兼愛交利
諦観し、自分を押し殺し、歪に成長した少女がいた。
不自然な、何かを押しつぶしたみたいだった。
まるで昔の中国の、幼児期より足に布を巻かせて大きくならないようにした『纏足』のようだった。
俺たちは少し気まずい雰囲気のまま目的地へと向かう。
「つまらないこと言っちゃったわね。……忘れて。せっかくこんな素敵な街に来たんだもの、気分上げていこう!」
桐生は無理に明るい声をあげる。やってしまった、そういう気持ちが溢れていた。
「そうだな。こんな可愛い娘と一緒なんだ、楽しまなくっちゃな!」
俺は桐生の意図をくみ取り、乗っかかる。
「こいつはホントにもう……」
俺たちはまた、違う意味の気まずい雰囲気となった。
十分ほど歩き、目的地へと到着した。
アンティーク調のお洒落なドアを開け、店内へと入る。
いらっしゃいませ~と顔見知りのスタッフが出迎えた。
「これ、差し入れです。ペット用のケーキ。クロエにあげてください」
さっきパティスリーで買ってきた物をスタッフに手渡す。
「それとこっちはスタッフの皆さんに……。人間用のケーキです。クロエのと間違わないでくださいね」
笑いながらもう一つの袋を渡す。
このパティスリーは本来人間用として人気の店だ。ペット用は完璧にオーナーパティシエの趣味だ。
「あなた、さっき買ってきたのはこれだったの。私へのはついでだった訳ね」
桐生は少し頬を膨らませる。
「いや、どっちもメインだぞ。クロエへのお土産も、お前と一緒に食べたいと思ったのも」
俺は素直に気持ちを吐露する。
「……スケコマシ」
頬を染め、桐生は呪文を吐く。どういう意味だ?
「大体お土産なんて必要ないでしょう。適正なサービスに適正な代価を支払う、これだけでしょう。それ以上は、やりすぎよ」
桐生は早口で、何かを誤魔化すみたいに捲し立てる。
なにパニくっているんですか、桐生さん。
俺たちの会話がスタッフに聞こえたか? 心配になり視線をスタッフに向ける。
スタッフは浮かない顔をしていた。やべぇ、聞かれたか。俺は慌てる。……だが、そうではなかった。
「すいません。雑誌の取材が来ていて、クロエそっちに駆り出されているんです。今日はお相手出来そうにありません。本当に、申し訳ない!」
スタッフが腰をかがめ、謝罪してきた。
ああ、そういう事か。これまでも偶にあった。
珍しい品種と云うこともあるが、『エジプシャン・マウ』は歴史ある猫だ。横軸である現在の猫たちを取り上げる場合だけでなく、縦軸である猫たちの変遷を語る上で外せない存在だ。そんな時、都心にいて取材もし易いクロエに白羽の矢が立つ事が、ままあった。
「いや、いいですよ、そんなに謝らないでください。仕方ないですよ」
俺はいたたまれなくなり、スタッフに頭を上げるように促す。
「でも、せっかく来て頂いたのに……」
「じゃあ、ちょっとだけクロエの姿を見せてもらっていいですか。こいつ、クロエが見たくて来たんです」
俺は桐生を指差す。
恐らく取材はサブルームで行われるだろう。
周りをガラスで囲まれ、隣の部屋から見える造りになった部屋だ。
メインルームは一般客が映り込んではいけないので使わないだろう。
「ええ、それくらいなら……。じゃあご案内しますね」
俺たちはスタッフに連れられ、サブルームへと向かう。
そこに大勢の人間に囲まれ、不機嫌さを醸し出している猫がいた。
くさび形の顔で大きな耳を持ち、アーモンド型の目は緑色をしていた。
絹のような光沢のある被毛に、全身に斑点模様が広がっている。
自然繁殖で斑点模様を持つ唯一の猫――『エジプシャン・マウ』がそこにいた。
多くの家臣を従える女王のように、部屋の中央の高い場所に鎮座していた。
桐生は食い入るように部屋の中央を見ていた。
そんな彼女に俺は声をかける。
「あれM社の雑誌だよな。お前が新人賞を取って、今も連載しているとこの。……付き合いがあるんだから、頼めば取材に混ぜてもらえるんじゃないか?」
現実的な提案をする。
それは、桐生にとっては悪い話ではない筈だ。
「だめよ、そんな事は。……頼めばイヤとは言わないでしょうね。いえ、『言えない』と云った方が適切ね。……私はこれでもあの出版社にそれなりの厚遇をされている。それだけの商品価値が私にはある。でも、だからこそ、しちゃいけないの。自分の影響力をかさに着て、原則を曲げるような真似は。そんな事をすれば、弱い者に歪みが被さってくる」
桐生は遠くを見つめている。空間ではなく、遥か遠い時のかなたを。
こいつはこういう生き方をしていくんだな。
俺たちは静かに流れる世界を見ていた。
長かったような、短かったような時が過ぎた。
「ありがと、もう充分よ」
桐生はそう言い、出口へと向かう。
「データーは取れた。執筆に入るわ」
そう話す声は機械的で、感情と云うものが存在しない様だった。
寒々とした風が吹いてくるみたいだった。
俺たちは店を出て、駅へと向かう。
なにか、傾いたまま積み上げてゆくような気持ちをあとにして。
「待ってください~。ちょっと待って~」
店から出て20メートルばかり歩いた時だった。俺たちを呼び止める声がした。声の主は、さっきのスタッフだった。
「よかった、間に合って……。撮影、いま終わりました。はいっ、お待ちかねのクロエです!」
そう言うと、抱えていたペット用の鞄を地面におろし、ファスナーを開く。
中から一匹の猫が飛び出してきた。
猫は、嬉しそうだった。
目を細め、にっこりとしていた。
ヒゲはピンと上向きに張り、ワクワクしているみたいだった。
ゴロゴロと喉を鳴らし、甘えてくる。
全身で、喜びを表現していた。
「クロエも貴方に会いたかったみたいです。撮影中もずっと貴方を見て落ち着かなくて……。よかったねクロエ、会えて!」
スタッフも嬉しそうな顔をしている。喜ぶ我が子を見つめるみたいに。
みんな、幸せだった。
「ほらクロエ、お姉さんにご挨拶して」
俺は胸に抱くクロエの顔を、桐生に向ける。幸せのおすそ分けをしたくなった。
『しかたがないな――』 クロエはそんな顔をして、億劫そうに舌を出す。
クロエの舌が、ぺろりと桐生の鼻を舐める。
桐生は固まっていた。
「じゃあまた来てくださいね。お会いできないとこの子、機嫌が悪くなるんですから」
道中であまり長居は出来ない。ここに連れて来るのだって、随分無理をしている筈だ。
俺は感謝の意を表し、別れを告げた。
気持ちは、晴れやかだった。
やって貰ったことにではない。そうしてあげようと思って貰えたことが、嬉しかった。
人間って、素晴らしい。素直にそう思えた。
「よかったな、会えて。さっ、帰るか」
清々しい気持ちで桐生に呼びかける。
だがそこには、暗く淀んだ彼女がいた。
「なんなの、一体。あんた達、どうなっているのよ!」
桐生はヒステリックにがなり立てる。
なぜだ? どこに怒る要素があったと云うんだ。
「おかしいでしょ、こんな事。なんでこんな特別扱いをされるの。明らかにサービスの範疇を超えているでしょ。店にとって、何のメリットも無いのに!」
ああ、そうか。こいつは決まりを絶対視しているんだった。
「言っておくが買収とか賄賂とかじゃないぞ。高校生の小遣いごときで、大の大人が動くもんか」
俺は誤解を解くように語る。俺たちがしているのは、そんな事じゃないんだ。
「分かっているわよ、そんなこと。私だって社会に片足突っ込んでいるのよ。お歳暮、お中元、受賞のお祝い、取材旅行のお土産……、どんだけ贈って、どんだけ貰ってきたと思っているの。けどね、こんな事は無かった。何の必要もない贈り物をして、何の見返りもないのに不必要なサービスをする。ぜんっぜんっ合理的じゃない。おかしいわよ、あんた達!」
桐生が引っかかっているのはそこか。
確かに儀礼的なやり取りしかしない人間から見れば、これは異質に映るかもしれない。
「知らねえよ、そんなもん。別に何かを返して貰おうと思ってやっていない。ただ自分の内から自然に湧き出てくる気持ちに従っただけ。それだけの事だ。後の事は知ったこっちゃない」
俺たちがしているのは原始的な、なんの打算も無いやり取りだ。
「なんでそんな事が出来るのよ。……なんで私には出来ないのよ」
呻くように桐生は言う。空腹に悶える亡者のうめき声のように。
「お前もやればいいじゃないか」
求めるのならば、手に取ればいい。自然の流れとして俺は答えた。
「形だけ真似たって駄目でしょう。そんなの、通用しない」
何故わからないの。救いを求めるみたいな目で桐生は訴える。
「私はそっち側の人間になれないの?」
哀しそうに、ぼそっと呟く。
「私が、あまりにも、惨めすぎる…………」
聞かせるのではなく、感情がこぼれた言葉だった。
桐生は、駆けだした。
認めたくない現実から逃げるように。
俺は、力なく立ちすくむ。
誰か、正解があるなら、教えてくれ。
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