依存
砂時計をひっくり返したみたいに、雪がとめどなく降って来る。
はためく白い薄紙は、視界と熱を奪ってゆく。
俺は身を縮め、先導する彼女にはぐれないように付いて行った。
「着いたわ。あそこよ」
彼女は猫の額ほどの、狭い平地に建てられた小屋を指差した。
それは粗末な小屋だった。
頼りない細い柱に打ち付けられた薄い板。
錆びたトタン屋根がパタンパタンと揺れている。
お世辞にも、立派とは言い難かった。
「ぼろ小屋とか、文句を言うんじゃないわよ」
彼女はキッと俺を睨みつける。
「そんなこと、思う訳がない。山の中なら、こんなもんだろ。立派なお屋敷とかが出てきた方が、狐や狸に化かされたみたいで逆に怖いわ。雪や風が凌げるだけ、ありがたい」
彼女は俺の言葉にフンと鼻を鳴らす。
その顔に、嫌悪の表情は無かった。
「ただいま――。迷子を拾ってきたよ――」
彼女は勢いよく引き戸を開き、小屋の奥に呼びかける。
竈のある土間の奥に、八畳ほどの板の間が一つあるだけだった。
そこに布団が敷かれ、一人の女性が寝ていた。
その女性は帰宅の言葉に反応し、むくりと起き上がる。
「子猫、雀ときて、今度は人の子?」
優しい声で呼びかけてきた。糸のように細く、淡雪みたいに消え入りそうな声だった。
「仕方ないでしょ。目の前で死なれたら、寝覚めが悪い!」
彼女は鼻の孔をふくらませ返事をする。
奥の女性はくすりと笑う。まるで全てを心得たかのように。
「まあ、上がりなさい。外は寒かったでしょう。囲炉裏に当たって、身体を温めなさい」
女性は優しく手招きする。
俺たちは靴を脱ぎ、板の間に上がった。
囲炉裏の火が、俺たちを温かく迎えた。
パチパチと爆ぜる火の向こうに、曇りなく笑う女性の姿があった。
年のころは三十前半。頬も腕も肉が削ぎ落とされ、やつれている。
それでも元々の美しさは、隠し様も無かった。
鼻筋の通った細面の顔。
その線は深く、やつれた今はその彫の深さがより強調され、爛々と輝く瞳が印象的だった。
退廃的な美しさがあった。
恐らくこの二人は親子なのだろう。どこか似通った雰囲気がある。
しかしその本質は違うように見えた。
動と静、陰と陽と云うように。
俺はその片割れに視線を移す。
「う~寒かった」
案内してくれた女の子は囲炉裏の前に座り、頭巾を脱いでいた。
はらりと、長い髪が垂れる。
黄金の波が流れてきた。
太陽が昇って来たのかと思った。
キラキラと光るその髪は、生命に満ちあふれ、活力がみなぎっていた。
先程の美しさには、ただ感嘆するのみだった。
美しい絵画を見る時みたいに、『ふ~ん』と頷くだけだった。
だが、これは違った。心を奪われた。心臓を鷲づかみにされた。瞬きを忘れた。
その姿に、俺は釘付けとなった。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ったら。変に気を遣われるのは、却って腹立たしい」
俺の視線に気が付いた彼女は、忌々しそうに吐いた。
「……きれいだ」
思わず言葉が漏れた。
「…………はぁっ?」
予想外の攻撃を受けたみたいに、彼女は面食らう。
俺はその後、言葉を続けられなかった。
ただ熱く、彼女を見続けた。
彼女はそんな俺を見て、口をパクパクと開けていた。
奥の女性はそんな二人を見て、『あらあら』と呟いていた。
外の雪が嘘のように、小屋の中は暖かい春の空気が流れていた。
「はい、熱いよ。気を付けて」
女の子から、山女魚の燻製を直火で炙った物を手渡された。
乾燥したゼンマイを煮込んだお汁も添えられていた。
身体の芯から温まった。
人心地ついたところで、寝ていた女性から問いかけを投げられた。
「それで君のお名前は?」
予想された、答えたくない質問だった。
「大道寺 勇哉といいます」
女性の眉が、ぴくりと上がる。
「……御父様の、御名前は?」
静かに、平淡に訊いてくる。
「直輝。大道寺 直輝です」
女性はそれを聞くと掌で額を掴み、はぁ――という溜息を漏らす。
「本家か――。よりによって……」
呻くような声が聞こえてきた。
「ご迷惑なら、ここから出ていきます。途中で洞穴みたいなとこがありました。一晩だけなら、そこで何とか凌げます。幸い身体も温まりました。……ありがとうございました」
俺は立ち上がりお礼を言い、入口に向かおうとした。
「ちょい待ち! 出て行かれる方が、都合が悪い」
女性は慌てて引き留める。
「君は今、『殿倉』の家にいるんだよね」
『殿倉』――昔から我が『大道寺家』に世話になり、父が不在と聞き、これまでの恩返しにと、俺と紬の保護を申し出た家だ。昔は我が家の方が勢力が大きかったそうだが、今や逆転している。俺と紬は、肩身の狭い思いをしながら過ごしていた。
「この山はね、殿倉の物なんだよ。私たちはそこに、お情けで住まわせて貰っているの」
女性は卑下するみたいに言い捨てる。
「君の家の『大道寺本家』は、殿倉にとって主家筋に当たる。昭和の御代に何を言ってんだと思うかもしれないけど、古い人間には結構大切なことなんだよ」
昭和になって16年。しかしお爺ちゃんお婆ちゃんの世代には、戊辰戦争を経験した人もいる。昔の忠義の心は、今も色濃く残っている。
「君が思っているより、君の価値は高い。自分が望む望まないに関わらずにね」
まるで弁士が語るみたいな、リズミカルな口調で喋る。
「だから君がこの山で遭難するのは、私たちにとって ひじょ~に都合が悪い。どうか助けると思って、私たちに助けられて頂戴!」
似ているな、この親子。
思いやりを暴言や悪意で包むところが。
「わかりました。助けると思って、助けられます」
俺たちは心の底から笑い合った。
なんの警戒も、思惑もなく。
外はひゅうひゅと風が吹いている。
その風は隙間を通り、小屋の中まで侵入してきた。
「お~寒い! 早いとこ寝ましょう。薪も馬鹿にならない。火を消して寝るわよ」
女性はそう言って床に就く。
「私たちも寝るわよ」
そう言って女の子は布団を敷き始めた。布団は一つだった。
「えっと、俺の布団は?」
恐る恐る訊ねる。いや、最悪布団なしも覚悟していたが。
「あ”ぁ”。客用の布団がある様に見える? 甘えんじゃない。私と一緒に寝るに決まっているでしょうが!」
いや、それマズイ。『男女七歳にして席を同じうせず』と云うではありませんか。
「そんな事は知らない。知らないという事は、問題ないという事。さあ、寝よ。これで今夜は湯たんぽが冷めて、夜中に目が覚める事もない~」
彼女は俺の抗弁を物ともしない。
俺は諦め、床に就いた。
風で小屋がガタガタと音を立てている。
他の音が雪に吸い込まれているだけに、一層その音が響いてきた。
彼女はこんな中眠れているのだろうか。
俺は寝返りを打ち、彼女の方を向く。
闇の中で、彼女の碧い瞳が燈明のように光っていた。
「……眠れないの?」
彼女はじっと俺を見つめていた。
警戒しているのではない。観察していると云った面持ちだ。
この美しい瞳の中で、俺はどう映っているのだろう。
返す言葉を選びかね、口ごもる俺に再び彼女は問いかけてくる。
「眠るのが怖くなること……ある?」
質問は、さらに答え難くなっていった。
「目が覚めたら、自分の大切な人が死んでいたらどうしよう。自分が眠っている間に大切な人の容態が急変して、助けることが出来なかったらどうしよう。そんな考えで悶々として、眠れなくなること、ある?」
ある映像が、頭の中に浮かんできた。
山奥の二人以外誰も居ない小屋で、その一人がひっそりと息を引き取る。
残された一人は救うことの出来なかった自分を責め、最後の言葉を交わせなかった事を悔やむ。
やり場のない怒りが、後悔が、その身を苛む。
「わたし、お母さんが死んだら、生きていけない。そんな世界、考えたくもない」
まだ見ぬ恐怖に、彼女は怯える。
「あなたも妹さんが死んだら、自分がどうなると思う?」
俺は腑に落ちた。彼女に共感できた理由が。俺も彼女と一緒なのだ。
「ごめんね、変な事を言って。縁起でもないよね。考えたくもないよね」
その言葉は誰に言っているのだろう。俺にか? それとも自分自身にか?
「私たち、半端者だね。一人で生きられない、情けない奴だね」
涙を浮かべ、言い捨てるみたいに言葉を放つ。
「妹さん、治るといいね」
涙塗れの祈りの声は、細くてぽっきりと折れそうだった。
俺たちは布団の中で、お互いの手を強く握る。
この怪物みたいな不安から逃れるように、命綱みたいにしっかりと握りしめた。
外はしんしんと雪が降っている。
雪が音を吸い込むように、繋がれた手が怯える心を吸い取ってゆく。
彼女は少しずつ落ち着きを取り戻す。
「なにか、お話しをして。気が紛れる、こんな雪の夜にぴったりなのを…………」
彼女は救いを求める巡礼のように、縋る目つきで訴えかける。
俺は彼女の望みを叶えるべく、物語を紡ぐ。
「雪に閉ざされた山荘に、6人の男女が集められた。夕食の後、蓄音機から6人の罪の告発と、これから幕が上がる殺人劇の予告が告げられた。そしてその夜、第一の殺人が行われた…………」
俺は淡々と物語を述べる。
「待て待て待て――。何を言いだす。何の話をするつもりなの!」
がばっと彼女は起き上がり、俺を睨みつける。
「『吹雪の山荘』にまつわる話だ。ぴったりだろう」
俺は悪びれず答える。
「ドンピシャすぎるわ! そして私が望んでいるのは、そんな方向性じゃない!」
がなり立てるように彼女は叫ぶ。
『アホ』『バカ』『マヌケ』、一通り罵倒を繰り返した後、その身をどすんと床に投げ出した。
「あ――馬鹿馬鹿しい。センチな気分も引っ込んだわ。さっさと寝よ、寝よ」
彼女はそう言うと布団を頭から被る。
俺もその身を布団にくるんだ。
「……ありがとね」
横から小さな声がした。
すぅすぅと、いつの間にか彼女は寝息を立てている。
少しでも役に立てたかな。
小さな充実感を胸に、俺は眠りについた。
こんな優しさも、あると思います。
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