家族
刺すような夏の日差し、降り注ぐ蝉しぐれ。
通い慣れた山道を、俺は進む。後ろには紬が付いて来てる。
あの生死の境を彷徨っていた状態から見事に脱し、今ではすっかり元気を取り戻した。
回復した紬がまずやりたがったのは、メアに会う事だった。
自分のために祈ってくれたその心に感銘を覚え、感謝の意を直接伝えたがった。
一度会って、お礼を言って、それで終わりだと思っていた。
だが紬はすっかりとメアに懐いてしまい、何度もこの山を登ることとなった。
最初は俺に背負われて登ったこの山道も、一年経って四歳となったいま、自らの足で登っている。
幼い足にはきつい道だが、それでも何かに憑かれたように、必死の形相で登って行く。
『メアちゃんに会うんだ』――そう呟きながら。
「おっそ~い。西瓜が熟れ熟れだよ。今日来なかったら、私一人で食べちゃうとこだったんだからね!」
小屋の近くの小さな畑で、農作業をしていたメアが俺たちを見つけ呼びかけてきた。
その姿を見て、その声を聞いて、紬は堪りかねたように駆けだした。
そしてメアの胸に飛び込み、わんわんと泣きじゃくりながら叫んだ。
「メアちゃぁぁぁん。メアちゃんはいなくなったりしないよね。ずっとここにいるよね。どこにも行かないよね」
絶対離さない。そういう強い想いを込めて、ぎゅっと縋りついた。
「なにか……あったの?」
紬のただならぬ様子に異変を察し、俺に問いかけてきた。
「父さんが……戦死した」
俺は端的に答える。
「………………そう」
メアはすべてを理解した。
俺たちの悲しみも、絶望的な孤独も。
メアだからこそ、理解できた。この山奥で母と二人きりで暮らすメアだからこそ。
紬の泣き声が、蝉の鳴き声と溶けあってゆく。
命の儚さを訴えかける咆哮のようだった。
小屋に入った紬は、相変わらずメアから離れないでいた。
置いて行かないで、いなくならないで、そう叫びながら縋りついていた。
俺と静さんはそんな二人を、ただ見守ることしかできなかった。
五日前、父の死亡通知を受け取った時は、これほど取り乱してはいなかった。
『お父さんが死んだ』――そう聞かされても、『なんのこと?」とキョトンとしていた。
幼い紬には理解出来なかったのだろう、“死“と云うものが。
変化が起きたのは二日前、父の葬儀の時だった。
◇◇◇◇◇
遺体は、戻ってこなかった。
棺の中には、父が生前愛用していた物が詰め込まれた。
パイプ、万年筆、着物……父を偲ばせるものが次々と入れられてゆく。
俺と紬は、その様子をただ黙って見守っていた。
そして父の写真が入れられた。
それを見て、紬は泣き叫び始めた。
「なんでお父さんの写真を入れるの! それは大切なものなんだよ。もって行かないで!」
そう叫び始めた。父との思い出が朧気な紬にとって、それは父そのものだったのだろう。
だがその叫びは、許されない事だった。
戦死は名誉な事であり、遺族が嘆き悲しむ事は許されなかった。
参列した人たちは『おめでとうございます』と俺たちに声をかけていた。
異様な世界だった。何かが狂っていた。
慌てる大人たちは、泣きじゃくる紬を葬儀の場から引き剥がす。
俺は一人で出棺を見送った。一体なにを弔っているのだろうか。
父を悼む気持ちが天に届くようにと、上を見上げる。
空はうだるような暑さだった。
葬儀を終え、俺たちは部屋でひっそりと身を寄せ合った。
紬は泣き止まなかった。
理解したのだ、“死“と云うものを。
今日と云う日が、明日に繋がっている訳ではない。
それは何時か途絶え、二度と会う事が出来なくなる。
突然に、何の予兆もなく、その瞬間は訪れる。
命は消える。永遠は無いのだと。
その小さな肩を震わせ、恐怖に怯えていた。
俺は言葉をかける事が出来ず、ただその肩を抱きしめた。
「メアちゃんは、いなくなったりしないよね……」
赤く腫らした目で、紬は問いかけてきた。
「静さんは、いなくなったりしないよね!」
不安を打ち消すように紬は叫ぶ。
あの二人は、いまや俺たちの身内だ。
なんの打算もなく、愛情を持って接してくれる唯一の人たちだ。
幼い紬は、本能でそれを理解していた。
「行こう、メアちゃん達のところへ!」
紬は目を輝かせて言う。
それは俺たちにとって、逃げ場所だったのかもしれない。
準備に一日をかけ、大人たちの目を盗み、俺たちは飛鳥山へと向かった。
そこは俺たちにとっての、ユートピアだった。
◇◇◇◇◇
「私は、いなくなったりしないよ」
メアは泣き止まぬ紬の背を優しく擦りながら呼びかけた。
「紬ちゃんのお父さんだって、いなくなった訳じゃないんだよ」
メアの言葉にぴくりと肩を動かし、必死な目つきで紬は見詰める。
「ほんと? だって大人の人たちが、『お父さんは死んだんだ。もう帰って来ない』って言ってた」
僅かな希望の灯火が、紬の瞳に宿っていた。
「……お父さんが亡くなったのは、ずいぶん前よね。でも紬ちゃんがそれを知ったのは五日前。その間紬ちゃんの心の中で、お父さんは消えていた?」
メアの問いかけに、紬は勢いよく頭を振る。
「そうでしょう。お父さんは死んでも、紬ちゃんの中では生き続けていたの。紬ちゃんが想う間は、お父さんは生き続けるの。お父さんが完全にいなくなるのは、紬ちゃんがお父さんを忘れ去ったとき。それまではお父さんは、紬ちゃんの傍にいるの」
紬は一層泣き始めた。
だがその涙は、先程までの物とは違っていた。
安堵と、苦しみからの解放の色を帯びていた。
誤魔化しかもしれない、詭弁かもしれない。
だがそれは救いであり、一つの真実でもあった。
泣き疲れた紬は、静さんの膝の上ですうすうと眠っていた。
ここ二日、碌に寝ていなかったのだ。今はゆっくり休ませてやろう。
メアが俺に目配せをする。静さんと紬を残し、俺たちは小屋の外に出た。
二人は小高い丘の上まで行き、大きな石に腰かけ、陸奥湾を見下ろす。
しばらくの沈黙のあと、メアは語り始めた。
「……大変だったね、勇哉。なんて言ったらいいか分からないんだけど、その……元気を出して。私がついているから!」
さっきまでの饒舌振りが嘘のように、ありきたりの言葉を述べる。
だがその稚拙な言葉は、さっき以上の心がこもっていた。
俺は思わず苦笑する。
「ありがとう。でもな、結構落ち着いているんだ」
俺は懐から銀色のロケットを取り出す。
父の遺品として渡された物だ。肌身離さず、ずっと身につけていたそうだ。
ぱかっとロケットの蓋を開ける。中には一葉の写真が収められていた。
今より少し幼い俺と紬と、そして父が写っていた。
「出征前に撮った写真だ。しわしわで、水でふやけ、泥でうす汚れている。けれどそれをのばし、汚れを落として、少しでも綺麗にしようとしてたみたいだ。大切にしていたんだろうな。どんな思いでこの写真を見ていたんだろう、父さんは……」
戦地での父の気持ちに思いを巡らす。
「この写真の俺、不貞腐れているだろう。『行かないで、知らない人のとこに行くのは嫌だ』と駄々をこねたのを覚えている。父さんは、困ったような顔をしていた」
二年前のあの日のことを思い起こす。
「『お前が紬を守ってやれ。たった二人の家族なんだ。兄妹で仲良くやっていくんだぞ』って哀しい、優しい声で諭された。……多分、死を覚悟していたんだと思う。もう帰れないと、知っていたんだと思う」
当時は分からなかった父の心情が、今では少し分かるようになった。
「それは俺にも伝わった。だから覚悟をしていた、この日が来ることを」
泣くまい。たくましい男となって、父が未練なく旅立てるようにしようと思っていた。
「けれどやっぱり辛いな、こうやって現実として突きつけられるのは。強い男になったつもりだったんだけどな」
葬儀中、一度も流さなかった涙が出た。
メアの前では強がりが効かなかった。
剥きだしの自分になっていた。
そんな俺を、メアは優しく抱きしめる。
「勇哉は立派だよ。よく頑張ったよ。私の前では無理しなくていいよ。好きなだけ、泣いていいよ」
聖母に抱かれる幼子のように、無償の愛に包まれ、俺は泣きじゃくった。
心が、救われた。
メアは俺の涙を手ぬぐいで拭き、落ち着いた俺に語りかけた。
「紬ちゃん、私と一緒にいても大丈夫かな……。いや私、こんなナリじゃない。お父さまを殺した奴らと混同しても、仕方がない。親の仇って思われてもしょうがない。紬ちゃん優しいからそんな気持ちは隠そうとすると思うけど、それはとっても哀しい事だよ。それに私も紬ちゃんに親の仇と思われるのは……つらい。他の人にどう思われても構わないけど、紬ちゃんにそんな目で見られるのは、耐えられない」
メアは不安に耐えかねたように言葉を零す。
不条理だとか間違っているとか正否を質すことを一切せず、人の気持ちだけを思いやっている。
「見くびるなよ。紬は肌の色や髪の色で人を区別したりしない。そんな阿呆じゃない。人となりをしっかりと見てる。お前をどうこう思うなんて、あり得ない」
メアの不安を払拭しようと、俺は言葉を紡ぐ。
「そうだよね。勇哉の妹だもね。ごめんね、変なこと言って。ダメだね、私。すぐそんな風に考えちゃう」
これまでどれ程踏みにじられてきたのだろう。メアの思考の根本には、そういった卑屈さがあった。
痛々しく、やるせなかった。
俺はメアの瞳をじっと見つめ、かねてから心の内にあった想いをぶつける。
「俺と、一緒になって欲しい。家族になって欲しい」
心からの願いを打ち明けた。
メアは驚き、喜び、戸惑い、そして何かを吹っ切るように言い放つ。
「そっか――。メアちゃん、大道寺家のお妾さんになるのか――。大出世だね」
メアはおどけたように笑い飛ばす。冗談として、俺の気持ちを受け流すように。
「なに戯言を言っている。俺はお前を妾なんかにするつもりは無いぞ」
俺の言葉にメアの顔は引きつる。
「そ、そうだよね。私なに言ってるんだろうね。そんな筈ないよね。なに勘違いしちゃったんだろうね、私。恥ずかしいね」
哀しそうな声で、それでも笑顔でメアは言う。その貌には、うっすらと諦めの表情が滲んでいた。
「あれかな? 女中さんになって欲しいって意味かな。大道寺家の構成員、大きな意味での家族になってという意味の。うんいいよ、メアちゃん働き者だから、お買い得だよ。お給金、はずんでね」
哀しみを吹き飛ばすみたいに、自分の心を誤魔化すみたいに、悲しいほど快活な口調で語る。
「見当違いなことを言うな、そういう意味じゃない。結婚して、奥さんになって欲しいって意味だ」
俺はそのいじらしい振舞いを切なく思い、俺の心の内を丁寧に伝える。
「俺はお前以外に娶る気はない。正妻も妾もない。ただ一人の妻だ、お前は」
俺の気持ちを受けとってくれ。そんな願いを込めて優しく言った。
だがメアは、その言葉を聞くと哀しそうな貌をした。
胸が冷えるような、空洞な目だった。
「勇哉……それは駄目だよ。私に大道寺の奥方は務まらない。きちんとした家の、きちんとしたお嬢さんを奥方に迎えて。私が奥方だと勇哉が侮られる。そんな事、私は認める訳にはいかない」
痛々しい声で、自分に言い聞かせるみたいにメアは言う。
「勇哉は輝く太陽じゃなければいけないの。一点の曇りもなく輝く存在であるべきなの。それを邪魔する存在は、許してはいけないの。例えそれが私であっても」
強い口調で、メアは語る。
揺るぎない鋼のような意志がそこにあった。
さあ、どうしたものか。俺はこの難攻不落の要塞を、攻略することとなった。
「お前は俺を見捨てるつもりか。そんな薄情な奴だったのか」
「見捨てるも何もないよ。勇哉には立派な大道寺家の当主になってもらいたい。ただそれだけだよ」
俺の筋違いの非難に、メアは正論で反論する。
「わかってない。お前と一緒にならなければ、俺は荒れるぞ。自信をもって言える」
メアは顔をしかめる。
「女遊びに狂い、賭け事に溺れ、身代を潰す。そうなる自信が、俺にはある」
「イヤな自信を持つな!」
心底嫌そうな顔をする。もう一押しだ。
こいつの嫌がる未来をぶつけるんだ。そうすればこいつは、それを回避しようとする。
その逃げ道を、俺の望む未来へと繋げるんだ。
ペテン師とでも詐欺師とでも呼ぶがよい。
こいつを手に入れるのに、なりふり構ってはいられない。
あこぎな真似をしている事は重々承知。
人の好意につけ込む卑怯な真似だとも分かっている。
だがその代わり、こいつを幸せにする。
俺の命を懸けて幸せにする。
こいつの幸せが俺の隣りに無いなら諦める。
けれどそうじゃない。こいつは、俺の幸せの為に身を引こうとしているんだ。
そうはさせるか。お前は幸せになるんだ。それを諦めるな。
「勇哉の気持ちは分かったよ。私を想ってくれている事も、私の幸せを望んでいてくれる事も。けれど私と一緒になって、勇哉が幸せになれるとも思わない。私の幸せは、勇哉の不幸の上には成り立たないの」
敵は中々手強い。俺は切り札を出す事にした。
「それは、いま現在での話だろ。その判断基準は、間違っている」
俺はごくりと喉を鳴らす。
「この戦争、日本は負ける。アメリカが勝つ。そうなると、世の中はひっくり返る。お前たちは勝者、俺たちは敗者。虐げられていたお前に、俺たちは跪くようになるんだ」
これまで決して口に出さなかった事だ。
もしこれを聞かれたら、えらい事になる。
「うそっ。だって日本は連戦連勝だって、南方をどんどん占領してるって、言われているじゃない」
メアは驚愕の表情を浮べる。これまで信じていた事が、全てひっくり返ったのだ。
「それは去年までの話だ。去年六月のミッドウェー海戦から風向きが変わった。空母1隻が沈められたと発表があったが、実際は4隻だったらしい。他の被害も甚大だったみたいだ。軍は必死に隠しているが、船乗りたちの情報網は馬鹿に出来ない。知っている奴は知っている。俺はその情報を、蒼森港で集めた。あそこは一つの情報集積地だからな」
メアは唖然としている。思ってもみなかった事態だ。
「船も足りなくなって、民間の船を”戦時徴用船”として集めているようだ。ジリ貧だよ、先がない」
更に俺は追い打ちをかける。
「父さんの葬儀に、南方で一緒だった戦友が来ていた。片腕を失った傷痍軍人だ。その人にこっそり話を聞いた。日本軍の補給は、実に杜撰らしい。食料は現地調達しろって碌に補給されず、食うや食わずの生活だったみたいだ。イボガエルやノネズミがご馳走だったと言っていた。マラリアと飢えとの戦いだったとも言っていた。それで死ぬ数の方が、戦闘で死ぬ数より多かったそうだ。……この世の地獄だと言っていた」
想像していた戦場と違う。華々しく命を散らす舞台ではなかった。
醜く、必死に生にしがみつく、悲しい人の営みが行われる場所だった。
「こんな戦争、十年も二十年も続けられない。いずれ限界が来る」
俺はメアを真っすぐに見つめ、声を振り絞って言った。
「俺たちは最後まで生き残ろう。そして新しい時代を、一緒に生きるんだ」
俺はメアの手を取り、強く握りしめる。
メアの瞳は大きく見開いていた。まるで闇が取り払われたみたいに。
「……一緒にいて、いいの? 勇哉の隣にいて、いいの?」
恐る恐るメアは問いかけてきた。
「死が二人を分かつまで、ずっと一緒だ」
俺は極上の笑顔で応える。
「ううん。死んでも私は離れない。魂となっても、ずっとそばにいる。生まれ変わっても、また巡り会う。永遠に、離れない」
これまで抑えていたものが吹き出すように、メアは激情を迸しらせた。
二人は見つめ合い、顔を近づけ、そっと口づける。
優しく触れるだけの、幼い口づけだった。
ままごとみたいな誓いだった。
だがその誓いは清らかで、純粋で、何者にも侵しがたい神聖なものだった。
蝉の声が、祝福のライスシャワーのように降り注ぐ。
山から吹き下ろす風が、拍手のように木々を揺らす。
世界が二人を祝福しているかのようだった。
当時の価値観では、家は絶対でした。戦死した長男の嫁が、次男と再婚する。跡継ぎが途絶えた家に、親族が養子として我が子を差し出す。そう云う事例が、多々ありました。
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