しずか)叔母さまを乗せないといけないでしょう。復路はこれに乗って帰りますので」


(ひづめ)の音がカツカツと響く。聡美が一頭の馬を引いてきた。

大人しい――馬だった。(いなな)くこともなく、横にヨレることもなかった。

哀しいほどに、従順な馬だった。

背に置かれた(くら)が、彼を支配する者を示していた。


「勇哉さんと紬さんにも用意しています。騎乗してお帰り下さい」


もう二頭、毛並みの良い馬が引かれて来た。魂を抜かれた、ロボットのような馬だった。


「あいつの分は……?」


俺は目でメアを指す。それを見て、亜夢美は『ふふっ』と笑った。


「月子さんは、乗馬が出来ないでしょう。徒歩(かち)で帰ってもらいます」


“とほ“ ではなく、敢えて “かち“ と言いやがった。

“騎乗を許されない身分の低い者“ と言っているのだ。


「俺と紬も徒歩(かち)で帰る。どうもその “(くら)“ は――座り心地が悪そうだ」


亜夢美の眉が、ピクッと上がる。

主人の不快を感じ、聡美が無礼者を咎めようと前に出る。

それを主人が片手で制し、平坦な声で言った。


「お好きなように……」


氷のような声だった。

あらゆる感情の動きが止まった、凍りついた声だった。


亜夢美は騎乗し、先頭に立ち、出発の合図を出した。


俺たちは静さんが乗った駕籠の横に付く。

後ろ髪を引かれる思いで、慣れ親しんだ小屋を後にした。



背後から(つち)の打ちつける音がする。続いて木材が倒れる音が響く。

俺たちのユートピアが、いま崩れ落ちていた。


メアは手をぎゅっと握りしめる。貝殻のような爪が、掌に深く食い込んでいた。

俺はそれを自分の手で、そっと包み込む。

湖上から飛び出す魚のように、彼女の指がぴくりと跳ねる。

俺を見つめる碧い瞳は、『大丈夫だよ』と逆に俺を気遣っているみたいだった。

俺たちは時計の歯車のように指と指をしっかりと組み合わせ、ひとつとなって楽園から降りて行った。




◇◇◇◇◇




「大道寺の御曹司は、どうだった? (わめ)いたか? 抵抗したか? 批難の声を発したか?」


暗い部屋の中、泥濘(でいねい)のようにねっとりとした男の声が流れていた。


「なにも…………。唯々諾々(いいだくだく)と私たちの指示に従いました。拍子抜けする程に」


白々(しろじろ)とした感情の無い声が、亜夢美の口から発せられた。


「…………ほ――お。で、どんな眼をしていた。怒りに戦慄(わなな)いていたか? 敗北感に打ちひしがれていたか? どんな感情が見て取れた?」


興味あるものに吸い付く、(ヒル)のような聞き方だった。


「何も…………。凪いだ湖のように静かで、一切の感情を帯びていませんでした」


言った後で苦笑する。自分が言うには皮肉な例えだ。


「感情を隠す術に、秀でていると云う事か?」


亜夢美の心の動きには一顧だにせず、男は自分の推論を確かめようとする。


「そういうのでは、ないと思います。三日前に会った時は、実に色鮮やかな感情の起伏を見せていました。驚き、怒り、戸惑い……万華鏡のようにクルクルと。それが、今日は一切ありませんでした」


その感情は、亜夢美が最も見たいものだった。

目を引ん剝くような驚愕も、身を焦がすような憤怒も、…………断末魔の叫びも。


「それは感情を抑制しているからではないのか?」


男は疑問と云うより、同調を求める口ぶりで尋ねる。


「違います。感情の一瞬の爆発が無いのです。どんなに抑制しようと、感情は生まれた瞬間に眩しい光を放ちます。抑制により発芽した感情を摘む事は出来ますが、芽が出る事を防ぐのは不可能です。……今日の勇哉さんは、その感情の発芽がありませんでした」


亜夢美はその求めには応じず、きっぱりと自分の意見を述べた。


「ふむ。…………何故そうなった?」


男は亜夢美の反抗的な態度を咎めず、自分の考えを撤回し、意見を求める。


「これは私見なのですが、こう思いました。まるで何度も観た映画を、もう一度観ているようだと。あらすじも台詞も、みんな知っているようだと。――驚きも感動も無く、ただ納得だけがありました」


「 “千里眼“ の(たぐい)か?」


男は胡散臭そうに尋ねる。


「 “千里眼“ とは少し違いますね。――悠々たる時の流れを知り、どんな岩が(そばだ)ち、どのように川の流れを変えているかを見極め、笹船を流す。棋士が千手先まで読み、淡々と駒を指すように……」


「そこまで聡明なのか?」


初めて男が感情を露わにした。驚きと不快さをもって。


「あれは “賢者“ と云うより、 “旅人“ ですね。知識の研鑽ではなく、経験の蓄積。この蒼森から出た事がないのに、不思議です」


帳尻が合わない、そんな顔を亜夢美はする。


「ただ、聡美が気になる事を言っていました」


「聡美? 相馬の娘か」


男は、ただならぬ興味を示す。


「はい。あの娘はこういう物を見る事に()けています。その彼女が、こう言ってました。『まるで二つの霊体が重なってるようだ』と」


「何かが、憑りついていると言うのか?」


真剣な声で男は問う。科学隆盛のこの時代にもかかわらず。


「いえ、まるで同じ物が重なっていると。 “陰と陽“ 、 “正と虚“ とかではなく、同質の物が」


男は口に指を当て、じっと考え込む。


「よく、わからんな……。だがそれはもしかして、この状況を打破するものかもしれん」


男はすくっと立ち上がる。


「お前は引き続き “大道寺 勇哉“ を監視しろ。そしてあわよくば、奴を篭絡しろ」


「はい。お父さま」


殿倉(とのくら) 主馬(かずま)は厳粛な足取りで、王のように去って行った。

その後ろ姿を、亜夢美は三つ指をついて見送る。



開け放たれた戸から、湿った空気が流れ出て行く。

残されたのは、枯れた山のような静寂だった。



「ふふっ、楽しみね。アレが私のモノになるのが…………」



凍てつく氷の世界で、亜夢美は淫靡に微笑んだ。

敵方サイドの話も始まりました。舞台も蒼森市街に移ります。引き続きご覧ください。


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