流血浮尸(りゅうけつ ふし)
銀色の怪鳥は、情け容赦なく死神の鎌を振るう。
その足元で、多くの命が消えていく。
それは、残虐な光景だった。
攻撃目標はここから指呼の間に在る、蒼森港だった。
無数の爆弾が投下され、船が黒煙を上げている。
ここは軍港とかではなく、船も一般の商船。
対するは雲霞の如く飛来する最新鋭の敵戦闘機群。。
彼我の戦力差は歴然としていた。
機銃掃射を受け、爆撃を浴びる。
抵抗する術を持たず、なすがままに、海の底へと消えてゆく。
空襲警報が鳴り響く中、海が血の色に染まり、死体が血の海を漂っていた。
呆然と見つめる俺に、明日香は言った。
「ここは1945年7月14日……蒼函連絡船空襲の日よ」
単語の使い方がおかしい、それでも作家かと言いたかった。
だが、空を飛ぶB-29、爆撃される蒼森港、それを見ていると相応しく思えた。
時間が、場所なのだ。
「蒼函連絡船を舞台に小説を書くと言ってたでしょう。調べたのよ、この日のことを。この日は『蒼函連絡船史上最悪の日』と呼ばれているわ。」
明日香が唇を噛みしめ、苦しそうに述べる。
妙に詳しいと思ったが、そういう訳か。
「この日、陸奥湾にいた蒼函連絡船12隻がアメリカ軍の空襲を受け全滅、352人が死亡したわ」
今まさに、その真っ最中だった。
「なんでそんな事をする。民間人の……虐殺じゃないか」
戦争とは、軍事施設の潰し合いだろう。
「確かに蒼函連絡船は軍事施設じゃないけど、米軍から見たら軍事輸送組織だったのよ」
忌々しそうに明日香は語る。
「当時、北海道で産出された石炭が本州の工業地帯に届かず、切迫した事態になっていたの」
明日香は津軽海峡の向こう、遥かな大地を見つめる。
「北海道で産出される石炭は733万トン。1941年ごろまでは蒼函連絡船で運ばれて鉄道で輸送されるのは、その内1万トンだけだったわ。あとは全部、船舶での輸送。けれどそれは戦争で、大きく変わったの」
淡々と数字をあげてゆく。まるでレポートを読み上げるみたいに。
「多くの船舶が軍事用に徴収され、数が減っていった。制海権を敵に握られ、運行もままならない。北海道では石炭が山積みで、本州の工業地帯では石炭が枯渇する事態になっていった」
よくある事だ。兵站・輸送こそが戦争だと云う声も聞いた事がある。
「1944年になると蒼函連絡船には、300万トンの石炭輸送が課せられるようになったわ。当時石油を輸入出来ない日本は、石炭で軍需物資を作っていた。米軍が狙うのも、当たり前でしょう。軍事継続能力を潰そうとしたのよ」
成る程、理に適っている。しかし、感情・道義は別だ。
「だが非武装の、商船だろう。一般客だって乗っている」
所属・目的はどうあれ、民間人だろうが。
「そうでもないのよ。1944年から連絡船は武装されていたわ。13ミリ口径と25ミリ口径の機銃、対魚雷用の爆雷が配備されていたの。なおかつ船員は軍属扱いとなり、海軍警戒隊員が配置されていた。……純粋な商船とは言い難いわね」
俺は納得出来ないものがあった。
「でも、軍艦なんかじゃない。武装していたのも、攻撃の為じゃない、自衛の為だ。その理屈なら、銃を持つアメリカ人はみんな軍人として殺していいことになる。ソマリアの海賊たちに丸腰で立ち向かわなければいけなくなる」
民間と武装組織の区別は難しい。
戦争協力者がみんな軍属と云うなら、学徒勤労動員で軍需産業に従事させられた女性・子どもは皆殺しにされても文句が言えない事になる。
「関係ないのよ、あいつらにとっては。そもそも日本中で行った空襲でも、民間人かどうかなんか、お構いなしだったじゃない。『アメリカ兵の被害を減らすために』ってのを理由に、どんな事だってやったでしょう、あの戦争では。そりゃあ立派な戦争法違反よ、民間人を虐殺したのだから。ほんとなら、戦争犯罪にだって問えるわ。けれど負けた日本は、その訴える権利を放棄させられた。勝者の前では、正義は寡黙なのよ……」
明日香は口惜しそうに、ぎゅっと手を握る。
「……一連の空襲を指揮した司令官の言葉、聞いた事がある? こう言っているの『大量の爆弾を投下する時、想像力を働かせるのは不幸である。崩れ落ちる何トンもの瓦礫がベッドで眠る子どもを圧し潰す姿が、身体中を炎に包まれ〝ママ、ママ“ と泣き叫ぶ3歳の女の子の姿が、頭によぎるからだ。もし正気を保ち、祖国が求める任務を全うしたいならば、そのようなものから目を背けるべきだ』……」
良心を売り渡した、悪魔と契約した者のような言葉だった。
「そしてこうも言っているわ。『日本爆撃に道徳的な考慮は影響したか』と質問され、『もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことに我々は勝者になった』……彼は自分の罪を熟知していたのよ。それが戦争犯罪である事も」
言葉がなかった。これが……戦争か。
「誤解しないでね、『あいつら』って言ったけど、敵国を指している訳じゃないわ。……この戦争を遂行している両国の奴ら、最低限の良心を投げ出した奴らのことを言っているの」
明日香は空を見上げる。
空には両国の戦闘機が舞っている。
お互いの正義、愛する守る者のために戦っているのだろう。
なんと美しく、気高く、おぞましい光景だろう。
「ここは過去なのか? それとも平行世界なのか?」
俺は明日香に訊ねる。
「知らないわよ、そんなこと。科学的考察は、そっちの理系にでも聞いてちょうだい」
ご指名された理系は、ぽけーと空を見上げていた。
そこでは、ドッグファイトが繰り広げられていた。
「どんな具合だ?」
俺は戦闘に目を奪われている鈴に問いかける。
「戦況は甚だ不利。でも一機、変態がいる」
変態? 編隊じゃなくて?
俺は鈴が指さす方向を見る。
一機の紫電改が、低空飛行するB-29の上空に駆け上ってゆく。ぐんぐんと高度を上げてゆく。かなりの高度差が生まれた。昇っていた紫電改が反転し、真っ逆さまに、垂直に、地面に向かって突進して行く。
「なにやってんじゃ、あれ!」
まるで地面に特攻をかましているようだった。
「『前上方背面垂直攻撃』、伝説の撃墜王、第343海軍航空隊所属、戦闘301飛行隊 隊長、『菅野 直』が考案した対大型爆撃機戦法だよ」
あれ、やけくそじゃないのか。理論だった戦法なのか。
「よく見て、飛行機の真上は死角なんだよ。そこから突っ込んで、なお且つ敵の主翼前方を狙って、機銃掃射しながら抜けようとしている。衝突を避けようと翼の無い尾部を通りたくなるけど、そこには銃座があって弾幕を張られる恐れがある。前方なら衝突の危険性は高いけど、上手くいけば戦果は絶大。まー並外れた反射神経と、恐怖心? なにそれ美味しいのっていうクソ度胸が無ければ出来ない変態技だけどね」
……いかにも日本人らしい戦法だな。
「勝てそうなのか?」
俺の問いに、鈴はハアっと溜息をつきながら答える。
「無理! 物量が違う。 相手は戦闘機21機、爆撃機34機、雷撃機47機。対するこっちは戦闘機6機ぽっち。勝負にならない。あの人たちも、勝てるとは思っていない。いかに被害を抑えるか、どれだけ敵に傷を負わせるか、そんな戦い方だよ。……生きて帰ろうなんて、微塵も思っていない」
鈴はきゅっと口を結び、静かに言う。
「馬鹿な奴らよね。私たち技術者は、そんな使い方をして欲しくて作った訳じゃないのに……」
哀しい声が空を飛んでゆく。
その声は、遥か上空で戦う男たちの許には、届かないだろう。
爆撃が激しくなってきた。
海の上だけではなく、陸地――市街まで爆弾を投下しだした。
危険が迫って来た。
「とにかく、どこか防空壕を見つけて避難しよう。話はそれからだ」
そう言った時だった。誰かが近づく気配がした。
ああ、いた、よかった――。お兄ちゃん――。
そんな声が聞こえてきた。
後ろから、一人の少女が駆け寄って来る。
「お兄ちゃん、大丈夫だった? 怪我とかしていない?」
俺を呼ぶ少女の声が段々と近づいて来る。
この俺をお兄ちゃんと呼ぶのは、この世で一人だけだ。
あいつもこっちに来ていたのか。
「凪紗、お前もこっちに来ていたのか。無事だったか」
俺は後ろを振り返る。そこにいたのは、七歳ぐらいの女の子だった。
「なぎ……さ?…………」
その顔は、確かに凪紗だった。
だがその姿は幼く、どこかあいつとは違っていた。
「だれよ、ナギサって。頭でも打ったの。この可愛い妹の、『紬』の名前を間違えるだなんて」
そう言う少女に見覚えがあった。
これから20年後ぐらいの、もっと大人になった、紬ばあちゃんが若かった頃の写真でだ。
『凪紗ちゃんは、紬ばあちゃんの若い頃にそっくりだね』とよく言われていた。
顔も声も、そっくりだった。
「行くよ、お兄ちゃん。早く防空壕に避難しなくちゃ!」
紬は俺の手を取り、走り出す。
「待ってくれ。明日香と、鈴と、一緒に行かなきゃ。ほら、あそこにいる二人だよ」
俺はポカンと固まっている二人を指差す。
紬は俺の示す方向をじっと見つめ、静かに言った。
「お兄ちゃん、大丈夫? あそこには……誰もいないよ」
「青森大空襲」をモデルに書いています。
どの空襲も悲惨な出来事でしたが、この「青森大空襲」は人の思惑で、より悲劇の色合いが濃くなってしまいました。なるべく史実に沿うように、被害に遭われた方やそのお身内の心情を傷つけないように、真摯な気持ちで執筆したいと思います。




