ユートピア
紬を見送りメア達の許に戻った俺は、黙々と作業に取り掛かった。
押し寄せる不安から逃れるように、一心不乱に汗を流した。
「勇哉~、一休みしよう。お弁当持って来たよ~」
底抜けに明るい声でメアが走って来た。
「なに作ってたの?」
メアが畑に取り付けられた物を見ながら尋ねてきた。
「鳴子。これで何かがやって来たら、音が鳴って追っ払ってくれる」
俺は額の汗を拭いながら答える。
「鳴子ならもっと上、鳥が止まる高さに綱を張らなきゃ駄目だよ。あ、猪用なのかな? でもこの辺り、あんまり猪は出ないよ」
「そうだな、でも用心に越したことはないだろう」
言えなかった、人間用だとは。
害意を持った人間がやって来る恐れがあるとは。
人の悪意から逃れ、山奥でひっそり暮らす彼女には、言えなかった。
「そうだね、何事も用心は大切だね!」
無邪気にメアは答える。
鳴子よ、引くな。平穏よ、去るな。
俺は自ら作り出した物が、永遠に日の目を見ない事を願った。
「ジャガイモの植え付け準備も大分進んだよ。 ”畝立て” も終わって、後は堆肥と石灰を撒くだけ。楽しみだね、寒い日のホクホクの焼き芋!」
メアは楽しそうに未来を語る。
ああ、楽しみだ。この夏を乗り越え、秋に美味しい焼き芋を一緒に食べよう。
それはこの上なく、幸せな事だ。
日が傾き、雲が紅い光に染まり始めた。今日の作業も、切り上げ時だ。
「川へ寄って帰ろう。お魚、獲れているかな」
メアは俺の手を引き、近くの小川へと向かう。
大きく伸びた影法師がふたつ、仲良さそうに俺たちの後を付いて来た。
「やった! イワナが掛かっている。こっちの大きいのだけもらって、小さいのは川に還すね。大きくなって、また来てね」
入口がすり鉢状になった網かごを引き上げ、メアが嬉しそうに叫ぶ。
魚が獲れた事より、その笑顔が見れた事に、ほっこりとした。
設置していた五つの網かごを全部引き上げ、釣果にメアは満足そうだった。
そして夕日を浴びながら彼女は言った。
「水浴びしていこう!」
そう言うとメアは服に手をかけ、するすると脱いでゆく。
さらさらと流れる川の岸辺で、衣擦れの音が艶めかしく響く。
すべての音が川の底に沈むような夕映えの中で、その音だけが立ち昇って来た。
メアの裸体が、露わとなった。
「馬鹿っ! 何してる! 恥じらいを持て!」
俺は目を背け、がなり立てる。
「恥じらい? あるよ。だから、こんな事してる」
メアはキョトンとして、当然の如く答えた。
「勇哉……私……その……昨日――臭くなかった?」
恥ずかしそうにメアは問いかける。
その頬は燃え、火照っていた。
決して夕日のせいでは無かった。
「いや、だって昨日、暑かったじゃない。それに街を見下ろせる丘まで何往復もしたし。心配で水浴びする暇もなかったし。夜お布団に入って気が付いたの。不味い、私臭いかもしれないって。慌てて朝一番で水浴びしたけど、……私、臭くなかった?」
俺は思わずプッと吹き出した。
恥じらうポイントが違う。
「ああ、確かに匂いがしたな」
メアはガーンとショックを受けた顔をする。
「甘く、花畑にいるような、吸い付きたくなるような、いい匂いだった」
青くなった顔が、再び赤くなる。今度は火を噴くような赤だった。
「ばか――――!」
メアの羞恥に塗れた怒声が、夕暮れの山に木霊した。
ひとしきり感情を発散させたメアは、川の中に入ってゆく。
鳥たちも巣に帰り静かな山の中、瀬鳴りの音だけが流れていた。
その中でメアは、ばしゃっと水をすくい上げる。
硝子のような水飛沫が舞い上がる。
さざ波の角が夕日を反射し、きらきらと輝いていた。
メアの輝く黄金の髪と相まって、天上世界を見ている気分になった。
メアは尚も川の中に入ってゆく。
川幅の中程に、水面から突き出た岩があった。
岩は川の流れを二つに裂き、白く泡立てていた。
中央の盛り上がった部分に苔が蒸し、馬のたてがみのようだった。
轟々と流れる川に鎮座する岩は留まっている筈なのに、まるで川に逆流して進んでいるみたいに見えた。一頭の馬が川を上っているみたいに見えた。
メアはその馬の背に腰掛ける。
一角獣に騎乗する乙女が、そこにいた。
乙女は惜しげもなく、その裸身を晒す。
一双の固い乳房が、こちらに突き出されていた。
薔薇色の蕾が、ツンと真っ直ぐこちらを向いている。
静脈が透けて見えるような白さだ。
まるでギリシャ神話の彫像を見ているみたいだった。
いやらしさの微塵もなく、荘厳さだけで形作られていた。
「勇哉もおいでよ」
女神は優しく手招きする。
誘蛾灯に引き寄せられる虫のように、俺は服を脱ぎ、ふらふらと川の中に吸い込まれた。
メアはにっこりと微笑み、俺の歩みを見つめた。
メアのいる岩に辿り着き、その横に腰掛ける。
「川の流れが、気持ちいいでしょ」
メアは両足を交互にバシャバシャと蹴り上げ、水飛沫を上げる。
無邪気に、何の気恥ずかしさも無いように。
「お前、俺に裸を見られて恥ずかしくないのか?」
俺はメアに問いかける。
もしかして、男と認識されていないのかも。
そう思うと眼福ではあるが、何か物寂しい心持ちとなった。
「なんで? 勇哉だもの。何で恥ずかしいなんて思うの?」
俺は一層落ち込んだ。
「この身体は、みんな勇哉のものなんだよ。髪も、胸も、心も、命も、みんな勇哉のものなの。好きにしていいの。三年前に、みんなあげるって決めたの。だから――なにも恥ずかしくないの!」
瞬きもせず、俺を見つめ、真っすぐに熱い気持ちをぶつけてきた。
正直、戸惑った。俺はその戸惑いを、メアに伝える。
「俺の望みはな、お前の喜ぶ顔なんだ。お前がなんでも無い幸せに、頬を緩めるのが見たいんだ。お前が自分を犠牲にする姿なんて、見たくもない。そんな世界、俺にとっては地獄だ!」
俺の嘆きに、メアはニコッと笑う。
「それはこっちも同じだよ。だったら私たち、天国にいるんだね。……知ってる? 天国と地獄って、同じ物があるんだよ。いっぱいのご馳走と、長~いお箸。地獄では、長いお箸は自分の口にご馳走を運ぶ事が出来ないで、ずっと飢えたまま、怨みの声を撒き散らしている。天国では、『貴方からどうぞ』ってお互いがご馳走を口に運び合い、満ち足りて、感謝の気持ちで溢れている。――私たち、天国にいるんだよ」
きらきらと輝く瞳で、メアは幸せそうに話す。
穢れの無い、水晶のような瞳だった。
まさしくここは、天国だった。天使が、そこにいた。
ここは ”悠真” が見ている、過去の幻影なのか。それともあちらが ”勇哉” が見た、未来の幻影なのか。
現と幻――。その境界は、杳として知れなかった。
身体を清め、ご馳走に舌鼓を打ち、俺たちは床に就いた。
幸せだった。満ち足りていた。外の世界など、どうでもいい。この隔たれた小さな世界で生きていけたら、それだけでいい。本気でそう思っていた。
その願いを切り裂くように、音が鳴った。
カランカランと、鳴子が引かれた音がした。
俺はガバッと飛び起き、畑へと走る。
猪や狸であってくれ、人と云う名の獣でありませんように。――そう祈りながら。
畑に着くと、二つの人影が見えた。
一つは ”括り罠” に捕まり、木に結び付けられた紐に繋がれている。
もう一つの人影が、それを必死に外そうとしていた。
周りを見渡す。他に人がいる気配はない。
「人の畑で何をしている。何者だ」
俺は誰何の声をあげる。低く、恫喝するように。
人影はびくんと身体をはね上げる。
紬と同じくらいの年頃の、子どものようだった。
さあっと雲が流れ、月が顔を現した。
月明かりが、侵入者たちの姿を顕わにさせた。
男の子と、女の子の二人連れだった。
着ている物は薄汚れ、顔も泥だらけだった。
だがその泥から覗く顔に、俺は驚愕した。
「雄兵郎……爺ちゃん。千多……婆ちゃん」
そこにあったのは、遥か未来に出会う懐かしい人たちの、幼い姿だった。
俺は混乱した。
「なんで――なんでここに居るんだ! 茅崎に居たんじゃなかったのか!」
運命の歯車が、軋む音が聴こえた。
これから過去と未来が交差して行きます。お楽しみに。
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