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修羅場

亜夢美たち一行は丘を越え、姿が見えなくなった。


取りあえず、終った。

俺たちは、一息ついた。


「紬ちゃん達を呼んでくるね」


メアはそう言い、洞窟に向かおうとする。

あいつらが去った以上、隠れている必要はない。

だが俺はメアの手を掴み、それを止めた。


「その前に色々、話したい事がある。……あいつらが居ない所で」


メアと静さんの顔が強張る。

これから子ども達に聞かせられない話をする。そう宣言したような物だからだ。


「……静さん、殿倉家の人間だったんですね」


俺の問いに、静さんは観念したような顔をする。


「 “だった“ よ……。今は一族から放逐され、 “殿倉“ の名を使う事を許されない、しがない身の上」


自分を卑下するみたいに、静さんは言う。


「何が……あったんです?」


「殿倉の人間としての責務を投げ出したから。お(いえ)より自分を優先したから――よ……」


誰を怨むでもない。みんな自分にせいだと言わんばかりだ。


「よくある話よ、どこにでもある……」


感情を押し殺すように彼女は言う。


「一組の男女が、道ならぬ恋に落ちたの」


物語を紡ぐみたいに言葉を続ける。


「それは、ある意味で実り、ある意味で破局したわ。ありふれた……話よ……」


静さんは遠い目をし、昔を思い返し、語り始めた。




◇◇◇◇◇




今から22年前、西暦1923年4月。

12歳の私は、東京の女学校に入学するため上京した。


蒼森から東京に出て、私は妙な気負いに囚われていた。

立派な良妻賢母にならなくてはいけない。

田舎者と侮られてはならない。


向上心と虚栄心が、入り乱れていた。

そんな想いを胸に、厳かにそびえる校門をくぐった。


「新しい寮生の方ですか?」


背後から、よく通る霧笛のような低い声が呼びかけて来た。

周りには、私以外誰もいない。

とびっきりの猫を(かぶ)り、よそ行きの笑顔で振り向いた。


「はい! 殿倉(とのくら) (しずか)と申します。本日より、こちらでお世話になり……ま……す……」


言葉は段々と尻すぼみとなり、かすれ、私は彫像のように固まった。

不作法な振舞いだが、これは誰も責められないだろう。


私は顔をもたげ、高く見上げる。

そこに、一人の男がいた。

背の高さは190センチを超え、筋骨隆々とした胸板。

顔には無数の傷があり、 "山賊" という言葉がぴったりの風貌だった。


『なに? こんな帝都のど真ん中に、追い剥ぎが出るの?」


私は狼狽した。そして決意した。

この身を穢されるくらいなら、いっそ自害しようと。

懐剣を取り出し、首筋に押し当てる。

さようなら、お父さま、お母さま。これまで育てて頂き、ありがとうございました。

小さな頃の思い出が、記憶の沼から次々にぷかりぷかりと浮かんで来た。



「なんばしよっとか、こん娘は!」


怒号と共に、引き締まった太い腕が飛んで来た。

腕は私の手から懐剣を叩き落とし、怒りを表すかのように小刻みに震えた。


「命ば簡単に投げ出すんやなか! 自害は(しゅ)が禁じとう。うちん目の黒かうちは、そげん真似させんばい!」


耳の裂けるような大声で、山賊はがなり立てた。


荒いが、慈しみが強く溢れた声だった。

私は改めて男を見る。

立て襟で、足元まで隠れる黒ずくめの服を着ている。腰にはロザリオを下げている。


「……神父さま?」


私は恐る恐る尋ねた。


「はい、当学園を担当区域とする "リュカ・ベアトリクス" と申します。以後お見知りおきを」


先程までの博多弁が綺麗に霧散し、流暢な標準語で喋る。


真夏の陽光みたいな黄金色の髪だった。

その青い瞳は、冬の星空のように澄み渡っていた。

"穢れ" と云う言葉から、最も縁遠い存在に思えた。

私はその姿に見蕩れた。



――これが彼と私の、初めての出会いだった。






1923年9月1日。


台風が日本海沿岸を北上し、それに吹き込む風が強く吹き荒れる日だった。

今日から二学期。だが私は始業式を休み、帝国ホテルにいた。

"ライト館" の落成披露宴に出席する為に。

父の名代として、その輝かしい場所に立っていた。


"ライト館" ―― "空間の魔術師" と呼ばれた建築家、 "フランク・ロイド・ライト" の最高傑作。



中央玄関に来ると、マヤ文明を思わせる装飾、幾何学的模様が見えた。大谷石、スクラッチタイル、テラコッタ…………色々な素材が混然と、整然と重なり合い、独特の美をかもし出していた。自然との調和を重んじる姿勢が、随所に見て取れた。



その非現実的な美しさに、出席者はみな言葉を失っていた。

私もその天上の美に酔いしれていた。



「あれ、殿倉さんじゃないですか!」


聞き覚えのある声が呼びかけて来た。


「どうしたんですか、こんな所で。そうそう、頼んでいた倉庫の片づけ、終りましたか?」


いきなり現実世界に引き戻す、ロマンの欠片も無い言葉を投げかけられた。

日常の港に魂を留める、無骨な(いかり)を投げ入れられた。

私は(いか)りの視線を投げつける。

この世界観を壊すんじゃない! ――と。


黒いカソック(司祭平服)を着た大柄な男が近づいて来た。


「……なんか、はらかいとーと(怒ってます)? うち、なんかやってしもうたと?」


大きな図体をして、まるで幼子のように不安気に尋ねて来る。

私は『はあっ』と大きな溜息をつく。


「先生はもう少し、情緒と云うものを学んだ方がいいと思います。確かにそれでお腹は膨れません。しかし夢は膨らむんです。それは年頃の乙女には、生きるのに必要な成分なんです。主は仰いましたよね、『人はパンのみにて生くるにあらず』と。それの応用です。――You see(わかるでしょ)?」


「……I see(わかりました)……」


よろしい! 聞き分けの良い子は嫌いじゃない。

15歳も年上をつかまえて、私は偉そうに悦に入った。




「お詫びにランチを驕ります。ここのホテルの料理は、絶品ですよ」


彼の言葉に、私は相好(そうごう)を崩した。

帝国ホテルのランチ! 食べたい! 

美味しいのは分かりきっているが、そのお値段ゆえに、近くの安い食堂に行こうと思っていた所だ。


「仕方ありませんね、謝罪を受け入れるとします。……仕方なくですよ」


この春以来、何度も重ねられて来たやり取りだ。


お互い初対面で化けの皮が剝がれ、『思い込みの激しい時代錯誤娘』『何でも力で解決しようとする粗忽者』の側面を見せてしまった。まあ彼については最初の赴任先が福岡で、極端な日本の常識を叩きこまれたのに、幾ばくかの同情の余地がある。だが、それはそれである。私たちは完璧を求められる。学園で、教会で。隙を見せる訳にはいかない。足を引っ張ろうという輩は、そこら中にいる。私たちは仮面を被り、それをやり過ごす。


たまに仮面を脱ぎ去り、ふうっと息をつきたくなる。そんな時は学園の礼拝堂に行き、他愛もない話に興じる。『近くの空き地で猫の集会があった』『信者の方から頂いた羊かんが美味しかった』――そんな益体(やくたい)も無い話だ。だがそんな時間が、私たちには黄金よりも貴重だった。



「今日の出費は経費で落ちますからね。私も清貧を旨としていますが、迷える子羊の話を聞く環境を整えるのは、やむを得ない事です。涙を呑んで、貪食(どんしょく)の罪を犯しましょう」


実に嬉しそうに告解の前払いをする。


「別に先生は食べなくてもいいんですよ、水だけでも」


「いえいえ、あなた一人に罪を犯させる訳には行きません。その罪の半分を引き受けます」


人をダシにして美味しい物を食す魂胆だ。まあ、いいだろう。……こういうのも。


「じゃあ参りましょうか。 "レストラン" という名の "告解室" に」


私の言葉に、彼は仮面を脱ぎ捨て微笑んだ。


私たちは笑い合いながら、レストランへと向かう。

時計の針は、正午に近づいていた。


……運命の時刻に…………。






11時58分。


突然床から、衝撃が突き上げて来た。

巨人が地下からハンマーで叩きつけるみたいに、激しく、荒々しく、暴力的に。

大地が鳴り響き、床が水面(みなも)のように波打ち始める。

立つ事が出来なくなった者たちが、次々と四つん這いになってゆく。紳士も淑女も。

縦揺れが横揺れに変わり、建物が軋みだした。

完璧に調和のとれた照明が、ブランコのように揺れている。




世に云う、『関東大震災』であった。




経験のした事のない、圧倒的な天災だった。

皆どうしていいか分らず、抜け殻となった人形のように固まっていた。


「みなさん、ここは危険です。ここを出て、玄関前の庭園に避難してください。一度に押しかけないで、順序よく、子ども、女性から。集中すると、かえって退避が遅くなります」


冷静な声で指示を出す者がいた。

人は進むべき道を示されると、従順な子羊となる。

整然と黙々と、庭園へと脱出した。


「さあ、殿倉さんも避難して」


黒いカソックを着た羊飼いが、私に呼びかけた。


「私は一番生き残る確率が高い方法を選びます。この中で一番冷静なのは貴方です。貴方の傍が一番の安全地帯です。離れやしませんよ!」


私はひしと彼の腕にしがみつく。


「十分冷静じゃないですか、あなた……」


彼は呆れたような視線を私に投げかけた。



全員が建物から脱出した。

揺れもおさまり、ほっと一息ついた。

だが災いは、まだ立ち去っていなかった。


真夏の暑さとは違う、刺すような熱さを肌に感じた。

嫌な予感がした。

私は恐る恐る振り返り、脱出したホテルを見る。


ホテルから、火の手があがっていた。

ちょうど昼時で、食事の用意に火を使っていたのだろう。

見る見る間に、火は燃え広がってゆく。


「男性の方は、消火活動に協力して下さい。池の水をバケツで運んで、火にぶちまけて下さい」


再び彼が指示を出す。


エントランス前に大きな池があった。

ホテル従業員がバケツを用意し、男性陣がそれを受け取る。

池から水を汲み上げ、それを次々に火にかけた。


火柱は段々と小さくなり、延焼を防ぐことが出来た。


みんな、今度こそ助かったと安堵した。


疲れ果てて寝転ぶ彼の隣に私は座り、じっと見つめた。

この災いに動揺をせず、冷静さを保った彼を。

その泰然たる態度は、異常にも思えた。


「随分と、落ち着いていましたね」


私はつい、そう言ってしまった。


「……慣れていますから」


彼は短く、そう言った。


慣れている? 何に? 地震など少ない国から来た人が。

私の疑問を察した上で、彼は何も言わなかった。私もそれ以上訊かなかった。訊いてはいけない気がした。




私たちは、空を見上げた。

空は、赤かった。真っ赤に、燃えていた。

比喩でも何でもなく、本当に燃えていた。



風が、強く吹いていた。

日本海にある台風に流れ込む風が、吹き荒れていた。

風は火の粉を舞い上げる。

火の粉は建物に降り注ぐ。


常ならば、瓦がそれを弾き返す。

火災の多い東京ならではの工夫だ。

だがその鎧となる瓦が、地震により崩れ落ちていた。

そこにあるのは、剝き出しとなった、無防備な生身の体だった。

建物は為す術もなく、火に包まれてゆく。



彼は青ざめた顔で立ち上がる。

そして足を踏みしめ、歩き出そうとする。

私はその彼の手を掴み、押し留める。


「行っては駄目! あなた一人が行っても、どうしようもない。かえって避難する人の邪魔になる。行かないで――」


私は懇願した。恥も外聞も無く叫んだ。

彼はそんな私を見て、諦めるかの様な切ない顔をする。

そして力なく、崩れるみたいに私の横に座った。




轟々と、空が燃えていた。

悪徳の都を焼き尽くす、神の裁きの火のように。

これが神の火ならば、神とはなんと無慈悲な存在なのだろう。

私たちは神の御前では、全てを受け入れなければいけないのだろうか。

私は隣の神の使徒を見やる。そして、質問した。


「なんで先生は、そんなに自分を捧げるんですか? まるで自分を使い捨てるみたいに。それが、献身なのですか?」


尋ねずにはいられなかった。彼の在り方を。


「これは、そんな上等なものではありませんよ。自分の衝動に従っているだけです、謂わば、一種の化学反応です」


彼は自嘲するように笑った。




「『フランスのために死んだ村』って、聞いた事あります?」


彼はぼそりと呟いた。

返答を求めるような抑揚ではなかった。

平坦な、力ない声だった。


「世界大戦の後、フランス政府により "Zone Rouge" 、英語で云う "レッド・ゾーン" に区分され、立ち入り禁止となった村です。戦争時に使用された毒ガスが込められた不発弾が数多く取り残され、そこで生きる事が(あた)わなくなった場所です。レッド・ゾーンは460万平方マイル、沖縄本島に等しい広さ、回復には300年から900年かかると言われています。……随分と気の長い話でしょう」


彼は唇を噛みしめ、肩を震わせ、言った。


「先生は、その村の…………」


「ええ、私はそこで生まれ育ちました。……良い、場所だったんですよ。木々は豊かに生い茂り、ブドウ畑が広がり、白い石造りの家々が連なる、美しい村。そこで一生を終えるつもりだったんです。けれどそれは、叶わぬ夢となりました……」


彼の目には、うっすらと涙が滲んでいた。


「私は徴兵で兵士となり、その村に、戦場に立っていました。そこは、私の知っている村ではありませんでした」


声を震わせ、彼は続ける。


「塹壕が掘られ、銃弾が行き交い、血が雨の様に降り注ぐ、地獄でした。塹壕には誰かが書いた、『神様、御慈悲を』というメッセージがありました」


戦場とならなかった日本では想像もつかない地獄に、彼はいたのだ。


「特にこの大戦で使われた毒ガスは、ひどい物でした。防御用としてガスマスクが配備されましたが、万全ではありません。毒ガスが噴霧されマスクを付ける迄の数分が、生死を分けます。それに遅れた者の末路は、悲惨でした。毒ガスに犯され、絞め殺されるような苦しみを味わいながら、焼け(ただ)れだ肺が少しずつ崩れてゆくんです。私はそんな戦友を、何人も見てきました」


地獄を味わった者にしか発せれない、言葉だった。


「でもその時は、苦しみは突き刺すような痛みだけでした。生き残る事に精一杯だったから。他の事が考えられなかったから。本当の地獄、圧し潰されるような苦しみは、戦争が終わり、平和が訪れ、死の恐怖から解放されてからやってきました」


彼の顔から感情が消えて行き、亡霊のような死臭が漂い始めた。


「あの戦場が、常に付き纏うようになったのです。絶命の悲鳴が、怨嗟の声が、(ただ)れてゆく肉の臭いが、私の傍から離れなくなったのです。戦争が終われば元に戻れる、そんな願いを嘲笑うかのように。……私に逃げ場所はありませんでした」


戦争神経症。言葉で区分すると解ったような気がするが、その闇は測り知れない物がある。


「私は神に救いを求めました。この地獄から救いだしてくれと。来る日も来る日も……」


「先生は、救われたのですか……?」


私は残酷な問いをする。彼を見れば、答えは分かりきっているのに。だがそれでも、訊かずにいられなかった。


「救いなど、どこにも在りませんよ。……折り合いをつけるだけです。理不尽な現実と」


彼の苦しみの現在地が、分かるような気がした。


「祈りは、浄化です。昏く、濁った感情を清らかにしてくれる。それが地獄から解放してくれる、蜘蛛の糸です」


そう言う彼の顔は、澄んでいた。

泥の沼に咲く(はす)の花のように。

気高く、美しく、咲いていた。


「祈りましょう。天に召された命のために。残された者の苦しみを慰めるために」



彼はそう言うと手を組み、天に向かって顔を上げた。

その貌は、例えようもなく、清らかだった。

私はそっと、彼の手を握った。

帝国ホテルの "ライト館" 落成式当日に、 "関東大震災" があったのは史実です。被害を免れたのも。

そしてその日、未曾有の災害に見舞われた事も……。


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