抱擁
お地蔵様を覗いた瞬間、恐ろしい程大量の情報が流れてきた。
まるで二つのフォルダーを一つに纏めるみたいに。
脳が焼き付くみたいだ。眩暈がする。
俺はその衝撃に耐えかね、膝を突いた。
「ユマ、どうしたの?」 蹲る俺に、鈴が心配そうに声をかける。
横には、俺の右手を両手でぎゅっと握りしめ、不安そうに見つめる明日香がいた。
優しさが、身体中に染みてきた。
鈴……。明日香……。俺の大切な人……。
『へぇー、鈴と明日香っていうんだ』
まるで洞窟で喋っているみたいな、低く籠った声が頭に響く。
誰だ、お前? 俺は虚空に問いかける。
誰も、応える者はいなかった。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
先行していた紬が引き返してきた。
短い手足を小型犬みたいに力一杯振り、全力で走って来る。
まるで転がりゆく宝物を掴まえるような、必死な形相をしていた。
『紬ばあちゃん』は、毅然とした、揺るぎない大木という印象だった。
だがこの『紬』は違う。幼く頼りないが、真っ直ぐで、若木のようにしなやかだった。
一歩一歩の積み重ねが、この若木を大木へと成長させるのだろう。
俺は、その歩みを知っていた。
紬は産まれてすぐ母に先立たれた。物心がつく前に父が戦地に赴き、両親からの愛情を知らずに育った。
周りの大人たちは “名家の子女“ ということで、 “敬して遠ざける“ 態度をとっていた。
そして子供たちも、そんな大人たちの態度に倣う。
紬が何をしても唯唯諾諾と従い、間違いを糾そうとしなかった。
そして影で嘲笑う。『大道寺も落ちぶれたものだ。跡を継ぐのがあれでは、長くはないだろう』と。
紬は孤独だった。進むべき道標を見失っていた。
そんな環境であれば、己を縛るものが無いのだから、欲望のままに傍若無人に振る舞っても不思議はない。だが紬はそうはならなかった。
紬は、聡い子だった。
“賢い“ と云うのではなく、 “感覚が鋭い“ 子どもだった。
悪意や嘲りをいち早く嗅ぎ分け、小さな感嘆の声を聴き洩らさなかった。
そして紬はそれを指標として自分を律し、正しい道へと進んで行った。
一度紬に聞いたことがある。『なんでそんなに妥協をしないのか』と。
紬は答えた。『だってイヤな子になってたら、お父さん悲しむでしょ。 “自分がいなかったせいで、こうなってしまった“ とか、 “こんな子、俺の子じゃない“ とか言われるの、嫌だもの』と。
紬はいつだって、父の自慢の子どもで在ろうとしていたのだ。
その父も、もういない……。
俺たちに残された家族は、もうあの人たちしかいなかった。
「大丈夫だ。早く行こう。メアに会いたい……一刻も早く」
俺は膝を押え、立ち上がり、歩き出す。
紬はそんな俺を見てほっと息を吐き、俺の手を握る。
「そうだね、早く行こう。メアさんも、きっと心配してる」
俺たちは手を繋ぎ、メアの許へ、家族の許へと向かった。
昼なお暗い林の中、縫うようにうねる、土が露出しただけの道を行く。
道の両側では草の葉が猛々しく生い茂り、侵入を拒んでいた。
横から伸びた鋭い葉が、小さな刃のように俺の身体を薄く刻んでゆく。
軽い痛みに耐えつつ、俺たちは歩を進める。
薄暗い林が、さらに闇を濃くし始めた。
日暮れか、雨か。山の天気は変わりやすい。
だが、そのどれでもなかった。
純粋な暗闇、光を一切排除した空間が降りて来た。
一寸先も見えない。
「紬、どこにいる。大丈夫か!」
俺は慌てて呼びかける。
返答はない。
意を決して再び呼びかける。
「明日香、鈴、いるんだろう。返事をしてくれ!」
紬に聞かれたら正気を疑われる台詞だが、そんな事を言っている場合ではない。
俺は耳を澄まし、返答を待つ。
だが、返答は無かった。
そこに、誰もいなかった。
ただ一人、俺だけが佇んでいた。
『どこに行こうとしている? 何を求めて進んでいる?』
先程聞こえていた低い声が、俺に語りかけてきた。
『お前の望むものは、何だ?』
山の精か、妖怪変化か。どちらにしろ、まともな生物ではなさそうだ。
この類には、嘘や誤魔化しはしない方がいい。
「大切な、大事な人がこの山に住んでいる。その人に、会いに行くところだ」
隠すような事ではない。それに同じ山の住人ならば、多少のお目こぼしがあるかもしれない。
『……この先に住む、母と娘か』
やはり知っているようだ。知っていてあの二人を排除していないという事は、存在するのを認められているという事だろう。
『余程大事に見える。お前にとってそいつらは、どんな存在なんだ?』
何故そんな事を訊く? 超常の存在は、人の営みに無関心と聞く。何故そんな事に興味を持つ? こいつは人の世と近い所にいるのか?
『答えろ!』
叱責が飛ぶ。ええい、ままよ!
「俺の生きる意味だ。メアを、あいつを幸せにする事が俺の望みだ。その望みの前では、唸るような財宝も、至尊の高い地位も、美女や美食の快楽も、クソ同然だ。それを得るためなら、俺の命など幾らでもくれてやる。……メアがいない世界など、生きたいとも思わん!」
俺は感情を込めて言い放つ。
そこに嘘は無かった。真実のみが持つ重みがあった。
それは、声の主に届いたに違いない。
『比翼の鳥だな……』
声の主が、初めて意見を述べた。
『比翼の鳥』――目と翼が左右どちらしかなく、雄鳥と雌鳥が隣り合い、支え合いながら飛ぶという伝説の鳥。男女の仲が睦まじい事の例えともなっている。
『褒めているのではないぞ。比翼の鳥は、凶鳥でもある。この鳥が姿を見せる時、洪水が起こるとも言われている』
こいつは何を言っているのだ、何を言いたいのだ。
『お前たちは、人の世と隔たりがある。正直、人の世が滅んでも、それほど痛切を感じないだろう。人の世に恩義を覚えていないのだからな。その気持ちが災いを引き寄せ、人の世に害をなす』
言いたい事が見えて来た。そういう事か。
『恥じ入る事はない。群れに入れてもらえず、孤独な魂が、ようやっとその片割れに巡り会えたのだ。それ以外のものに頓着しないのは、自然な事だ』
超然とした、俺たちと同じく人の世を冷徹に見つめる者の発言だった。
『お前たちはオリンポスの神々のように睥睨し、人の世を離れた場所から眺めていればいい!』
神の視座を提唱してきた。実に魅力的な提案だ。……だがな。
「随分と、的外れな事を言うんだな」
俺はその提案を一蹴した。
「なるほど、俺についてはその通りかもしれない。だが、メアについては、とんだ見当違いだ」
俺は奴の間違いを糾す。
「あの馬鹿、救い難いお人好しだぞ」
俺は愛おしさを込めて、そう叫んだ。
「どんなに人から疎まれようと、どれだけ群れから突き放されようと、人に対する想いは少しもくすまない。いや、弾かれたからこそ、輪に入っていないからこそ、人の世に対する想いは募り、憧れは増し、神聖化してゆく。その実像がどうあろうと」
いじらしく、切なくなる。
「あいつは、人の世の不幸を望まない。人の骸の上に建てられた社に、大人しく祀られてくれるようなタマじゃないんだよ、あの女神さまは」
厄介な、始末に負えない、愛すべきマリア様の顔が浮かんだ。
「俺はメアの望みを叶える。人の世を見捨てたりしない。だがそれは奴らを救いたいからじゃない。メアを幸せにする手段なんだ。メアを幸せにする為なら、俺は仏にでもなってみせる!」
俺は不遜な決意を宣言する。
『 “悪魔“ じゃないのか、そこは……』
呆れたような声がした。
「俺にとっては、大差ない!」
はぁと溜息が聴こえた。
『わかった、好きにしろ。せいぜい頑張るがいい。……しあわせにな』
声は段々と小さくなり、消え入るように俺の心の奥へと入っていった。
納得したような心持ちが伝わってきた。
俺は最後の坂道を登っていた。
心は晴れ渡っていた。
先程の問答は、俺の心の霧を吹き飛ばしていた。
決意を促すための通過儀礼だったのかもしれない。
小高い丘を登る。ここを登り切れば、メアたちが住む小屋が見えてくる。
俺は逸る気持ちを抑えつつ、一歩ずつ確実に登ってゆく。
段々と空が近づいて来る。頂上まであと少しだ。
俺はぐっと足を踏みしめ、頂に立った。
見えた! 小屋が見えた。異変はない。爆撃を受けた様子も荒れた様子もない。
俺はほっと胸をなでおろす。
俺が頂に立った瞬間、なにかがこちらに向かって来た。
黄金の光を撒き散らしながら近づいて来た。
メアだ。腕を思いきり振りながら、まっしぐらに走って来る。
俺が帰るのを待ちきれないようだ。
苦笑してしまった。その気持ちは、俺も一緒だ。
俺は自分の気持ちを解放した。
何かに追い立てられるように、何かに憑りつかれたように坂道を駆け降りた。
風のように走る。荒ぶる息を物ともせずに。
一目散に走る。目標に向かい脇目も振らず飛ぶ伝書鳩のように。
メアと俺の距離が段々と狭まって来る。その姿が徐々に大きくなる。
あと10メートル。――メアが心配顔で俺を見つめている。どこか怪我をしていないか、体の動きに異常はないか、ひとつも見落とさないぞと注ぐ視線に力を込める。それは真剣で、切実で、俺を居た堪れない心持ちにさせた。
あと5メートル。――メアが安堵の表情を浮べる。さっきまで苛まれていた、息が詰まる程の恐ろしさから解放され、緊張の糸が弛むのが見て取れた。無事でよかったと……。
あと2メートル。――メアは喜びを顔にみなぎらせる。神に感謝し、世界に愛情を振り撒くような笑顔だった。
あと1メートル。――メアは感極まり、涙を浮かべる。涙は止めどなく流れ、頬を伝う。名状しがたい叫び声をあげ、顔をくしゃくしゃにさせる。別嬪さんが台無しだ……。だがその姿は、この上なく美しかった。
あと50センチ。――もうメアしか見えない。世界は彼女で覆われていた。幸せに覆われていた。
ゼロ。――俺たちは強く抱き合う。一寸の隙間も許さないように。俺とメアは、一つとなった。片翼の鳥は一つとなり、大空へと羽ばたいていった。
「もう離さない――。神さまにだって、邪魔させない」
烈しい喜びがこみ上げてきた。世界がきらめいた。
俺にとってメアは、幸せそのものだった。
久々に “[日間] 現実世界〔恋愛〕“ にランキングされました。
びっくりしました。目を疑いました。……嬉しかったです。
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これからも皆さまに喜んで頂ける様、執筆に頑張ります。




