イエスタデイ・ワンス・モア
7月16日。俺たちがこの世界に来てから、青函連絡船空襲があってから、三日目の朝が来た。
一番奥に雄兵郎爺ちゃんと千多婆ちゃんを寝かせ、その前を遮るように俺が布団も掛けずに寝た。万が一の用心の為だ。メアと静さんには、入口に近い所に寝てもらった。
雄兵郎爺ちゃんはゴウゴウと、風が唸るような鼾をかいていた。
口から一筋の涎が垂れている。
そんな天下泰平な片割れを、千多婆ちゃんは何とも言えない面持ちで見下ろしていた。
「……なんか、すいません。脳天気な奴で」
申し訳なさそうにお詫びの言葉を述べ、ぺちっと鼾の発生源の頭を叩く。
雄兵郎爺ちゃんは意に介さず、その鼾はなおも高らかに鳴り響く。
「いや、こういう人だって、よく知っているから……」
昔おべ爺の家に泊まった時、鼾で眠れなかった事を思い出す。
「何処かでお会いしたこと、ありましたっけ?」
不審な顔で尋ねてくる。そんな覚えはないと。
そりゃそうだ。まだ会った事は無いんだ。この時間では。
「……これから君たちは、どうするつもりだ? 蒼森の街に帰るのか? もしそうなら、保護してくれる所を探してあげるけど」
俺は問いに答えず、逆に質問を投げかける。
千多婆ちゃんは目尻を下げ、困った顔をした。
「どうしましょう……。どうすればいいのか、分かりません。アタシたちの願いはただ一つ、 ”死にたくない” ――それだけです」
シンプルな、明快な答えだった。茅崎で空襲に遭い、蒼森の地で再び遭った者としての。
そしてそれは、俺の願いとも一致した。
『鈴のお祖父さまとお祖母さまの、命を救って。鈴の存在を、消さないで』
明日香の昨夜の言葉は、今でも俺の耳に残っている。
そして明日香の予言を思い返す。
『7月28日、 “蒼森大空襲” がある。死者は千人、市街地の九割が焼け野原となる』
……思わず身震いする。
俺にそれを防ぐ手立てはない。
だが、それから遠ざける事は出来る。
「暫く、この山に居るといい。この小屋も狭いけど、あと二人ぐらいならなんとか暮らせる。食料も人手が増えれば、その分沢山とれるだろう」
「いいんですか!」
俺の提案に千多婆ちゃん――いや、千多ちゃんが目を見開く。
それは暗闇の中で護ってくれる人を見つけた、幼子の目だった。
「もちろん食べる分は働いてもらう。この太平楽にもな!」
俺はポカリと、へそを出してボリボリと掻いている奴の頭を叩く。
千多ちゃんがふふっと微笑い、『思いっ切り、こき使って下さい』と言った。
その身を己の預かり知らぬ所で処せられたとは夢にも思わず、雄兵郎爺ちゃんは鼻ちょうちんを呑気に膨らませていた。
入口から、布団が擦れる音がする。
起き出したメアの、優しそうに俺たちを見つめる顔があった。
親指を立て、腕を伸ばし、笑いながらサムズアップの合図を送って来た。
「さ~朝ごはんにしよっか。昨日獲れたワカサギの吸い物だよ。さっさと起きた、起きた!」
そう言うとメアは、右足で雄兵郎爺ちゃん――いや雄兵郎をドカッと蹴り上げる。
ぐうむむ―と呻きながら、ようやっと雄兵郎は目を覚ます。
そんな二人を見ながら、俺と千多ちゃんは大声で笑い合う。
日が昇り小屋の中を、暖かい光がひたひたと満たしていった。
朝食を終え、メアと千多ちゃんは昨日獲れた魚の燻製作りに、俺と雄兵郎は農作業に勤しんだ。俺たちは切り取って乾燥させていた竹を納屋から取り出し、畑に運ぶ。そしてそれを畝の横にグイグイと突き刺してゆく。
「何やってんだ、これ?」
自分が何をしているのか見当もつかない雄兵郎が聞いてきた。
「 “支柱立て“ をしてるんだ。 “誘引“ をする為にな」
キュウリの蔓を絡ます支柱を立てる。
二本の支柱を斜めに交差するように挿して固定する、合掌型だ。
それに伸びた茎や蔓を誘導さす作業、 “誘引“ をする。
誘引する事により間隔が空き、まんべんなく日が当たるようになる。
光合成ができて栄養も行き渡り、実をたくさんつける。
そして風通しがよくなり、病気になりにくく、害虫もつきにくくなる。
面倒だが、農作業で手間を惜しむと後で痛い目に遭うのは自分自身だ。
「他にも敷きワラ・整枝・摘芯・摘葉・下葉かき・追肥……やる事は、いっぱいあるぞ」
「うへぇ――」
雄兵郎がうんざりとした顔をする。
その声は気乗りがしないというより、どこか憎悪のこもった物だった。
俺たちは黙々と作業を続ける。
真夏の陽射しが、そんな俺たちの足もとにくっきりとした影を落とす。
影は同じ方向を向いている筈なのに、まるで向い合せに映っているようだった。
そんな二人を、少し離れた所から二つの人影が見つめていた。
雄兵郎には見えない、俺だけに見える幻影だ。
亜麻色の髪の少女は、じっと俺たちを見つめていた。
身じろぎもせず、顔の表情を一切変えず、全身全霊で見つめていた。
黒髪の少女はその横に立ち、泣きそうな顔で傍らの少女の手をしっかりと握りしめていた。
……切なかった。
天候が俄かに変貌した。
泥を投げつけたような雲が湧きたち、空が暗くなってきた。
雲は急流の如き雨を叩きつけ、立ちすくむ俺たちを殴りつける。
地面から跳ね返る雨滴が白く燻り、湯気のように立ち昇ってゆく。
俺たちは大きな木の下に避難する。
濡れて貼り付いたシャツが気持ち悪い。
引きちぎるように脱ぎ、雑巾みたいに絞る。ざあっと水が流れ落ちた。
体を手ぬぐいで拭き、雨の雫を払う。
やっと人心地ついた。
「雨が止むまで一休みだ」
俺はそう言って腰掛ける。雄兵郎も俺に倣う。
二つの人影は煙るような雨の中じっと佇み、そんな俺たちを見ていた。
俺はふぅっと息を漏らし、隣の雄兵郎に呼び掛けた。
「農作業、そんなに嫌か?」
俺の問いに、雄兵郎は顔をしかめる。
「嫌って訳じゃない。生きるのに欠かせない事も分かっている。ただ……父ちゃんの事が思い返されるんだ」
「親父さん、空襲で亡くなったんだっけ……」
俺の言葉に、雄兵郎は泣きそうな顔をする。
「ああ、可哀想な……人生だった」
ぽつりぽつりと、心を吐き出し始めた。
「父ちゃんな、板金工だったんだ。そりゃあ格好よかったんだぜ。薄くて平らな金属の板を、ぐにゅって曲げて火花を散らしてくっつけて、何かを作ってゆく。まるで魔法使いみたいだった。すごく格好よかった。オレも父ちゃんみたいになりたいって思っていた」
雄兵郎は瞳を輝かせ、虚空に在りし日を思い浮かべる。
「けどな、父ちゃん、その魔法を取り上げられた」
唇を噛みしめ、悔しそうに言う。
「戦争で資材が手に入らなくなり、仕事が無くなった。いつか動かせる日が来ることを夢見て、毎日機械を磨いていた。……寂しそうに」
雄兵郎が見つめる虚空に、その光景が映し出されているようだった。
「けれどその夢は叶わなかった。使わない機械なら、国に差し出せと言ってきた。お国に逆らえる筈もなく機械はみんな持っていかれ、後に残ったのは空っぽの工場だった」
戦争も末期になると、資源は枯渇した。
元々資源が無く輸入に頼っていた日本では、制海権を失うとその輸入ルートも途絶えた。
やむを得ず “国家総動員法“ を発令し、民間にある金属を根こそぎ集めた。お寺の釣り鐘さえ徴収したそうだ。
「空っぽになった工場で、父ちゃんは呆然としていた。それでもなんとか気を取り直し、『しゃあんめ、お国の非常時だ。きっといつかもう一度、この工場で機械を動かしてやる』――そう言って自分を慰めていた」
雄兵郎の手はぎゅっと握られ、震えていた。
「けど、それで終わりじゃなかった。今度は町内会の奴らが、『こんな広い土地を遊ばせているのは勿体ない。潰して畑にしろ』と言ってきた」
食料難のこの時代、都市部では少しの土地でも活用して菜園を作っていた。
「ふざけるな!と思ったよ。好きこのんで空っぽの工場にした訳じゃない。それを今度は畑にしろだと。大人しい父ちゃんも怒ったよ。けど町内会の奴らに諭され、『村八分にしてやる』と言われたら、従うしかなかった……」
どちらの言い分もよく分かる。みんな生きるのに、必死なんだ。
「町内会総出で工場を解体していったよ。あれよあれよとという間にな。余韻に浸る暇もなかった」
雄兵郎は苦笑を浮べる。
「それでも父ちゃんは『しゃあんめ、お国の非常時だ。きっといつかもう一度、ここに工場を建ててやる』――そう言って笑ってた」
雄兵郎は涙ぐみ始めた。
「オレは言ったんだ、『オレも手伝う。絶対ここにもう一度、工場を建ててやる』って。父ちゃんはそんなオレの頭を撫でながら、『おう、頼んだぞ。いつか一緒に建てような。そしてそれを継いで、立派にしてくれ』――そう言ったんだ。久しぶりに、嬉しそうに。そしてその日から、父ちゃんは農作業に勤しんだ。いつか叶える夢のために」
雄兵郎の目から、ぼろぼろと涙が零れていた。
「けどあの日、茅崎大空襲の日、すべてが終わった。父ちゃんの夢も、命も。……父ちゃんの人生って、なんだったんだろうって気持ちになるんだ。農作業をしてると」
戦争が、あらゆる人の人生を狂わす。
人を守る筈の戦いが、人を蝕んでゆく。
「農作業をどうこう言うつもりはないよ。命の根っこになる、立派な仕事だ。尊敬している。……けどな、どうしても、やり切れない、引っかかるものがあるんだよ」
自分の心の内の、どうしょうもない想いを、雄兵郎は吐露した。
「メアのこと、どう思う?」
俺は唐突に、関係のない事を問うた。
「あの金髪の姉ちゃんか。どうもこうもねえ。世間知らずの怖いもの知らず、のほほんと生きている、お気楽娘ってとこかな」
その答えに、俺はハァっと息を吐く。
「…… “飛鳥山の鬼“ ってな、メアのことなんだ」
「なっ――」
俺の言葉に、雄兵郎は驚きの声をあげる。
「あのポアポアした姉ちゃんが、子どもを喰らい生き血を吸う鬼? ありえねぇ!」
こいつならそう答えるのではないかと思っていた。
「お前は茅崎に住んでいたんだろう。だったらあんな金髪も、見た事があるよな?」
俺の問いに、雄兵郎は頷く。
茅崎の隣りは横浜だ。外国との玄関口であるそこでは、戦争中ではあるが多くの外国人が居住していた。
「だがここ蒼森では、外国人を見ることは稀だ。 “鬼畜米英“ って叫ばれてる昨今では、 “鬼“ って呼ばれるんだよ、ここでは」
「それだけの事で?」
雄兵郎は衝撃を受けた顔をする。
「ああ、 “それだけの事で“ だ。 “それだけの事で“ 鬼と呼ばれ、疎まれる。あいつも好きこのんで、こんな山奥に住んでる訳じゃない」
雄兵郎のメアに対する印象が、ガラリと変わったようだった。
「あいつは人から疎まれれば疎まれる程、人の世から離れれば離れる程、清らかに、澄んでいった。淋しさが、悪意を消し去るように。井の中の蛙が高い空に憧れるように。何時かそこに辿り着ける日を夢見て。……お前の親父さんも、お前にそんな人間になって欲しかったんじゃないのかな。高く美しい空に舞い上がるような、憎しみの鎖に縛られないような人間に。何の仕事をするかは、些末な事だ」
雄兵郎はじっと黙り込む。
「そしてその想いは、親父さんからお前へ、お前からお前の子へ、お前の子からお前の孫へ、綿々と受け継がれてゆく。気高い、職人の魂だ。時代を超えて、引き継がれてゆく。それは、お前の親父さんが夢見ていたものの、本質じゃないかな」
雄兵郎の瞳に、光が灯った。顔を覆っていた暗雲が、吹き払われたようだった。
「お前がその想いを途切れさせるな、親父さんの希望の灯りを消すな。子どもたちに誇れる男になれ!」
俺は彼の父になり代わり、道を示す。それは、間違っていない筈だ。
「……そんな自慢に思ってもらえるジジイに、オレなれるかな?」
不安気に雄兵郎は尋ねてくる。
「きっと、なれるさ。俺が保証する!」
俺は言いきる。
ああ、間違いない。お前は偏屈で、融通の利かない、ちょっと強面の、愛すべき魔法使いになるんだ。
俺は、それを知っている。
「兄ちゃんのお墨付きなら、間違いないな!」
雄兵郎はニカッと笑う。
“俺“ のお墨付きじゃないぞ、 “歴史“ のお墨付きだぞ。
そう言いたいのを、ぐっとこらえた。
大きく、巌のような背中がぼうっと俺の前に現われた。
懐かしく、頼もしい背中だった。
俺は顔を上げ、じっと俺たちを見つめていた二つの人影に視線を向ける。
鈴は瞬きもせず、口を両手で押さえ、涙を流しながら見ていた。
その涙は昨日の悲哀に満ちたものではなく、喜びと感動の色を帯びていた。
明日香はそんな鈴の肩を抱きしめ、顔をくちゃくちゃにして泣いていた。
二人の涙は雨に混ざっていたが、明らかに違う輝きを放っていた。
俺は、あの夜を思い出す。
おべ爺と、千多婆ちゃんと、鈴と、俺と、みんなで花火をした、あの夜を。
真夏の夜の夢みたいな、あの夜を。
あの夜は、きっとまた来る。
第一章 第9話 『真夏の夜の夢』を思い返しながら書きました。よろしければ、そちらももう一度お読みください。
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