ギフト
1928年3月、私は卒業式出席の為、上京した。
校庭は美しく着飾った級友たち、その晴れ舞台を一目見ようとやってきた保護者達で溢れかえっていた。皆思い思いに歓談していた。卒業生たちは渡された卒業証書が収められた筒を、誇らし気に握り締めている。私にはその筒が、墓標のように見えた。青春の墓標のように……。
その集団から、一人の女生徒が飛び出して来た。
彼女は一目散に私に駆け寄り、息を弾ませ、鼓動を抑えるように胸に手を当て、言った。
「殿倉さま、華族会館(華族の親睦団体)の皆さまが鹿鳴館(当時華族会館が所有)で謝恩会を催されるそうです。ご一緒されません?」
ぞわっとした。とんでもない、そんな仰々しい場所に近寄りたくもない。
「お誘い頂き、ありがとうございます。大変残念なのですが、あいにく先約がございまして、不本意ながら遠慮させて頂きとうございます。お心遣い頂き、恐縮です」
深々と頭を下げ、これでもかという位に丁寧に対応する。このあたりは女学校生活で散々叩き込まれた、手慣れたものだ。
「そうですか、残念ですね。最後にゆっくりお話をしたかったのですが……。でも殿倉さま、系列の女子専門学校に進学されるんですよね。またお会い出来る機会がございますよね。……さようならは申しません。いつも通りに。――ごきげんよう!」
そう言って彼女は去って行った。
慕われるのは悪い事ではない。
だが彼女が慕っているのは、仮面の私だ。
臆病な素顔を、理想の令嬢の仮面で隠した、虚飾の私だ。
この五年間で、私は何を得たのだろう。
友人? 恩師? それらはみんな、仮面の私のものだ。
私は校庭から離れ、学校最奥の林へと向かう。
素顔の私が得たものを、最後に一目見る為に。
「見えないな~」
私は林の陰から、目標を凝視する。生い茂った植込みが邪魔で、見る事が出来ない。
私は横の木の枝ぶりを見る。実にがっしりとした、丈夫な枝だ。
続いて自分の身体を眺める。羽織袴を着た、深窓の令嬢だ。その内に宿るものは、私以外誰も知らない。
よし、大丈夫だ。ヘマさえしなければ、問題はない。
私は意を決し、木を登り始める。
両手両足を広げ、カエルのような格好をし、するすると登ってゆく。
……とても人様にお見せ出来るような恰好ではなかった。女学生が卒業式でするような振舞いではなかった。
だが私は頓着しなかった。誰に見られても、恥かしいとは思わなかった。
愛することに、なんの恥ずかしさもなかった。
もう少し。もう少しで窓が見える。そう思った瞬間だった。
「……なにをしてるんですか?」
呆れたような声が聞こえてきた。よく通る、低い声だった。
私の頭はその声を聞いた瞬間スパークし、足をずるっと滑らせた。
「あぶないっ!」
声の主は私に駆け寄り、落ちる私をしっかりと抱きしめた。
「何してんですか! 怪我でもしたら、どうするんですか!」
叱責と云うよりも、安堵が漂う声だった。
「ありがとうございます! 先生は命の恩人です!」
私は謝罪よりも、感謝の意を述べた。それは心からするりと出た言葉だった。
「……大げさな。それよりこんな所で何をしていたんです?」
「先生こそ、こんな所で何を?」
ここは教会の裏にある林。だが道から外れた所にあり、立ち入る事は滅多にない。
「ここは昔から迷子の猫が出ましてね。何かしでかして教会に入るに入れない時、この辺りをウロウロするんです。多分今日あたり現れると思っていましたが、案の定です」
誰に見られても恥ずかしくないと先程言ったが、あれは嘘だった。私は恥ずかしさの余り、顔から火が出そうだった。やらかした。最後の最後にやらかした。私の学生生活は、やらかしで始まりやらかしで終わるのか。この人の思い出の中で、私はどのように映っているのだろう。……悲しみの余り、泣きたくなった。
「卒業、おめでとうございます。とても……きれいですよ」
泣きたくなった。嬉しさの余り、泣きたくなった。
「泣いて……いるんですか?」
彼は戸惑いながら訊ねる。
「そんな事、聞くもんじゃありません。先生は本当に、女心が解らないんだから……」
私は本心を気取られないように憎まれ口を叩く。
「不出来な生徒ですから。これからも教えて頂けますか。ずっと、ずっと…………」
私の決心を鈍らすような、甘い蕩けるような囁きが聞こえた。
それは耳をしびれさせ、心をしびれさせた。
このまま流されたい、本気でそう思った。
音が、聴こえてきた。
教会のステンドグラスの窓が軋む音。木々のざわめき、校庭から流れる女生徒の快活な笑い声。
それら一つ一つの音符が旋律となり、私の青春の日々を奏でた。
この黄金の日々を、穢す訳にはいかない。相応しい幕引きを、しなければいけない。
……私は、決心した。
「なにを言っているんですか。先生、もうすぐここを離れるんですよね。聞きましたよ、アルゼンチンへの転属の話があるんですって。それも教区長として。栄転じゃないですか。このまま出世街道を突っ走って、大司教、枢機卿となって、ゆくゆくは法王様になって下さい。よっ、大法王!」
私は本気でそう言った。
「その話は、断りました。もっとも遺留され、考え直せと言われていますがね」
「なぜ!?」
断る筈がない。そう思っていた。神への信仰を深めるならば、願っても無い話だから。
「なぜって――。あなたがそれを訊きますか? ……あなたが……いないからですよ」
彼は頬を赤く染め、恥かしそうに言った。
「そしてそれだけではなく、改宗を考えています。……プロテスタントになろうかと」
「なぜっ!!」
本当に訳が分からなかった。あんなにも真摯に神の教えに従った彼が、なぜ?
「……あなたと結ばれる為です。教義と私の心の乖離を無くす為です。なかにはこっそりと愛人を囲う司祭もいますが、神の御前で裏切るような真似は出来ない。ならば自分の心に沿う教義に従うのが、当然の成り行きでしょう」
彼は事もなげに言う。私は眩暈がした。
改宗――それはこれまでの自分を否定するような行いだ。
教義を熟考して、その上で行うならば、それはいい。
だがこれは、私という障害物が神の道を塞ぎ、やむを得ず迂回路を探すようなものだ。
私は、決断の時が来た事を知った。
「なに一人で盛り上がっているんです。勝手に決めないで下さい。私、郷里で、縁談が持ち上がっているんです」
「えっ!」
彼は心底驚いた顔をした。
「なに鳩が豆鉄砲を食ったような顔してるんですか。当たり前でしょう。この美貌ですよ。この聡明さですよ。引く手あまたに決まっているじゃないですか。卒業したら、オファー殺到ですよ!」
私は本心を覆い隠すようにがなり立てた。
「でも……あの夜のことは……」
彼は狼狽し、縋るような声を発した。
「……あのことは、忘れてください。どうかしてたんです、先生も、私も。……聖夜が見せた、一夜限りの夢だったんです」
彼は、泣きそうな顔をした。
「私たちは、交わってはいけなかった……。先生は神への信仰の道。私は一族隆盛の礎となる道。天と地、交わってはいけない道だったんです」
口の中に、苦いものが込み上げてきた。
パンドラの箱を開けたみたいに、あらゆる負の感情が飛び出して来た。
だがそんな私を支えたのが、最後に飛び出した "愛" と云う感情だった。
「先生は、天の道を行ってください。私はそれを心から…………応援……します……」
言えた。言うことが、出来た。
「それが……あなたの……望みなのですね…………」
「……はい…………」
これでいい。彼の信仰の道を邪魔してはいけない。
闇よりも昏い絶望の沼。そこから生まれ、一切の穢れを削ぎ落した、清らかに咲く蓮の花。
そんな透き通った彼の祈る姿が、私は大好きなのだから。
「……わかりました。あなたが誇れるような、立派な神の使徒となってみせます!」
「はいっ!」
私は弾ける笑顔で応えた。
「最後に、あなたの為に祈らせてください。神のご加護がありますように……」
彼は思い詰めたような顔をしてた。
まるでこれからの私の人生が、苦難に満ちたものになると見透かしている様だった。
「ありがとうございます。でも祈って頂けるなら、私ではなく、私の未来の子どもの為に祈って頂けませんか。……私が進む道は、その子の幸せこそが至上となるんです。その子の未来の為に、祈ってください」
彼はその言葉を聞くと、ふっと目を細め、腰のロザリオを手に持ち、じっと私を見つめた。
「あなたの未来の子どもに、神の祝福がありますように。……心から祈ります」
私は幸せだった。こんな満ち足りた気持ちは、初めてだった。
愛に包まれるのがこんなにも心地よいとは、夢にも思わなかった。
最上の幸福が、ここに在った。
「もし、もしですよ、先生。貴方が神に身を捧げず、市井の臣となり、子どもを儲けたとしたら、なんて名付けます?」
私は少し、欲が出て来た。
「子どもですか? 考えた事もなかったですね。――2か月前までは」
――それは、そういう意味ですよね?
「今年になって、よく考えるんですよ。もし私の好きな人が私を受け入れてくれたら、私は全てを投げ出して、彼女の胸に飛び込むだろう。家族も生活も、信仰さえも捨てて。それは褒められたことではありませんが、きっと幸せな未来だろう。そこで私は日々の糧を得る為に身を粉にして働き、けれどそれがちっとも苦にもならず、出迎えてくれた子どものキスで疲れも吹き飛び、美味しい夕飯に舌鼓を打つのだろうと。……見果てぬ、夢です」
その夢は、甘く、切なく、……残酷だった。
「その子どもは、どんな子なんです? なんて名前なんです……」
聞かずに……いられなかった。
「なぜでしょうかね、いつも女の子なんですよ。あなたによく似た、明るく、思いやりにあふれた、天使みたいな少女。…… “アメリア“ という名前です」
「アメリア……」
その言葉が、じわりと私の身体に入って来た。
「ラテン語で “勤勉“ “努力“ という意味です。アメリカ英語では “擁護者“ という意味もあります」
「……いい名前ですね。先生のお人柄が偲ばれます。先生は人がいいんだから、もう悪い女に引っかかっちゃダメですよ」
私は茶化すように言った。そうでもしなければ、涙が零れそうだった。
「私は一度たりとも、悪い女に引っかかった事はありませんよ。私が愛したのは――聖母のような人です」
もう駄目だ。これ以上は、私の決意が鈍る。
「……さようなら、先生。もう二度と会うことは無いでしょう」
私は涙に滲んだ顔を見せないよう背を見せ、教会から離れて行く。
彼はそんな私をじっと見送っていた。
目には見えないが、背中に刺さる視線でそれが分った。慣れ親しんだ、温かい視線だった。
そして私の姿が見えなくなると、淋しそうに教会に入って行った。
互いに背を向け、それぞれの未来に私たちは進む。
それを、まだ咲かぬ桜が静かに見つめていた。
4月になり、彼はアルゼンチンへと旅立った。
その報を聞き、私は出奔した。
それまで待っていたのは、彼と駆け落ちしたと捉えられ、彼に迷惑がかかるのを恐れたからだ。
地方の鄙びた温泉街に行き、仲居さんとなった。
女学校出のお嬢様のする仕事ではない。もっと実入りのいい仕事に就く事も出来た。
だが、殿倉の家に見つかる訳にはいかない。
蒼森では私を嫁がせようと、手ぐすね引いて待っているのだから。
その話に乗る訳にはいかない。
いま私のお腹には新しい命、先生の子どもが宿っている。
私はふぅと溜息をつく。
もし先生が日本人ならば、結婚相手に『これは貴方の子どもです』と言い包めて、無理筋を通したかもしれない。それを通す為に、殿倉に逆らえない家格の低い家に嫁いでもよかった。だが産まれてくるのが先生との子どもならば、旦那の子どもでない事は明明白白だ。不義の生きた証拠だ。言い訳の仕様がない。
仕方がない、愛した人がそうだったのだから。
外国人だから日本人だからといって愛した訳ではない。
あの人だから、愛したのだ。
蝉が鳴く季節となった。日増しにお腹が大きくなる。働けるのも、あと少しだ。
大丈夫、貯えはある。働けるようになったら、また雇ってやると女将さんも言ってくれた。
待ち遠しいな、この子に会える日が。
お腹を蹴るのも控え目だ。きっと女の子に違いない。
「幸せになってね、私の分も。お父さんの祈りも、なんもかも……みんな、あげるから」
私は幸せな気持ちでお腹を擦った。
涼しい秋風が吹き、あの人との思い出の夜の季節が近づいて来た。
あれから10か月経った。もう、そろそろだ。
いざという時には産婆さんに来てもらう手筈は整えている。
キューという締めつけを感じ、お腹の張りを感じる。
隣の人に頼み、産婆さんを呼びに行ってもらう。
横向きに寝て、足を曲げた少しでも楽な姿勢で到着を待つ。
内蔵を引き千切るような鋭い痛みが押し寄せる。
痛みの間隔は段々短くなり、強くなる。
無事に産まれてきてね、お母さん頑張るから。
産婆さんが到着した。
「安心しな。私が来たからには、無事産ませてやる」
心強い言葉だった。
私は万軍の応援を得て、一世一代の戦いに臨んだ。
どのくらい時間が経ったのだろう。
1時間にも、10時間にも思えた。
朦朧とする意識のなか、甲高い、か細い鳴き声が聴こえた。
それが赤子の鳴き声だと分かるのに、少し時間がかかった。
「まあ、お人形さんみたいに綺麗な女の子だねぇ」
産婆さんが赤ちゃんを掲げ、戦果を誇るように見つめていた。
「お母さんにご挨拶しな。『初めまして』って」
赤ちゃんを私の眼前にまで近付けた。
その姿を見た瞬間、これまでの痛みも苦しみも、きれいさっぱり消えてしまった。
残ったのは、純然たる愛おしさだった。
この子のためなら世界中を敵に回してもいいと思える気持ちだった。
これから二人で生きて行こうね、アメリア。
出産して一年が経った。兄が、やって来た。私の居場所がバレたのだ。
兄は怒鳴りもせずに、静かに青い怒りの炎を燃やしていた。
それが一層、怖ろしかった。
「やはり異人の子を孕んでいたか。そんな事だろうと思っていた。……帰るぞ。そして私の薦める縁談に従い、嫁いでもらう」
軽蔑するような、冷たい声だった。
私はその言葉に引っ掛かるものを感じた。
「それは、お父さまの意思なのですか?」
一族の婚姻は、当主の意思が尊重される。
「父上は……亡くなった。お前が出奔して一年後に。母上もその半年後に後を追うように亡くなった。殿倉家の今の当主は、私だ。……二人とも最後まで、お前の事を心配していた」
私は絶句した。
こんな短期間で父母が亡くなるとは、思ってもいなかった。
縁を切ったつもりだったが、やはりその死を聞くと、悲しみが水のように染みてきた。
「私が当主を継いだが、基盤が盤石とは言えん。若輩者と侮る者もいる。だからこそ、お前にも役立ってもらう。婚姻を通じ、繋がりを深めてもらう。それが父母への供養と思え」
情に訴え、理で詰めて来る。実に主馬兄さまらしい。
「この子を連れてですか?」
私は泥水のように湧いてくる、どうしょうもない感情を抑える事が出来ず、冷笑を交えて言った。
「……どこか適当な家に、養子に出す。こいつを殿倉の子と認める訳にはいかん」
「どこに? この子が養子先の子ではないのは一目瞭然でしょう。そんな家でこの子が幸せになると思えません。そんな事になるなら……私は自害します」
兄と私は、熱い火花を飛ばした。
どの位睨み合ったのだろう。兄が視線を外し、ハァと大きな溜息をついた。
「わかった、そこまで言うならお前の覚悟を試してやる。飛鳥山に人の住まぬ小屋がある。そこで二人で暮らせ。最低限の食料は運んでやる。許可が無い限り山を下りる事は相成ぬ。どこまでその強がりが続くか、見せてみよ」
「この子と一緒に暮らせるなら、それは何処だって天国です」
兄は私の言葉にフンと鼻を鳴らし、ピシャリと襖を閉じ、ドタドタと出て行った。
私は幼いアメリアの手を握り、涙を流しながら頬ずりした。
「これからずっと一緒だよ。私の……宝物……」
私の目に、この宝物を授けてくれた愛しい人の姿が浮かんだ。
その優しい青い瞳は、この子にそっくりだった。
私たちは蒼森に帰った。
そしてアメリアと、二人きりの世界で生きる事にした。
エピソード0、メア誕生秘話でした。静さんの前日譚、当初はもっとあっさりした一話だけの話でした。しかし書いてるうちに色んな場面が浮かんできて、こんな長大な話となってしまいました。まるで頭の中で上映される映画を観ている気分でした。
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