毀れた人形
油絵に描かれる令嬢のように、純白の洋装を纏い日傘を差し、亜夢美は黄金色の光を浴び佇んでいた。その輝きは、どこか作り物じみていた。命の息吹が感じられなかった。メアが燦々と輝く太陽だとしたら、亜夢美は冴え冴えと光る月だった。彼女は化粧のように笑顔を飾る。借り物の眩しい光を放ちながら。
亜夢美は俺に気が付くと、その人形みたいな笑顔で話しかけてきた。
「勇哉さん、こんな所にいらっしゃたんですね。空襲以来行方が知れず、本当に心配していたんですよ。胸を掻きむしられる思いで過ごしていました……」
蠱惑的に彼女は微笑む。
官能的に濡れそぼった瞳が、とろりと俺を見つめている。
艶めかしい唇が、ちろちろと紅く燃えている。
蜘蛛の糸に絡め取られたように、彼女から視線を外すことが出来なかった。
匂い立つような蛾の鱗粉みたいな物が、そこら中に振り撒かれていた。
純真無垢の毛皮を纏った淫婦がそこにいた。
傲慢な美しさを隠そうともせずに。
「君が東京に行って以来、もう何年も会っていないだろう。変な言い方は止めてくれ」
俺は横で不安そうに見守るメアの手を握り、突き放した言い方で亜夢美に答える。
「……随分と月子さんと仲がよろしいみたいですね。妬けますわ」
俺の冷淡な態度を意に介さず、コロコロと笑いながら俺たちを見る。
その目は冷たく鋭く光っていた。
「会う会わないは、関係ないでしょう。少なくとも私は東京にいた五年間、貴方を忘れた事は片時もありませんよ。将来の伴侶として、いつもお慕い申し上げていました。会わないでいた年月は夜ごと想いを募らせ、私の心を貴方色に染め上げていきました。――その上で申し上げます。その娘はよしなさい。その娘は、穢れた娘です。妾が欲しいなら、私がもっと相応しい娘を用意してあげます」
壊れた玩具を見る目で、メアを見詰める。
嫉妬や憎しみなどない、見下すような目で。
ふつふつと、煮えたぎる怒りが湧き上がって来た。
「こいつを侮辱するのは……許さん]
メアは、光だ、風だ、水だ。
暗闇を照らし、季節を運び、穢れを祓う、神聖にして侵すべからず存在だ。
俺は憤怒の炎を燃やした。
そんな俺を見て、亜夢美はこらえ切れない様に笑いを爆発させる。
目に涙を溜め、腹を抱えて笑った。
「なにが、おかしい」
俺はむっとした顔で問いかける。
「いえ、あまりにも素直に心情を吐露されるので、あまりにも嬉しいやら可愛いやらで……つい。決して嘲笑ったわけではございません。お許しください」
彼女は指で涙を拭いながら言う。
そして真顔になり、正面から俺を見据え、静かに語り始めた。
「その人を知るには、何に怒るかを知るのが一番です」
風に浮かぶ羽毛のように、彼女の言葉は軽やかに宙を舞う。
「何がその人の琴線に触れるのか、何がその人の逆鱗に触れるのか、私はそれが知りたいのです…………」
ぞくりとする恐怖を感じた。
冷たい匕首を、首筋に突き付けられた心持ちがした。
土手っ腹に杭を打ち込まれ、昆虫採集の標本にされた虫のような気分となった。
「それが奏でるのは、蜂蜜みたいな甘い調べ、空気が震えるような憤怒の咆哮……。そんな旋律を聴きたいのです。それはきっと、魂がとろける程の甘露に違いありません。――それ自体が、目的です。それから何かを得ようなんて、微塵も思ってもいませんよ」
それは、原初の愛だった。
打算も策謀もない、根源的な欲求。
街中の公園にある飼い慣らされた自然では無く、この山にある猛々しい自然みたいな、人間の領域を蝕むような存在。
高い崖から深い谷底を覗き込むような、すうっとした慄きが走った。
「……それに、 “将来の伴侶“ って何だ。おかしな事を言わないでくれ」
怒りの炎に冷水を浴びせられた俺は、否定すべき事を冷静に主張した。
「あら、お父さまから打診はあった筈でしょう?」
如何にも心外だとの顔をして、亜夢美は反論をする。
『亜夢美と結婚し、大道寺家と殿倉家を縁続きにしたい』
確かに亜夢美の父、殿倉家当主、――殿倉 主馬から話をされた事がある。
魂胆は見え透いていた。
大道寺の血を取り込み、殿倉に吸収して、大道寺を断絶させる。そしてゆくゆくは殿倉を大道寺の正統後継者とする。――そんな所だろう。
俺は『ご冗談を。まだまだ卵の殻がお尻に付いた若輩者。自分の雛の事など、考えも及びませんよ』と受け流した。
『この蒼森の発展の為には、皆の心を一つに纏める求心力が必要なのです。中央の切り崩しを物ともしないような。……よく考えておいて下さい。この蒼森の未来を』
主馬は杯を呷りながら、俺の目を見据え言った。
俺も杯を飲み干す。清水の筈なのに、酸で胃が焼かれるみたいだった。
「それは酒の席での戯言だ」
正月の祝いの席での事であった。俺は未成年で酒は飲まなかったが、周りの大人たちはぐでんぐでんになり、誰もその時の事を覚えていなかった。
「けれど貴方は覚えているのでしょう? お父さまも覚えていらっしゃいました。ならばそれは、在ったのです」
俺は承諾はしなかった。だが拒否もしなかった。
殿倉と袂を分かつには、俺はまだ幼過ぎたから。
話は宙ぶらりんになっている。
「だいたい誰が夢想家ばかり輩出する大道寺家を支えてきたと思っているんです。天空のお城に住まうお殿様を、誰が地に足を着けて支えてきたと思っているんです」
天空のお城に住まうお殿様――それは大道寺の人間を表した言葉だ。良い意味でも、悪い意味でも。
「 “仁と義“ に重きを置く大道寺家と違い、我が殿倉家は “礼と智“ を貴びます。理想論をかざすのは結構ですが、それを実現する為に現場で血を流してきたのは、私たちです。少しはこっちの苦労も理解してください。幕末の奥羽越列藩同盟で、どれだけ大変だった事か」
亜夢美はげんなりとした顔をしていた。
積年の不満が滲み出ているようだった。
「まあ、そんな事は今はいいです。当面の課題を片付けましょう。……今日私がここに来たのは、静さん、月子さんに伝えたい事があるからです」
これまでの感情を拭い去り、冷徹な能吏の貌で亜夢美は語りかける。
脇に控えていた聡美が風呂敷包みから紙の束を取り出し、恭しく亜夢美に差し出す。
亜夢美はそれを手に取り、俺たちに近づいて来た。
「まずは、これを見てもらえますか」
亜夢美はそう言うと、紙の束を俺に手渡す。
7月18日付の新聞だった。蒼森県知事の声明が載っていた。
俺たち三人はそれを手に取り、読む。
怒りが、こみ上げて来た。
新聞には次のように書かれていた。
『敵機は本県を爆撃したが、被害はかすり傷程度のものだ。これくらいの空襲で驚くようでは問題にならん』
ふざけるな。あの地獄が、かすり傷だと。どれだけの人が亡くなったと思っているんだ。
『都市には防衛と生産強化のために、いやしくも働ける者は全部残る』
人の命を、使い捨ての道具みたいに捉えていやがる。壊れるまで働けと。
『一部に家を空っぽにして逃げたり、田畑を捨てて山中に小屋を建てて出てこないといふ者があるそうだが、もっての外である。こんな者は防空法によって処罰できるのであるから断固たる措置をとる』
呆れて二の句が継げない。
危機管理が酷すぎる。
危険地帯に県民を縛り付けてどうするんだ。
速やかな避難が災害の基本だ。それを邪魔するなぞ、言語道断だ。
俺は苦虫を嚙み潰したような顔で新聞を睨む。
「意外でしたね。怒りは有るけど、驚きは無いようですね。まるでこの内容を知っていたみたいに……。もしかして昨日、山を下りてこの事を知っていましたか?」
亜夢美は俺の顔を見ながら、肩すかしを喰ったような表情をする。
「いや。一昨日以降、誰もこの山から出入りしていない」
これは嘘じゃない。ただ、『知らなかった』とは言わない。
発表の3日前から知っていた。そして、これから起きる事も知っている。
それを、こいつらに教えるつもりはない。
これは諸刃の剣だ。取り扱いを間違えれば、俺たちが痛手を被る。
「まあ、いいでしょう。確かに麓を見張っていた者からは、人の出入りは無かったと聞いています」
監視されていたのか。いったい何時から? なにが目的で?
こいつの思惑が掴めない以上、言葉は慎重に選ばなければならない。
「で、これが何だって言うんだ。俺たちは昨日今日この山に来た訳じゃない。決して逃げ出して、田畑を捨てて、山中に小屋を建てた訳じゃない」
以前からこの山を根城にしていた、というていで押し通す。
元々住んでいたんだから、非難される謂れはないと云うスタンスだ。
「では世帯台帳はどこに登録されているんですか? まさかこの山中ではないでしょう。そんなの役所が認めませんよ。それにこの山は殿倉の所有物。私たちが認めなければ、住まう事は出来ません」
痛い所を突いて来た。
未来なら住んでいた実態を基に居住権を主張できるが、この時代では認められないだろう。
「私がここに来た目的はただ一つ。静さん、月子さん、あなた方にお父さまからの言葉を伝える為です。……お伝えします。『三日後、7月22日、この山を下り、殿倉の家に戻れ』――以上です」
「なぜだっ!」
俺は思わず声を荒げる。
これまで島流しみたいに、こんな山奥に押し込んでおいて、今更なにを言ってやがる。
「上に立つ人間は、自ら範を示さなければならないのです。殿倉の人間が戦火を恐れて逃げるような事があってはならないのです。そしてその様に捉えられかねない行いは、厳に慎まなければいけないのです。―― “李下に冠を正さず“ です」
理はあるが、情がない。
人を人と見ていない。
「ちょっと待ってくれ。静さんは体調が思わしくない。とても山を下れない。もう少し時間をくれ。せめて10日後、7月29日まで待ってくれ」
蒼森大空襲が7月28日深夜。そこまで山に居れば、こっちのもんだ。なんとかそれまで引き延ばそう。蒼森市が『復帰期限を7月28日』と定めた指示命令を出すのが7月21日、明後日だ。まだこいつらは知らない。ならば期限の延長交渉は可能な筈だ。
「それは受け入れられません。まだ調整段階ですが、世帯台帳に登録している場所に、7月28日までに復帰する指令を出すようにしています。静さんも月子さんも、世帯台帳は蒼森の殿倉家で登録されています。還ってもらわなければ、私たちが不味い立場となります」
殿倉の政治力を舐めていた。
俺は未来を知っているが、こいつらは未来を作れるんだ。
「静さんの体調は考慮しています。山を下るのはこの駕籠を使い、そこから先は自動車を用意します。静さんを運ぶテストを兼ねて、私が身をもって試しました。問題は、ありません」
……駄目か。一つずつ逃げ道を潰されてゆく。
「これは相談ではありません。最後通告です、決定事項です。そもそもこの山は殿倉の所有物、如何に元主家と云えど、大道寺家にとやかく言われる筋合いはありません。内政干渉です」
そう言われたら反論出来ない。他家の資産に口出しするのは、主君であろうと御法度だからだ。
「三日後お二人が出立した後、この小屋は取り壊します。放置して置いて、不逞の輩に住みつかれても面倒ですからね。この従者たちは、取り壊しの下見も兼ねているんです。どの道、あなた方にここに住まうという選択肢はありません」
取り付く島もない言いようだった。
こちらの意見を聞くつもりが、毛頭ない。
肩を落とす俺に、亜夢美は静かに近づいて来た。
雪よりも白い指が、優美な弧を描きながら、俺の顔に迫って来た。
四本の指が仕舞われ、人差し指が突き立てられる。
亜夢美はそれを俺の唇に押し当て、妖しく微笑んだ。
「こんな形でお会いしたくは無かったんですけどね。もう少しロマンチックな再会を期待していたのに……」
そう言って俺を見つめる瞳は、冷え冷えとしていた。
こんなにも冷たく無機質な眼を、俺は見た事が無かった。
「それでは皆さま。三日後、殿倉の家でお会いしましょう」
彼女は優雅に一礼する。機械仕掛けの人形のように。
そして駕籠に乗り込み、去って行った。
俺はそれを見送りながら、未来の親友―― “姫川 歩“ のことを思い浮かべる。
昔は思いも寄らなかったが、いま思い返せばあの冷たい焔は歩の中にも在った。
天使のようなあの仮面の下から、時折刺し貫くような視線を放っていた。
無限回廊みたいに、合わせ鏡に写る無数の “歩“ と “亜夢美“ が頭によぎった。
一体どっちが本物なのだろう。
親友と宿敵、俺はどちらを選ぶのだろう。
これまで書かなかった歩くんの本性を掘り下げてみました。もっと深掘りしていきたいと思います。
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