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寝物語

日に焼けた草の匂いと、風に乗って漂って来るしっとりとした水の薫りがしみ込んだ、夏を色濃く感じさせる夜だった。俺たちはこの夏の香気を感じながら、飛鳥山最後の夜を名残惜しく過ごしていた。


柔らかな弾力のあるものが、俺の手に繋げられる。

メアの手だった。緊張しているのか、少し汗ばんでいた。

俺たちは同じ布団に入り、寄り添うように寝ていた。



同じ部屋に紬たちも寝ている。だが几帳(きちょう)で仕切られ、二人だけの空間が設えられていた。

俺とメアは横向きに寝て、お互いの顔を見つめ合う。

あまりにもこの瞬間が得難いもので、眠る事が出来なかった。




「勇哉、しないの? いいんだよ、我慢しなくて」


逆らい難い甘い誘惑の言葉が投げ掛けられた。


「バカっ、紬たちもいるんだぞ。几帳で仕切られて見えないけれど、声は洩れる」


俺はすんでのところで踏ん張った。

もし声が聴こえでもしたら、『メアちゃん、大丈夫?』と言って紬がやって来るに違いない。

そうなったらどうなる? 紬が目にするのは、兄夫婦のまぐわい。トラウマ待ったなしだ。

兄の意地が、俺を踏み止まらせた。

もし紬がいなかったら、きっと俺は流されていただろう。

そして明日の朝、静さんの生暖かい目と、雄兵郎と千多ちゃんの奇異な物を見る目に包まれながら朝食をとっていた事だろう。――男は弱し、されど兄は強し!



「大丈夫だよ、私、抑えるから。あのね、お母さんから聞いたんだ。お母さんも初めての時、すごく痛かったんだって。鼻の穴にビー玉を突っ込まれたみたいだって言ってた。大声を上げそうになったけど、シーツを噛みしめてなんとかやり過ごしたって教えてくれた」


悪魔は更なる誘惑の言葉を紡ぐ。

やめてくれ! お義母さんになる人の初体験を聞かさないでくれ。

エロさはなく、気恥ずかしさだけがあった。


「だからこれ、用意したの。私頑張るから、我慢しなくていいんだよ」


メアはそう言うと、枕元に置いていた手ぬぐいを引き寄せ、それを口に含み、噛みしめる。


ほぉれれ(これで)らぁいりょうりゅ(大丈夫)


メアはにこっと笑い、両手を広げ、『来てっ』と目で呼びかける。


俺は引き寄せられるようにメアに近づく。

そしてメアの唇に、俺の指をそっと添わす。

閉じられていた濡れた二枚貝が、じわりじわりと開かれてゆく。

穴の中から白い歯と一緒に、ぬめぬめと蠢く赤いものが見えた。

それは炎のような熱気を放っていた。

この中に身を埋めれれば、どんなに甘美な事だろう。



メアはぎゅっと目を瞑る。すべてを受け入れる決心をして。

俺は両手でメアの口を、びろーんと広げた。


にゃに(なに)ふんの(すんの)!」


予想してなかった所から来る痛みに、メアは抗議の声をあげる。


「よかったな、声が洩れなくて」


ふぉれは(これは)ほんにゃ(そんな)使い方(使い方)しゅりゅもにょ(するもの)りゃにゃい(じゃない)!」


『ふざけんな!』――メアの瞳は憤怒の炎に燃えていた。


「いいか、初めてはすっごく痛いんだぞ。その痛みは一晩では治まらない。焼けつくようなヒリヒリする痛みが、次の日も続く。お前はそんな状態で山を下りる気か。あの山道を何時間も歩く気か」


メアは目をぱちくりとする。

そして悟る。今日のつけが、明日の自分にどう跳ね返ってくるかを。

そして観念した表情を浮べ、口に含んでいた手ぬぐいを横に置く。


「ううっ、仕方ない。今日のところは諦める。だが、これで終わったと思うなよ。今日の私は敗れたが、明日・明後日の私が必ず勇哉を墜としてみせるっ!」


……どこの悪役の捨て台詞だ。


俺はこの困難な戦いに打ち勝った自分を、褒めてあげたかった。

だが、戦いはまだ終わっていなかった。


メアは両手で俺の腕を抱きしめた。

ぎゅっと強く、(かんぬき)のように。

柔らかく、熱いふくらみが感じられた。

豊穣な実りは、俺に苦悶をもたらした。


「今は、これだけでいい……。勇哉の温かさを、感じるだけでいい……」


メアは虫の羽音のような、かすかな声で呟く。

お前はそれでいいかもしれんが、こっちは堪ったもんじゃないからな。

俺はドオーンドオーンと轟音をあげる大砲みたいな心臓の音を聴きながら、必死に耐えた。



残酷な、とろけるような時間が過ぎて行った。

(つら)いが、(しあわ)せだった。






暫くの沈黙のあと、メアが話しかけてきた。


「あのね、怒らないから、正直に答えて欲しいんだけど……」


おずおずと、言いよどみながら、言葉を紡ぐ。


「そのね、……明日香さんと鈴さん、 “悠真“ の恋人だったり……する?」


ああ、そっちか。なるほど、そりゃあ気になるだろうな。


「いいんだよ、 “悠真“ も男の子なんだもん、恋人の一人や二人いたって。うん、私はぜ~んぜん気にしないから」


その声は喉に絡まり、掠れていた。無理をしているのが、ありありと見てとれた。


「あいつらは、 “悠真“ の大切な人だ。だが好きだった人は、別にいる」


俺は正直に答える。


「へ、へ――。ち、ちなみに、……どんな人?」


……どう言ったものか。俺は考えあぐねた。

真実を伝えるべきか。だがそれは80年後にメアが人間として存在していない事を伝える事だ。

そして80年後のメアは、今と同じ17歳の姿だった。

その事実から、残酷な真実が導き出される。……メアの将来が無い事を。



「……勇哉、言って。嘘偽らずに。私はどんな事でも受け入れられる。勇哉が口ごもっているのは、勇哉にとって不味い事があるからじゃないよね。勇哉、哀しそうな目をしている。それはいつも私を(おもんばか)っている時の目。言ったでしょ、『私は幸せだった』って。……だから、どんな事でも受け入れられる」


強い意志で、澄んだ声で、メアは言った。

その声の前に、嘘や誤魔化しはその清らかさを穢すものに思えた。


「それに勇哉はこれから歴史を覆そうとしているんでしょう。だったらその不味い事もひっくるめて、都合のいいように塗り替えればいいじゃない。その為にも、私はその事を知る必要がある」


俺は苦笑した。そして救われた。この絶望的な未来から。

その通りだ。俺たちはこれから歴史に喧嘩を売るんだ。最初から負けた気になってどうする。



「 “悠真“ が好きになったのは、素直で、思いやりがあって、他人(ひと)の事ばっかり考えて自分の事を(かえり)みない不器用なやつ」


俺は改めて愛しい人を思い浮かべる。


「ふ、ふ――ん」


メアは少し傷ついた顔をする。


「髪は太陽の光みたいな黄金の髪で、瞳はこの飛鳥山の空みたいな澄んだ碧。声は鈴の音みたいに綺麗で、時たま的外れな事を言う。でも、そこが可愛くてたまらない」


俺は素直な感想を述べる。それを聞いたメアは、どこか聞き覚えのある言葉に『ん?』って顔をする。


「それって…………」


メアは恐る恐る尋ねる。


「お前のことだよ、メア。 “悠真“ が80年後好きだったのは、メア、お前だ」


俺の返答に、メアは愕然とする。


「どういう事? 80年後って、私97だよね。そんなおばあちゃんを好きになったの?  “悠真“ 、そんな趣味があったの?」


そう取るか――――!

どうやら俺は、あらぬ疑いをかけられているようだ。


「お前は、今と変わらず若々しい姿だった」


俺の返答に、メアはなおさら混乱する。


「どういう事? 私、物の怪(もののけ)になったの? 勇哉がいつか言ってた “ロリババア“ とか云うやつに」


……いらん事を教えてしまっていた。


「お前はこの世の、生身の存在じゃなかった。異世界から門をくぐり訪れる、超常の存在だった」


「幽霊みたいなもの?」


「そんなところ。ただ幽体ではなく実体化していて、服も着れるし食べる事も出来た」


メアは『う~ん』と唸る。


「なんか訳分かんない存在ね。それでその “門“ ってなに?」


聞いちゃいますか、それを。


「……俺の……パンツ……」


「はっ!??」


恥じらいながら答える俺に、かぶせるみたいに戸惑いの声をメアはあげる。


「だから俺のパンツから、すっぽんぽんのお前が、『うんしょ、うんしょ』と這い出て来たの!」


改めて口に出すと、シュールな光景だ。


「なんでよりによって、そんな所から――――!」


「知るかっ! なにか思い入れがあったんじゃないのか」


「乙女に向かってなんちゅう事を! 私は勇哉のパンツをクンカクンカする趣味は無い! ……ちょっとは気になるけど」


メアは誤魔化すように怒鳴る。馬鹿正直だな、オイ!





メアはハァハァと息を荒げていた。

そしてごろりと寝転び、天井を見上げる。


「……とにかく、未来はまだ来ていない。そんな恥ずかしい真似をするとは、決まっていない!」


往生際悪く、メアは反論する。


「そして私が死ぬとも、決まっていない…………」


自分に言い聞かせるみたいに、メアは言う。


「将来的に死ぬのは間違いない。200や300まで生きられるとは思っていない。けど、50、70までは生きられるかもしれない。それは神様にとって、誤差の内に違いない」


メアはニコッと微笑む。


「ならば足掻きましょう。未来を塗り替えるために。それはきっと可能な筈よ!」


迷いも怖れもない目だった。

それは嵐の中の灯台のように、俺の進むべき道を照らした。



俺はメアの手をぎゅっと握る。

不安も恐怖も、かき消されていった。

恐れるものは、何もない。



この楽園最後の夜を、二人は穏やかな気持ちで過ごすことが出来た。

小屋の中に、沈黙が降りる。

虫の音だけが、優しく鳴り響いていた。

次回から、蒼森市街が舞台となります。引き続きご覧ください。


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