コイバナ
ざあざあと激しい音を立て、捌け口を求めるように川が流れてゆく。
その川面は大きくうねり、怒りや悲しみに打ち震えているようだった。
その川のほとりに、二人の子どもがいた。
男の子と女の子。雄兵郎と千多ちゃんだ。
膝を着き、正面から抱き合い、えんえんと泣いている。
遠くに灯りが見える。
赫く炎が、周囲を真昼のように照らしている。
ああ、あれは、空襲の灯だ。
人の命を贄に燃える、おぞましい、悪魔の灯だ。
ここは賽の河原。石積みの塔を蹴散らす鬼が住まう場所。
俺は悪夢から目を覚ます。
隣で雄兵郎が鼾を掻きながら眠っている。
俺たちは同じ布団で、入口に近い場所で眠っていた。
奥から話し声が聞こえる。
共寝している、メアと千多ちゃんの声だ。
「……そう、そんな事があったんだ」
メアが悲しそうな声で呟く。
「はい。だからアタシは、亡くなった両親の分まで生きていくと誓ったんです」
……そうか。あんな夢を見たのは、このせいか。
俺は耳を塞ぎたかった。これは俺が聞いていい話ではない。だが彼女たちは、俺たちが眠っていると思ってこの話をしたのだろう。ならば、起きている事を気取られてはいけない。俺は手で耳を塞ぐ事が出来ず、せめてもの気持ちで彼女たちに背を向け、土間に視線を向けた。
「それで千多ちゃんは、雄兵郎くんのこと……好きなの?」
「なっ、なっ、なっ、なにを言うんです、メアさん!」
「だってその言い方、古女房が惚気ながら旦那を愚痴るみたいにしか聞こえないよ」
これまでの空気が一変した。墨をぶちまけたような黒から、ほのぼのとしたピンク色に。
見る事は出来ないが、千多ちゃんの顔が真っ赤に染まっているのが窺い知れる。
……これ、俺が聞いていい話じゃない。耳を手で塞ぎたくなった。
「で、千多ちゃんは、雄兵朗くんのどんな所が好きなのかな~」
「そっちに話持っていきます――?」
メアは容赦なく、追い打ちを掛ける。
千多ちゃんはふぅっと観念したかのような溜息をつき、ぽつりぽつりと語りだす。
「……好きだなって思い始めたのは、つい最近なんですよ。それまではどうしょうもない子ども、弟みたいに思ってました。変わったのは3か月前、蒼森に向かう夜行列車の中でした」
メアは茶化すことなく、真剣に聞き入っている。
いつの時代も、女子は恋バナが大好きだ。
「雄兵郎もアタシも両親を亡くし、昔アタシたちの家の近所に住んでいた蒼森の小父さんに引き取られる事になりました。上野駅から二人だけで夜行列車に乗り、蒼森を目指しました。両親の死からまだ立ち直ってなくて、不安で、心細くて、悲しくて、涙を堪えるのが精一杯でした。窓の外の暗闇に飲み込まれそうでした」
軽いトークではない、重い雰囲気が漂いだした。
「窓に映るアタシは昏い目をしていて、獄卒が曳く獄炎の車 “火車“ に運ばれる亡者のようでした。その滲んで映るアタシは、遥か彼方に見ゆる山々と重なり、飲み込まれ、存在がかき消される心持ちに襲われました。『このまま消え去りたい』、そう心が叫んでいました」
千多ちゃんは手をぎゅっと握りしめ、思い出した当時の心情に堪えていた。
「そんな想いで見ていた窓に、異物が映りました。雄兵郎でした。ひょっとこ顔をして、白目を剥き、鼻の孔を指で広げ、おどけてみせる雄兵郎でした。……アタシはムカつきました。こんな時に巫山戯る不謹慎な雄兵郎に。こんな時でも押し潰されない強い雄兵郎に。アタシは怒りに駆られ、感情の赴くまま、拳を雄兵郎の頬に叩きつけました」
その情景が目に浮かぶ。いかにも雄兵郎らしい。
「雄兵郎は勢いよく吹っ飛んで行き、通路で大の字にひっくり返りました。少し、すっとしました。けれど次の瞬間、アタシの心は揺さぶられました。雄兵郎はむくっと身体を起こし、こう言ったんです。『やあ、よかった。お前に沈んだ顔は似合わねえ。笑った顔や、怒った顔がよく似合う。太陽に雨は似合わない』って、嬉しそうに、頬を腫らしながら……」
……雄兵郎らしい、武骨なやり方だ。
「アタシは呆れました。そして救われました。さっきまでアタシを蝕んでいた黒い雲が、きれいさっぱり取り払われていたんです。暗鬱の沼から這い出ていたんです。アタシは理解しました。こいつはこういう奴なんだ。こんな愛情の示し方をする奴なんだと。なんか、いいなって思いました。こいつの横に居たいって思いました。その場所を、誰にも渡したくないって思いました。……これって、恋なんでしょうかね?」
それは、恋とは違う。
太陽に向かい、真っすぐに咲く向日葵みたいな “恋“ とは違う。
心の地下に根を張り、どんなに引き抜かれても、少しでも残った根がまた芽吹かせる、 “愛“ だ。
“恋“ みたいな美しさはないが、愛しく、切ない、 “愛“ だ。
「アタシっばかりじゃズルいですよ。メアさんの話も聞かせてください」
「私っ――?」
メアは飛び上がるほど驚いた。
「結婚したから、恋とかはもう無いって逃げ口上は許しませんよ。馴れ初めとか、結婚の申し込みの言葉を聞かせてください」
「けっ、けっ、けっ、けっこん――――。誰と誰が――――?」
「メアさんと勇哉さん以外にないでしょうが。はっ、まさか静さんと勇哉さんが年の差婚で、メアさんが連れ子とか――」
「ありませんっ! 家のお母さんを巻き込まないで下さい!」
メアが俺の義理の娘――考えたくもねえぇ!
「……勇哉と私はそんなんじゃないのよ。結婚とか、できないのよ」
「何故です? どう見てもベタ惚れでしょう、お互いに」
「好きなだけじゃ、結婚できないのよ。……私のナリを見れば分かるでしょ」
メアが自虐的に、哀しそうに言い捨てた。
「さっぱり分かりません」
「そっか、横浜の人だもんね。分からないか」
「……横浜の隣りの茅崎ですけどね。もしかして、外国の血が入っている事を言ってます?」
千多ちゃんは恐る恐る尋ねてきた。
恐らくこの子は偏見などないのだろう。だが世間一般の風潮も理解している。
「うん、それもあるけど “大道寺“ という名前が問題なのよ。勇哉の家はね、昔から続く名家で、勇哉はその本家の跡取りなの。蒼森の人間でない貴方にはピンとこないかもしれないけれど、そんな家に私みたいな人間が嫁ぐなんて、許されない事なのよ」
「馬鹿馬鹿しい。江戸時代じゃあるまいし。外野の言う事なんて無視すればいいんですよ」
「そういう訳にもいかないのよ。想像してみて。徳川将軍家はなくなったけど、徳川宗家は続いているでしょう。もしそこに外国の女性を伴侶に迎え、その子どもに宗家を継がせるとなったら、分家や元旗本が黙っていないでしょう。それと似たようなものよ」
千多ちゃんは『うっ』と言葉を詰まらす。
理解出来たようだ。古くから続く一族の、断ちがたい固定概念を。
「私たちが結ばれるのは、なんら後ろ暗い事はない、反対されるのは筋違いだと思っているわ。でもそれを受け入れる土壌が出来ていないのよ。五十年後、百年後に、当たり前に普通になる世の中が来るかもしれない。でもそれは、今日じゃない…………」
メアの言う事は間違っていない。歴史がそれを証明している。
そんな世の中が来る事も、今がそれを許されない事も。
「分かりました。ならば採るべき方法は、事実婚ですね」
「話聞いていた? だからそれは認められないんだって!」
ところがどっこい、千多ちゃんは逞しかった。応用力もある。
「もっと柔軟に考えましょ。昔から似たような事はあったじゃないですか。男しか愛せないお殿様とか。それと一緒ですよ。駄目なものは駄目! 無理なものは無理! ならばそれを乗り切る方法を考える方が建設的でしょ、養子とか」
「ずいぶんと柔軟な考え方をするのね、幼いのに。……それに男同士の恋愛なんて、なんで知っているの、その年で」
「……その手の本が家に転がってまして、絵本と一緒に見て育ちました」
千多ちゃんは頬をぽりぽりと掻きながら、バツが悪そうに答える。
この時代にも腐女子は存在していたんだ。
「まあ、この先世の中がどう変わるかなんか分かりません。なってから考えましょう。私たちはまだ若いんですから」
七歳児にこんな事を言われるなんてな~。
しっかりしているのは、ウチの妹だけじゃなかった。
「さっ、話を続けましょう。メアさんの番ですよ。教えてください、恋に落ちた瞬間を!」
興味津々で尋ねてくる。
「恋に落ちた瞬間なんて、よく分からない。気がついたら……落ちていた」
『おおーっ』と千多ちゃんが喚声をあげる。『もっと詳しく』と急かしてきた。
「最初の出会いはね、最悪だったのよ。四年前の冬、丘の向こうにあるお地蔵様にお参りにしてたの。お母さんの体調が思わしくなくて、『どうか治りますように』って。そこに勇哉がやって来た……」
メアは宝物みたいに大切に思い出を取り出す。
「一生懸命お祈りしている私に勇哉が言ったの、『後が詰まっているんだ、さっさと退け』って。――ひどくない?」
その節はすいませんでしたっ。けど俺、そんなに口汚く言ってないと思うんだけど。
「私も思わずムカッときて、『うっせい。そんな口きいてっと、お地蔵様に痛い目に遭わされっぞ』って言い返したの」
なんか、記憶に齟齬があるぞ。どっちが真実だ。
「まあ、勇哉も基本的に悪い奴じゃないから、素直に謝ってきて、寛容な私は海よりも広い心で許したの。そして勇哉の事情を聞いて、仕方ないかなって思ったわ。紬ちゃん――勇哉の妹さんが肺炎で、危なかったの。藁にも縋る気持ちで、お地蔵様にお参りに来たの。遠く離れたこんな山奥まで」
千多ちゃんは真剣に、ふむふむと頷きながら聞いている。
「私も仏心がでて、一緒に祈ってあげたの。そうしたら勇哉ったら感激して、『ありがとう』って泣きながらお礼を言ってきたの。かわいかったな、ぶんぶんと振られる子犬の尻尾の幻が見えたわ」
こっぱずかしい!
「なるほど、それで恋に落ちたと」
「うんにゃ、その時は『こいつ、かわいい所あるじゃん』って位だった。そのまま終わったら、こんな風にはならなかったと思うな……」
「ほう、そうはならなかったと――」
「その日、その年初めての雪が降ったの。関東と違って、こんな近くの山でも雪山は危険なのよ。それなのにこいつ、なんの雪山準備もしていなかった。雪山を舐めるにも程がある。このまま帰したら、間違いなくあの世行きよ。お参りに来て、その帰り道が冥途の旅なんて洒落にもならない。仕方ないから、この小屋に一晩泊める事にしたの」
「そこで、結ばれたと。きゃぁ――」
「……言っとくけど、私と勇哉は清い関係だからね。そのあたりの貞操観念はしっかりしてます! 結ばれたって云うのとはちょっと違うけど、一つになった、とは言えるのかな。私も勇哉も、怖かったの。一人になる事が、お母さんが、紬ちゃんが、たった一人の肉親が亡くなる事が。限りなく降る雪のように、恐怖がどんどん降り積もって来たの。私たちは雪山で温め合うみたいに、手を繋いで慰めあった。あの温かい手が、私に孤独な夜を乗り越えさせた」
「……いい話ですね」
「その時はね、まだ好きとか何とかは分からなかった。どうせこれっきり、もう会う事のない人だと思ってた。そうやって言い聞かせていたの。深入りするんじゃないって。そうすれば傷つく事はないって」
やり切れない淋しさが湧いて来た。いじらしさに、抱きしめたくなった。
「それをあいつ、こっちの思惑も知らず、ずかずかと入り込んで来やがったの。『お前のお母さんの為に祈らせてくれ』って。……ひどくない? こっちの気持ちも知らないで。飢えた人間の前にごちそうを置くみたいな真似をしやがって。そりゃ期待しちゃうわよ。甘えてしまいましたよ。『私に貴方が付けてくれた名前を頂戴』っておねだりしちゃいましたよ。こっぱずかしい――」
「メアさん、思ったより口悪い?」
「すいませんね、こっちが地です。勇哉に嫌われたくないから、なるべくいい子にしてるんです!」
いや知っているよ。初めて会った時からそうだったじゃないか。
「『メア』って名前はね、勇哉が付けてくれたの。私の本名『アメリア』からもじって。『メア』ってね、『メアリー』――『マリア』の略なの。笑っちゃうよね、この私が『マリアさま』だって。……だから私は頑張っていい子になるの。この名前を付けてくれた勇哉の為に」
お前はもう、その名に恥じぬ立派な聖母だよ、メア。
「初めて出会って別れた時にはね、こんなに好きになるとは思わなかった。『雪が残っている間は来るんじゃない』って言いつけを守って、勇哉は春まで来なかった。その間に私の心は、どんどんと変わって行ったの」
メアは次々に心情を吐露し始めた。
多分、誰かに聞いてもらいたかったのだろう。
脂の乗ったイワナが獲れた。燻製にして勇哉に食べてもらおう。そう思うと、目に染みる煙も少しも苦にならなかった。
空気中の水滴が木々に凍りつき、白い花を咲かせる樹氷。来年、勇哉と一緒に見たいな。冬山の登り方を教えて、ここに連れてこよう。
こごみ・わらび・ぜんまい……春の訪れを告げる山菜を見つけた。心が浮き立った。もうじきこれを勇哉と一緒に食べれるんだ。
すべての物に、勇哉の影があった。私の世界は、勇哉の色に染まっていた。そしてそれは、幸せで切ない色だった。
ついに、雪が去った。勇哉と私を隔てている物が無くなった。そうすると私は不安になった。本当に勇哉は来てくれるのだろうか。街には魅力的なものが一杯ある。こんなつまらない私に、会いに来てくれるのだろうか。私は期待と不安が入り混じった気持ちに襲われ、眠れない夜を過ごした。
私は日課となった、街を見下ろせる丘への往復を何度もする。まるでお百度参りだ。思わず苦笑する。こんな私を、勇哉は煩わしく思わないだろうか。
こんなに好きになるなんて、思ってもいなかった。こんなに人を愛せるなんて、思ってもみなかった。
愛されなくてもいい、ただあの人を幸せにしてあげたい。その為なら私の命も肉体も、いくら捧げても惜しくはない。あの人を愛する事が、私に無上の喜びを与えてくれる。
山陰から人の姿が見えた。
間違いない、あの人だ。何度も何度も夢見た、あの人だ。
私は堪らず走り出す。
あの人も同じ気持ちなのか、息を切らして走って来る。
二人で走れば、距離も時間も半分だ。私たちはぐんぐんと近づく。
もう離れる事は堪えられないと云う気持ちを抑え切れずに。
目の前にあの人の顔が現れた。
私は涙を流しながらその顔に飛び込み、頬と頬を擦りあわせる。
「久しぶり、メア。元気にしてたか。お土産、いっぱい持ってきたぞ」
あの人は背中に大きな荷物を背負っていた。あの人の愛が溢れていた。
その時私は気が付いた。恋とは知らず、心の内でこの人を愛していた事を。
「私も勇哉に、あげたい物があるの……」
私は勇哉の顔から自分の顔を離し、じっと勇哉の瞳を見つめた。
勇哉の瞳の中に私がいる。
そのことが、とても嬉しかった。
私は彼の背にぎゅっと手を回し、隙間なく、きつく抱きしめた。
「寒かったでしょう。温まって、私のぬくもりで……」
勇哉は少し照れた顔をする。
その顔が、例えようもなく愛しかった。
すべてを捧げます、私のすべてを。血も肉も、そして魂さえも、みんな、あなたのものです。
私は心の中で誓い、私のすべてを祭壇に供えた。
それは神への誓いよりも神聖な、決して破られない誓いだった。
私は至上の幸福に酔いしれた。
メアの、長い独白が終わった。
俺も千多ちゃんも身動きひとつ出来ず、石のように固まっていた。
爛々と咲き誇る恋の華の、むせ返るような濃い薫りだけが漂っていた。
徳川宗家を例にあげましたが、この様な事例になっている事は知っています。それを否定をする気は毛頭ありません。今ではそれは認められて当然の事だと思っています。ただ、 “この時代では“ という観点でご覧下さい。
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